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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

頑張れ!「うん子校長」 ★ ウコン奇談 ★消えた11万人

2007-10-11 13:31:01 | 県知事選

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学校だより:「うん」と返事する子は「うん子」…横浜・西寺尾小校長が記述 /神奈川(10/6毎日)
 ◇「あいさつの大事さを訴えるため、作った」
 横浜市立西寺尾小学校(同市神奈川区、児童数407人)の吉田秀一校長(57)が、全校児童の家庭に配る「学校だより」に「うん子」というタイトルをつけ、「はい」ではなく「うん」と返事する児童について「おまえは『うん子』か!と怒鳴りたくなる」と書いていたことが分かった。5日の市議会決算特別委員会で仁田昌寿市議(公明)が明らかにした。吉田校長は同日の終業式で全校生徒に謝罪した。【池田知広】
 問題となったのは9月28日付の「学校だより10月号」。吉田校長名で「『はい!先生』と答えれば、よい子よい子と飴(あめ)玉の一つもやりたくなるのですが、『ええ!わたし?』とか、『どうして?おれ!』とか言われると、何だこいつは!どついたろか!という気持ちになってしまいます」などと記したうえで「おまえは『うん子』か!と怒鳴りたくなるわたしのこの気持ち分かってもらえますでしょうか」と締めくくっている。
 吉田校長は毎日新聞の取材に「あいさつの大事さを訴えるため、学校だよりを今までにないスタイルで作ってみたいと思った。非常に不快感を持たれてしまうもので、自分の立場をわきまえればよかった」と釈明した。
 同委員会で中田宏市長は「びっくりした。言葉をわきまえてもらいたい」と答弁。押尾賢一教育長も「誠に遺憾で、校長としては非常に不適切。実態を調べて対応を取りたい」と述べた。

                                               ◇

時事ネタとしてはちょっと古くなったが、

基本的にはこの校長先生の行動を支持したい。

減点主義の日本の教育界では、校長まで上り詰めたら後は定年まで何もしないのが得策。

下手に教育に熱意を示すと必ず足を引っ張るヤツがいる。

まず親バカPTAの父母からのクレーム、マスコミへの垂れ込み、

そして「当たらず触らず」を是とする教育委員会等のお定まりの対応。

この校長先生も「あいさつの大事さを訴えるため、学校だよりを今までにないスタイルで作ってみたいと思った」という熱意を買うべきで、

一方的に訓示を垂れるガチガチ校長よりユーモアを交えた「うん子」にこの校長のセンスが光っているではないか。

中田宏市長は「びっくりした。言葉をわきまえてもらいたい」と答弁。

>押尾賢一教育長も「誠に遺憾で、校長としては非常に不適切。実態を調べて対応を取りたい

こんな紋切り型の思考しか出来ない連中が教育を牛耳っているから、学校現場も無気力になっていく。

いたずらに揚げ足を取って言葉狩りをするなら、

何事も見て見ぬ振りの「不作為教師」が増えてくるのではないか。

ユーモアと熱意に溢れる「うん子校長」に声援を送りたい。

                    *

以下上記引用記事と関連するような、しないような

取り止めのない話が続く。

沖縄の那覇に土地勘のない方、又はあっても若い方には恐縮だが、20年以上前、那覇の泊小学校の近くに「雲子食堂」という大衆食堂があった。

長女誕生でお世話になった産婦人科医院が近くにあって、その「雲子食堂」は良く利用した。

その看板の「雲子」を何と読むのかと利用するたび考えたが、店主に聞きそびれているうちその店も消えてしまった。

20数年経った今でも、その解けない謎は胸の奥でくすぶっている。

「くもこ食堂」、それとも・・・・まさかね。

                        *

パソコンの変換ミスに驚かされたり笑わされたりした経験はどなたでもおありだろう。

だが、変換ミスはパソコンだけの専売ではない。

人間は文字を目で捉えて瞬時に意味を変換し脳に伝える。

以前、友人のサイトに名古屋名物「ひつまぶし」について書いたら、

それまで「ひつまぶし」には馴染みのなかったその友人から

「ひまつぶし」と間違えたとのレスをもらった。

この誤変換はひらがなを目が認識ミスした例だが、カタカナの方がより誤変換は多い。

沖縄ブームで今ではゴーやーも全国区になりつつあり、健康食品に興味のある人なら「ウコン」の何であるかは説明無用だろう。

まだ、沖縄語が今ほど認知される前のこと。

馴染みのない沖縄語の変換ミスで驚いた観光客は多かった。

以下は過去エントリー「ウコン奇談」の再掲です。

                    ◇

 

