狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

緊急!小林よしのり氏招き「沖縄論」緊急シンポ

2007-10-29 19:01:59 | 教科書

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 沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定で検定意見撤回の動きが問題になる中、教科書改善の会は、小林よしのり氏ら有識者を招き、緊急シンポジウム「沖縄戦を子供たちにどう伝えるか」を開催します。
 
▼日時
11月15日(木)午後6時半開会
▼場所
ベルサール神田3階会議室(東京都千代田区神田美土代町7、地下鉄淡路町、新御茶ノ水、小川町各駅のB6出口より2分)
▼パネリスト
小林よしのり(漫画家、ゴー宣スペシャル『沖縄論』著者)
伊藤  隆 (東大名誉教授、育鵬社歴史教科書編集会議座長)
中村  粲 (獨協大名誉教授、昭和史研究所代表)
勝岡 寛次 (明星大戦後教育史研究センター)
 ※その他交渉中
▼コーディネーター
八木 秀次 (日本教育再生機構理事長、高崎経済大教授)
▼参加費
1000円
▼申し込み(先着400人限定です)
住所・氏名・電話番号・FAX番号を明記の上、下記へ。
【電子メールの場合】office@kyoiku-saisei.jp
【はがきの場合】〒110-0005 東京都台東区上野1-17-1 大湖堂ビル4階 教科書改善の会
【FAXの場合】
03(3835)2436
▼お問い合わせ
☎03(3831)7620

                    ◇
 
教科書を守るため、日本の誇りを守るため、
 
遅まきながら、保守派の学者・ジャーナリストが立ち上がりました。
 
東京近郊の方、奮ってご参加下さい。
 
セミナーでコーディネーターをなさる八木教授の「正論」を以下にリンクします。
 
 
 
                                               ◇
 
以下は小林よしのり氏についてのエントリーの再掲です。

新ゴーマニズム宣言スペシャル・沖縄論

2005年8月14日、「小林よしのりを沖縄に呼ぶ会」(会長高里洋介)主催で著者の講演会が行われた。『SAPIO』2005年9月28日号によれば集まった観客は約1300人、沖縄タイムズによれば1200人が集まったとされる。那覇市で同時刻に行なわれた「日本の潮流と沖縄の戦後六十年」の参加者は100人と、明暗が分かれた(この規模の差が沖縄県民の意識の差と言えるかもしれない)。(ウィキペディア)

 

沖縄の新聞が煽る「民意」と、二つの性格の異なる講演会の動員数の差は一体何を物語るのか。

実は筆者も宜野湾コンベンションセンターで行われたこの講演会に参加していた。

小林よしのり氏に敵意むき出しの沖縄タイムスのカウントでは聴衆は1200名とあったが、

実際は会場には開場前から行列をなしており、筆者の目測では満席で2000人近い入場者と見た。

「日本の潮流と沖縄の戦後六十年」は沖縄のサヨク作家目取真俊 氏が小林氏に対抗して同日、同時刻にマスコミの後援を得ての講演会だったが、実際は100名も集まっていなかったと聞く。

目取真氏の敵意剥き出しの対抗意識にも関わらず講演会には閑古鳥が鳴き、一方小林氏の講演会には行列ができた事は事実である。

当日小林よしのり講演会では「糸数慶子VS小林よしのり討論」が予定されていたが、当日になって糸数氏からドタキャンになった話は≪幻の討論会 「小林よしのりvs糸数慶子(沖縄県知事候補)」≫で書いた。

同氏の『沖縄論』では沖縄戦については詳しく触れておらず、次回に書くようなことを言っていたが、あれから2年。

「集団自決」で沖縄マスコミがこれほど盛り上がっているのに沖縄戦を詳述した『沖縄論』はいまだに出版されていない。

講演では、現在の沖縄の同調圧力の強さをしきりに強調し、次回執筆の折には沖縄戦では日本兵が必ずしも住民を守らなかったということを認識した上で、「集団自決」を含む沖縄戦を書く予定だと言っていた。

