狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

具志堅用高の「正論」

2007-10-25 17:27:25 | 県知事選

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みんな横並びで「正論」を述べることは誰でも出来る。

だが、逆風に向かって一人「正論」を吐くのは勇気がいる。

具志堅用高の「正論」が今光を放っている。

 

人相からして悪役のはずの協栄ジム金平会長が、連日正義漢のような発言をしている。

先日の亀田親子の謝罪会見では納得できないという。

それに反則行為をやっておりながら指示を否定したことがけしからんとも言っている。

この人、何時から正義の人に宗旨替えしたのだろう。

亀田パパが悪の権化にされているが、それを承知で一家を大阪から呼び寄せ、トレーナーライセンスがないのを知りながら自宅練習場を黙認してきたのは金平会長ではなかったのか。

まだ商品価値のある亀田兄弟は協栄ジムが引き取り、全ての「悪」を亀田パパ1人に押し付けて追い出そうという魂胆らしい。

亀田ブーム真っ盛りの1年半ほど前、亀田一家に擦り寄っておべんちゃらしか言わない元チャンピオンが多い中、

ただ1人、具志堅用高氏が亀田親子の出鱈目な試合や見苦しいパーフォーマンスに苦言を呈した。

これに怒りを顕にして具志堅氏に絶縁まで言い出したのは金平会長ではなかったのか。

彼が突然悪役から善玉に宗旨変えした理由は簡単だ。

「親亀こけたら皆こけた」では困るのだ。

この際親亀だけにこけてもらい、小亀は自分のジムで引き取る構想だ。

悪を1人で被った親亀を追放すれば、まだ商品価値の充分ある小亀でたっぷり稼げると見たのだ。

その為には親亀の「反則指示否定」は金平会長として撤回してもらわなければならない重要ポイントである。

小亀達は親亀の指示通りに行動しただけの無邪気な小亀で居てもらわなければ商品価値が下がるからだ。

「悪玉親亀」と切り離した小亀達は金の成る木だ。

来年早々、同ジム対決で「坂田vs小亀1号」をマッチメイクすれば「内藤vs小亀2号」より数段人気の出る試合になる。

それに両者とも金平ジムなので稼ぎも大きい。

金がヒラヒラひらつくのも理解できる。

それには「悪役」は切り捨て自分は分別のある「善玉」に変身しておかなければならない。

そのために去年激しい場外バトルをした具志堅氏にはちゃっかり謝罪をして「善玉」のアリバイ作りをしてあるというから流石に打つ手に抜かりはない。

それにしても、亀田ブーム真っ盛りの時期に「正論」を堂々と述べた具志堅用高さん、

あんたは偉い!

具志堅 亀田の場外バトル

 

本当の「悪玉」は親亀ではなく、やはり金ヒラ会長ではないの?

だって、あの顔で正義の人は似合わないでしょう。

                  ◇

亀田パパに手紙を書いていたことを想いだして古いエントリーを再掲した。(亀田家の崩壊

 

物好きにも亀田興毅にも手紙を書いていた。

「以下は再掲です」

興味の薄れてきた方は
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                    *

亀田興毅への手紙 

格闘技ブームである。

その昔、同世代を生きたファイティング原田や海老原博幸に声援を送った青春の日々。

当時は最軽量級がフライ級でその次の軽量級はバンタム級であった。

そういえばもう一人の同世代のボクサー、記録より記憶に残るボクサーがいた。

原田、海老原と並び「軽量三羽烏」と言われた青木勝利だ。

強打で知られ「練習しなくても強い」と言われた青木が当時「黄金のバンタム」と言われたバンタム級世界王者にジョフレ挑戦した時の事を昨日のように覚えている。

40年以上も前の東京。

その時私は代々木上原駅近くにある友人のボロアパートの一室で友人数名とともに酒盛りをしながらラジオの実況に耳を傾けていた。 勿論テレビが今のように普及する前のことだ。

