狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

コロコロ変る中山元文科相の歴史観

2007-10-17 20:05:44 | 教科書

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軍の命令、強制あった 集団自決で中山元文科相 (10月17日 12:29)

 自民党有志でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬元文部科学相は17日午前、沖縄戦での集団自決に関して旧日本軍の強制の記述が教科書検定で削除された問題で「軍の命令、強制は当然あったと思う。沖縄戦について、国会議員も国民もあまりに知らなさ過ぎる」と述べ、記述回復を図る動きに理解を示した。党本部で開いた同会役員会後に記者団に述べた。

 役員会では、集団自決に関する検証小委員会(萩生田光一委員長)を設置、今月中に初会合を開き、生存者や研究者を招いて聞き取りを進めることを決めた。

 同時に、教科書検定制度は堅持すべきとの立場を確認、近く首相官邸や文科省に申し入れを行うことを決めた。

(共同)

                                              ◇

沖縄サヨクマスコミとは立場を異にするはずの中山元文科相に一体何があったのか。

20日前にはこのように発言していた。

検定がないと誰でも教科書を作れてしまう。ある程度、調査する人(教科書調査官)がいないとえらいことになる。日本は国定教科書ではない」

殉国死でなく犠牲者だ/中山元文科相に聞く」(沖縄タイムス 2007年9月27日 )

「従軍慰安婦問題」では頑張った中山氏だが、

一ヶ月足らずで歴史観がこうも変る政治家も珍しい。

 

■沖縄タイムスVS中山元文科相■

しかし、これを遡る三ヶ月前、中山元文科相は、沖縄タイムスに言質を取られていた。 

その経緯は國民新聞の次の引用記事に詳しい。

≪ 沖縄タイムスが誤報か
中山元文科相の「軍命」容認発言

沖 縄 戦「集団自決

自民党の教育再生に関する特命委員会(委員長・中山成彬元文科相)が六月十二日、党本部で開かれ、文科省が昨年度教科用図書の検定結果を説明した。沖縄県選出の仲村正治、嘉数知賢両議員は沖縄戦「集団自決」への日本軍関与を高校歴史教科書から削除したことを批判した。

沖縄タイムス六月十三日付によると、中山委員長は記者会見で

「沖縄の二人からの身につまされる話があった。教科書は(中国など)外に弱くて内に強く、私に言わせればおかしい。沖縄戦での軍命による殺し合いを否定するなんておかしい」

と同調したと報じた。中山事務所では

「そんな話し方はしていない」

として沖縄タイムスに抗議することを検討中だが、沖縄タイムスはテープに残っているという
≫(國民新聞 平成19年6月25日)

                    ◇

「教科書検定制度は堅持すべきとの立場を確認」しながらも、

「沖縄戦での集団自決に関して旧日本軍の強制の記述が教科書検定で削除された問題で「軍の命令、強制は当然あったと思う」と断定する根拠は何なのだ。

これではまるで二枚舌ではないのか。

中山元文部科学相は結局「軍の命令、強制は当然あったと思う」として教科書調査官へ圧力を加え

政治家の歴史への介入という大愚を犯すつもりなのか。

それとも何か、沖縄タイムスに弱みでも握られたのか。

 

◆参考エントリー:

沖縄タイムスVS元文科相

 

一ヶ月足らずで歴史観がコロッと変る中山元文科相は、
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コメント (3)

緊急!元渡嘉敷郵便局長・徳平秀雄さんの証言

2007-10-17 05:25:00 | ★集団自決

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沖縄タイムスをはじめ地元マスコミは「不都合な証言」には封をして、県民をイデオロギーの世界へ駆り立てた。

その集大成が「11万人」集会であった。

その余熱が冷めるのを恐れるかのように大人数の「要請団」を次々と東京へ送り込んでいる。

だがこの熱に浮かされたような集団のなかに、民主主義と歴史の検証の関係が分かる人が何人いるだろうか。

拳を天に突き上げるその言動を見ると、殆どの人が民主主義の多数決と、集団の圧力で歴史を変えることを同次元で考えているように思える。

だが、これは民主主義ではない。

彼らは歴史を人民裁判で決めることを要求しているに他ならない。

人民裁判とは、

「多数者が法律によらずに少数者を私的に断罪すること。集団の圧力で行われる吊し上げで物事を決めることをいう。」

                  *

以下に掲載する元渡嘉敷村郵便局長・徳平秀雄氏の手記を、過去に報道した地元マスコミの存在を筆者は寡聞にして知らない。

この詳細な「集団自決」の手記に軍の命令を求めるのは困難だ。

だが、これを目にした「沖縄戦史の専門家」は口を揃えて次のように言うだろう。

「日本軍や戦争体制によって強制された死であり、日本軍によって殺されたと言っても妥当であると考える」

「直接誰が命令したかは、それほど大きな問題ではない。」

「部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう(20)識者に聞く(3) (沖縄タイムス)

