狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「歪められた歴史」正す闘い

2007-10-23 18:46:04 | ★集団自決

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平成19年10月23日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <1>

「歪められた歴史」正す闘い

激論交わす原告側弁護士

picture 7月27日、沖縄戦集団自決裁判の傍聴券を求めるため大阪地裁前に詰めかけた人たち
 梅雨が明けたばかりの今年七月二十七日。大阪地裁前に並んだ約二百二十人の人々の上に、やかましい蝉(せみ)の鳴き声と、照り付ける真夏の日差しがシャワーのように降り注がれていた。沖縄戦集団自決裁判の証人尋問が行われるため、傍聴券を求める人の数が一気に増えたのである。

 その中に、いつものように原告側の弁護団長、松本藤一氏の姿があった。松本氏はこれまでも傍聴券の抽選の列に加わってきた。取材当初、記者(鴨野)は、なぜ松本氏が並ぶのか理由が分からなかった。やがて、原告支援者の会話を耳にした。その支援者は友人に、「松本弁護士は、一人でも多く支持者に傍聴してもらいたいから、ああやって並んでいるんですよ」と説明していたのである。

 七月二十七日は、松本氏に加えて若手弁護士や原告の梅澤裕氏(90)と夫人、原告の赤松秀一氏(74)とその親族、また証人に立つために埼玉県から来た皆本義博氏(85)、沖縄県から来た知念朝睦氏(84)までが、この列に加わった。皆本氏は緊張をほぐすかのように、「傍聴券に外れたら、そのまま帰ろうかな」と軽く冗談を言ってみせた。

 列には被告、岩波書店の編集副部長でこの裁判を担当する岡本厚氏の姿もあれば、沖縄からも、かなりの支持者が来ていた。

 弁護団長自ら傍聴券獲得の列に並ぶという光景一つ取ってみても、原告側がこの裁判に懸ける意気込みが理解できよう。

 戦後、沖縄の左翼勢力は「日本軍が住民を守らなかったのが沖縄戦の教訓」と宣伝し、反政府、反基地闘争を展開し、そこに県民も巻き込んできた。その典型的事件を「集団自決の隊長命令」の存在とし、大江健三郎氏をはじめ多くの作家、学者、ジャーナリストが当事者に取材することもなく書きなぐってきた経緯がある。

 これに対して、当事者である座間味島の守備隊長だった梅澤裕氏と渡嘉敷島の守備隊長、赤松嘉次(よしつぐ)氏(昭和五十五年死去)の弟、秀一氏が大阪地裁に、岩波書店と大江健三郎氏を相手に、謝罪を求める裁判を起こしたのである。

 裁判は、貶(おとし)められた個人の名誉を回復するとともに、出版物や教科書に広く流布されている「歪(ゆが)められた歴史」を正すための闘いでもある。それ故、「こうした裁判こそ弁護士冥利(みょうり)に尽きる」とばかりに、原告弁護士の意気込みには熱いものがある。支援者の一人は、被告の準備書面に対してどう反論を加えるか、という会議に同席した時の様子を、こう語った。

 「そりゃ激しいですよ。だって、担当の弁護士が反論のために書き上げた準備書面に対して、他の弁護士は被告側弁護士の立場に立って、その論旨の弱点、欠陥、矛盾点がないかを徹底的に探して反撃するのです。もう、それは強烈で、見ているこちらが怖いほど。そうした議論を戦わせて、いかなる角度から攻められても耐えられ、しかも相手の最も弱いところを突く準備書面を書いていくわけです。だから、四百字で数十枚からしばしば百枚以上になる膨大なものですが、時間の許す限り、何度も何度も書き直していくのです」

 こうした弁護士同士の激論は七月二十七日昼の休み時間でも展開したという。では、被告弁護士の方はどうであろうか。原告弁護士の一人は「先方の準備書面を読む限り、そうした議論の深まりを感じない」と語った。

 記者もまた、この日の証人尋問を聞いていて、被告サイドがそれほど入念で厳密な打ち合わせをしていないのではないか、と思う場面を目撃した。

 それは被告側の若手弁護士が、「皆本さんたちのように昭和十九年九月から渡嘉敷島に駐留してきた軍隊の人たちの家族はもちろん島にはいませんでしたよね」という全く的外れの質問をした場面だ。この若い弁護士は、戦争をハイキングとでも勘違いしているのか、それともゲームセンターでしか“戦争”を見ていないのか。

 本州や九州から家族連れで沖縄に来た兵士など一人もいない。だから、温厚な皆本氏も「われわれの軍隊は家族を連れて、それで戦場に行くようなバカなことはなかったです」「旧軍のことをもう少しご研鑽(けんさん)していただきたい」と諭したのであった。

(編集委員・鴨野 守、写真も)

 

【付記】上記記事は「世界日報」の次の引用です。

「歪められた歴史」正す闘い/激論交わす原告側弁護士 07.10.23 無料公開中


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作家・曽野綾子 それでも「命令」の実証なし

2007-10-23 18:01:47 | 教科書

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曽野綾子氏の『集団自決の真相』を指して、小説家が得意の想像力で書いた歴史的に何の価値もない代物と罵る左翼論者がいる。

だが、少なくとも戦記ノンフィクションとされる『鉄の暴風』に比べるなら、

『集団自決の相』が格段に優れたノンフィクションであることは、

普通の読解力のある人が読めば自明のことである。

小説を書くのが本業の曽野綾子氏は本職の新聞記者が驚くような実証的取材の積み重ねで書いたのがノンフィクションが『集団自決の真相』だ。

同書の解説を書いた産経新聞論説委員の石川瑞穂氏は曽野氏の取材手法について次のように述べている。

≪曽野氏がとった手法は、時間と労力を要する取材だ。 今も昔もジャーナリストの常道とされる≫

曽野氏は綿密な取材で、『鉄の暴風』が断定する「集団自決は軍の命令だった」という命題に真っ向から立ちふさがった。

だが実証的取材にも拘らず「軍の命令ではなかった」と断定はしていない。

結論は渡嘉敷島の場合「赤松大尉の命令で集団自決した」という証拠は何一つ発見されなかったということである。

一方、新聞記者が書いた『鉄の暴風』の取材手法はどうだったか。

本人が現地に取材することもなく、当時現地にもいなかった二人の「関係者」の伝聞に基づいて作家も驚く空想力を駆使して書きまくった。

驚くことにその「関係者」の1人は「その時」南方に従軍していたというのである。

このように伝聞と想像力で書いた結果、本職の作家も驚く面白い戦記読み物に仕上げられたのが『鉄の暴風』である。

戦記と称しながら軍の命令を出したとされる赤松隊長の取材さえ行っていないというから驚きである。

赤松大尉は本人の知らぬ間に「残虐非道の赤松」と後に罵声を浴びせられることになる。

曽野氏は自身の取材について次のように語っている。

≪当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。」≫
 
 
私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。≫
 
≪グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。≫
 
≪渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。≫
 
実地調査もせず伝聞で書かれた「鉄の暴風」。
 
それを鵜呑みにした大江健三郎氏は「残忍な日本兵」と言う予断で赤松大尉を断罪し「沖縄ノート」を著した。

≪『沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物』は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。≫

≪当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。≫

 

この半年の間、沖縄で起きた「集団自決」の「教科書記述」に関する異常ともいえる狂騒劇。

その間ひたすら沈黙を守っていた曽野綾子さんがやっと口を開いた。

「集団自決の真相」の著者自ら真相を語った。

                      ◇

【正論】集団自決と検定 作家・曽野綾子 それでも「命令」の実証なし
2007.10.23 03:42
 
 ■戦争責任と曖昧な現実に耐えること

 ≪大江氏の『沖縄ノート』≫

 1945年、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を浴びた沖縄県慶良間列島の幾つかの島で、敵の上陸を予感した島民たちが集団自決するという悲劇が起きた。渡嘉敷島では、300人を超える島民たちが、アメリカの捕虜になるよりは、という思いで、中には息子が親に手をかけるという形で自決した。そうした事件は、当時島にいた海上挺進第3戦隊隊長・赤松嘉次大尉(当時)から、住民に対して自決命令が出された結果だということに、長い間なっていたのである。

 1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。

 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。

 ≪ないことを証明する困難さ≫

 これも慎みのない言い方だが、私はその赤松元隊長なる人と一切の知己関係になかった。ましてや親戚(しんせき)でも肉親でもなく、恋人でもない。その人物が善人であっても悪人であっても、どちらでもよかったのである。

 私はそれから、一人で取材を始めた。連載は文藝春秋から発行されていた『諸君!』が引き受けてくれたが、私はノン・フィクションを手掛ける場合の私なりの原則に従ってやった。それは次のようなものである。

 (1)愚直なまでに現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。その場合、矛盾した供述があっても、話の辻褄(つじつま)を合わせない。

 (2)取材者を怯(おび)えさせないため、また発言と思考の自由を確保するため、できるだけ一人ずつ会う機会をつくること。

 (3)報告書の真実を確保するため、取材の費用はすべて自費。

 今日はその結果だけを述べる。

 私は、当時実際に、赤松元隊長と接触のあった村長、駐在巡査、島民、沖縄県人の副官、赤松隊員たちから、赤松元隊長が出したと世間が言う自決命令なるものを、書き付けの形であれ、口頭であれ、見た、読んだ、聞いた、伝えた、という人に一人も会わなかったのである。

 そもそも人生では、「こうであった」という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったと証明することは非常にむずかしい。しかしこの場合は、隊長から自決命令を聞いたと言った人は一人もいなかった稀(まれ)な例である。

 ≪もし手榴弾を渡されたら≫

 この私の調査は『集団自決の真相』(WAC社刊)として現在も出されているが(初版の題名は『或る神話の背景』)、出版後の或る時、私は連載中も散々苛(いじ)められた沖縄に行った。私は沖縄のどのマスコミにも会うつもりはなかったが、たまたま私を探して来た地元の記者は、「赤松が自決命令を出したという神話は、これで否定されたことになりましたが」と言った。私は「そんなことはないでしょう。今にも新しい資料が出てくるかもしれませんよ。しかし今日まで赤松が自決命令を出したという証拠がなかったということなんです。私たちは現世で、曖昧(あいまい)さに冷静に耐えなきゃならないんです」と答えた。この答えは今も全く変わっていない。

 戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子工員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾(しゅりゅうだん)を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。

 政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。(その あやこ)

                     ◇

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沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO)
曽野 綾子
ワック

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中村粲教授の論文「集団自決」

2007-10-23 06:31:43 | ★集団自決

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「教科書検定意見書」により教科書の記述が変ったことを指して、

「安倍内閣の極端な右傾化政策の」結果だと主張する左翼論者がいる。

「集団自決は軍の命令や強制の結果でない」。

これは安倍内閣になって突然沸いて出た話でもなければ、文部官僚が突然思いついた話でもない。

ましてやその思いつきで意見書を作り、教科書検定に介入したわけでもない。

歴史専門家や教科書執筆者(一部マルクス史観の執筆者を除いて)にとって「軍の命令や強制でない」ことは既に周知のことであった。

ただ、これに異論を唱える教職員組合(教科書使用者)と史実との板ばさみで、教科書執筆者が困っているのが実情だった。

そこで執筆者たちは今回の「検定意見書」を「渡りに舟」として教職員組合に遠慮なく堂々と記述変更出来たわけだった。(秦元千葉大教授の話)

従って安倍内閣の成立には何の関係もなく、

教科書検定意見書は出るべくして出て来た当然の流れであった。

安倍内閣と無関係の証拠として、

安倍内閣が成立する3年半前の、次の新聞報道を見れば自明だ。

ただ一つだけいえる事は、「集団自決」の「軍命の有無」に関する学会の流れを大部分のマスコミが報道しなかっただけのことである。

これを「安倍右傾化内閣」「突然の検定意見書」「教科書記述のわい曲」・・・と、センセイショナルに煽った沖縄タイムス、琉球新報の作戦に乗せられてしまったのが「11万人」集会であった。

むしろ「検定意見書」が出たのが遅きに失していたくらいだ。

 【今も残る沖縄戦の神話】政府は日本軍将兵の名誉を回復せよ
 
産経新聞 平成15年(2003)4月7日記事
 
イラクで米英軍とイラク軍の地上戦が続いているが、五十八年前、沖縄で日米両軍の地上戦が始まったのも、ちょうど今ごろの時期だ。米軍の第一陣は昭和二十年三月下旬、沖縄本島西の渡嘉敷島、座間味島など慶良間諸島に上陸した。あの悲劇的な住民の集団自決が起きた島である。多くの教科書にも書かれているが、必ずしも正確な記述ではない。

