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地元新聞に連日出てくる「証言者」。
そして「11万人」集会。
その壇上でで叫ぶ高校生の悲痛な声。
「おじー、おばーが嘘つきだというのですか!」
だが、沖縄のマスコミが決して取材に訪れることのない「集団自決」のもう一人の最重要証人がいた。
しかもその人は「11万人」集会の会場の近く宜野湾市に元気で住んでいた。
渡嘉敷島の「集団自決」のその日、その時、その島で「命令を出した」とされる赤松の側で常に行動を共にした地元出身の副官・知念少尉。
この人の証言が新聞を飾ることはない。
地元マスコミが取材しない知念氏宅を本土紙「世界日報」の鴨野記者が訪問した時の様子を次のように記している。
≪那覇市から車で40分余り北に走らせた宜野湾市に、知念氏の自宅はある。 記者(鴨野)が訪れた二月の下旬、庭の梅の木にメジロが止まり、さえずっていた。≫
「世界日報」の写真で見る知念氏は、ごま塩白髪の頭を短く借り上げにっこり微笑んでおり、お元気そのものに見える。
知念氏は元々本島首里の出身だが、現在は宜野湾市に在住。
今でも時々第二の故郷ともいえる渡嘉敷島を訪れて島の皆さんと懇談なさるとのこと。
鴨野記者の取材に対し『鉄の暴風』の間違いを指摘したが、その中で本人の登場する場面について語る様子を鴨野記者は次のように書いている。
≪真実の攻防 8 「軍命裏付ける証言得られず」
(一部抜粋)
『鉄の暴風』に同氏が登場する場面がある。<地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した>(36ページ)
知念氏にこの記述を確認すると、笑いながら「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕(ごう)は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ。それに比べて曽野先生は偉かったな。もんぺ姿で渡嘉敷島で何日間も取材をされたのですから」。
自決命令を聞いた知念氏が<悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した>と『鉄の暴風』にある。だが彼は沖縄タイムスから、戦時中の様子を取材されたことが一度もない。ならばなぜ、彼が慟哭し、痛嘆したと彼の胸中を推し量る記事を書いたのだろうか。「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と知念氏。沖縄タイムスは、赤松氏本人にも元隊員への取材もせず、軍命令があったと書いた。記者が取材した、知念氏をはじめとする三人の元赤松隊の隊員は、赤松氏の軍命を真っ向から否定した。≫
いろんな文献に引用され、「赤松軍命説」の根拠となった次の部分は、有名なシーンである。
だが、何と沖縄タイムスは本人の取材もなく勝手にそのシーンを造り上げた創作だったのだ。 その創作が一人歩きし、赤松隊長を極悪人に仕立て上げた。
<地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した>(36ページ)
知念氏は「作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ」と断言している。
取材した鴨野記者は、このように言っている。
「鉄の暴風」は「戦記小説としては良く出来た読み物です。だが、ドキュメンタリーとしては・・・・・・」。 後は言葉を濁した。
鴨野記者が取材した日の33年前に出版された「沖縄県史」。
そには知念少尉の渡嘉敷島着任以前の様子から、集団自決当日の模様、そして投降後の様子まで細かく記載されている。
この「沖縄県史」の証言も沖縄マスコミが引用、報道することはない。
理由は極めて単純、「赤松軍命説」の反証になるからである。
以下に知念少尉の長い手記の中から「集団自決」に関する部分を抜粋記載する。
昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2
副官の証言 …769P
元海上挺進弟3戦隊副官
元陸軍少尉 知 念 朝 睦
集団自決のこと
西山陣地では電話も通ぜず各隊との連絡は容易ではありません。かろうじて各隊が集結していた頃、西山陣地の後方では、村民の自決が行われていました。10歳くらいの女の子と、兄弟らしい男の子が陣地に私を訪ねて来て、お母さんが自決したというのです。初めて自決のことを聞きました。
この子等は阿波連から恩納川に行き、西山陣地近くで、この子が手榴弾を発火させ、母親に投げたところ、赤児と母親の間におち、死んでしまったということでした。その自決場所には、妻子を殺したという男が半狂乱に、私に、自分はどうしても死ねないので斬ってくれと、わめいていました。この男も、姉弟も元気に居ります。
どうして、こういうことがおきたのか。その動機は、おそらく、数日前阿嘉が全滅し、村民は自決したときいて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、きめていたに違いありません。そこへ、米軍の迫撃砲です。山の中をさまよい、わいわい騒いでいるところへ、どかんと飛んで来たのがそれです。
もう生きられる望みを絶たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、10歳の少女がどうして手榴弾を手に入れたか、ということです。
それにしても私が見た自決者の遺体は6,7体でした。記録に残る329体というのは見てもいないし知りません。329体なら、それは、恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。
赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、大変悲しんでいました。
私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下令も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。
もっとも、今現存しているA氏が機関銃を借りに来ていました。村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました。
◇
今年2月の鴨野記者の取材記事を見ても、また上記手記のどの部分を読んでも赤松隊長の「軍の命令集団自決が起きた」という証拠は見出せない。
沖縄マスコミが知念氏の証言を封殺する理由がここにある。
沖縄県民は報道談合により「知る権利」を奪われている。
一方、敵軍であり、沖縄上陸の時沖縄住民と日本軍との分断工作を意図していた米軍の記録は全面的に「真実」として報道する。
いや、英文記録をありのまま報ずるのならまだ良い。
沖縄タイムスなどは、住民が米軍の聞き取りに応じた「兵隊さんが言った(told)」といった言葉を「軍が命令した」と恣意的というより明らかな誤訳をして、大見出しで「米公文書」として紹介している。
沖縄のマスコミは新聞の名に値しないサヨクプロパガンダ紙だ!
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