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「集団自決」は安里喜順巡査にとってまことに不幸なめぐり合わせであった。
当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任したばかりの単身赴任であり、島の様子にも不案内であった。
ところが、渡嘉敷着任の一ヶ月足らずで、本島に新設された塩屋警察署への転勤が決まり、本島へ戻るはずだった。
本島との船便の連絡が途絶えがちだったため、その辞令を受けるのが遅れ、結局島を出ることが出来なかった。
結果的に「集団自決に」に巻き込まれることになる。
昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。(「沖縄県警察史」より)
軍隊の主たる任務が敵との戦闘で有るのに対し、警察の主たる任務は住民の安全と秩序を守ることである。
平時にあっては武力を持つ二つの組織、軍隊と警察は日本の官僚伝統のセクショナリズムでしばしばいがみ合うことがあった。
だが、たった一人で島に赴任してきた安里巡査にとって自分の属する警察機構の上部のセクショナリズムに考えが及ぶことはなかった。
新任の安里巡査は、
島を取り囲む敵の艦船の前では全く無力であり、住民を守るためには赤松隊長の守備軍に相談する以外に打つ手はなかった。
島の住民の中では、村長、助役、校長等の有力者が島民をリードする立場にあったが、安里巡査も勿論このリーダーの1人であった。
ここで分かりにくいのは防衛隊員の存在である。
防衛隊員は現地招集の軍属である一方、村の助役や島民が兼任していた。
小さな島で島民と軍属の二つの顔を持つ防衛隊員という存在。
これが「集団自決」問題を複雑にしている。
防衛隊員は軍属として軍の陣地に出入りを許可されていたが、その一方で自宅には父として夫として頻繁に帰宅していた。
手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任がまさにこの防衛隊員だった。
次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して
赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。
住民の避難誘導の相談
このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した。
赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。(「沖縄県警察史」より)
軍官僚と警察官僚の対立で有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。
だが、戦時中それも敵の上陸を目前にして日本の巨大組織の末端にいる赤松隊長と安里巡査はお互いの主任務を超えて住民の安全を守るため相談しあっていた。
日本の官僚組織の末端で任務に就く若い二人にとって、
「集団自決」はまことに不幸なめぐりあわせであった。
その時赤松大尉は25歳、安里巡査は29歳である。
■安里巡査を取材していた地元作家■
安里巡査の証言が「沖縄県警察史」に採録されたのは昭和63だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。
「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。
「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。 そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。
それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)
安里巡査の昭和63年の証言と20年前に独自の取材をしていた作家星雅彦氏の取材とは一致しているし、元琉球政府職員照屋昇雄さん、渡嘉敷島「集団自決」の生き残り金城武徳さんの証言とも一致する。
勿論、赤松隊長は敵の攻撃から避難する場所の助言はしたが(これを軍の命令する人もいる)、
「軍の命令で集団自決をした」という証言はない。
■安里巡査は現在もご存命である■
「集団自決」を分かりにくくしているも一つの要因に関係者の名前が当時と戦後で異なっている例が多いことである。
例えば手りゅう弾を配ったされる富山兵事主任も戦時中は新城の姓であった。
安里巡査も戦後比嘉家に養子に行き姓が比嘉に変って現在もご存命でお元気の様子である。
既に読者は先刻ご承知のことと思いますが、昨日の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」にアップされている比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」に登場する比嘉元巡査は当記事の安里元巡査のことである。
「集団自決」に軍の命令はなかった」と証言する証人たちに取材する沖縄のマスコミは皆無である。
■安里巡査を取材した世界日報記者■
「世界日報」の鴨野記者が今年の5月、安里元巡査を訪問して取材した記録が同記事である。
記録保存のため同記事を以下にコピペする。
月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報
沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防
比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」
「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」
戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。
だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。
別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。
五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。
古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。
古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影
誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。
「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。
二十分余りのインタビューで比嘉氏は、
「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」
「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。
比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、
比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。
その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。
その中で赤松氏は
「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。
だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。
これに対して徳嵩氏は
「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」
などとコメント。
記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。
比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。
「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。
あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。
……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」
比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて
「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。
「敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。
あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」
そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。
「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」
その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。
「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。
彼は『ある神話の背景』を読み、
「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた」
と率直に吐露。
比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。
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