「日本軍にスパイ容疑で殺されたり、『集団自決』を強制された人々もあった。」「軍は民間人の降伏も許さず、集団的な自殺を強制した。」(日本書籍の中学歴史教科書)

「県民の犠牲者のなかには、味方の日本軍によって殺されたり、強制されて集団自決したりした人もいました。」(清水書院の同)

  いずれも日本軍が集団自決を強制したとしており、文部科学省の検定をパスしている。だが、事実は違う。集団自決は起きたが、軍はそれを強制していない。

日本軍の命令で住民が集団自決を強いられた、とする説が独り歩きするようになった発端は、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』である。渡嘉敷島に米軍が上陸してから二日後の昭和二十年三月二十八日、同島の恩納河原に避難していた住民に対し、守備隊の海上挺進隊第三戦隊長、赤松嘉次大尉から自決命令が出され、住民三百二十九人が手榴弾で自決した、と書かれている。昭和三十二年、旧厚生省援護局も現地で聞き取り調査を行い、日本軍の命令による集団自決だったと認定した。集団自決した住民は準軍属とみなされ、遺族らには援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)に基づく年金が支給されている。しかし、その後、作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決について独自取材した結果をまとめ、『ある神話の背景』(昭和四十八年、文芸春秋)という本を出した。赤松大尉やその部下だった元兵士、同島で生き残った住民たちからのインタビューなどで構成されている。現在、絶版で手に入りにくいが、『鉄の暴風』の記述に初めて疑問を提起したノンフィクションである。

『鉄の暴風』は座間味島の集団自決についても、米軍上陸の前日(昭和二十年三月二十五日)、軍が忠魂碑前の広場に住民を集めて玉砕を命じ、住民五十二人が手榴弾で自決したと、書いている。当時、同島を守備していた日本軍は海上挺進隊第一戦隊で、隊長は梅沢裕少佐だ。しかし、集団自決のとき、女子青年団員だった宮城初枝さんは後に、「梅沢少佐の命令はなかった」と告白し、そのことを娘の宮城晴美さんが『母が遺したもの』(高文研)という著書に書いている。昭和史研究所代表の中村粲・独協大学教授渡嘉敷・座間味両島の集団自決について、当時の守備隊将校や集団自決の目撃者らに改めてインタビューし、曽野さんや宮城さんの著書を学問的に補強する研究を続けている。中村教授は「集団自決の犠牲者の遺族には手厚い援護措置が必要だが、国が今も軍命令を前提としているとしたら問題だ」と話す。

先月末、その中村教授とともに、厚生労働省援護課を訪ねた。「昭和三十二年の現地聞き取り調査で、軍命令によって集団自決したという裁定を下し、犠牲者全員を準軍属として援護法の対象にした。最近、一部報道などで、軍命令がなかったという話も聞いているが、再調査はしない。」(山内忠淳・審査室長)という回答だった。

軍命令の有無は国の名誉の問題である。援護法適用の当否とは別に、少なくとも歴史教科書の誤りは正す必要がある。

                      ◇

 

上記は今から4年半も前の記事だが、記事内容は少しも色褪せていない。

ただ、当時絶版になっていた曽野綾子氏著『ある神話の背景』が、

『集団自決の真相』と改題されて現在再出販されている事実に時の流れを感じるくらいだ。

「日本政策研究センター」http://www.seisaku-center.net/の『明日への選択』平成19年8月号に掲載された中村教授の論文を下記に引用します。

 →中村論文はこちら

下記掲載は保存用。(太字強調は管理人)

 沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除
検定撤回狙うNHK報道

中村粲(獨協大学名誉教授・昭和史研究所代表)


◆「軍命令」を削除した検定を評価
 来春から使われる高校歴史教科書の沖縄住民集団自決に関する記述から「軍命令」が削除されることになった。文部科学省の検定意見に従って修正された記述を見ると、まだ集団自決が軍の強制によるとの誤解を与えかねない表現を使っている一部の教科書があることは遺憾であるが、軍命令や軍の強制で集団自決が行われたかの如き表現を教科書から削除するというこの度の検定方針は高く評価すべきものと考える。平成八年二月の検定をパスした七社発行の中学歴史教科書の反日偏向が余りにも甚しかったために、歴史教科書に対する世論の批判が大いに高まった結果、慰安婦問題が教科書から消え、南京事件の記述も抑制され、全体として改善されてきた中で、沖縄住民集団自決が軍命令で強制されて起こったとの記述だけは大手を振ってまかり通ってきたからである。

 

◆軍命令否定は禁忌だった
 文科省が前記のような検定方針を決定したのには、平成十七年八月以来係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」を通じて、軍命令のあったことを否認する数多くの事実が明かるみに出されてきたことが関係しているとみるべきであろう。曽野綾子著『ある神話の背景』以来、軍命令の存在を疑い、更には「軍命令」説と遺族年金支給との関連を推測する向きもあるにはあったが、それを公言することは沖縄では一種の禁忌なのであった。

 

◆勇気ある人々――座間味の場合
 慶良間列島の集団自決は昭和二十年三月二十六日座間味島で、二十八日渡嘉敷島で発生した。前者については海上挺進第一戦隊長・梅沢裕少佐が、後者については同第三戦隊長・赤松嘉次大尉が隊長命令で強制したとして責任を負わされ、現地は無論、広く我国の言論界、教育界の指弾を浴びてきた。両元隊長は緘黙して謂われなき非難と屈辱に耐えてきたため、自分の家族からも誤解を受けることにもなり、その苦衷はよく筆舌の盡す処ではなかった。併しながら天は決して義人を見放すことはない。

 昭和五十七年六月、沖縄戦当時、座間味村の女子青年団長であった宮城初江さんから、来島した梅沢元隊長に対して「今まで周囲の圧力で自決は軍命令と主張してきたが、実は自分達五人の村代表が隊長に自決を申し出た時、隊長は自決を許可せず、弾薬類の支給を断った。私がその事実を知る唯一の生証人です」との告白がなされたのであった。

 またこれと前後して、沖縄戦の事実を求めて体験者を訪ね歩いていた沖縄の反戦運動家・富村順一氏が梅沢元隊長を往訪、梅沢氏の話を聞いて一驚し、梅沢氏に無実の罪を負わせてきたのは沖縄の恥辱であるとして翻然梅沢氏弁護の活動に入った。その富村氏の街頭演説を偶々聞いたのが神戸新聞の記者・中井和久氏であった。氏は早速梅沢氏に面接取材し、昭和六十年七月三十日付同紙朝刊に、集団自決に「日本軍命令はなかった」との記事を大きく掲載したのである。いずれも勇気ある人々と云うべきであろう。

 そして遂に決定的な告白と謝罪がなされた。昭和六十二年三月二十八日、梅沢氏が座間味島を訪ねた折、戦後座間味村役場で援護係をしていた宮村幸延氏が梅沢氏に対し、「集団自決は当時兵事主任兼村役場助役であった宮里盛秀の命令によるもので、遺族補償受給のため、弟の自分がやむを得ず隊長命令として申請した」旨の詫証文を書いて署名捺印したのである。この証文こそ、梅沢氏無実を示す駄目押しの証拠である。この謝罪も勇気ある決断だ。

 自分が罪を背負うことで座間味の村と人が豊かになることを願い、敢えて自己弁護せず濡れ衣を着て忍苦の人生を送ってきた梅沢元隊長の潔白は、こうした人々の良心と、道義的勇気のある告白や行動の積み重ねによって漸く世間に広く認知される処となってきたのである。

 

◆隊長命令を否定する人々――渡嘉敷の場合
 他方、渡嘉敷島についてはどうであろうか。『ある神話の背景』にまとめられた曽野綾子女史の取材記録の何処を押しても隊長命令で集団自決が行われたとの結論は出て来ない。

 また赤松隊長の副官と云われていた知念朝睦本部付警戒小隊長(少尉)や、唯一人の渡嘉敷島駐在巡査であった比嘉(旧姓安里)喜順氏の証言は軍命令のなかったことを明確に語っている。更に現在、渡嘉敷村民俗歴史資料館長である金城武徳氏は、当時数え年十五歳であったが、集団自決の現場に居て状況を鮮明に記憶している。集まった住民を前に自決を呼びかけ、「天皇陛下万歳」を唱えたのが古波蔵惟好村長であったこと、手榴弾不発で死に切れなかった人々が赤松隊長の処に赴いて機関銃を所望したのに対し、隊長は「早まったことをしてくれた」と残念がり、機関銃貸与を断ったことなど、金城氏は当時の現場を知る語り部として赤松氏の無実を訴え続けている。右の証言だけからでも、隊長命令のなかったことは明白であろう。タブーを怖れぬこれらの人々の勇気ある証言も道義的見地から高く評価されねばなるまい。

 

◆敢えて沈黙を通した赤松元隊長
 集団自決を軍命令によるものとしたのは『鉄の暴風』(沖縄タイムス社。初版発行は昭和二十五年八月十五日)が最初だが、その執筆者達は戦後沖縄に帰ってきた人達で、集団自決発生について直接の知識も体験もない。彼等は住民から聞き集めた断片的な話を反日反軍思想で軍命令の話に作り上げたに違いない。その確拠のない軍命令説が動かし難い公的見解として流布し定着した事情は何であろうか。それは座間味の場合と同様、遺族補償の関係である。

 『ある神話の背景』に出てくる赤松元隊長の発言を注意深く読むならば、赤松氏自身、遺族補償のために集団自決が軍命令とされたことを昭和四十五年三月の段階で承知していながら、敢えて村民への配慮から沈黙を守ったらしいことが看取される筈だ。筆者自身、平成十年に昭和史研究所の調査で渡嘉敷島を訪れた際にも、軍命令説は援護金受給のために作り出されたものらしいとの風聞のあることを知った。座間味で遺族補償申請のために集団自決が軍命令とされたのと同じ事情が渡嘉敷にもあるに違いないと推断した筆者は、平成十四年から翌十五年にかけて再三、遺族補償申請資料の閲覧希望を渡嘉敷村役場に申し出たが、好意的な対応に接することは出来なかった。また平成十五年三月には厚生労働省援護課を往訪、援護法による遺族年金支給の経緯と「軍命令」の実否に関する援護課の認識について質し、遺族補償も十分に行われてきた今(各遺族年額約二百万円の年金)、軍命令が遺族補償支給のための行政的便法であったことを認めて軍と軍人の名誉回復への道を開いたならば八方円満に解決するのではないか、と見解を質したが、軍命令の実否という「歴史的事実」についての言及は得られず仕舞いであった(詳細は、中村粲著『教科書は間違っている』日本政策研究センター刊。昭和史研究所『昭和史研究所會報特別版』)。

 

◆「私が軍命令を創作した」
 併しながら、座間味の場合と同じく、渡嘉敷にも決定的な証言者が出現した。那覇市の照屋昇男氏が軍命令は「創作」であったとの重大証言をしたのである(平成十八年八月二十七日産経新聞)。

 かつて琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員であった氏は、アンケートや聞き取り調査で援護法適用の資格の有無を調べた処、聞き取り調査をした百人以上の渡嘉敷島民の中に集団自決が軍命令だと証言した者は一人もいなかったと断言する。社会局長と共に厚生省援護課に島民の窮状を訴えて援護金支給を陳情したが無理だった。だがついに厚生省は軍命令があれば援護金を支給することを認めてくれたと云う。

 喜んだ玉井喜八村長(当時)が赤松元隊長を訪ねて事情を話した処「村を救うため十字架を背負う。隊長命令とする命令書を作ってくれたら押印してサインする」と云われた。そこで照屋氏等が「住民に告ぐ」とする自決命令書を作成したと氏は語っている。

 併しさすがに赤松元隊長も余命三ヶ月となった時、玉井村長に隊長命令という部分の訂正を要請してきたと云う。赤松氏に対する誹謗を見聞するたび、照屋氏は「胸に短刀を刺される思い」だった。元隊長の苦悩を察し、良心の呵責に耐えかねて、氏は遂に軍命令否定証言を公けにしたのであり、真に勇気ある行動と称えたい。とまれ、これによって座間味の梅沢元隊長、渡嘉敷の故赤松元隊長による集団自決命令が援護金受給のための「創作」であったことの鉄証が出そろったことになる。教科書から軍命令の記述が削除されたのは当然すぎる話である。教科書は生徒達に真実を教えねばならないからだ。

 