だが、敵は米軍ではなく日本軍だったというほど日本軍の残虐さを信じる沖縄県民は、小林氏の取材に対しても「戦争を煽りに来た」といった敵意に満ちた接し方を受けたという。

たとえば、船内で眠っている小林がたたき起こされ、厳しく詰問されたり、取材協力者に圧力がかかり、名前を絶対に出さないで下さいと言われ、沖縄論に登場した人物にも圧力がかかるなど、の話が紹介された。

本人のみならず講演会を世話した高里洋介氏にも圧力がかかり、周囲からは名前を出すことに心配する声もあったという。

結局小林氏は沖縄に渦巻く、「日本軍は残虐だった」という「とてつもない」情熱の同調圧力に負けてしまったのだろう。

そのためなのか、「沖縄論」では妙に県民感情に擦り寄って、沖縄サヨクの英雄である共産党員 瀬長亀次郎 氏に多くのページを割いて沖縄の英雄として賛美している。

米占領下の沖縄では共産党は非合法であり、瀬長氏は人民党を名乗っていたが、復帰直後の国政選挙では正体を現して本来の共産党で立候補し当選を果たしている。

 

このように沖縄戦の実態、そして「集団自決の真相」といったおいしいテーマを書き残していながら、尚且つ続編が書きにくい理由を小林よしのり氏本人が動画で語っている。

流石の小林氏も沖縄に渦巻く「とてつもない」(本人の弁)同調圧力の情熱には打ち勝てないと悟ったのだとしたら、沖縄の言論空間はやはり異常だと言わざるを得ない。

【動画】小林よしのりが「沖縄論」で「集団自決」を書けない理由。http://www.youtube.com/watch?v=Sit4cNFxvNA

 

【おまけ動画】左翼の嘘に便乗する在日コリアンと沖縄サヨクhttp://www.youtube.com/v/9NA22FXZDcY

 
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新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論
小林 よしのり
小学館

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「防衛省の闇」を暴けるか  守屋前次官の証人喚問

2007-10-29 08:15:57 | 未分類

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守屋氏、妻同伴でゴルフ 4月にも 発言を訂正
2007年10月26日13時48分 朝日新聞

 軍需専門商社「山田洋行」の元専務から度重なるゴルフ接待を受けていた守屋武昌・前防衛事務次官(63)が、今年4月末にも妻同伴でゴルフをしていたことがわかった。守屋氏はこれまでの防衛省の調査に、元専務とのゴルフは「昨年秋まで」と説明していたが、25日になって発言を訂正した。石破防衛相は25日付で防衛監察本部に対し、防衛省幹部約420人を対象に、自衛隊員倫理規程違反がないか、特別監察を命じた。

 石破防衛相が26日の閣議後の記者会見などで明らかにした。守屋氏は25日に「4月30日に配偶者同伴で日帰りで元専務とゴルフをした。家族の指摘で気づいた」と連絡してきたという。また衆院テロ対策特別委員会で、守屋氏が元専務に払ったプレー代は、妻同伴でも守屋氏1人の時と同じ1万円だったことも明らかになった。

 特別監察の対象は、課長級以上の事務官と将補以上の自衛官。倫理規程ができた00年以降に利害関係者とゴルフや飲食がなかったかどうかについて聞き取り調査する。石破氏は「早急に調査し、可能な範囲で結果を公表したい」と話した。

                                                   ◇

「防衛省の天皇」といわれた男が今日国会の証人喚問を受ける。

守屋前次官は今夏、小池百合子防衛相(当時)との間で次官を「辞めろ、辞めない」で騒ぎになったことはまだ記憶に新しい。

小泉改革で建設関係の公共事業予算が激減した現在、

防衛装備の購入に巨額の防衛予算が動く防衛省は、

関連業者にとってはよだれの出るような宝の山だと言われている。

防衛商社「山田洋行」の元専務と、自衛隊の規程が禁じるゴルフを計100回以上も繰り返していたというから非常識極まりない。

自衛隊の規程が自費であっても利害関係者とのゴルフを禁止しているのは、巨額に上る防衛装備契約の不正を防ぐためだ。

これを監督すべき事務方トップが自らその規則を破っていたのであり、防衛省全体の規律がどうなっているのかにも疑問が生じる。

山田洋行をめぐる疑惑が後を絶たず、検察が調べを進めている。

 

