狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

真珠湾攻撃以前に日本と戦った米兵

2007-10-30 18:51:16 | 歴史

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ワンフレーズ発言を繰り返すことで歴史は固定化されていく。

「リメンバー・アラモ」、「リメンバーパール・ハーバー」、

そして「リメンバー・911」は未だ記憶に新しい。

アメリカの歴史を「リメンバー~」で拾えばこれだけで一冊のアメリカ史の本ができるという。

「リメンバー・パールハーバー」と聞けば、「真珠湾攻撃」という日本語が出てくる。

だが、「真珠湾攻撃」に対応する英語を正確に知る日本人は少ない。

英語では「Sneak Atack on Pear Harbor」、

つまり「真珠湾の卑劣な攻撃」という。

攻撃前に日本が出した宣戦布告が在米日本大使館の不手際で攻撃後に伝えられた。

それで、「Sneak Atack on Pear Harbor」を甘んじて受け入れるという日本人もいる。

だが、「真珠湾」の4年前から日本と戦っていたアメリカ人少将の存在を知る日本人は少ない。

                      *

以下は「再掲」です。

「幻のAmerica’s Sneak Attack on Tokyo」

 1941年12月8日。

日本の「真珠湾攻撃」によって日米戦争が始まった。

だが、その四年前アメリカは既に日本と戦っていた。

卑怯にも(sneak)日本攻撃(attack)の準備をしていたのだ。

そのときアメリカ製戦闘機を駆って日本軍と戦っていたアメリカ人士官とアメリカ人戦闘機集団がいた。

                    *

アメリカでは軍戦没者は一兵卒でも英雄として扱われる。

最近のテレビ映像等でもイラクで戦死した兵士の棺を星条旗で包んで国に殉じた英雄として丁重に扱うシーンが記憶に新しい。

昨年の2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が終結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。 

フライングタイガースの元隊員といっても,大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神ファンのことではない。

日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。

この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。

元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。

時は遡り今から16年前の1989年。

あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。

航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。

この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に八年時代をさかのぼり故シェンノート少将に行き当たる。

この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。

日本では天空を駆ける想像上の生き物として「天馬」がある。

だが中国には飛竜が一般的だが、空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物を敬う。

中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。

因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。

戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、「飛鮫」では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。

その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。

フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。

アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、
「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。

シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。

大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。

日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。

1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。

1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。

1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。

シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。

1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。

このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。

この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。

・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?

今までの話は単なる前書きであって本題は今から始まる。

日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。

その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。

そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が右往左往していた。

シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。

当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。

着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。

そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。

アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。

「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。

つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃(sneak attack)」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。

歴史に「もし」は許されない。

だが密かに計画されていた「1941年9月下旬のロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画」が実行されていたら

「東京空爆を忘れるな!」(リメンバー;・東京)

が日本の合言葉になっていただろう。

これ嘘のような本当の話。

1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。

                        ◇

「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」
(読売新聞1991年7月8日)

 

驚くべきことに、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた

作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた
(産経新聞2000年7月15日)


◆本稿は下記タイトル「飛虎」で今年1月7日、プライベイト・サイト「マックス」に掲載したものに一部加筆した記事の転載です。 

【Date:  2006年1月7日(土) 午前9時44分】
【Subject:  飛虎】

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コメント (3)

二つの巨大ブーメラン 教員試験で杜撰な採点

2007-10-30 07:48:44 | 未分類

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 「5点」「6点」扱い198人 教員試験、誤答配点も7問に 

 2008年度の県内公立学校教員候補者選考試験の1次試験「教職教養」で採点ミスが判明した問題で、仲村守和県教育長は28日午後、記者会見を開いた。50―60点が5点、6点とされた受験者は計198人と判明。さらに5教科7問で誤答に配点するミスがあったことも分かり、試験ミスの影響はさらに拡大する見込みだ。いずれも担当職員の事務処理上の単純ミスが原因。一部教科では答案の電子データが保存されていないことも明らかになり、県教育委員会のずさんな点検や管理体制が浮き彫りになった。
 仲村教育長は担当職員を複数配置し、チェック体制を確立するほか、問題や解答の早期開示、情報管理を徹底するなどの再発防止策を示した。
 会見で仲村教育長は「教員を目指し、真剣に勉強している受験者を冒涜(ぼうとく)する重大なミス。心からおわび申し上げたい」と陳謝。198人のうち、1次試験が不合格だった190人とともに、誤答への配点で影響を受けた該当者数も割り出して採点をやり直し、30日の選考委員会で合否を判定。12月8日をめどに2次試験を再実施する方針を示した。既に合格している受験者は保証されるが、合格者数が当初の見込みを上回ることで来年度以降の採用枠に影響することも予想される。
 「教職教養」は計60問のマークシート方式。業者に採点を委託する際、担当職員が1問1点の配点を誤って2点と記入。そのため、本来の60点満点が120満点になり、得点設定の上限を2けたにしていたことから、電算処理で1の位が表示されず、例えば110点(本来の得点は55点)が11点となった。担当職員は採点処理されたデータを受け取った際に配点ミスに気付き、得点を2分の1処理。その際、11点も同様に2分の1処理したため「5・5点」となり、配点上あり得ない5・5点を独断で四捨五入し「6点」にしたという流れだ。
 誤答への配点は、教職教養と中学・高校保健体育のそれぞれ2問と小学校理科、高校農業、中学・高校家庭科のそれぞれ1問の計7問で、業者に渡す採点用のマークシートに解答を転記する際に誤った番号を記入した。中高家庭科と高校農業は、
電子データが保存されておらず、マークシートもすべて廃棄されていることから、全員に1点ずつ加点して対応する。
 2次試験をやむを得ない事情で今回受験できない場合は来年度に限り1次試験を免除する方針。