一ラウンド開始から青木の強打が炸裂した。

実況を伝える上ずったアナウンサーの絶叫。

「青木の左右の連打にジョフレ、ロープ際に追い詰められました!」

「青木、 チャンスです! 世界王者は防戦一方です!」。

≪青木のノックアウトシーンを見たい!≫

ラジオはそのままにして、一同部屋をいっせいに飛び出した。 靴を履くのももどかしく。

目指すは後楽園のボクシング会場、・・では勿論無かった。

目指すは決戦高田の馬場でもなく、アパート近くの食堂であった。

その頃は客寄せのためにテレビを置いてある食堂が我々にとっては、見たいテレビ番組の観賞の場であったのだ。

満席の食堂に飛び込んで見たテレビ画面に映っていたのは、リング上で大の字になって伸びているジョフレ、・・ではなくて、練習しなくても強い(筈だった)青木勝利だった。

因みに原田も海老原も世界チャンピオンになったが青木はその後酒におぼれて身を持ち崩した。 それでも東洋バンタム級チャンピオンだったが・・。

皮肉にも青木が華やかなフットライトを浴びて試合がテレビ放映されたのはジョフレに一ラウンドノックアウトされたあの試合が最後であった。 

その後、地元の英雄具志堅用興に興奮し、ホープと期待した名護明彦の後援会にまで入った事のある古くからのボクシングファンとしては最近の亀田兄弟を中心のボクシングブームは嬉しい事だ。

・・・が、一寸待って欲しい。

確かに亀田兄弟の登場でボクシング人気が沸騰、テレビでもボクシング関連のニュースを多く流すようになった。

亀田兄弟の挑発的なパフォーマンスにメディアは大喜びで二人のテレビ露出度はボクサーの仲でも飛びぬけている。

試合以外のパフォーマンスでファンを弾きつけるの事は基本的には是としたい。

是はプロ野球における新庄のパフォーマンスをファンが支持しているのと同じ事だ。

しかし、新庄は敵のチームの選手や監督を侮辱するパフォーマンスは決してやらない。

そのド派手なパーフォーマンスにも自ずと節度とユーモアがある。

節度と品位を失ったパフォーマンスは野良犬の喧嘩と変わらない。 

たとえそれが格闘技でも結局そのスポーツを下品なガキ共のスポーツに陥れる。

昨日の「亀田興毅 世界前哨戦・最終章 」と銘打つ共同記者会見はパフォーマンスを通り越して見るものに不快感を与えた。(尤もそう思うのは私だけ?)

ランキング30位の外人選手を探してきて(自分はランキング4位)、散々相手をを待たした挙句、チキンをムシャムシャ食べながら現れ減量に苦しむ相手を徹底的に愚弄した。

いわく「お? なんや、オレの相手の頬、めっちゃコケてるやん。3日かけて日本に来たんやって? 疲れた顔してるし、かわいそうや。もう帰らしたりぃや。そんな頬コケて、コケコッコーやな(笑)」

メディアは揃ってこのパフォーマンス男に「ヨイショ ヨイショ」。

≪。体調はもちろん、口もますます絶好調の興毅が、あす、そして試合本番のあさってと“亀田劇場”盛り上げる!≫(スポーツナビ)

                        *

亀田興毅君!

明日の試合では相手の減量苦、ランキング、長旅の疲れ等々から、きっと君は勝つだろう。

そして世界チャンピオンになる日も遠からず来るだろう。

だがボクシングを下品なガキのスポーツにしたくなかったら、計量で苦しむ相手を威嚇や侮辱したりするのはパフォーマンスも度を越して下品だ。

試合後悪童風の受けを狙いで独特のパフォーマンスは大受けの半面、「やりすぎ」と眉をひそめる、昔からのボクシングファンが多いのも事実だ。

世界の頂点にたったときは、強さ・品格ともに備わったボクシング界の「真の王者」になってほしい。

少なくとも日本のサムライは強さと共に品格を求めた。 

上杉謙信が敵に塩を送った故事を学んで欲しい。

 