守屋前事務官は前例の無い長期在任にも拘らず後任ポストを自分の後輩のイエスマンに譲ろうとした。

「実力者」の異例の長期在任と周囲のイエスマンの存在で澱んだ空気に女の直感なのか小池新大臣は「実力者」の切り崩しを計った。

「実力者」は人事権者を飛び越えて官邸に直訴し、これが「防衛省の確執」としてマスコミに面白おかしく報じられた。

だが、当時のマスコミ論調は「女大臣のパフォーマンス」と冷笑した。

だが、小池氏が「防衛省の闇」を本能的に嗅ぎ付けていた推測させるのは、守屋氏の後任ポストに防衛省内からではなく警察庁から警察官僚を指名したことだ。

 

守屋前次官は退任後も「常任顧問」として個室を持ち省内に隠然たる影響力を持っていた矢先の今回の一連の疑惑だ。守屋防衛次官、退任後は事実上の常勤顧問に (8月30日 22:13)
守屋氏は退任後、防衛省顧問に就任する見通しだ。顧問は非常勤だが、幹部によると、守屋氏は個室を与えられ、毎日出勤する事実上の常勤になるという。(読売新聞)

防衛省に院政! 守屋次官、防衛省の天皇から上皇へ格上げ

「実力者」の影響力はF-X(次期主力戦闘機)から、

沖縄の「普天間基地移設」にも絡んで来る。

 

「普天間基地」が住宅密集地域に隣接しているから危険であり一刻も早い移設が望ましい、・・・ここまでは県民の総意といって良い。

だが、何処へ移設するかとなると夫々の民意が交差して一筋縄ではいかない。

辺野古への移設は「Ⅴ字滑走路」で合意を見たかに思えたが、名護市が翻意して県、市、地域が夫々の「民意」をかざし建設利権の思惑が入り乱れている。

一方、建前上はジュゴンとウミガメの命地をを守れと叫ぶ人々が問題をこじらしてくる。

知事、環境厳しく指摘へ 普天間代替アセス  (10/24 9:37)
移設案の沖合移動など従来要求に加え、ウミガメの産卵場や潮流への影響など環境面からも厳しく意見を述べる意向を示した。

「ジュゴンか国防か」 守屋次官の置き土産

「沖合い案はジュゴンに影響する」

「沿岸案はウミガメの産卵に影響する」

では、一体どうしたら良いのか、守屋さん。

守屋氏の胸先の計算はこうなる。

「沿岸案は土建業界の利権」、

「沖合い案は造船業界の利権」。

いずれにせよ防衛予算は宝の山、・・・

「実力者」はどちらの業界につながっているのか。

これで「普天間基地」の移設先は決まる。

石破防衛相は、今回の疑惑噴出を機に、普天間基地移設決定の過程を公表すると井ってはいるが。普天間移設決定過程の公表を検討 石破防衛相(10月28日)

防衛省については、一連の情報漏れ事件も含めて澱んだ空気に潜む膿を徹底的に出して欲しい。

結局、国を守るためには「スパイ防止報」の立法が必要だという結論になる。

 

【おまけ】

「普天間移設」の分かり難さ、について琉球新報が1/20の社説で面白い表現で説明していたので、下記に紹介します。

 

「普天間移設協議 危険性の除去を最優先に」

≪ らせん階段がある。ぐるりぐるりと回りながら一緒に上っているのは久間章生防衛相、仲井真弘多知事、島袋吉和名護市長だ。一方、上っていく3人を見上げているのは、普天間飛行場代替施設移設計画がある地元住民、そして県民である。下から見れば、3人の動きは右へ上ったり、左へ上ったり、どこへ行くのか、じっくり見ていないと分からない。ただはっきりしているのは、上へ上へ、最上階へと進んでいるということだ。