◆「防衛隊」を「日本軍」と歪曲するNHKの詐術
 処が軍命令を削除したこの検定を面白く思わないのがNHK。六月二十一日放送〈クローズアップ現代〉「“集団自決”62年目の証言~沖縄からの報告~」は右検定に対するNHKの敵意の表出と云ってよい。

 番組は冒頭で云う。軍命令削除の検定に対して沖縄では強い怒りと抗議の声が上がっている。その中で「体験者からの聞き取り調査が始まって」おり、「日本軍によって住民が自決に追い込まれていった状況が浮かび上がってきた」とのナレーションが流れる。更に「なぜ文部科学省は突然書き換えを求めたのか」と尤もらしく問題提起をしながらも、それについては現在係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」原告の一人である梅沢裕氏の短い発言を流すだけで、原告団に提訴を決断させた数多くの証言や事実解明の経過には全く触れない。実はそれこそが軍命令不存在の証明なのであり、また文科省が軍命令記述の修正を求めた根拠であるにも拘らず、である。それ故視聴者は、文科省は元隊長の個人的感情にのみ依拠して軍命令記述を修正したかの如く錯覚する。これは今回の検定には客観的根拠がないとの印象を視聴者に与えるための欺瞞的番組編集手法と筆者は断ずる。

 番組が、軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。村民と常時接触していたのは、この防衛隊だったのだ。

 家族や村民と生活を共にしていた防衛隊員が、戦闘用に二個ずつ支給されていた手榴弾を勝手に自決用として家族等に配布した場合もあった。防衛隊員も日本兵のうち、と単純に考える住民は、それを「日本軍」による自決の命令あるいは指示と誤解したに違いない。NHKはそのような誤解をいいことに、軍命令を示す住民の“証言”として強引に押し通してしまっている。そうではないと判っているくせに、防衛隊=日本軍という拡大解釈で日本軍による自決命令という“証言”を作り出したこのNHK番組は正に言語詐術と欺瞞の見本である。本稿で紹介した沖縄の人々の様々な軍命令否定証言、援護金目的の軍命令創作証言はただの一つも出てこない。この怖るべき偏向番組の狙いはその言論暴力で今回の検定方針を撤回させ、軍命令を復活させることにあると私は見る。


〈『明日への選択』平成19年8月号より転載〉

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Wポスト紙の捏造記事タライ回し 琉球新報が仕掛ける

2007-10-22 06:43:57 | 教科書

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「自決」強制証言を紹介 米・ワシントンポスト紙  

 米大手紙ワシントン・ポストは19日、文部科学省の高校歴史教科書検定で沖縄戦における「集団自決」の日本軍強制の記述をめぐる記事を掲載し、検定の削除をめぐって日本が2つに揺れていると報じた。
 記事は東京発ロイター通信が配信したもので、10代のころに従軍看護婦だった女性の「日本軍が自決を強制した」という証言を中心に紹介している。自決した民間人の数は琉球新報の調査結果によると少なくとも995人で、沖縄戦で死亡した20万人以上のうち約半数が民間人で、沖縄の苦しみは戦後も続いている、と伝えている。
 3月の高校歴史教科書の検定で「集団自決」軍強制記述の削除意見決定して以来、検定意見撤回を求める県民大会が開催され、実行委員会が要請に訪れ、最近になって初めて政府側が反省の意を伝えたと紹介。戦時中の日本軍に関する記述では、日本政府がこれまでアジア諸国と繰り返してきた論争が、国家間の「ねじれ」を生みだしていると伝えた。
 また、各国の教科書採用システムについても触れ、「
日本の歴史教科書は日本政府の公式見解に等しいもの」とのアンドリュー・ホーバット東京経済大学の教授の意見を用いながら、検定委員の在り方にも疑問を提示。スベン・サーラー東京大学准教授の「沖縄は1972年に復帰したが、今回の論争で、まだまだ日本政府が沖縄を日本とみなしてないのが明白になった。まるで日本と植民地という構図」と日本政府の姿勢を批判した。
 (琉球新報 平安名純代本紙ロサンゼルス通信員)

<ニュース用語>ワシントン・ポスト紙
 1877年創刊の全米で最古の歴史を持つ新聞。70年代に当事のニクソン米大統領を辞任に追いこんだウォーターゲート事件の報道で国際的名声を手にした。

(琉球新報 10/20 16:04)

                                               ◇

朝日新聞が沖縄タイムスの捏造記事をそのまま社説に引用したことについて次のように書いた。

朝日の“捏造記事”タライ回し  沖縄タイムスが“捏造写真”」

意図した捏造記事が一人歩きする「従軍慰安婦」と同じ構図だ。

「集団自決」が全国的に問題となるや、

待っていましたとばかりにニューヨークタイムズのオーニシ記者がこれを記事にした。

NYタイムズが「11万人集会」を報道 捏造報道の一人歩き

そして、ついには「残虐非道の日本軍」の象徴とも言うべき仲里議長の「毒おにぎり」証言が海を渡り全米を一人歩きし始めた。

「毒おにぎり」が海を渡る  仲里証言をニューヨークタイムズが報道

負けてはならじと、今度はワシントンポストが琉球新報とタッグを組んで「捏造記事の」国際的タライ回しを開始した。 


■元従軍看護婦の証言■ 

>10代のころに従軍看護婦だった女性の「日本軍が自決を強制した」という証言を中心に紹介している。

この記事の元ネタを検証したら次の記事が出てきた。

(8)中山きくさん・青春を語る会代表(白梅同窓会会長)
 (沖縄タイムス 2007年8月31日朝刊社会面)
戦世の記憶 風化を危ぐ

 ≪自分の身は自分で始末しよう…。一九四五年六月四日。当時十六歳だった少女は、旧東風平村にあった山第一野戦病院の解散時に軍から配られた手榴弾を手に、決意した。その後、白梅学徒隊だった中山きくさん(78)は友人に止められ、生きる道を選んだ。(以下略)≫

ここに登場する「従軍看護婦」の中山きくさんは戦火が激しい中、勤務する野戦病院の解散時に手りゅう弾を配られたが友人の助言でこれを使わず生き残った。

当時10代の乙女が敵の来襲を直前のパニック時のこと。

万が一の時、これで自決を考えても不思議ではない。

また友人が止めて気が変るような状況を「軍の命令、強制」と理解するに無理がある。

これで「日本軍が自決を強制した」と報じるのは明らかに記事の捏造だろう。

アメリカ在住のRed Foxさんが元ネタ記事(Wポスト)を翻訳検証している。

その原文は次のようになっており、どこを探しても「「日本軍が自決を強制した」という文は出てこない。

Reuters:
Then a teenage military nurse, she was told to fend for herself when the hospital where she worked was abandoned as U.S. forces approached.

"We were given grenades and we all interpreted that to mean we should use them to kill ourselves," Nakayama said.

 


 ≪当時彼女は10代の従軍看護婦。彼女が働いていた医療所が米軍接近に伴い見捨てられた時、自分の事は自分で面倒見るように言われた。
手榴弾を渡され、それは自決のために使うべきであると私達は皆そう解釈しました。(翻訳はRed Foxさん)≫


これは驚いた。

沖縄タイムスの記事の「戦火のため病院が解散した時配られた手りゅう弾」が、

Wポストに伝わると 「手榴弾を渡され、それは自決のために使うべきであると私達は皆そう解釈しました」となり、

それが逆輸入されて琉球新報の記事になると

「(Wポストが)『日本軍が自決を強制』と報じた」と化けて来る。

琉球新報の英文読解力ではinterpreted を「自決を命令された」と解釈するらしい。

何としてでも「日本軍が自決を強制した」と事実をわい曲したい琉球新報の執念が垣間見れる。

 

■沖縄タイムス⇒Wポスト⇒琉球新報の伝言ゲーム■

分かりやすく説明しよう。

従軍看護婦だった中山きくさんの証言は次のように伝言ゲームで変化していく。

①「野戦病院の解散時に軍から配られた手榴弾を手に、決意した。」(沖縄タイムス)↓

②「手榴弾を渡され、それは自決のために使うべきであると私達は皆そう解釈しました」(Wポスト)↓

③「日本軍が自決を強制」(琉球新報

 

このように「捏造記事のたらい回し」と言うか「伝言ゲーム」と言うべきか、

Wポスト紙をクッションに使って琉球新報が記事を捏造していく過程が興味深い。

Wポスト記事を翻訳したRed Foxさんから次のようなコメントを頂いた。

≪このロイター通信の記事は米メディアではNBCテレビとワシントンポスト、ボストングローブ、NYタイムズなど恐らく10数紙に掲載されているようです。

 要するにこれは朝日新聞や産經新聞、日本の地方紙が共同通信の記事を載せるのと同じ話ですが、琉球新報は「ワシントンポストが報じた」という事大主義的な印象操作の意図が明らかにありますね。

Japan’s history divide comes home in textbook row
(Isabel Reynolds, Reuters, Fri Oct 19, 2007 12:12am EDT)
http://www.reuters.com/article/worldNews/idUST896120071019
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/10/19/AR2007101900006.html?nav=hcmodule

 で、ロイターの記事内容を一通り目を通してみましたが、琉球新報の記事を書いたのは前回と同じ平安名純代ロス通信員で、やはり同様の内容の改変が見られますね。それから琉球新報のウェブ上に見られない情報 (自決者数995人) が「琉球新報の調査によると」との記述でロイター記事に書いてあるため、この情報が紙面版などでこれまでに発表されてないとすれば、これが琉球新報から直接ロイター通信東京特派員のイザベル・レイノルズ記者に提供されたという可能性もあります。≫

Wポスト記事全文と翻訳は、↓

沖縄集団自決問題 今度はロイター通信 琉球新報報道の怪 Part2

 

【おまけ】

「10人に1人」の県民が終結した「県民大会」!?

だったら、「集団自決」の起きた現地、渡嘉敷島の住民は全員とは言わないまでも何人に1人の参加だったのか。

渡嘉敷島の人口は、773推計人口、2007年9月1日)。

渡嘉敷在住の知人に聞いてみた。

「一般住民の参加は、7~8人、多くても10人以下でしょう」

渡嘉敷島住民の「県民大会」参加者は、

何と、「100人に1人」であった!

 

沖縄の新聞はやはり異常だと思う方、
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コメント (13)

取材されない重要証人 副官知念少尉の証言

2007-10-21 06:05:48 | ★集団自決

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地元新聞に連日出てくる「証言者」。

そして「11万人」集会。

その壇上でで叫ぶ高校生の悲痛な声。

「おじー、おばーが嘘つきだというのですか!」

 

だが、沖縄のマスコミが決して取材に訪れることのない「集団自決」のもう一人の最重要証人がいた。

しかもその人は「11万人」集会の会場の近く宜野湾市に元気で住んでいた。

渡嘉敷島の「集団自決」のその日、その時、その島で「命令を出した」とされる赤松の側で常に行動を共にした地元出身の副官・知念少尉。

この人の証言が新聞を飾ることはない。

地元マスコミが取材しない知念氏宅を本土紙「世界日報」の鴨野記者が訪問した時の様子を次のように記している。

≪那覇市から車で40分余り北に走らせた宜野湾市に、知念氏の自宅はある。 記者(鴨野)が訪れた二月の下旬、庭の梅の木にメジロが止まり、さえずっていた。≫

「世界日報」の写真で見る知念氏は、ごま塩白髪の頭を短く借り上げにっこり微笑んでおり、お元気そのものに見える。

知念氏は元々本島首里の出身だが、現在は宜野湾市に在住。

今でも時々第二の故郷ともいえる渡嘉敷島を訪れて島の皆さんと懇談なさるとのこと。

鴨野記者の取材に対し『鉄の暴風』の間違いを指摘したが、その中で本人の登場する場面について語る様子を鴨野記者は次のように書いている。

真実の攻防 8 「軍命裏付ける証言得られず」
(一部抜粋)
『鉄の暴風』に同氏が登場する場面がある。<地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した>(36ページ)

 知念氏にこの記述を確認すると、笑いながら「嘉敷島に、将校会議を開く地下壕(ごう)は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ。それに比べて曽野先生は偉かったな。もんぺ姿で渡嘉敷島で何日間も取材をされたのですから」。

 自決命令を聞いた知念氏が<悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した>と『鉄の暴風』にある。だが彼は沖縄タイムスから、戦時中の様子を取材されたことが一度もない。ならばなぜ、彼が慟哭し、痛嘆したと彼の胸中を推し量る記事を書いたのだろうか。「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と知念氏。縄タイムスは、赤松氏本人にも元隊員への取材もせず、軍命令があったと書いた。記者が取材した、知念氏をはじめとする三人の元赤松隊の隊員は、赤松氏の軍命を真っ向から否定した。