                     ◇

 これも「再掲」です。

                    *

のんびりとした日曜日の朝。

関口宏の「サンデーモーニング」のスポーツコーナーを見ていた。

大沢親分と張本コンビの「渇!」と「アッパレ!」がオモシロイ。

一昨日の亀田兄弟の試合で大沢親分が特大の「アッパレ!」を放ったところで、

隣で見ていた大学2年の息子と久し振りに会話の花が咲いた。

                  ◇

A:「減量に苦しむ相手を前に、チキンをクシャクシャ食い散らかしながらの共同記者会見。下品だし、第一相手に対しても失礼だよ」

B:「相手にメンチをきって威嚇して、自分を奮い立たせるのが作戦なんだよ」

B:「格闘技では良くあることなんだよ」

A:「それは良く判る、・・・だがそれも程度問題だよ」

B:「結局、本人が強いから誰も文句言えないよ」

A:「でも強ければ何をやってもいいという訳ではないだろう」

B:「上品な弱いボクサーより多少下品でも強いボクサーをファンは求めている」

B:「亀田兄弟が出て来て、ボクシングファンが増えたし今ボクシングブームだよ」

A:「それで亀田兄弟は本当に強いの」

B:「当たり前でしょう。 今まで二人とも負け知らずだよ」

B:「それもKО勝ちが当たり前。 弟の大毅などは先月の試合でKO出来なかった悔しさでたった18日後にはKOでリベンジしている」

A:「リベンジって? 同じ相手じゃないんだろ? 大体たった18日の準備期間で探し出せる相手なんてまともなボクサーじゃないだろう。 いわゆる小使欲しさのKO要員だろ。 そういうのをかませ犬だよ」

B:「でも興毅の相手は世界4位だよ。 世界ランカーを2ラウンドでKОするんだからやはり強さは本物だよ」

A:「いやそれは間違いだ。 相手は興毅より格下のボクサーだよ、世界ランクは32位というから。 それにIBF4位と言うがこの団体はいい加減でJBCつまり日本ボクシングコミッショナーは認めていない団体だよ」

B:「それでも2ラウンドでのKO勝ちは強い証拠だ」

A:「強いと言っても弱いもの苛めて強いのか、強い相手に強いかの問題だろ」

A:「3月8日の興毅のKO勝ちは明らかにローブローの反則だよ」

B:「興毅は、レフリーが何も言わないから問題ないと言っている」

A:「それが問題なんだ。 テレビ局が大々的に支援する亀田親子に逆らえるものは誰もいない。 レフリーだって八百長試合の当事者だよ」

B:「それを言ってはお終いだよ。 兎に角ボクシング人気を盛り返したのは亀田親子の功績だよ」

A:「その点だけは認める。 だがそのやり方にも程度の問題がある。ボクシングは野良犬の喧嘩ではない」

B:「話が堂々巡りになって来た」

A:「目的の為には手段を選ばないと言うのではホリエモンと同じだよ。 テレビや芸能人を巻き込むところなんか」

B:「亀田兄弟には若い女の子のファンも増えている!」

A:「そんなのはボクシングファンではない!」


「昼ご飯ですよ!」の妻の一声でしばし水入り。

このバトル、水入り後はどうなるのやら・・・・・・。

 

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曖昧な妥協は国を辱しめる 「軍の関与」も認めてはならない 

2007-10-25 06:09:38 | 教科書

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現在の感覚を、過去にそのまま当てはめ、評価を下す史家は、常に歴史を過つ」

曖昧な言葉で妥協をした歴史記述は結果的に国の名誉貶める。

                                                *

歴史は「理」をもって検証すべきであり、これを度外視して「情」をからめると歴史の真実を見誤ってしまう

沖縄戦を語る時に枕詞のように付いて来る「沖縄の心」。

これがやがては「県民感情への配慮」という「情」の土俵に歴史を引きずり込む。

終戦記念日に関する各紙の論調を現代史家秦郁彦氏は次のように評した。

これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。

 たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。

 激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。≫(【正論】2007.7.6 )