≪健康沖縄を代表する健康食品にウコンがある。

ウコンは元々方言で「ウッチン」と言っていた。 

今でも年寄りはウコンとは云わずウッチンという。

肝臓の特効薬と言われだし、全国に知られるようになってからウコンという呼び方が定着してきた。


人間も齢を重ねてくると目で文字を認識して脳ミソに刻み込む過程でインプット・ミスを犯しやすくなる。

「コイミズ」(ズミではない)という文字を見ると無意識に脳では「小泉」と変換され間違って記憶される。

読み慣れぬカタカナの羅列を見て、視覚による識別に脳ミソがついていけないと言う事。
 
結局言葉を変えれば、読解力の減退と言う事に話は落ち着く。

                   ◇

一時休憩。

話題が突然飛びます。

■消えた「11万人」■

幻だから消えて当たり前なのだが、「11万人」が地元の新聞からソッと消え始めた。

火付け役の産経新聞那覇支局長小山さんのブログが面白く紹介している。

世論が気になったのでしょうか。

それとも、小山さんの

「県警担当記者はみんな知ってます。
改めまして、みなさん、目を覚ましてください!」

の一言で目を覚ましたのでしょうか。

★「11万人」削除前の両紙」

以下ワッペン の引用です。

2007/10/10 16:14


新聞でキャンペーンを展開するときに作るカットのことを「ワッペン」といいいます。

今回、教科書問題で地元紙に登場したのがこれです。


         沖縄タイムス


              琉球新報



両方とも主催者発表の数字を盛り込んだデザインです。
ただし、いずれも10月5日付で連載が最終回になり、
今では数字が消えた別なワッペンになっています。
理由はわかりません。

                      *

★「11万人」削除後の両紙

以下ワッペンは今 の引用。

2007/10/11 09:24

先日のエントリの続きです。


               琉球新報


              沖縄タイムス

「11万人」の数字は消えてます。

                     *

まるで軍命令の「削除前の教科書」と「削除後の教科書」のようですね。

ただし、地元紙には検定意見書はつかなかったが・・・。

やはり、沖縄タイムスと琉球新報にも良心はあったのですかね。

それにしても、誰にも気づかれずに消えるのは難しいね。

                    *

閑話休題。

話は休憩前に戻る。

■ウコン奇談■

これは沖縄ブームが来る前の、沖縄健康食品が今のように知られる前の話である。

いち早く観光客にこれを宣伝しようと思った或る食堂のオバー、店の壁に墨クログロと自慢の料理の宣伝を大書して貼り付けた。

一人の観光客がその店に入り、オバーの張り紙をみて驚いた。

それも尋常な驚き様では無かった。

口は開けたまま、目は虚ろ、まるでコウノトリの一撃を食らった時の小泉首相の驚愕の表情にも匹敵するオドロキ様だった。

張り紙にはこうあった。

「当店のカレーライスにはウコンが入っています」

そのオバーの為に弁解しておくが、オバーはけして「コ」と「ン」を入れ違えたわけではなかった。

ウコンと言う単語を見慣れていない観光客が勝手に視覚のインプットミスを犯して、脳ミソがパニックを起こしたに過ぎなかったのだ。

なるほど確かにカレーの色とソノ色は良く似ている。

あまりの客のオドロキに今度はオバーが驚いた。

「お客さん。 心配要りませんよ。 これはオバーのサービスですから」

オバーはウッチンを自家栽培しているのが自慢であった。

「私の自家製だから」

観光客の驚きに動揺したオバー、

止めのイッパツを放ってしまった。

「ウチのウンチは栄養万点よ。 ミソ汁にも入れてあげるよ」

慣れないヤマト口と緊張のあまり、

不覚にもこのオバー、「ン」と「チ」を言い間違えてしまったのだ。(ウコンは沖縄語でウッチンと言う)

・・・・で、それからどうなったって?