いろんな文献に引用され、「赤松軍命説」の根拠となった次の部分は、有名なシーンである。

だが、何と沖縄タイムスは本人の取材もなく勝手にそのシーンを造り上げた創作だったのだ。 その創作が一人歩きし、赤松隊長を極悪人に仕立て上げた。

<地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した>(36ページ)

知念氏は「作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ」と断言している。

取材した鴨野記者は、このように言っている。

「鉄の暴風」は「戦記小説としては良く出来た読み物です。だが、ドキュメンタリーとしては・・・・・・」。 後は言葉を濁した。

鴨野記者が取材した日の33年前に出版された「沖縄県史」。

そには知念少尉の渡嘉敷島着任以前の様子から、集団自決当日の模様、そして投降後の様子まで細かく記載されている。

この「沖縄県史」の証言も沖縄マスコミが引用、報道することはない。

理由は極めて単純、「赤松軍命説」の反証になるからである。

以下に知念少尉の長い手記の中から「集団自決」に関する部分を抜粋記載する。

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2

副官の証言                                                                 …769P
元海上挺進弟3戦隊副官
元陸軍少尉 知 念 朝 睦

集団自決のこと
西山陣地では電話も通ぜず各隊との連絡は容易ではありません。かろうじて各隊が集結していた頃、西山陣地の後方では、村民の自決が行われていました。10歳くらいの女の子と、兄弟らしい男の子が陣地に私を訪ねて来て、お母さんが自決したというのです。初めて自決のことを聞きました。
この子等は阿波連から恩納川に行き、西山陣地近くで、この子が手榴弾を発火させ、母親に投げたところ、赤児と母親の間におち、死んでしまったということでした。その自決場所には、妻子を殺したという男が半狂乱に、私に、自分はどうしても死ねないので斬ってくれと、わめいていました。この男も、姉弟も元気に居ります。
どうして、こういうことがおきたのか。その動機は、おそらく、数日前阿嘉が全滅し、村民は自決したときいて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、きめていたに違いありません。そこへ、米軍の迫撃砲です。山の中をさまよい、わいわい騒いでいるところへ、どかんと飛んで来たのがそれです。
もう生きられる望みを絶たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、10歳の少女がどうして手榴弾を手に入れたか、ということです。
それにしても私が見た自決者の遺体は6,7体でした。記録に残る329体というのは見てもいないし知りません。329体なら、それは、恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。
赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、大変悲しんでいました。
私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下令も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。
もっとも、今現存しているA氏が機関銃を借りに来ていました。村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました

                   ◇

今年2月の鴨野記者の取材記事を見ても、また上記手記のどの部分を読んでも赤松隊長の「軍の命令集団自決が起きた」という証拠は見出せない。

沖縄マスコミが知念氏の証言を封殺する理由がここにある。

沖縄県民は報道談合により「知る権利」を奪われている。

一方、敵軍であり、沖縄上陸の時沖縄住民と日本軍との分断工作を意図していた米軍の記録は全面的に「真実」として報道する。

いや、英文記録をありのまま報ずるのならまだ良い。

沖縄タイムスなどは、住民が米軍の聞き取りに応じた「兵隊さんが言った(told)」といった言葉を「軍が命令した」と恣意的というより明らかな誤訳をして、大見出しで「米公文書」として紹介している。

 

沖縄のマスコミは新聞の名に値しないサヨクプロパガンダ紙だ!
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沖縄で彷徨う「三光作戦」

2007-10-20 06:28:10 | 南京大虐殺

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「集団自決」による「暴虐非道の日本軍」といったキャンペーン報道も一段落したかと思ったら、

昨日の琉球新報夕刊「南風」というコラムにやはり「暴虐非道の日本軍」が潜んでいた。

沖縄の新聞は何としてでも「残虐な日本軍」のイメージを定着させたいのだろう。

地元の芸術家・文化人が筆を取る「南風」はあまり政治的臭いはなく、沖縄在住の女優池波志乃さん(中尾彬氏夫人)も時々寄稿している。(記憶違い?)

で、一昨日の筆者は美術家とのことだが、内容は中国捕虜で洗脳された先輩画家の洗脳を受け継ぎ「三光作戦」という中国伝統の作戦を日本軍の悪行として糾弾している。

そもそも日本語の「三光」の意味に中国式の「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」という意味はないし、中国に従軍した日本兵にさえこの単語を知るものは少ない。

戦後中国の捕虜から解放され帰国した元日本兵からこの言葉が流布し始めたといわれる。

中国に捕虜になった人に対する「洗脳」は過酷なもので、その亡霊は60数年経った現在でも沖縄の新聞のコラムの中から彷徨い出てくる。

中国に捕虜になった日本兵の「洗脳」については次の引用が参考になる。

≪ ソ連軍が旧満州を侵略し、日本軍捕虜を66万余、かっさらっていった。この事実は誰もが知っている。1950年に、この日本人捕虜のうち、中国は969人をソ連から引き取った。かれらは撫順収容所監獄に入れられ、連日連夜、徹底的に洗脳されたそこには長期的な戦略意図があった。

 「注目すべき点」として田辺氏は指摘する。

 「多くが北支で主に中国共産党と戦った、39,59,63,117師団という四個師団の将校」だった事実。ボロ負けにまけた恨みを晴らしたのだ。

 彼らを連日、洗脳し、「ふたつの態度と二つの道」といって、でたらめな自白をした人が帰国を許され、最後には「自白」しない将校を若手がつるし上げ、なかには自殺した軍人もいた。

 筆者も撫順の「収容所址」を見学に行った。この施設のミソは、皇帝・溥儀のベッドやら、使った風呂が展示されていること。また写真パネルの多くは、中国各地にある「反日」と同じだが、「中帰連」の寄せ書き、「中帰連」の反省文と証言が夥しく飾られていた。

 この組織こそガンだ。

 また「労工狩り」なる作り話を集中的に「証言しているのは中国抑留者全1109人のなかでも、大木仲治、小島隆男、菊池義邦(名前がつづく)。。」の11人にかぎられ、そのうちのふたりをのぞいて、ほかは「北支那方面軍第12軍の第59師団に所属していた将兵ばかり」というのだ。

 「中帰連」(中国帰還者連絡会)なる組織が、帰国してから「証言」したものが、強制連行のみならず、のちに本多勝一が書いた『天皇の軍隊』にでてくる嘘八百の元になっている、という。もとより『三光』なる皆殺し行為は、もともと毛沢東主導権が確立される前後の共産党過激派の戦術であり、日本で後にでた「三光」は、あまりの嘘に、実際の軍人体験者から抗議が集中し、版元は絶版とした。要するに虐殺を得意とするのは共産党であり、日本軍はそうした仕業をするはずがないからだ。≫(桜魂よりhttp://nipponsaisei.air-nifty.com/sakura/cat477020/index.html

それで肝心の美術家のコラムだが、とにかく読んで恐れ入る。

「洗脳」によって造られた幻の「三光作戦」をあたかも歴史的事実のように日本軍を責め続けている。

「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」、「三光作戦」、そして「集団自決」、これらは全て「残虐非道の日本軍」という共通項でくくられている。

以下は琉球新報コラム「南風」の全文である。

“三光”を描き続けた画家  (琉球新報「南風」 10/18 16:10)

 “三光”とは、かつて日本軍が中国大陸で行った「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」、いわゆる三光作戦のことである。
 奄美大島出身の版画家島亜壇は大阪の美術学校卒業後徴兵され、中国山東省の長島旅団の情報部に配属された。
 島は直接手を下していないが、日本軍が中国の八路軍とそれを支持する中国の民衆にたいして行った三光作戦、その地獄図を目の当たりにしていた。1945年8月敗戦、ソ連軍の捕虜となりシベリアで5年、中国で6年、11年もの抑留生活に耐えた。帰国したのは36歳、正に戦争に奪われた青春であった
 が、島は1970年ごろから版画三光シリーズに取り組み、1985年、神奈川や東京で発表、大反響を呼んだ。
 その後、
三光シリーズ(全30枚)3組は、中国の北京中国人民抗日戦争記念館、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館などに寄贈、展示されている。2005年、島は、元日本兵46人とともに中国政府に招かれ抗日戦勝利60年大会に出席した。
 日光市の島夫妻から送ってきたアルバムや現地新聞の大写しのカラー写真からは、永年の苦しみから解放されたような安堵(あんど)の表情がうかがえる。島は言っていた。「直接手を下していないが、殺された人たちはあのままでは死にきれない。ボクは心をこめて1枚1枚描いている―」と。
 島は、生涯をかけて侵略戦争の非道を担った責任と謝罪をこめて描き続け、2001年には故郷奄美の有志により大個展も開催し、故郷の人々に深い感銘を残した。昨年5月、帰らぬ人となったが、大兄は生涯の大仕事を終え、きっと笑みを浮かべて永遠の眠りについたにちがいない。墓前には島の花、あかばなーを手むけたい。
(宮良瑛子、沖縄女流美術家協会会長)

                     ◇

名古屋に三光電機という業務用ヘアドライヤーのメーカーがある。

先代社長がご存命なら85-90歳くらいだろうと思われるが、20年ほど前、社名の「三光」の由来について尋ねたことがあった。

大陸に従軍の経験もあるという社長はいわゆる「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」、という「三光」については全く初耳だといった。

社名の三光の謂れは兄弟三人で会社を興したので「三光」を社名とし、社のマークも光をデザインしたものだった。

三人で美容業界を照らす光になるという意気に溢れる社名が三光電機であった。

ちなみに弟さんが独立して「三星電機」という会社を作っていた。

「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」という物騒な名前を美容器具メーカーが社名に使うはずがないという質問時の思いは正しかった。

やはり「三光」は中国軍の作戦名だったと確信したことを、今ふと想いだした。

かつて中国が日本捕虜に行った洗脳が、今でもゾンビのように沖縄でよみがえり、女性美術家を通じて沖縄中に

「残虐非道な日本兵」の幻が撒き散らされている。

このコラムの筆者の女性美術家は芸術家というより、「プロ市民」というほうが相応しいとおもったが、

やはり同じコラム欄に次のような文も書いている。

教科書に真実を!  (9/6 16:10)

 

三光作戦については「三光作戦(政策)」に詳しい。http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/sanko-sakusen/sanko-sakusen-index.html

 ◆中国共産党の洗脳についてのエントリー;
「洗脳」! 「集団自決」で特別授業 南風原高

中国のプロパガンダを「歴史的事実」のようにして、平気でコラム欄に掲載する琉球新報は反日新聞だ!
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南京事件と三光作戦―未来に生かす戦争の記憶
笠原 十九司
大月書店

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小池百合子は全てを知っていた

2007-10-19 08:54:17 | 県知事選

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防衛商社「山田洋行」元専務、特別背任の疑い 守屋前次官と関係10.19 08:04 

 老舗防衛専門商社「山田洋行」(東京都港区)から独立した元専務(69)らのグループが、山田洋行在職時に不透明な会計操作を行い、不正支出を行っていた疑いがあることが18日、関係者の話で分かった。山田洋行は、元専務らが新たに設立した防衛専門商社「日本ミライズ」(同)の幹部らに対し、計約15億円の損害賠償を求める民事訴訟も起こしている。東京地検特捜部も一連の経緯に着目しており、特別背任の疑いで、すでにミライズ社の幹部ら関係者から事情を聴いたもようだ。

 関係者によると、元専務は山田洋行在職時に、米国の防衛重機メーカーや旧防衛庁(現防衛省)に対する営業活動や政界工作で中心的な役割を担っていた。守屋武昌前防衛事務次官ら防衛省幹部とも近い関係にあり、十数年にわたり、ゴルフや飲食接待を行っていたという。不正支出の一部はこうした接待の原資になった疑いもあるという。

 山田洋行は昭和44年、不動産会社の一部門から独立する形で設立。防衛専門商社として航空分野での業績を大きく伸ばし15年ほど前から米国の大手軍需メーカーから代理店指名を受けるようになった。現在では、大手商社やメーカーがひしめく防衛産業の中でも、大きな地位を占めている。

 しかし昨年6月、元専務が退社し、9月に同社社員数十人とともにミライズ社を設立。関係者によると、その後、ミライズ社幹部が、山田洋行在職中に不透明な会計操作を行い、不正支出を行っていた疑いが判明したという。