 

当日記はこれまで「集団自決」には軍の命令も、強制もなかったという立場を取ってきた。

ただ、戦争中の出来事であるから何らかの軍の関与があったと言われれば、敢て強くこれを否定する理由もないとしてきた。

だが、話し言葉で「関与があった」と言うのと、これが文字化されて教科書に記述されることとは、ことの重大さが自ずと違ってくる。

日本語の「関与」の意味は多義に渡っており、結果的には意味が曖昧になる。

教科書のお得意様である日教組の教師が教科書に記述された「関与」を説明する時、「関与あり」が教師の解釈で「命令」や「強制」に変化することは容易に想像できる。

その意味で、昨日の「正論」で藤岡信勝拓大教授が主張する「関与」のくだりには説得力がある。

≪そもそも「関与」という定義曖昧(あいまい)・伸縮自在の概念の導入は事態を紛糾・悪化させるだけである。「従軍慰安婦」問題で「軍の関与」がいかに国益を損なう混乱をもたらしたかを一考すればその危険は明らかだ。なぜ政治家は同じ轍(てつ)を踏むのか≫

 

「11万人」集会の発端ともなった沖縄県議会の「検定意見書撤回決議」に当初は反対していた自民党会派が、

政治的妥協の結果意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついた。

結局この自民党会派による「関与あり」への安易な妥協が「11万人」集会への出発点になってしまった。

「関与あり」を、言葉の定義が日本語より厳密な英語に置き換え、再び日本語に戻すと安易な妥協の恐ろしさが分かる。


関与する⇒ participate ((in)); take part ((in)); have a share ((in)).

participateには参加するという意味が強く、「日本軍が集団自決に関与した」が「日本軍が集団自決に参加した」となり、

「命令、強制」と近い意味になる。

以下に引用する藤岡信勝拓大教授が主張する≪「軍の関与」も認めてはならない≫を改めて考えて見たい。

やはり安易な「情」への妥協は歴史を過つ。

「知恵と工夫と努力」で政治的妥協を目論む町村官房長官や渡海文科大臣に是非読んで欲しい論文だ。 

文科相「訂正申請に対応」 検定修正検討を指示  
町村信孝官房長官も同日午後の定例会見で「(記述を)訂正できるのか、修正できるのかには、関係者の工夫と努力と知恵があり得るのかもしれない」と述べ・・・(琉球新報 10/2 9:35)

結論を述べよう。

例え、軍が絡む戦時中の事だとしても、教科書にわざわざ「軍の関与」と記述する理由にはならない。

高校教科書には「集団自決」の事実を記述すれば必要にして充分である。

これ以上立ち入って勉強したければ大学や更に大学院へ進んで専門的に研究すれば済むことである。

今までのように教科書を左翼思想のプロパガンダにしてはいけない。

                     ◆

【正論】集団自決と検定 拓殖大学教授・藤岡信勝 “トリック報道”で世論誘導2007.10.24 04:06
 
 ■「軍の関与」も認めてはならない

 ≪一点の瑕疵もない検定≫

 高校日本史の教科書検定で「沖縄集団自決」に日本軍の「命令」「強制」があったとの記述を修正させた問題で、政府・文科省は修正前の記述の趣旨の復活を認める方針に大転換した。検定意見の撤回はしないが、もとの記述を何らかの表現で回復しようとする教科書会社の訂正申請があればこれを「真摯(しんし)に検討」するというのである。今ごろは10月末の申請をめどに教科書執筆者と文科省の間で水面下のすりあわせが行われているはずである。重大な局面にあたり改めて問題の原点から考えたい。