哀れな観光客が、引き止めるオバーを振り切って、

その店を逃げ出したのはいうまでもない。

出掛けにその男が呟いた一言をオバーは幸いにも聞いてはいなかった。

「沖縄では本当にミソもクソもいっしょにするのか!」

それにしても、ウコンとかウッチンとか、随分人騒がせな名前だ。


■ケラマ観光■


その頃は同じようなチン談・奇談はよくあった。

ホテルに入ってきた観光客が中の掲示ポスターを見て小さくつぶやいた。

「さすがは沖縄、奇妙なツアーがあるものだ。」

掲示には、

「ケラマ観光ツアーに参加の方はフロントまで・・」と書かれていた。

けして「ケマラ観光ツアー・・・」と書き違いはしていなかった。

                   *

今朝は早起きしてトリノ五輪の女子フィギャ―スケートを観戦した。(このエントリーは去年)

荒川静香選手が初めてメダル、・・・いや「金」メダルを取った。

村主章枝選手は4位入賞、安藤美姫選手は15位だった。

スグリフミエを正確に漢字変換するのにパソコンは四苦八苦する。

ましてや人間の脳ミソには、・・・・フグリスミエと読み違えるアナウンサーがいなかったのはさすが。

犬ふぐりとは俳句では春の季語だという。≫


        ◇         ◇         ◇

【蛇足集】
★ふぐり【陰嚢】 大辞泉
1 金玉(きんたま)。睾丸(こうがん)。いんのう。

2 松ぼっくり。松かさ。

「橋立の松の―も入り海の波もてぬらす文殊しりかな」〈咄・醒睡笑・五〉

★いぬ‐の‐ふぐり【犬の陰=嚢】 大辞泉
ゴマノハグサ科の越年草。道端や畑に生える。茎の下部は地をはい、長さ約一五センチ。葉は卵円形。春、淡紅紫色の小花を開く。実は扁平な球形で、名は実の形に由来。ひょうたんぐさ。てんにんからくさ。《季 春》

ちなみに沖縄語ではタマ(ふぐり)のことを「ふぐい」という。

★ウコンとは
ウコンは肝臓の妙薬とされ、弱った肝臓の働きを回復させると言われている。
染料・着色料としても用いられ、代表的ところではカレー粉を黄色く見せている成分(=ターメリック)は秋ウコン。タクアンに色付けされる黄色も秋ウコン。

★ケラマ諸島
慶良間諸島のこと渡嘉敷と座間味島を主とする小島群からなり、沖縄観光の人気スポット

(「付記」:今話題の「集団自決」の島です)

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コメント (2)

緊急!生き残り警察官の証言  パンドラの箱は開かれた

2007-10-11 07:26:13 | ★集団自決

 

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 安里喜順氏の証言① (前慶良間人)
 
2007-10-10 23:27:19
 
沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。
 

 
安里喜順氏の証言② (前慶良間人)
 
2007-10-10 23:30:05
 
渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。
 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。
 

 
安里喜順氏の証言③ (前慶良間人)
 
2007-10-10 23:31:34
 
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った

 
安里喜順氏の証言④ (前慶良間人)
 
2007-10-10 23:33:27
 
りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。
 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

当日記にコメントを下さる前慶良間人さんより貴重な史料の提供がありましたので、急遽本日エントリー予定の記事を差し替えてアップしました。

前慶良間人さんはコメントの内容から、県議団の渡嘉敷島現地調査の現場にも立ち会ったと思われ当日記はそのコメント内容を信憑性のあるものと確信します。

安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

生き残り証人としては最重要証人だと思われるが、曽野綾子氏の「集団自決の真相」には登場しても地元マスコミにその名を見ることは殆どなかった。

改めて安里氏の証言を読むと、「集団自決の真相」やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくるのが分かる。

とりあえず同証言を記事として紹介するが、稿を改めて詳しく論考して見たい。

下記に「集団自決の真相」に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(「集団自決の真相」より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

最重要証人の証言を取材することもなく、戦後20年も放置していた沖縄タイムスの意図は一体何だったのだろうか。

ある目的を持った「悪意」がその裏に見え隠れしてくる。

曽野氏は「鉄の暴風」(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる「証言者」の言葉に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは嘘つき扱いされている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

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