 山田洋行は、航空自衛隊次期輸送機(CX)の新型エンジン納入をめぐって、代理店契約を結んでいた米国ゼネラルエレクトリック(GE)社などを担当する社員らがミライズ社に多数移籍したことから、「違法な手段でCXエンジンの取引先を奪おうとした」などとして猛反発。昨年10月と今年2月までに元専務らミライズ社員を相手取り計15億円の損害賠償を求め東京地裁に提訴し、移籍した一部元社員の退職金の返還を求める訴訟を起こしている。

 特捜部では、元専務らが山田洋行に在籍していた時点で、関連会社の合併などをめぐって不正な会計処理を行った疑いがあるとみて、両社の幹部からすでに事情聴取を行ったもようだ。

                                                ◇

 

長きにわたり水が澱むと腐敗が生じる。

守屋前次官は例外的に長い防衛次官在任で「防衛庁の天皇」の異名をとっていた。

小池前防衛相との人事に関する確執はまだ記憶に新しい。

権勢を誇る防衛省の天皇に真っ向から斬り付けた防衛大臣。

小池百合子はやはり男でござった。

だが、防衛庁の天皇は退位しても上皇(常勤顧問)として防衛省内に留まっていた。守屋防衛次官、退任後は事実上の常勤顧問に (8月30日 22:13)

守屋次官は沖縄の基地政策に長くかかわった経験から

「私の後輩が仕事に取り組むことになると思うが、私の知見が必要であればいつでも協力したい」とも語っていた。

聞こえは良いが退任後も、何も知らない大臣より自分が乗り出して「院政」をしくとも取れる発言だ。

                      *

 

たかがゴルフと看過できない状況に事態は進展しそうだ。

今朝のテレ朝「スーパーモーニング」に出演した小池前大臣、

守屋前事務次官との人事の確執と「山田洋行問題」も関係があったのかと問われ

「(山田洋行は)防衛省内では噂がながれ、これも確執の一因であった」と語った。

小池前大臣は全てを知っていた。

山田洋行の元専務は防衛省のОBだという。

さぁー、石破防衛大臣、小池元大臣が斬り込んで果てた防衛省の闇にどこまで迫れるか。

あなたは、守屋前次官の上司ですよ。

確認だけでは済まされそうもないがね。

「必要な確認したい」 前次官のゴルフ問題で石破防衛相

 

 

◆関連エントリー:

小池辞任が残した爆弾  小池百合子は男でゴザル?

「小池百合子は男でゴザル」その2 「塩崎恭久は女でゴザル」

小池百合子は男でゴザルその3 西村慎吾の防衛省論

小池前防衛大臣、最後のメッセージ

防衛担当大臣はお飾りか 背広の実力者と制服の実力者

防衛省に院政! 守屋次官、防衛省の天皇から上皇へ格上げ

守屋人事 「新聞で知った」と新大臣

クーデター勃発?それとも「沖縄密約」?  防衛省の内紛 

 

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再開された上原正稔氏の特集  パンドラの箱は開くか?

2007-10-19 06:58:58 | ★集団自決

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10月16日。

二回目の「教科書検定意見撤回要請団」が上京し、沖縄中を巻き込んだ「集団自決ー教科書」に関する大フィーバーも一段落が着いた。

地元2紙の紙面にも一時のような「新証言者登場」といった刺激的な記事も殆ど見なくなった。

その静寂の合間をつくように、

その日(16日)の琉球新報夕刊に、4ヶ月の長期にわたって中止されていた「沖縄戦の記録」がソッ再開された。

まるで人目をはばかるように。 何の予告もなく。

その特集再開の冒頭は次のように始まった。

≪さあ、筆者の長い夏休みを終え、「パンドラの箱」の物語を再開することにしよう。 夏休みと言っても、ただ遊んでいた訳ではない。 沖縄県資料編集室の膨大な海兵隊資料に目を通して、読者に伝える物語を探していたのだから読者も許してくれるものと勝手に決めている。

「パンドラの箱」の物語の順序も中身もちょっと変更を加えることにしたのでご了承お願いしたい。 だが、読者が「あっ」と驚く話が続くことには何ら変りはない。≫

 ドキュメンタリー作家上原正稔氏の「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の再開である。

ただし新報側の突然の連載中止であるにも関わらず、新聞社側からは連載中止の知らせも、4ヵ月後の突然の再会の知らせも読者に対しては一言の説明もなかった。

今後、琉球新報は「説明責任」で他人を責めることは出来ない。

結局、4ヶ月前に電話で問い合わせた答え通りの長い「調整中」を、筆者の上原さんの「長い夏休み」としてゴリ押ししたのだろう。

げに恐ろしきは新聞社の「調整」。

これを別の名で言うと「言論封殺」と呼ぶ。

長い「調整」の結果、内容も「調整」されている模様。

事前の予告では次は「慶良間で何が起こったか」を明らかにするとしており、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだったが、

再開した第2話のタイトルは「軍政府チームは何をしたか」となっている。

「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、

4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については触れていない。

琉球新報の言論封殺については事情を知らない人のため、下記のエントリーを再掲するが、既に読んだ方はスルーしてください。

既読の方も、経緯の復習の意味でもう一度目を通していただけると幸いです。

以下は【再掲です】

【再掲】琉球新報の言論封殺に抗議します

琉球新報の言論封殺が続いて今日で107日目です。(実際は再開の10月16日までは119日でした)

琉球新報の夕刊で火曜から土曜にかけての長期連載特集、

上原正稔著「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」が

掲載予定日の2007年6月19日より

読者に何の断りも無く一方的に中止になりました。

上原さんは掲載前に知人に次のように言っていました。

≪19日付からは第2話「慶良間で何が起きたのか」が始まります。
集団自決」をテーマにしたもので、作者の上原正稔氏は圧力に屈することなく執筆する≫と。

同氏の話によると、

≪沖縄で現在展開されている運動に水をかけることになる内容になるためか≫

≪担当編集者の態度に変化があり、今回の事態に至ったらしい≫とも言っているそうです。

どんな大きな圧力が働いたのでしょうか。

琉球新報は読者に連載中止の理由を一言も言っておりません。

問い合わせても「調整中」の一言で済ましています。

読者は一方的に「知る権利」を奪われています。

沖縄では今メディアの意見と違う考えは封殺される異常な事態になっています。

これでは戦前の言論弾圧と変りません。

琉球新報が連載を再開するまでこの記事を掲載し続けます。

                              狼魔人

◆参考エントリー:

「パンドラの箱」  カギを握る上原正稔氏

沖縄のマスコミは大政翼賛会か

琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

             ーーー再掲終了ーーー

 

沖縄マスコミは、警察も巻き込んだ虚報により沖縄県民をサヨク政治運動に駆り立て伝説的とも言える「“11万人”集会」を実施した。

その最中に「慶良間で何があったか」を白日の下に晒そうとした良識ある上原さんの連載特集。

これを琉球新報が新聞社としての恥も外聞もかなぐり捨て、必死で封じ込めたというのが、

上原さんの「長い夏休み」の真相のようだ

 

琉球新報は恥知らずだと思う方、
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転げ回る中山元文科相の歴史観

2007-10-18 13:47:12 | 教科書

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ウェブサイトに載っていない記事は、特別でない限りスルーするようにしている。

理由は簡単、一本指流でキーボードを叩く当日記にとって文字お越しは面倒だから。

時々他のブログの文字お越しは拝借したりしてはいるが・・・。

今朝(8日)の第二面の次の記事は、おそらく新報だけの記事なのだろうか、ウェブサイトには載っていないが。(文字お越しが面倒くさい!)

「強制は言っていない」

中山元文科相  報道内容を否

【東京】中山成彬元文科相は、17日午前に自民党本部で開かれた「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の役員会に関連して、沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)について「軍の命令、強制は当然あったと思う」と発言したと報じられたことに関して、同日午後、琉球新報社の取材に対し、「強制は言っていない」と報道内容を否定した。 同氏は本紙に対し、住民への手榴弾(しゅりゅうだん)配布の事実に触れながら、「軍の関与があったのは事実だ」としながらも「軍の強制があったかどうかはわからない」と語った。 参加者によると、中山氏は役員会の中で「沖縄戦の極限状態の中で起きた『集団自決』には日本軍の関与があったと思う」とか語ったものの、「日本軍の強制」の存在については明確な発言は無かったという。 同会は「日本軍の強制の有無に関して「白紙の状態で臨む」(小島敏男衆院議員)との立場で、証言者の聞き取りや資料収集にあたる方針だ。 教科書記述の復活についても、同会は「県民大会の開催を受け記述を変更するのは検定制度の公正・中立性の面から疑問」としており、検定制度の「誠司不介入」を強く主張している。  中山氏は17日午前、沖縄戦での集団自決に関して旧日本軍の強制の記述が教科書検定で削除された問題で「軍の命令、強制は当然あったと思う。 沖縄戦について、国会議員も国民もあまりに知らなさ過ぎる」と延べ、記述回復を図る動きに理解を示した。 党本部で開いた同会役員会後に記者団に述べた。(琉球新報 2007年10月18日)

                     ◇

昨日のエントリー「コロコロ変る中山元文科相の歴史観」の最後に「一ヶ月足らずで歴史観がコロッと変る中山元文科相は、恥知らずだ」と書いた。

軍の命令、強制あった 集団自決で中山元文科相 (10月17日 12:29)

ところが一夜明けたら又びっくり。

今朝の報道によると又しても歴史観がコロリ!と二転三転。

このように歴史観が転げ回る政治家を寡聞にして知らない。

これでは恥知らずどころか「アル○ハ○マー」ではないか。

同記事では中山元文科相が「軍の命令や強制があった」とは言ってないとしているが、

最後の部分では「軍の命令、強制は当然あったと思う」と発言した、と重ねて念を押している。

どちらかがウソをついているのだろうが、新報の記事には中山発言の証拠を握っているのか自信に満ちている。

中山元文科相は以前にも同じように「言った、言わない」の記事で沖縄タイムスもトラブルを起こしている。

沖縄タイムスVS元文科相

記事中の「・・・記者団に述べた」の部分から判断すると証人が複数いるのだろう。

してみると、どうやら中山元文科相の失言という見方が正しいようだ。

この元文科大臣、沖縄タイムスの時の学習経験は生かせなかったのだろうか。

ことは国の教科書に記載に関わる重要な問題である。

沖縄タイムスとのトラブルの時のようにウヤムヤにして欲しくない。

 

 ■新聞の見出しもコロコロ変る■

軍の命令、強制あった 集団自決で中山元文科相
東京新聞 - <NOBR>2007年10月16日</NOBR>
自民党有志でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬元文部科学相は17日午前、沖縄戦での集団自決に関して旧日本軍の強制の記述が教科書検定で削除された問題で「軍の命令、強制は当然あったと思う。沖縄戦について、国会議員も国民もあまりに知ら ...
検定意見撤回の動き批判 中山元文科相
中日新聞 - <NOBR>2007年10月5日</NOBR>
中山成彬元文部科学相は五日午前の自民党文部科学部会・文教制度調査会合同会議で、沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定問題について「十一万人が集まれば教科書が変えられるのか。そういう前例を残すことはどうなのか」と述べ、旧日本軍による強制や関与の記述削除を求め ...
殉国死でなく犠牲者だ/中山元文科相に聞く
沖縄タイムス - <NOBR>2007年9月26日</NOBR>
沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した高校歴史教科書の検定問題は、与党の自民党内にも文部科学省の対応を疑問視する声が上がる。自民党の「教育再生に関する特命委員会」の委員長を務め、同委で沖縄の教科書問題を取り上げた中山成彬元文部科学相 ...
 