これを称して「画一的教条論の羅列」という。

言葉を変えれば「すり替え論」ともいい、もはや論理の一欠けらも見出せない。

                  


 

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2

渡嘉敷島の集団自決                         …762P
渡嘉敷村字渡嘉敷
                        元渡嘉敷郵便局長 徳平秀雄

 甲種合格全国一の渡嘉敷村
 私は昭和3年徴兵検査を受けました。県立師範を卒業して、郷里で教職についたばかりでありました。検査場の小禄村の学校には、地元の小禄村の他豊見城村、渡嘉敷村から若者たちが集められていました。
 渡嘉敷は私も入れて18名、人数はいちばん少ないのですが、一目瞭然、私の村はぬきん出た屈強な若者ぞろいで、他村を圧倒的に抑えて、18名中ただ1人が第1乙でその他は甲種合格。しかもその年度の合格率全国第1になり、朝日新聞社から賞状をもらいました。それ以来、連続5回全国第1位の地位を保っていました。

(略)

 3月23日
この村では、適齢の男性は、ほとんど防衛隊にとられ、村長と私とが最後まで招集をうけてはいません。鈴木部隊が引き揚げ、替わって特攻隊の赤松隊が、戦闘の配備につく頃、村長も私も、仕事と云えば、軍の要求を民間におろすことで実質的には、私たちは赤松隊長の下で、働いていたに過ぎません。
3月23日、早朝、私は、その前の日に渡嘉敷を訪問していた鈴木基地隊長の宿舎に挨拶にいっていました。温厚な鈴木隊長は渡嘉敷で陣地構築中、私の家にしばらく滞在していました。その時の謝礼にと、黒砂糖と煙草をわざわざ届けて下さったので、お礼を申し上げようと訪ねた所でした。突然聞き憶えのある爆音です。グラマンに決まっています。私は、鈴木隊長殿、御元気で、私は帰りますと、挙手の礼をして、一直線自宅に戻りました。
軒に吊したザルの中には、昨夜の彼岸祭りの、のこり物が入れてあります。私は、家に入りしな、ザルに手をやり、ワシ掴みに、豆腐やら、モチやら、ほおばりながら、貴重品を革鞄の中に納め役場の壕に行きました。そこには、作業中の兵隊や役場の職員がつまっていて、寸分の隙間もありません。
私は壕の外のついたてに、せいいっぱい身を寄せていました。機銃掃射は砂煙をたてて、地上を這い回っていました。
その頃妻子らは、自持の山の避難小屋で寝泊まりしていましたが、空襲の朝は、ちょうど山から下りて、学校の仮校舎に差しかかった所で、壕を求めて、遁走している私とぱったり会いました。私は有無を云わさず、子供の手をとって、再び山の壕へつっ走りました。田圃のアゼ道を2町にも足りない距離を、走って、1里もの道程のようでした。
空襲は今までにない激しいものでした。渡嘉敷はあちこちから火の手があがり、今に村全体を包まんばかりのいきおいで燃えていました。
私の家は残っていました。しかし向かい会ってる役場といい、私の家といい形が変わっているようでした。入り口の福木の大木が2本、なぎ倒され、裏に廻ると、1番座敷に小型爆弾が投下され、屋根に直径2メートルばかりの穴を開け、一直線に、ちゃぶ台の真中を通り、床に突き抜けていました。一面に飛び散っているのは、先祖の位牌、書籍類、古い道具箱、もうそこは手のつけようもありませんでした。福木のすぐ下には、米、味噌、鰹節など、壕を掘って保存してありましたが、陰も形もありませんでした。23日は、しかしこれでおしまいではありませんでした。夜になると、山といわず、村といわず、焼夷弾を投下して、焼き払っていました。

初めて米兵を見る
23日から始まった空襲はそのまま、24、25日と激しさを増すばかりで、いっこうに、おとろえる気配はありませんでした。とうとう艦砲射撃を見舞わされるまでになっていました。
27日昼、壕を出て小用を足していました。ひょいとなんとなく前方の山の頂を見ていました。まさかとおもった兵隊がてって、こちらを双眼鏡でのぞいているのです。自分のめを疑いました。沖縄にまで米軍が上がってくるなんて信じられませんでした。
とたんに私は身がふるえだし、言葉も出ません。小屋の中で家族の物にどう伝達したか記憶にはありませんが、「アメリカ-が、アメリカ-が…」と言葉はこれ以上出ません。手まねで納得させたのでしょう。
ここは危ない、私たちは、かねて準備してあった西山陣地の後方、恩納河原の避難小屋めざして出発した。誰の命令だったか知りません。その時村民も、私たち同様、恩納河原に向かってぞろぞろ歩いていました