今、最も緊急な課題は、普天間飛行場の危険性を除去することだ。閉鎖を最優先してほしい。移設先は、県外の選択肢を再度、真剣に検討することを求めたい≫(琉球新報 2007年1月20日社説)

 

◆関連エントリー:

防衛庁騒動その2  沖縄の視点 「人命かジュゴンか」

小池百合子は全てを知っていた

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「マッカーサーの三年殺し」【再掲】

2007-10-29 06:36:38 | 県知事選

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沖縄空手の必殺技 「マッカーサーの三年殺し」の再掲です。

                    *

友人の一人А君は沖縄空手の達人で彼の師である故Y先生は沖縄でも伝説の武人であった。

毎月一度の酒席の話題で恩師の武勇伝に話が及んだ。

Y先生は晩年は殆ど弟子を教える事はなく、代わりにA君が代稽古をつけていた。

それでも年に一回、新年の稽古始めにはY先生自ら必殺の突き技を披露していたという。

世界中に散らばる高弟達がこの突き技を見る為年末から新年にかけて道場は外人の弟子で溢れたという。

但し伝説の「突き」は年にたった一回しか披露しない。

裂帛の気合と共に繰り出した拳の突きを、その瞬間クシャミでもして目をつぶってしまったら万事休す。

「もう一度お願いします」と言っても、

「又来年来なさい」と言ってアメリカからわざわざそのために来た高弟も来年又出直さざるを得なかったと言う。

伝説の突きをA君はボクシングのパンチに例えて次のように説明する。

同じパンチでもボクシングのパンチは誰の目にも明らかに相手は当たればその瞬間ダメージを受ける。

当然パンチを受けたらその表面は腫れあがる。

だが、Y先生のパンチ(突き)は受けた表面にはダメージを受けないが後になって内部の組織を徐々に破壊すると言う。

表面は傷つけず内部細胞を破壊する恐怖の必殺技を持っていたと言う。

つまりパンチを受けたときは何も感じないが三年もした頃内部に異常を来たし場合によっては死に至ることもあるという。

これを必殺「三年殺し」の技と言うらしい。

この技を使われたら現行犯を見つかっても殺人の完全犯罪が成立する。

もっともH君、酔ってロレツが回らない状態での話しなので何処までが本当なのかその信憑性は保証の限りではない。

           ◇


戦前の日本の軍部は意にそぐわぬ言論にはあからさまに弾圧した。

当然弾圧を受けた相手は弾圧のダメージを受けるし、弾圧された意識もある。

A君の解説に従うとこれはボクシングのパンチに相当する。

誰の目にも明らかに相手はその瞬間ダメージを受ける。

戦前の新聞等が軍部の意に添う記事を書きまくったのもある意味で理解出来る。

しかし戦後のマッカーサーの言論弾圧は誠に巧妙だった。

「自由と民主主義」のソフトな言葉に包んだ「マッカサーの言論弾圧」はまさに空手の達人「Y先生」の「三年殺し」の必殺技だった。

誰にも気付かれずに徐々にその効果を表す・・・。


現在では公表さた資料から「マッカーサーの言論弾圧」は周知の事実だと思っていたら、日本のマスコミはマッカーサーの呪縛から未だ解き放たれていない。

日本の新聞、特に朝日新聞は「マッカーサーの焚書」から抜けきっていない。

恐るべし「マッカーサーの3年殺し(いや60年殺し)」

その証拠として過去の朝日新聞、天声人語を転載。

【天声人語】2005年09月29日(木曜日)付

 一瞬を切りとった写真が、時代を語ることがある。60年前のきょう、9月29日の新聞各紙を飾った1枚がそうだ。

 両手を腰に当てた軍服姿の180センチと、モーニングを着て直立する約165センチ。朝日新聞の見出しは「天皇陛下、マツクアーサー元帥御訪問」だ。勝者の余裕と敗者の緊張が並ぶ構図は、人々に日本の敗戦を実感させた。