 
今夜も、さ~ふ~ふ~」さんも呆れ返って「どっちなの? 」

と呆れ返っているようだ。

 

 
いい加減な記者会見をする中山元文科相に歴史を語る資格はない!
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沖縄戦・渡部昇一教授のインタビュー記事 

2007-10-18 11:46:27 | 教科書

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「集団自決」に関して独自の取材で沖縄のメディアが報じない隠れた証言者の発掘、そしてその取材に成功している「世界日報」が渡辺昇一上智大学名誉教授のインタビュー記事を掲載している。

以下「世界日報」の転載です。http://www.worldtimes.co.jp/

                     ◆

               

平成19年10月18日

沖縄戦と教科書検定問題 渡部昇一上智大学名誉教授に聞く

日本は沖縄を見捨てず、沖縄で散った多くの特攻隊員

 沖縄戦「集団自決」に付けられた教科書検定意見の撤回を求める動きが先鋭化し、政府は、県民感情と「政治不介入」のはざまで対応に苦慮している。この問題で渡部昇一・上智大学名誉教授に聞いた。
(聞き手=編集委員・鴨野 守)


司令官感激させた沖縄の奮闘ぶり

picture 靖国神社の遊就館に展示されている沖縄戦特攻隊の遺影と遺品=加藤玲和撮影
 先の沖縄戦で、赤松嘉次大尉率いる渡嘉敷島と、梅澤裕少佐の座間味島で起きた集団自決に関して、隊長の自決命令があったかどうかという問題は既に決着済みです。

 忘れられているかもしれませんが、当時の大多数の日本兵は非常に立派でした。あのころの将校は非常に責任感が強く、犠牲精神も強かった。ですから、「自分が自決の命令を出した」と言って住民の生活が助かるのであれば汚名を着ても構わない、と。元来、国家のために死をも覚悟して軍人になった人が圧倒的でしたから。

 しかし、それを悪用したのが大江健三郎氏の『沖縄ノート』であり、一方、おかしいと思って現場で綿密な取材をして、『ある神話の背景』に自決命令がなかったという真相をお書きになったのが曽野綾子さんです。私の記憶ではあの本を書いたことで曽野さんは「右翼」とレッテルを張られるほどでした。

 しかし、曽野さんの本が出ることで勝負が付いたのです。しかし、『沖縄ノート』は岩波書店が出版し、大江氏がノーベル文学賞を受賞したなどの理由で、版を重ねているわけです。ところが最近になって、自決命令はなかったが、援護金をもらうために虚偽の軍命令の証言をしたとか偽の命令書を作成した、という証言が出てきました。

 こうした真相が明らかになると、沖縄の左翼運動の首謀者たちは今度、「集団自決に、軍の関与はなかったのか」という、また別の土俵に持っていったのです。ですから、まず渡嘉敷、座間味島で隊長命令はなかった、とはっきり書かないといけない。

 ただ、沖縄では、住民の土地が戦場と化して、いろんな形で悲惨な目に遭ったわけです。アメリカだって国際法を守って日本と戦ったわけでないのは、無差別爆撃や原爆投下などの証拠があります。

 しかし、日本は沖縄を見捨てたわけではありません。日本の一番優秀な若者を特攻隊で何千人も送り、大体が沖縄で亡くなっています。それは、沖縄を救おうという日本の意思です。戦艦大和だって沈むことを覚悟で出たのです。「戦艦大和を持って沖縄を助けなかった、と言われてはいけない」と沖縄に向かった。もし到着できれば、海岸に打ち上げても戦わせるという、最後まで沖縄を助けるという気持ちがあったことを沖縄県民の方々にまず分かってもらわねばなりません。

 また戦時中の沖縄の人がどれほど軍に協力的であったかということは、沖縄方面根拠地隊司令・太田実海軍少将が自決直前に残した感動的な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」からも明らかです。

認められぬ「沖縄条項」

検定撤回運動の中核は「反日」

picture
 沖縄の人が、「自分たちはひどい目に遭った」と叫んで本土から金をもらおうとしているかもしれませんが、はっきり言って、それは卑しい。なぜ、お金が絡んできた途端に卑しくなってきたかと言えば、戦後の風潮もあります。戦後の日本本土を悪く言わなければならないコリア人と同質の発想法に蝕(むしば)まれたのではないか、とみています。

 コリアの人々だって、日本人がそんなに悪いことをしたことがないと当時を生きていた人は誰もが承知していると評論家、呉善花(オ・ソンファ)さんが書いています。しかし日本軍が非常に悪かったというのは、李承晩以降の発想法であり、GHQ(連合国軍総司令部)の方針で、軍宣伝が広く浸透しました。

 それを利用して、事実にかかわりなく、日本をゆすろうという態度がコリアにも中国にもあります。その圧力の前に、事実をろくに確かめもせずに降伏したのが昭和五十七年夏のマスコミ誤報が発端の「教科書誤報事件」当時の宮沢喜一官房長官でした。

 今回も、渡嘉敷、座間味の集団自決に、何もないということが分かった途端に、沖縄は島ぐるみで「自決に関与した」と叫びだし、誤った情報を本土に向かって洪水のごとく流し始めたのです。

 われわれは沖縄が戦場となったことに心から同情しています。ですが、特攻隊で亡くなった人のほとんどは沖縄戦防衛のため亡くなっています。また本土が無傷だったということも全くない。六十四カ所全部焼かれた。東京は大空襲で一晩に十万人の住民が焼かれています。市民の死者の数を比較すれば、沖縄よりも多い。広島、長崎の原爆しかり、です。でも、本土の人は誰もが戦場となった沖縄が気の毒だったと思っていたのです。

 それ故、赤松大尉も梅澤少佐も地元住民に配慮したのです。その気持ちを酌んでもらわないといけない。それを利用して反対運動を展開する中核には、反日運動の勢力があります。その背後には、金が絡んだアジアの反日グループが存在する可能性もあります。情けないのは、それですぐ動く日本政府の人たちです。

 検定撤回を求める県民大会の様子を伝える沖縄の新聞を見ると、安保改正反対運動当時の新聞を思い出します。でも、終わってみれば日米安保は改正してよかったと気付いたのです。マスコミはこうした反対運動をしばしばやりますが、米軍によって殺害された住民の写真をあたかも日本軍によって自決させられたかのごとく紹介するのは、メディアが絶対やってはいけないことです。

 良識ある人たちはまず、大江健三郎氏を完全に謝罪させる運動から突破することでしょう。裁判で渡嘉敷、座間味島での自決命令がなかったとはっきりすれば、それだけで大きなポイントであり、それが肝心です。私たちは赤松、梅澤両隊長が地元住民にとって立派な将校であったということ、虚偽の記事を書いたのは沖縄タイムス『鉄の暴風』であり、それを検証せずに書いたのが大江健三郎氏であったという事実を広めていくことが大事ではないでしょうか。また、誤報から生まれた「近隣諸国条項」の取り消しを求める運動を進めていかないといけません。

 繰り返しますが、沖縄の人が太平洋戦争の時に最もよく戦い、われわれを感激させ、司令官を感激させた人たちです。日本が沖縄を捨てたなどと絶対思わないでいただきたい。どうか、歴史の事実に冷静に向かってほしいものです。

 万が一、沖縄戦の集団自決に軍の強制があったと明記する形を永続させる目的の「沖縄条項」などを制定すれば、愛する家族や許嫁(いいなずけ)を捨てて死んでいった若き特攻隊の英霊が泣きます。

(談)

 沖縄戦における特攻隊 日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史1 用兵篇』、生田惇著『陸軍特別攻撃隊史』によれば、日本軍は、約千九百機(海軍が千機、陸軍が九百機)の航空機と約三千人(海軍二千人、陸軍千人)の搭乗員を沖縄戦の特攻に投入。また、戦艦大和には有賀幸作艦長以下三千三百三十二人が乗艦した。

 近隣諸国条項 教科用図書検定基準に定められている「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という規定。昭和五十七年、高校の日本史教科書に、中国華北への「侵略」表記が「進出」に文部省検定で書き直させられた、という報道が発端となり、中国・韓国が抗議し、外交問題に発展した。当時の宮沢喜一官房長官が近隣諸国に配慮するとの談話を発表し、この条項が加えられた。だが、発端となった報道が「誤報」であると世界日報は最初から指摘。後に産経新聞も誤報だったと大きく報じた。「沖縄条項」とは、この近隣諸国条項の国内版であり、沖縄への政治的配慮の固定化を図る目的がある。

関連記事
 ・沖縄タイムスが“捏造写真”報道
 ・真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年

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「毒おにぎり」が海を渡る  仲里証言をニューヨークタイムズが報道

2007-10-18 06:00:10 | ★集団自決

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「県民大会」の実行委員長になり、更には「東京要請団」の団長として、仲里県議会議長の名前と顔はすっかり全国区になった。

地元マスコミでで仲里議長の名が一躍注目されるよったのは琉球新報の衝撃的「毒おにぎり」記事以来である。

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 
戦時中の食料事情を知る人なら、折角のご馳走の「白いおにぎり」に毒を入れる状況が理解できないと、この体験談に疑念を抱く人も多い。
 
だが、これがそのまま海外の新聞、それもあのニューヨークタイムズの記事となったとなると、歯止めなく世界中を1人歩きする懸念を抑えられない。
 
「戦地売春婦」が「性奴隷」の名の下に世界中を一人歩きしたように。
 
「11万人」集会がニューヨークタイムズの記事になったことを琉球新報が報じたが、Red Foxさんが元記事を全訳した結果、
 
琉球新報の訳文を原文に無いことを報じる「超訳」と呆れ返っていた。
 
詳しくは「またオーニシか! 沖縄抗議集会 琉球新報報道の怪 (Red Fox) 」でご覧下さい。
 
記事を書いたのは反日記事で有名なオーニシ記者ですが、翻訳者の岩谷文太さんは次のようにコメントしています。
 
このNYタイムズの大西記者の記事の情報源となってるのは多くが沖縄タイムズや琉球新報の記事なので、もともとがバイアスがかかってる訳ですが、結果として琉球新報が情報を提供して書かれたNYタイムズの記事を琉球新報が逆輸入して更に誇張して報じるという自作自演のマッチポンプ記事です。NYタイムズ自体はアメリカの朝日新聞みたいなものですから。

沖縄の事は本来は沖縄の民意が決める事ではありますが、問題は本土から乗り込んだ活動家であり、米軍の問題があってもそこには中国の脅威がある訳です。≫
 
≪しかし琉球新報のこれは幾ら何でも酷過ぎますね。まずNYタイムズの記事を報じてると装いながら内容を改変してる点、それから引用表記のルールの基本が全く出来てない点ですが、これは英語読解力など記者の能力の問題なのか、それとも意図的に印象操作をしてるのかは、この記事を見る限りでは何とも言えませんが、ロサンゼルス通信員という方なので恐らく確信犯の後者でしょう。そもそもロス通信員なら宜野湾市の抗議集会で直接取材した訳でないでしょうから、NYタイムズに書かれてる以上の余計な情報が入るのが不自然というものです。

 そういうクリエイティビティ溢れる琉球新報には『創作芸術大賞』を進呈したいと思いますw。≫

 
そのニュークタイムズ記事の中で、多くの証言者が「日本軍の残虐性」を訴えている。
 
特に沖縄出張法廷で証言した金城重明氏は本人の写真つきで紹介されている。
 
だが、金城証言に続く仲里議長の「毒おにぎり」証言が、
 
日本軍の残虐性を示す逸話として、世界中に飛び火していくことを危惧する。
 
以下はニューヨークタイムズ掲載の「毒おにぎり」の仲里議長の証言部分の原文と訳文です。

Okinawans Protest Japan’s Plan to Revise Bitter Chapter of World War II
http://www.nytimes.com/2007/10/07/world/asia/07okinawa.html

 One of the visitors to Tokyo was Toshinobu Nakazato, chairman of Okinawa痴 assembly.

Angered by the revisions, Mr. Nakazato broke a 62-year silence and talked about his own wartime experiences.

Inside a shelter where his family had sought refuge, Japanese soldiers handed his family members two poisoned rice balls and told them to give them to Mr. Nakazato痴 younger sister and a cousin, he said. Instead, his family fled into the mountains, where his younger brother died.