 従来、「軍命令説」の根拠とされてきたのは、座間味島と渡嘉敷島のケースだった。しかし、どちらのケースについても、当時島に駐留していた日本陸軍海上挺進(ていしん)隊の隊長は、住民に集団自決を命令していなかった。それどころか、集団自決のための武器・弾薬を求めに来た住民に対し、隊長は「決して自決するでない」と押しとどめ(座間味島)、集団自決が起こったことを知ったあとは「何という早まったことをしてくれたのか」と嘆き悲しんだ(渡嘉敷島)。

 こうした事実が明らかになった近年の動向を反映して検定意見がつけられ、例えば「日本軍の配った手榴弾(しゅりゅうだん)で集団自決と殺し合いをさせ」という「命令」「強制」を含意する表現を改め、「日本軍の配った手榴弾で集団自決と殺し合いがおこった」(実教出版・日本史B)と修正された。文部科学省の今回の検定は、国会の定めた法律に基づく法秩序と手続きに従って、実証された史実を根拠に適切に行われたものであり、その内容を見ても少しも行き過ぎたところはなく、一点の瑕疵(かし)もない。これをひっくり返すいかなる道理も存在しない。

 ≪防衛隊と日本軍の混同≫

 日本軍が無辜(むこ)の住民に自決を強要するほどの悪逆非道な存在であったことにしたい一部マスコミは、正面から「命令」「強制」を論証できないので、住民の証言を持ち出して世論誘導を図っている。その際、トリックの材料として用いられているのが防衛隊の存在である。

 米軍来襲時、島には(1)陸軍の正規部隊たる将兵(2)防衛隊(3)一般住民-の3種類の人々がいた。防衛隊とは昭和19年7月に帝国在郷軍人会沖縄支部が市町村の集落単位で中隊を編成したもので、法令的な根拠はなく、住民の義勇隊という性格のものだ。中国戦線から帰還した、村長など村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化し、日常の生活は家族と起居をともにしていた。

 手榴弾は防衛隊に米軍上陸の際の戦闘用に支給したものであり、自決用に一般住民に配布したのではない。集団自決を主導したのは防衛隊で、時には手榴弾を軍陣地から持ち出して住民に配布した。「兵隊さんから手榴弾を渡された」という住民の証言は、防衛隊を日本軍と混同しているのだが、マスコミはこの事実をよく知りながらイメージ操作のため確信犯的にこの混乱を利用しているのである。

 ≪「軍命令説」と同じ虚構≫

 もう一つのトリックは、「軍の関与」という言葉である。これはマスコミの世論操作であると同時に、政府の「落としどころ」として喧伝(けんでん)された経過がある。すでに8月段階で伊吹文科相(当時)は、「『軍の関与』という表現であれば、次回の検定で問題とはならないだろう。出版会社にお願いしてはどうか」と沖縄選出の自民党議員に水を向けていた

 しかし、プレゼントに送った果物ナイフが殺人に使われたからといって送り主が殺人に「関与」したとはいえないという事例を分析すればわかるように、集団自決への「軍の関与」を認める必要はない。「軍の関与のもとに集団自決が起こった」という文を作ってみればわかるように、これは結局「軍命令説」や「軍の強制」と同じ虚構を教えることになる。

 集団自決は悲しい出来事だが、当時の日本人の心理状態では米軍が上陸すれば日本中どこでも起こった可能性がある。現に沖縄で日本軍不在の地でも集団自決は起こっている。

 そもそも「関与」という定義曖昧(あいまい)・伸縮自在の概念の導入は事態を紛糾・悪化させるだけである。「従軍慰安婦」問題で「軍の関与」がいかに国益を損なう混乱をもたらしたかを一考すればその危険は明らかだ。なぜ政治家は同じ轍(てつ)を踏むのか。

 あの戦争で国と国民のために命をかけて戦った軍や軍人を虚偽に基づいてはずかしめるようなことをする国は滅びる。沖縄の県民感情を利用した反軍反国家反体制運動に屈して教科書検定制度を崩壊させてはならない。(ふじおか のぶかつ)

                     ◆

 

教科書に「集団自決には軍の関与があった」と記述することは、政治的妥協の産物だ!
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