(琉球新報 10/29 9:37)

                       ◇

■沖縄教育界を襲った巨大ブーメラン■

会見で陳謝をした仲村教育長は、一ヶ月前沖縄県下の校長を前にして生徒を政治集会に参加させるよう訓示を垂れていた。

教育行政には「長」の付く役職が多くてややこしい。

もう人の「長」中山勲委員長が教育委員会の臨時会で、採点ミスの原因や経緯を説明し、謝罪した。

二人の「長」は、沖縄の教育界を狂乱の「11万人」集会に駆り立て、その怒りのターゲットは文科省だった。

渡海文科大臣からの叱責はないが、「学力最下位」と「採点ミス」は、結果的に二連の巨大ブーメランとなって沖縄の教育界を襲った。

沖縄の教育行政のトップはこの採点ミス報道の数日前、「学力最下位」について「衝撃を受けている」と発言し、

「教育をほったらかして、今更衝撃もないだろう。逆にこの発言に衝撃をうけた」という笑い話もおまけに付いた。

沖縄、全教科で最下位 全国学力テスト結果 カメラ  (10/25 9:36)

記者会見で全国学力テストの結果を説明する仲村県教育長=県教育庁

 >仲村教育長は「教員を目指し、真剣に勉強している受験者を冒涜(ぼうとく)する重大なミス。心からおわび申し上げたい」と陳謝

お詫びをすれば済むって問題ではない。 過去に採点ミスのため進路を誤った受験者が何人いるの。

彼らの人生をどうしてくれるのだ。

電子データが保存されておらず、マークシートもすべて廃棄されていることから、全員に1点ずつ加点して対応する」というが、

今更ながら県教育委員会のずさんな点検や管理体制には「衝撃を受ける」。

全員に1点追加してその結果一体どうなるというのだ。

受験者の声を沖縄タイムスから拾って見る。

≪八回目の教員採用に挑んだ沖縄市の女性(30)は、昨年五十三点だった「教職教養」が今年、五点になった。相次ぐ問題ミスに「一点で合否が決まる厳しい世界なのに」と怒りをあらわにする。試験のやり直しが決まったとはいえ複雑だ。「周りから、受かるのではと期待されるのも苦痛。来年に向け、気持ちを切り替えて勉強を始めたのにこのミスで踊らされるのが苦しい」と話した。

 小学校教諭を目指している女性(24)は「大勢の人の将来が懸かっているのに、得点を倍にしたり、四捨五入したりしていたとは…。『最終的には変わらないだろう』という感覚だったんですかね。機械的で悲しくなる」と嘆く。

 今回が最後の受験となった男性(35)は「自分より点数の低かった人が合格しているという思いがある」と本音を漏らす。「今回の合格者には申し訳ないが、合格通知者も白紙に戻して正規な点数で選考してほしい」と語った。≫(沖縄タイムス 10月29日)

これって、県に対して「人生を返せ!」と怒りの拳を突き出しても良いのでは・・・。

責任の明確化指示/教員試験採点ミス
≪中山委員長は「(教育庁サイドには)今回の重大な過ちについて責任の所在を明らかにするよう、重ねて求めた。≫(沖縄タイムス)

杜撰な管理体勢のまま教育界を「島ぐるみ」で政治活動に駆り立てた責任は仲村教育長、中山県教育委員長に在るはずだ。 

担当部署の職員の責任追及も当然だが、トップの二人が陳謝だけでお茶を濁すべきではない。 同じことは又起きる。

ここで貴方の出番ですよ、仲井真知事さん。

杜撰の教育界のトップを首にするのは貴方の仕事でしょう。

では、知事の責任は?

「島ぐるみ」の責任なんて言ったら、大迷惑の県民が多数いますよ!

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