的知 already 70,・he said in an interview, 殿nd the memories of those over 80 are already fading. So perhaps this time was the last opportunity for us to resist.・/p>

その一人である沖縄県議会の仲里利信議長は、教科書問題に不快感を示し、62年の沈黙を破って自らの戦争体験を語った。

仲里さんの家族が難を逃れたガマ (濠) では、彼の家族に日本兵が2個の毒入りおにぎりを手渡し、仲里さんの妹といとこに与えるように言った。彼の家族は山に逃れ、そこで弟が亡くなった。

 「私はもう70歳ですが、80歳以上の人達の記憶は薄らいでいます。だから今が私達が抵抗出来る最後のチャンスなのかもしれません」と仲里さんは語った。(Red Foxさん訳)

                     ◇

 

■琉球新報により伏せられた仲里証言の“ある部分”■

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

(略)

 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)
 
                    ◇
 
「11万人」集会の実行委員長として、又「上京要請団」の団長としてすっかりテレビ露出の多くなった仲里県議会議長だが、
 
その前に「毒入りおむすび」証言で既にネット上では全国区の有名人になっていた。
 
だが、仲里議長の証言場面を動画で検証すると、琉球新報記事は証言のある重要部分を敢て伏せている。
 
仲里議長は、動画では概ね次のように話しているが、
 
上記新報記事では「壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない」の部分は省略されている。
 
この部分は「壕から日本兵に追い出された」という巷間流布している定説とはそぐわない。 
 
つまり琉球新報は、壕から出て行けと言ったのは日本兵でなければ今まで造り上げて来た残忍な日本兵のイメージが崩れると困るのである。
 
「壕から追い出した人物」と「毒おにぎりの人物」は同じ日本兵でなければ整合性が無いのだ。
 
そこで、新報は証言のある部分を伏せて報じた。
 
「壕から出て行けといったのは同じ県民だった
 
 
 仲里証言を【動画】で検証してみよう。http://www.youtube.com/v/J7rQo-hIIXo
 
文字おこしすると概ね次のようになる。
 
≪壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない。

ある人突然着剣した銃を持った日本兵が3人壕に入ってきて三才になる従妹に白いおにぎりに毒を入れて食べなさいといった。

家族一緒に死のうと壕を飛び出した。≫

「毒おにぎり」の仲里議長の証言もそうだが、それを報じる琉球新報が更に事実を隠蔽するようでは、沖縄の新聞は・・・、

何としてでも「沖縄県平和祈念資料館」に展示されている「銃剣で親子を壕から追い出す日本兵像」のイメージを造りたいのだろう。

 

参考エントリー毒入りおにぎりを渡された県議会議長

◆関連ブログ:沖縄集団自決問題 NYタイムズ記事検証

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コロコロ変る中山元文科相の歴史観

2007-10-17 20:05:44 | 教科書

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軍の命令、強制あった 集団自決で中山元文科相 (10月17日 12:29)

 自民党有志でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬元文部科学相は17日午前、沖縄戦での集団自決に関して旧日本軍の強制の記述が教科書検定で削除された問題で「軍の命令、強制は当然あったと思う。沖縄戦について、国会議員も国民もあまりに知らなさ過ぎる」と述べ、記述回復を図る動きに理解を示した。党本部で開いた同会役員会後に記者団に述べた。

 役員会では、集団自決に関する検証小委員会(萩生田光一委員長)を設置、今月中に初会合を開き、生存者や研究者を招いて聞き取りを進めることを決めた。

 同時に、教科書検定制度は堅持すべきとの立場を確認、近く首相官邸や文科省に申し入れを行うことを決めた。

(共同)

                                              ◇

沖縄サヨクマスコミとは立場を異にするはずの中山元文科相に一体何があったのか。

20日前にはこのように発言していた。

検定がないと誰でも教科書を作れてしまう。ある程度、調査する人(教科書調査官)がいないとえらいことになる。日本は国定教科書ではない」

殉国死でなく犠牲者だ/中山元文科相に聞く」(沖縄タイムス 2007年9月27日 )

「従軍慰安婦問題」では頑張った中山氏だが、

一ヶ月足らずで歴史観がこうも変る政治家も珍しい。

 

■沖縄タイムスVS中山元文科相■

しかし、これを遡る三ヶ月前、中山元文科相は、沖縄タイムスに言質を取られていた。 

その経緯は國民新聞の次の引用記事に詳しい。

≪ 沖縄タイムスが誤報か
中山元文科相の「軍命」容認発言

沖 縄 戦「集団自決

自民党の教育再生に関する特命委員会(委員長・中山成彬元文科相)が六月十二日、党本部で開かれ、文科省が昨年度教科用図書の検定結果を説明した。沖縄県選出の仲村正治、嘉数知賢両議員は沖縄戦「集団自決」への日本軍関与を高校歴史教科書から削除したことを批判した。

沖縄タイムス六月十三日付によると、中山委員長は記者会見で

「沖縄の二人からの身につまされる話があった。教科書は(中国など)外に弱くて内に強く、私に言わせればおかしい。沖縄戦での軍命による殺し合いを否定するなんておかしい」

と同調したと報じた。中山事務所では

「そんな話し方はしていない」

として沖縄タイムスに抗議することを検討中だが、沖縄タイムスはテープに残っているという
≫(國民新聞 平成19年6月25日)

                    ◇

「教科書検定制度は堅持すべきとの立場を確認」しながらも、

「沖縄戦での集団自決に関して旧日本軍の強制の記述が教科書検定で削除された問題で「軍の命令、強制は当然あったと思う」と断定する根拠は何なのだ。

これではまるで二枚舌ではないのか。

中山元文部科学相は結局「軍の命令、強制は当然あったと思う」として教科書調査官へ圧力を加え

政治家の歴史への介入という大愚を犯すつもりなのか。

それとも何か、沖縄タイムスに弱みでも握られたのか。

 

◆参考エントリー:

沖縄タイムスVS元文科相

 

一ヶ月足らずで歴史観がコロッと変る中山元文科相は、
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コメント (3)

緊急!元渡嘉敷郵便局長・徳平秀雄さんの証言

2007-10-17 05:25:00 | ★集団自決

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沖縄タイムスをはじめ地元マスコミは「不都合な証言」には封をして、県民をイデオロギーの世界へ駆り立てた。

その集大成が「11万人」集会であった。

その余熱が冷めるのを恐れるかのように大人数の「要請団」を次々と東京へ送り込んでいる。

だがこの熱に浮かされたような集団のなかに、民主主義と歴史の検証の関係が分かる人が何人いるだろうか。

拳を天に突き上げるその言動を見ると、殆どの人が民主主義の多数決と、集団の圧力で歴史を変えることを同次元で考えているように思える。

だが、これは民主主義ではない。

彼らは歴史を人民裁判で決めることを要求しているに他ならない。

人民裁判とは、

「多数者が法律によらずに少数者を私的に断罪すること。集団の圧力で行われる吊し上げで物事を決めることをいう。」

                  *

以下に掲載する元渡嘉敷村郵便局長・徳平秀雄氏の手記を、過去に報道した地元マスコミの存在を筆者は寡聞にして知らない。

この詳細な「集団自決」の手記に軍の命令を求めるのは困難だ。

だが、これを目にした「沖縄戦史の専門家」は口を揃えて次のように言うだろう。

「日本軍や戦争体制によって強制された死であり、日本軍によって殺されたと言っても妥当であると考える」

「直接誰が命令したかは、それほど大きな問題ではない。」

「部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう(20)識者に聞く(3) (沖縄タイムス)

これを称して「画一的教条論の羅列」という。

言葉を変えれば「すり替え論」ともいい、もはや論理の一欠けらも見出せない。

                  


 

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2

渡嘉敷島の集団自決                         …762P
渡嘉敷村字渡嘉敷
                        元渡嘉敷郵便局長 徳平秀雄

 甲種合格全国一の渡嘉敷村
 私は昭和3年徴兵検査を受けました。県立師範を卒業して、郷里で教職についたばかりでありました。検査場の小禄村の学校には、地元の小禄村の他豊見城村、渡嘉敷村から若者たちが集められていました。
 渡嘉敷は私も入れて18名、人数はいちばん少ないのですが、一目瞭然、私の村はぬきん出た屈強な若者ぞろいで、他村を圧倒的に抑えて、18名中ただ1人が第1乙でその他は甲種合格。しかもその年度の合格率全国第1になり、朝日新聞社から賞状をもらいました。それ以来、連続5回全国第1位の地位を保っていました。

(略)

 3月23日
この村では、適齢の男性は、ほとんど防衛隊にとられ、村長と私とが最後まで招集をうけてはいません。鈴木部隊が引き揚げ、替わって特攻隊の赤松隊が、戦闘の配備につく頃、村長も私も、仕事と云えば、軍の要求を民間におろすことで実質的には、私たちは赤松隊長の下で、働いていたに過ぎません。
3月23日、早朝、私は、その前の日に渡嘉敷を訪問していた鈴木基地隊長の宿舎に挨拶にいっていました。温厚な鈴木隊長は渡嘉敷で陣地構築中、私の家にしばらく滞在していました。その時の謝礼にと、黒砂糖と煙草をわざわざ届けて下さったので、お礼を申し上げようと訪ねた所でした。突然聞き憶えのある爆音です。グラマンに決まっています。私は、鈴木隊長殿、御元気で、私は帰りますと、挙手の礼をして、一直線自宅に戻りました。
軒に吊したザルの中には、昨夜の彼岸祭りの、のこり物が入れてあります。私は、家に入りしな、ザルに手をやり、ワシ掴みに、豆腐やら、モチやら、ほおばりながら、貴重品を革鞄の中に納め役場の壕に行きました。そこには、作業中の兵隊や役場の職員がつまっていて、寸分の隙間もありません。
私は壕の外のついたてに、せいいっぱい身を寄せていました。機銃掃射は砂煙をたてて、地上を這い回っていました。
その頃妻子らは、自持の山の避難小屋で寝泊まりしていましたが、空襲の朝は、ちょうど山から下りて、学校の仮校舎に差しかかった所で、壕を求めて、遁走している私とぱったり会いました。私は有無を云わさず、子供の手をとって、再び山の壕へつっ走りました。田圃のアゼ道を2町にも足りない距離を、走って、1里もの道程のようでした。
空襲は今までにない激しいものでした。渡嘉敷はあちこちから火の手があがり、今に村全体を包まんばかりのいきおいで燃えていました。
私の家は残っていました。しかし向かい会ってる役場といい、私の家といい形が変わっているようでした。入り口の福木の大木が2本、なぎ倒され、裏に廻ると、1番座敷に小型爆弾が投下され、屋根に直径2メートルばかりの穴を開け、一直線に、ちゃぶ台の真中を通り、床に突き抜けていました。一面に飛び散っているのは、先祖の位牌、書籍類、古い道具箱、もうそこは手のつけようもありませんでした。福木のすぐ下には、米、味噌、鰹節など、壕を掘って保存してありましたが、陰も形もありませんでした。23日は、しかしこれでおしまいではありませんでした。夜になると、山といわず、村といわず、焼夷弾を投下して、焼き払っていました。

初めて米兵を見る
23日から始まった空襲はそのまま、24、25日と激しさを増すばかりで、いっこうに、おとろえる気配はありませんでした。とうとう艦砲射撃を見舞わされるまでになっていました。
27日昼、壕を出て小用を足していました。ひょいとなんとなく前方の山の頂を見ていました。まさかとおもった兵隊がてって、こちらを双眼鏡でのぞいているのです。自分のめを疑いました。沖縄にまで米軍が上がってくるなんて信じられませんでした。
とたんに私は身がふるえだし、言葉も出ません。小屋の中で家族の物にどう伝達したか記憶にはありませんが、「アメリカ-が、アメリカ-が…」と言葉はこれ以上出ません。手まねで納得させたのでしょう。
ここは危ない、私たちは、かねて準備してあった西山陣地の後方、恩納河原の避難小屋めざして出発した。誰の命令だったか知りません。その時村民も、私たち同様、恩納河原に向かってぞろぞろ歩いていました

