狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

海自撤退、超法規措置を命令せよ!

2007-10-31 20:07:40 | 県知事選

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2007/10/29-22:50 海自補給艦、最後の給油=テロ特措法期限切れ目前-来月2日撤収、3週間後日本に
 11月1日のテロ対策特別措置法の期限切れを目前に、インド洋に派遣されている海上自衛隊の補給艦「ときわ」(基準排水量8150トン)が29日、事実上最後となる給油をパキスタン艦に対して行った。与党が国会提出した新テロ特措法の期限までの成立は困難で、海自は2日午前零時以降、直ちにインド洋から撤収する。
 2001年の米同時多発テロを受けて成立したテロ特措法により、海自は同年12月以降、延べ57隻の補給艦と護衛艦を派遣。燃料を794回給油、相手国は米英仏、パキスタンなど計11カ国に上った。


                                            ◇


 きょう、福田首相の「リーダーシップ」が本当にあるか、どうか試される
    超法規措置を首相命令でだせるか、どうか。

 イラン特措法は明日期限切れである。
 「法律」に従えば、明日からインド洋上での海上自衛隊の燃料補給作戦は打ち止め、自衛隊は引き上げ準備に入る。

 法律を越えた超法規的措置により「延長」を首相は行政命令として、首相の権能で命令できる。
 父親はダッカのハイジャック事件を「超法規」で命令したではないか、という論理を衆議院議員の西村真悟氏が展開されている。

 のびた首相、と言われている福田首相。本物のリーダーシップを備えているのか、どうか。深夜24時までに分かる。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 10月31日(水曜日) 貳
通巻 第1983号
△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△

以下は 10/30 眞悟の時事通信より引用。

 

晩秋にむかうときの決断
 
 国内政治の錯綜した動きで感じることは、本質的な課題ではなく、脇道の「道草の種」に熱中しているような気がする。そうしておれば、本質的な課題から目を逸らせることができるかのようである。
 例えば、「インド洋で給油した燃料が20万ガロンか80万ガロンか、どこで購入したのか」、「守屋前防衛省事務次官のゴルフは何回か」とか。
 これらは、関心を持って審議してよいのだが、これらを審議しなければ先に進めないという問題ではない。大きな道の横にある問題である。
 しかし、現実には横にある問題で29日の時点でも一日使い、本日の毎日新聞朝刊の一面には「最後の洋上給油」という見出しが踊り、29日にパキスタン艦船に洋上補給を行う「ときわ」の写真が掲載されている。

 現行法によるインド洋での給油活動は、11月1日に期限が切れる。また、新テロ特措法の成立の目処はついていない。従って、今朝、「最後の洋上補給」という見出しが出ることになる。そして、一旦給油が中断されれば、何時再開されるのか目処が立たない。
 そこで、インド洋での給油活動が、我が国の国益上、真に必要であるとするならば、この国会の状況に為す術なくお手上げで、このまま国益を放棄してしまう以外に道はないのであろうか。

 私は、次の方策があると思う。そして、これこそシビリアンコントロールの本質から導かれる方策である。
 即ち、憲法65条「行政権は内閣に属する」と自衛隊法7条「内閣総理大臣は内閣を代表して自衛隊の最高指揮監督権を有する」の原則により、内閣総理大臣は内閣を代表して自衛隊部隊に、インド洋での給油活動継続を命令することができるのだ。
 
 確かに11月1日を限りに、インド洋での給油活動の「法律的」根拠がなくなるが、なくなるのは「法律」だけで、以上二つの国家運用上の原則は存在しているのである。法律が無い場合に、内閣は、この原則により決断をすればよいのだ。
 昭和52年9月、ダッカハイジャック事件において、時の福田内閣は「超法規的措置」によって、受刑者9名を釈放してハイジャック犯人に引き渡した。
 福田内閣は「受刑者引き渡し特別措置法」があったから釈放したわけではない。法律に基づかず、内閣として決断したわけだ。そして、この福田内閣の言う「超法規的措置」こそ、憲法65条に基づく措置であった。この時の福田総理大臣の秘書官が今の福田総理大臣である。
 よって、福田総理は、親父さんのように「超法規的措置」とは言わずに、11月1日以降、「憲法65条に基づく措置」としてインド洋での給油継続を命令することが出来る。