集団自決
那覇に嫁いでいた私の姉は、中学生の長男を残して、10・10空襲で焼け出されたために、私の所に同居していました。私の家族は妻と子供2人。私は末っ子をおんぶし、姉とその小さい子供たち4名をひきつれて、泥んこの中を歩いていきました。
村はずれまで来ると、私の恩師の真喜屋先生御夫妻に会いました。真喜屋先生は、首里の人で、渡嘉敷小学校の校長を最後に永い教員生活を辞められた方で、渡嘉敷を第2の故郷ときめ、そのまま島を去らずにおられた方でした。
先生は、始めは私の誘いも断っていましたが、私は半ば強引に、西山へ皆行くし、あそこなら万一のことがあっても、私がご一緒していますから、面倒を見ることも出来ますと、いうと、そうですかと、ひとことおっしゃって、しぶしぶ私について来られました。私にはこの次に何が起こるのか、見通しがつきませんでした。
私たちは真っ暗闇の中を、手さぐりで進んで行きますと、しのつく雨はいよいよ強く、私たちの行く手をさえぎっていました。末っ子をおぶって、その上にすっぽり被っていた綿入りの丹前は水を吸い込んで、重い荷物になっていました。
恩納河原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現れ、わいわい騒ぎが起きました。艦砲はいよいよ、そこに当たっていました。
そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。
敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。
防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。
思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決ときまると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、体を洗っている者もいました。
そういう状態でしたので、私には、誰がどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。
私のグループは、私は4才の長男を膝の上に置き、2才の長女は妻が抱いて、私の向かいには、私の妻の兄の村長一家が陣どっていました。
何とか村長はいっていました。私は目をつぶって今、自分が死ぬのを待っていました。私は、何も考えませんでした。つとめて、正常ではなかったかと思います。村長はパカパカ叩いては自分のふところに入れ、それをくり返していました。
発火しない手榴弾にわたしはいら立ち、村長から奪いとって、思いきり、樫の木の根っこに叩きつけるのですが、やっぱり発火しません。周囲は、どかんどかん爆発音を発していました。その時、米軍の迫撃砲がいちだんと激しくなり、ばたばた倒れる者が居りました。このときの迫撃砲で死んだのも少なくはありません。
どかんどかん撃ち込まれる迫撃砲をのがれて、私たちは死にそこねていました。たぶんそうだったでしょう。
その時私は悪夢からはっきり覚めたようでした。村長をせかせて、私たちは、そこを離れました。
姉の長男と長女が手をつないで立っていました。そばには姉と赤児の死体がころがっていました。私たちは西山の日本軍陣地に向かっていました。日本軍に何かしてもらわなくてはならないと自然に足がそこに向いたのは当然です。
西山陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。迫撃砲も更に激しく、陣地を追われて逃げまどう村民をおっかけて来るようでした。終始、私の後ろについていた妻が「うん」とうなって、しゃがみこみました。妻は苦しそうに腹を押さえているのですが、指の間から腹わたがとび出ていました。子供だけは必ず助かるよう、私に早く皆と一緒に逃げるよう哀願していました。私は水を置いて、そこを離れ恩納河原下流をめざして下りて行きました。
2日間どうしていたか、記憶にありません。私は再び自決現場に戻っていきました。もしや妻が生きているのではと、しかし妻はどこにも見あたりません。妻がどの変に倒れていたのか方向を知りませんでした。私はその時どうせ生きられまいと思うことと、シンでたまるかという生への執着心が交差しているようでした。この地獄の如き様相をまのあたりにしていると、はっきりと自分というものがわかって来たようでした。
私は死んだ人の持ち物から、米を探して生米を噛み、唾液と一緒に2才の娘の口に流し込んでいました。私は、山を降り茶山を通って、自分の壕にもどって来ました。自決の日から3日目の3月31日でした。(略)

                                              ◇

【追記】

教科書検定を守れ!議員会館前の抗議街宣に結集を

<『語る』運動から『行動』する運動を
         議員会館前で良識派国民の声を上げよう>


“日本軍関与”は朝日が目論む第二の「慰安婦強制連行」
朝日新聞は沖縄戦で起きた住民の集団自決を巡り、意図的なすり替え報道を行っている。9月29日、宜野湾市で開かれた集会決議の「集団自決に軍が関与したことはあきらか」の部分をあたかも歴史の真実と言い張り、教科書検定の見直し諮るのが当然とのキャンペーンを繰り返している。

朝日のねつ造報道と国会議員の無責任をこのまま放置すれば、「日本軍の住民虐殺」というとんでもない歴史偽造が青少年の精神に注入される。『語る』運動では危急の事態を打開出来ない。議員会館前で良識派国民の声を上げよう。

日時:平成19年10月19日(金)午前11時半から

場所:衆議院第二議員会館前(地下鉄・国会議事堂前)

※雨天決行

連絡:(西村090-2756-8794)

【呼び掛け】
主権回復を目指す会
電話03-5281-5502
Fax03-5281-5603

 

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