 撮られたのは掲載の2日前。昭和天皇が米大使館に元帥を訪ねた初会談の時だ。外務省の公式記録には「写真三葉ヲ謹写ス」とある。「元帥ハ極メテ自由ナル態度」で、天皇に「パチパチ撮リマスガ、一枚カ二枚シカ出テ来マセン」と説明した。

 未発表の2枚はいま、米国バージニア州のマッカーサー記念館にある。1枚は元帥が目を閉じている。別の1枚は天皇が口元をほころばせ、足も開いている。どちらも、発表されたものに比べて、天皇が自然体に構えている。そのぶん「敗者らしさ」が薄まって見える。

 あの写真は勝者を際立たせただけでなく、時代の歯車も回した。載せた新聞を、内閣情報局が発売禁止にすると、これに怒った連合国軍総司令部(GHQ)が「日本政府の新聞検閲の権限はすでにない」と処分の解除を命じた。同時に、戦時中の新聞や言論に対する制限の撤廃も即決したのだ。

 翌30日の新聞で、それを知った作家の高見順は『敗戦日記』(中公文庫)に書いた。「これでもう何でも自由に書ける……生れて初めての自由!」。こんな、はじける喜びの浮き浮きした感じにこそ、あの写真が語り継ぐ時代の重さの実感がこもっている。
【添付終了】

9月29日の「天声人語」でマッカーサーが戦前の言論弾圧を解放して、日本にも。「これでもう何でも自由に書ける……生れて初めての自由!」と有名作家の言葉を借りて「言論の自由の到来」を高らかに謳い上げた。

ところが、その舌の根の乾かないうちにとはこのことか。

半月後の「天声人語」は「新聞に対する検閲は、明治の初めから占領期まで約80年間続いた。」とある。

「天声人声」は戦後60年にしてやっと「マッカーサーの三年殺し」から解放されたのか。

同じ新聞の同じコラムの論調が半月ほどでこうも変わるとは。

 【天声人語】2005年10月16日(日曜日)付

第二次大戦後の占領期に実施された検閲には不可解な例がいくつもあった。「東北で疫病の恐れ」といった記事が削られる。馬追い祭りの写真も掲載できない。武者姿が復古的と見なされたようだが、恣意(しい)的である。新聞人は敗戦の悲哀をかみしめた。

 新聞の事前検閲が本格化したのは60年前の10月だった。各紙が連合国軍総司令部(GHQ)に日々大量の原稿を持参し、掲載可か否か保留か判定を待った。新聞統制に腕をふるったのは元記者でGHQ情報課長のドン・ブラウン氏である。検閲行政を進めたほか、印刷用紙の割り当ても差配した。

 ブラウン氏の足跡を紹介する企画展が30日まで横浜開港資料館で開かれている。彼が戦時中に手がけた対日宣伝ビラは巧妙だ。すし盛りのカラー写真や天皇の詠歌を載せ、日本兵を投降に誘う。占領終結後も日本にとどまり、80年に病没した。

 ブラウン氏が米国で生まれた1905年、日本は対露戦争のさなかで軍部が検閲に力を入れていた。元TBS記者竹山恭二氏の『報道電報検閲秘史』(朝日選書)を読むと、特報の数々が軍や警察でなく、地方の郵便局で気まぐれに没とされ、削られていたことがわかる。

 当時の報道合戦は電報頼みだった。「○○少佐昨夜旅順ヘ出発ス」。陸軍の拠点だった香川・丸亀の郵便局から記者たちが本社へ送った大量の電報の行方を竹山氏は克明に調べた。歴史に埋もれた電報検閲に光をあて、今年の日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた。
 
 新聞に対する検閲は、明治の初めから占領期まで約80年間続いた。


 【付記】

戦後60数年経過しても、沖縄では言論の自由は無い

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