 なお、シビリアンコントロールとは、このように総理大臣の決断が命令となり自衛隊を動かすシステムが機能することをいう(アメリカにおいては大統領)。
 しかるに、マスコミにも国会議員のなかにも、例えば守屋前事務次官がシビリアンコントロールの一翼を担っていたかの如き前提で、守屋氏の不祥事を非難している論調があるが、守屋氏は「文官」であってシビリアン(文民)ではない。その意味で、近頃テレビで守屋氏が自衛隊の栄誉礼を受けている映像が流れるが、これは間違いである。守屋氏は文官であり自衛隊に対する指揮命令系統(ライン)にはいないのであるから栄誉礼をうけるべき立場ではないのである。
 思うに、文官が栄誉礼を受けて部隊の上に君臨するのが当然とする今の防衛省内局の精神構造が慢心を増幅させ、この度の堕落を引き起こす温床となっているのではないか。
 

 さて、先日、拉致被害者家族会が福田総理大臣と面談した。
そこで、福田内閣も安倍内閣同様、全拉致被害者の現状回復がなければ日朝の国交は成立しない、という原則を堅持していることは判明したと思われる。
 しかしながら、政府は拉致被害者か否かをどういう基準で判断しているのであろうか。また、如何にして全拉致被害者を把握できるのか。これが問題である。
 そこで、政府の従来の考え方の再考を迫るために、寺越一家の悲劇に関する質問主意書を内閣に提出した。

 寺越昭二と寺越外雄の兄弟そして二人の甥である寺越武志(敬称略)の三人は、昭和38年5月11日、小さな木造の船で日本海に漁に出たまま帰らず、破損した船だけが発見されたので、家族らは遭難したと諦めて葬式もだした。
 ところが、24年後の昭和62年1月22日、突然外雄から姉に北朝鮮で暮らしているという手紙が届き、遭難当時13歳の武志も北朝鮮にいることが判明した。
 この事例を、日本政府は拉致とは認定しない。その理由は、北朝鮮在住の武志が拉致されたと言っていないからである。従って、日本政府の拉致認定基準は、被害者が拉致されたと言うか言わないかによることになる。
 しかし、記憶を辿って欲しい。
現在日本に帰国できた蓮池さんや地村さんまた曽我さんら5名においても、平壌では拉致されたとは言わなかった。お父さんお母さんこそ平壌にきてくださいと言って日本に帰りたいとも言わなかったのだ。従って、政府が寺越一家に適用した基準によると、彼ら5名も拉致被害者と認定できないことになる。
 それでは、仮に、北朝鮮がある時、全被害者を平壌に集めて記者会見して「私は拉致されてここにいるのではなく、首領様が好きだから北朝鮮にいる」などと発言させれば、その時、拉致被害者は存在せず北朝鮮の言うとおり「拉致問題は解決済み」ということになる。
 従って、言論の自由のない恐怖政治下の北朝鮮にいる者に関して、本人が拉致と言わないから拉致被害者ではないなどという日本政府の認定基準は、全拉致被害者の切り捨てにつながる危険な基準なのだ。
 よって、この度の寺越一家に関する質問主意書は、端的に、寺越さんらは拉致されたと認定するのか否か、あらためて文書で糺している。これも政府に一つの決断を促すものである。
 一週間後に回答があると思うが、「官僚的答弁」でないことを願う。 
   
  
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文科次官が不快感 教科書訂正申請内容公表

2007-10-31 12:58:50 | 未分類

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文科次官が不快感 教科書訂正申請内容公表  

 【東京】高校歴史教科書の「集団自決」検定問題をめぐり、執筆者が訂正申請前に記述内容の検討状況を報道機関に公表したことについて、銭谷眞美事務次官は29日午前の定例会見で「法令上は禁止されていないが、あまりないことだ。静謐(せいひつ)な環境を確保していくことを考えいただきたい。望ましいかなというと、必ずしもそうではない」と述べ、不快感を示した。
 訂正申請する記述内容の取り扱いについて「教科書出版社に対して今までも情報管理を徹底するようお願いしてきた。訂正申請の時点であらためてお願いしたい。調査審議が終了するまでは当該申請者以外に内容が知られないよう、適切に管理しなければならない」と述べた。
 教科書出版社から訂正申請が出された際の文科省の対応として「丁寧に対応したい。再度、専門的見地から教科用図書検定調査審議会の意見を聞く」と述べた。

(琉球新報 10/30 9:50)

                      ◇

マルクス史観で歴史を見るものにとって、それ以外の歴史観は全てが右傾化していると見えるもの。

教科書業界は左翼の巣窟だといわれるが、中でもマルクス史観の「歴史教育者協議会」に属する教科書執筆者にとって、「教科書検定調査審議会」の学者が全て右翼反動学者に見えても不思議はない。

その意味で、マルクス史観の教科書執筆者・坂本昇氏の「教科書訂正申請」はイデオロギーで日本の教科書に宣戦したことになる。
 

 文科省への訂正申請について、教科書を手に記者会見する執筆者の坂本昇さん=27日午後、東京都豊島区

教科書にイデオロギーを持ち込んではいけないと建前論を述べる者こそ、実は自分のイデオロギーを教科書に持ち込もうとする左翼の先鋒である。

都立駒場高校教師の坂本昇氏は勿論、左翼団体「歴史教育者協議会」メンバーである。http://www.jca.apc.org/rekkyo/data/data01/book/shoseki/21-26y/rekishi261030.html

政治家である関係大臣が「県民の意思を重く受け止める」とか、首相「県民の気持ち分かる」とか「県民感情に配慮して」という発言は、政治家の発言の「枕言葉」でありそれ自体にはあまり深い意味はない。

国民を一票を持つ選挙民と見る大臣にとって「県民の意思をを軽く受け流す」とも「県民感情を無視して」とはいえないだけの話だ。

ただ、マスコミはその「枕言葉」を過大に取り上げ読者をミスリードする。

その点官僚は「枕言葉」は最小限にして淡々と事実を語る。

教科書出版社から訂正申請が出された際の文科省の対応として、

専門的見地から教科用図書検定調査審議会の意見を聞く」

味も素っ気も無いがごく当たり前の発言で、当日記が以前から主張してきた通りの文科省の発言だ。

この通り「訂正申請」は粛々と「審議会」にかけられ、粛々と却下されるであろう。

何故なら日本は法治国家であり、法に基づいて検定意見書が付いた記述修正は「事実誤認」や決定的「新学説」でも出現しない限り検定意見書に従うのが法治国家の証であるからだ。

翻って坂本氏の「訂正申請」には従前と何ら変わる新学説も新証拠もないので、却下されるのが当然である。

目立たない記事だが、琉球新報は一ヶ月前に次のような文科省見解を報じている。

写真

「今回の場合なじまない」 文科省教科書課 

・・・文科省教科書課は28日・・・「訂正勧告の制度は市町村合併など客観的に見て明らかな事情の変化などがあったにもかかわらず、教科書発行者が記述訂正に応じない場合に行われるものだ。 今回の場合、制度上なじまない」と説明している。 同制度は1989年に創設。 「事情の変更」が発生した場合、通常は教科書出版社が自主的に訂正申請を行う。 同制度に基づく大臣勧告は一度も行われていない。(琉球新報 2007年9月29日ーウェブサイトには載っていない)

                                              

政治家の「枕言葉」を誇大に取り上げた新聞報道の例。

「文科省でしっかり検討」 参院代表質問に福田首相  (10/4 17:04)

声反映に「知恵絞る」 作業進めると文科相 カメラ  (10/3 16:02)

訂正応じる、答弁書明記 教科書検定で政府閣議決定  (10/2 16:03)

審議会で再検討も 渡海文科相、訂正申請「丁重に対応」 カメラ  (10/2 16:00)

 

政治家の「枕言葉」をそのまま信じると次のような社説になるという例。 

 

信濃毎日新聞・社説:

歴史教科書 こんな検定は要らない

10月30日(火)

 教科書検定は今のままでいいのか。沖縄戦の集団自決をめぐる記述の問題は、そんな疑問を抱かせる。

 時の政権の意向を反映したような検定意見を出したかと思えば、次には手のひらを返すように記述を変えようとする。こんなやり方は、教科書作りになじまない。検定制度自体を見直すことも考えたい。

 沖縄戦の集団自決で、日本軍の強制があったか、なかったか。高校の日本史教科書での記述をめぐり、文部科学省は迷走している。

 今回の教科書検定は、軍の関与を削除するよう求めた。それまでは強制があったとの記述は認められていたのに、突然の方針転換である。教科書会社は記述を修正し、検定に合格している。

 流れが変わったのは、9月に開いた沖縄県の抗議集会がきっかけだった。検定意見の撤回を求める声に、政府与党が反応した。文科相は「撤回」ではなく、記述の「訂正申請」には応じる考えを示している。

 教科書会社は、軍強制を明記する方向で、近く文科省に訂正を求める見通しだ。27日には、執筆者の1人が申請内容を明らかにする異例の記者会見を開いている。

 混乱を招いた責任は文科省と教科書検定審議会にある。なぜ今回の検定意見となったのか、説明すべきだ。軍の命令はなかったと元指揮官らが裁判で争っていることを理由に挙げているが、納得できない。復古調の色が強い安倍前政権の政治路線と、無縁だったとは思えない。

 結果的に記述削除が間違っていたとするならば、検定意見は撤回すべきだ。教科書会社が訂正を求めたので検討する、では責任をなすりつけたようなものだ。

 検定審議会の中立性もあやうい。検定意見のもととなる調査意見書は文科省の職員が作ったものだ。専門的な見地から十分に検討しての削除要請だったのか、疑問を抱かざるを得ない。

 教科書検定は、戦前の教育の反省から生まれたものである。政府の見解に沿って口を出すような検定ならば、廃止も含めて根本から見直した方がいい。

 歴史の教科書は、とりわけ慎重に扱うべきだ。歴史認識は本来、多様なものである。画一的な見方や考え方を押しつけるようでは困る。選ぶのは学校や生徒の側である。

 教科書検定は、執筆者や出版社の自主規制も生みかねない。従軍慰安婦の問題でも日本軍の関与に触れる記述は姿を消した。

 著者の創意工夫に期待するというなら、明らかな間違いを正すなど最小限にとどめるべきだ。

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証言者宮城晴美氏の苦悩

2007-10-31 06:03:28 | ★集団自決

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宮城晴美(2000)『母の遺言』高文研より

1945年3月25日、三日前から続いた空襲に代わって、座間味島は艦砲射撃された。方々で火の手があがり、住民は壕の中に穏れ、おびえていた。夜おそく「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いた。伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している、有力著の一人から一緒に来るように言われ、四人についていった。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんぱかりのショックを受けた。

いつ上陸してくるか知れない米軍を前に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返したが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬は運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。 「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたようだ。海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は紀元2600年(1940年=神武天皇即位以来2600年にあたる)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団によって1942年に建立されたものである。

太平洋戦争の開戦日(1941年12月8日)を記念して毎月八日に行れれた「大詔奉戴日(たいしようほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遥拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓話などであった。

この忠魂碑に集まれというのだから、住民としては「自決」ど結びつけざるをえなかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、
翌日、上陸した米軍を見て住民がパニックを起こして家族同士の殺し合いが始まったのである。

住民の集団自決は「生きで捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。

 

母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言
宮城 晴美
高文研

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                     ◇

この文章の何処を読んでも梅沢隊長が住民に「自決せよ」と命令した事は読み取れない。

『母の遺したもの』はここに登場する母初枝氏が書き残していたノートをもとに、戦後生まれの娘晴美氏が独自の取材も含めて著した本である。

この本を著すにあたり晴美氏は、「人生の師」である作家、澤地久枝さんに相談をしており、原稿に三度も目を通してアドバイスを受けていた。

澤地氏は本のタイトルまで付けてくれたという。

晴美氏は澤地氏のアドバイスを次のように記している。

 <澤地さんからは、言葉の使い方をはじめとして「証言」を鵜呑みにせずに事実を確認すること、一つの事象を記述するのに、どんなに些細なことでもそれに関連するあらゆるできごとをびっしりおさえることなど、多くのことを学びました>

『母が遺したもの』は宮城氏が母の証言を決め手として、ようやく書き上げた氏のライフワークともいえるものだった。

同書を書いた心構えを「座間味島の“戦争”を語りつづけ、“真実”を証言した母の勇気をムダにはしたくないという思いから原稿を書きはじめた」という一節が物語っている。

その母の遺言ともいえる『母の遺したもの』を法廷の証言台でいとも簡単に否定できるものだろうか。

証言に対する周囲の圧力に関しては彼女は、

沖縄タイムスの特集[座談会・戦争と記憶―戦後60年](5)集団自決で次のように語っている。

 宮城 隊長の命令がなかったと証言したために、母は島で攻撃を受けた。それから母はすごく落ち込んで、結局はがんで亡くなってしまうが。母は歴史を曲げてきたという思いがあって隊長が生きている間に、きちんとしたいという思いがあった。

 私は、隊長の命令はなかったと書いたが、その本には当時島がどういう状態であったかも具体的に書いてある。それを読めば、読者は、島の人たちが勝手に死んでいったとは思わないはず。「玉砕するから集まれ」と各壕を回る伝令の役場職員がいて、彼が来たことで、島の人は隊長命令だと思った。それまで陣地を構築するとか、食糧増産など島の人を集めるときはその伝令が来たから。激しい砲弾の中で伝令が来たことは、隊長の命令だと島人に理解された。しかし、命令があったかどうかというより、皇民化教育は国のためには「死」を惜しまないことを教えており、「集団自決」は敵を目前にした住民の必然的な行為だった、つまり国家によって殺されたといえる。

 命令しなかったという隊長はそれじゃ許されるのかというと、そうではない。彼の戦後の生き方が問題だ。自分の身の“潔白”を証明しようと、手段を選ばず、えげつない方法をとってきた。

 

自著に綴られた母の真実の声を「誤解された」「悪用された」の一言で簡単に否定した宮城晴美氏の苦悩を,

裁判を傍聴・取材したジャーナリストの鴨野守氏は、裁判の直前になって突然証言を翻した晴美氏の心境の変化について、次のように描写している。

  そんな母の勇気と、自らの長年の努力を、たった一人の証言で捨ててよいのか。今、明らかになっている陳述書などによれば、宮平春子さんは今年四月二十日、二十一日に座間味島で被告の秋山幹男弁護士に、当時の内容を証言し、五月十日付でその陳述書にサインをしている。

 普通なら、被告側の新しい情報や陳述書の中身を即座に細かく報道してきた沖縄タイムスが、この時ばかりは報道を控えている。タイムスが春子証言を大々的に扱ったのは七月に入ってからだ。その間に、宮城晴美氏が六月二十四日に春子さんに取材して、六月二十七日付で陳述書を提出している。

 被告側と宮城晴美氏、さらに地元関係者を巻き込み、春子証言を「決定的証言」に仕立て上げようというストーリーを作ったのは果たして誰なのか。

 宮城晴美氏は、母の遺言とも言えるノート、自身の著書の中心的な記述、そして人生の師さえも今回の証言で捨てたと原告側はみている。では、それと引き換えに宮城氏は何を獲得できたであろうか。

 彼女は今、著書を書き直す途中だというが、その内幕を書いた「本当の証言」を読んでみたい。(世界日報「宮城晴美氏の苦悩(4)-母の勇気も、人生の師も捨てて」)

母初枝氏が真実を語ろうとして周囲から受けたバッシングを、

<母の遺したもの>を伝えようとした娘の晴美氏も同じバッシングを受けそれに押しつぶされたのか。

親子に二代にわたって「不都合な真実」と「本当の真実」の狭間で葛藤する晴美氏の改訂版『母の遺したもの』には一体どのような真実が綴られているのか。

不謹慎ながら興味は尽きない。

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