集団自決
那覇に嫁いでいた私の姉は、中学生の長男を残して、10・10空襲で焼け出されたために、私の所に同居していました。私の家族は妻と子供2人。私は末っ子をおんぶし、姉とその小さい子供たち4名をひきつれて、泥んこの中を歩いていきました。
村はずれまで来ると、私の恩師の真喜屋先生御夫妻に会いました。真喜屋先生は、首里の人で、渡嘉敷小学校の校長を最後に永い教員生活を辞められた方で、渡嘉敷を第2の故郷ときめ、そのまま島を去らずにおられた方でした。
先生は、始めは私の誘いも断っていましたが、私は半ば強引に、西山へ皆行くし、あそこなら万一のことがあっても、私がご一緒していますから、面倒を見ることも出来ますと、いうと、そうですかと、ひとことおっしゃって、しぶしぶ私について来られました。私にはこの次に何が起こるのか、見通しがつきませんでした。
私たちは真っ暗闇の中を、手さぐりで進んで行きますと、しのつく雨はいよいよ強く、私たちの行く手をさえぎっていました。末っ子をおぶって、その上にすっぽり被っていた綿入りの丹前は水を吸い込んで、重い荷物になっていました。
恩納河原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現れ、わいわい騒ぎが起きました。艦砲はいよいよ、そこに当たっていました。
そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。
敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。
防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。
思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決ときまると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、体を洗っている者もいました。
そういう状態でしたので、私には、誰がどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。
私のグループは、私は4才の長男を膝の上に置き、2才の長女は妻が抱いて、私の向かいには、私の妻の兄の村長一家が陣どっていました。
何とか村長はいっていました。私は目をつぶって今、自分が死ぬのを待っていました。私は、何も考えませんでした。つとめて、正常ではなかったかと思います。村長はパカパカ叩いては自分のふところに入れ、それをくり返していました。
発火しない手榴弾にわたしはいら立ち、村長から奪いとって、思いきり、樫の木の根っこに叩きつけるのですが、やっぱり発火しません。周囲は、どかんどかん爆発音を発していました。その時、米軍の迫撃砲がいちだんと激しくなり、ばたばた倒れる者が居りました。このときの迫撃砲で死んだのも少なくはありません。
どかんどかん撃ち込まれる迫撃砲をのがれて、私たちは死にそこねていました。たぶんそうだったでしょう。
その時私は悪夢からはっきり覚めたようでした。村長をせかせて、私たちは、そこを離れました。
姉の長男と長女が手をつないで立っていました。そばには姉と赤児の死体がころがっていました。私たちは西山の日本軍陣地に向かっていました。日本軍に何かしてもらわなくてはならないと自然に足がそこに向いたのは当然です。
西山陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。迫撃砲も更に激しく、陣地を追われて逃げまどう村民をおっかけて来るようでした。終始、私の後ろについていた妻が「うん」とうなって、しゃがみこみました。妻は苦しそうに腹を押さえているのですが、指の間から腹わたがとび出ていました。子供だけは必ず助かるよう、私に早く皆と一緒に逃げるよう哀願していました。私は水を置いて、そこを離れ恩納河原下流をめざして下りて行きました。
2日間どうしていたか、記憶にありません。私は再び自決現場に戻っていきました。もしや妻が生きているのではと、しかし妻はどこにも見あたりません。妻がどの変に倒れていたのか方向を知りませんでした。私はその時どうせ生きられまいと思うことと、シンでたまるかという生への執着心が交差しているようでした。この地獄の如き様相をまのあたりにしていると、はっきりと自分というものがわかって来たようでした。
私は死んだ人の持ち物から、米を探して生米を噛み、唾液と一緒に2才の娘の口に流し込んでいました。私は、山を降り茶山を通って、自分の壕にもどって来ました。自決の日から3日目の3月31日でした。(略)

                                              ◇

【追記】

教科書検定を守れ!議員会館前の抗議街宣に結集を

<『語る』運動から『行動』する運動を
         議員会館前で良識派国民の声を上げよう>


“日本軍関与”は朝日が目論む第二の「慰安婦強制連行」
朝日新聞は沖縄戦で起きた住民の集団自決を巡り、意図的なすり替え報道を行っている。9月29日、宜野湾市で開かれた集会決議の「集団自決に軍が関与したことはあきらか」の部分をあたかも歴史の真実と言い張り、教科書検定の見直し諮るのが当然とのキャンペーンを繰り返している。

朝日のねつ造報道と国会議員の無責任をこのまま放置すれば、「日本軍の住民虐殺」というとんでもない歴史偽造が青少年の精神に注入される。『語る』運動では危急の事態を打開出来ない。議員会館前で良識派国民の声を上げよう。

日時:平成19年10月19日(金)午前11時半から

場所:衆議院第二議員会館前(地下鉄・国会議事堂前)

※雨天決行

連絡:(西村090-2756-8794)

【呼び掛け】
主権回復を目指す会
電話03-5281-5502
Fax03-5281-5603

 

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コメント (7)

【爆笑追記】「11万人」は一万三千三十七人だった。 

2007-10-16 19:29:11 | 教科書

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「数が問題じゃない」

という人もいるようだが、

数にこだわる人もいる。

時間と労力をかけて,

「11万人」を徹底的に検証した人がいた。

多久善郎さん、熊本大学の皆さん

ご苦労さんでした。

以下は「世界日報」の記事です。

                     ◆

平成19年10月16日

沖縄戦教科書検定問題:撤回求める県民大会、「1万5千人~2万人」


地元紙掲載写真でカウント/主催者発表「11万」の7分の1

 先月二十九日、沖縄で開催された「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の参加者数を主催者は十一万人と発表したが、地元紙に掲載された大会写真から「参加者は一万5千人からせいぜい二万人」との指摘が出てきた。五万人を目標に、無料バス・チケットの配布や、学校行事の変更をして生徒や学生までかり出すなど、なりふり構わぬ動員体制を敷いたものの、結局は「完全な失敗」だったという見方が広まっている。

 琉球新報見開きで報じた検定意見撤回県民大会の写真に写っていたのは、13037人だった 

 大会は沖縄県宜野湾市の宜野湾海浜公園で開かれた。翌日付の琉球新報は一面と三十六面見開きで本社チャーター機から会場全体を撮影した写真を掲載。日本会議熊本理事長、多久善郎氏はこの写真に写っている数のカウントを熊本大学の学生に依頼。一週間かけて確認作業を行った結果、写真に写っていたのは一万三千三十七人だった。

 多久氏は大会当日、会場に開会二時間前に到着し、場内を歩いて実測。「大会ではほとんどの人が座っており、せいぜい一、二万人だろうと見たが、写真に写った数もそれを裏付けた。もちろん参加者全員が写真に写っていないという反論が出るだろうが、周辺を入れても一万五千人、多く見積もっても二万だ」と語る。

 沖縄県警の調べでは、未公表ながら四万二千人(三日付で報道)。二万人以上のギャップが生じる理由を、多久氏はこう分析する。

 「大会後、県警関係者に会って確認したが、彼もまた参加人数は二、三万人だろうと見ていた。四万二千という数字は、大会を主催する左派系団体への配慮ではないか」

 産経新聞は七日付一面トップで「参加者は『4万人強』/『11万人』独り歩き」/主催者にモノ言えず」と報道。その中で沖縄県警が公式発表を控えている背景について、「十二年前の県民大会参加者数を主催者発表より二万七千人少ない五万八千人と公表、『主催者から激しくクレームをつけられた』(関係筋)経緯があるからだ」と言及している。

 いずれにしろ、県内の自治体、各種団体、学校への参加を半ば「強制」しながら、なりふり構わぬ動員体制を敷きながらも、目標の三分の一程度で終わったというのが県民大会の実像だったということになる。

 同海浜公園では昨年三月五日、米軍普天間飛行場移設に反対する「沖縄県民総決起大会」が開かれている。この時、実行委員会は「目標の三万人を超える三万五千人が集まった」と発表したが、沖縄県警の調べでは六千人(未公表)。六倍近い“水増し”だっが、今回は更にふくらませたことが明らかになった。

                                     ◇

【追記】 

「人数の問題ではない」の論理的破綻(爆笑!)

 

25 o'clock さんより引用

主催者発表の水増しは良くあることなので問題なし

朝日新聞
10月12日付朝刊 「声」
「沖縄県民大会 人数に意味は」
大学院生 中川登志男 (神奈川県茅ヶ崎市 32歳)

+ + + + + + + + + +
 沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したしたとの記述が教科書検定で削除された問題で、沖縄県宜野湾市で抗議集会があった。
 だが、主催者発表の参加者数「11万人」は不正確で、「県警幹部」が証言した「4万人強」が正確な数字だ、と報じた記事もあった。
 主催者発表が水増しされること自体はよくあることで、今回の「11万人」も不正確な数字である可能性は否定できない。その一方で、「4万人強」も正確な数字である保証はない。警察が不正確な情報を流すことも、最近では珍しくないからだ。
 「11万人」であれ「4万人強」であれ、人口約137万人の沖縄で、万単位の人が大会に集まった事実は重い。
 「軍の強制」を認めたくない立場からすれば、「沖縄の怒り」をできるだけ過小評価したいのだろう。だが、そもそも参加者数をうんぬんすることに、どれほどの意味があるのか。
 むしろ、教科書検定制度についての議論を深める方が、今後の学校教育や歴史教育の在り方を考えるのに有益ではないか。




>万単位の人が大会に集まった事実は重い。
>そもそも参加者数をうんぬんすることに、どれほどの意味があるのか。

どっちなんだよ!!

 
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将来禍根を残す検定撤回

2007-10-16 11:45:45 | 教科書

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検定撤回は将来禍根 米軍施政下「沖縄戦の真実」封印

2007.10.15 22:27
  高校日本史教科書の沖縄戦集団自決に関する記述で、「日本軍に強いられた」と書いた教科書に検定意見がつき修正された問題は、沖縄県側の大きな反発を招き、政府を揺さぶっている。15日も、沖縄県の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長を務める仲里利信県議会議長が、大野松茂官房副長官を首相官邸に訪ね、記述の回復を要請した。だが、検定は近年明らかになった事実や新証言をもとに「軍が命令したかどうかは明らかといえない」と指摘したにすぎず、軍関与は否定していない。県側が過敏ともいえる反応を示したのはなぜか、背景と事情を探った。(阿比留瑠比、小田博士)

 ■沖縄県内からも異論

 昭和20年の渡嘉敷島の集団自決をめぐっては昨年8月、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄氏(83)が産経新聞の取材に対し、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにした」と証言し、「軍命令」説を否定した。

 照屋氏はこの発言後、「相当な嫌がらせを受けた」(関係者)というが、同様の認識を示す人は沖縄県内にもいる。

 元宜野湾市議の宮城義男氏(83)は「同年配の各市町村の幹部らとの私的な会合では、『軍命令はなかった』『遺族年金をもらうために軍命令にしたということだ』といった話をよく聞いた。しかし、こういう話は表に出ない」と話す。

 宮城氏自身も陸軍病院などで傷病兵らの看護にあたる「ひめゆり学徒」だった妹を沖縄戦で亡くした経験を持つが、「軍の関与はまぎれもない事実だが、軍命令は推論にすぎない」との立場だ。

 また、泣き声で米軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。

 匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語る。

 ■米軍施政の呪縛

 集団自決の「軍命令」説を最初に報じたのが、地元紙、沖縄タイムス編の「鉄の暴風」(朝日新聞社、昭和25年初版発行)。作家、大江健三郎氏の「沖縄ノート」など、軍命令を事実と断定する著作の多くは、この「鉄の暴風」の記述・内容を引用したものだ。

 ただ、明星大戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は「この本は全然実証的ではない」と強調する。確かに、同書は集団自決の現場での取材は行っていない上、生存者について「不明死を遂げた」としたり、事実関係が違っていたりするなどの不備が少なくない。

 勝岡氏は同書が米軍施政下の沖縄でラジオ朗読されて広まった経緯や、当初は米軍の「高いヒューマニズム」をたたえていたことなどを例示。連合国軍総司令部(GHQ)が日本人に戦争に対する罪悪感を植えつけた宣伝工作「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」との共通点を指摘し、こう語る。

 「この本の歴史的意味は、沖縄県民の敵を、米国から日本軍へと置き換えさせたことだろう

 沖縄在住のジャーナリスト、恵隆之介氏は「沖縄では、軍命令を疑う意見は地元紙に一切掲載されず、今も言論統制が行われているのに等しい。戦後、米陸軍第8心理作戦部隊が『沖縄県民は日本国民に差別された。その帰結が沖縄戦の悲劇だ』と反日宣伝を徹底したが、それが定着してしまった」と話す。

 ■慰安婦問題との類似

 今年3月の教科書検定では、集団自決での日本軍の「強制」を示す記述は削除修正されたものの、軍の関与自体はそのまま残っている。

 にもかかわらず、批判が相次ぐことに対しては、「慰安婦問題のときと同じだ」(自民党議員)との指摘がある。

 慰安婦問題では、当初は強制連行の有無が争点だったのに、強制連行の証拠が見つからないと、今度は軍関与自体が問題だとすり替えられた。「『従軍慰安婦』という言葉は戦後の造語であり、当時はなかった」と指摘した学者や議員は、「従軍慰安婦(の存在)を否定する人たち」(土井たか子元衆院議長)とレッテルを張られた。

 平成17年度の高校教科書検定の慰安婦記述では、旧日本軍による強制連行に検定意見が付いたものの、主語のない強制連行の記述は認められた。文部科学省内には「軍の強制性が争われた意味では構図が同じ。今回の政府対応次第で、慰安婦についての軍命令復活を訂正申請する出版社が出てくるだろう」(幹部)との危惧(きぐ)もある。

 ■検定制度揺るがす

 渡海紀三朗文科相は、記述訂正の可否を審査する教科書検定審議会について、検定意見の修正にも柔軟な構えだ。ただ、これには「中国や韓国から同様の働きかけがあったら拒否できるのか」と懸念する声が出ている。中立・公正という検定制度の趣旨をないがしろにすれば、今後、中韓の教科書訂正要求をはねつける根拠は失われかねない。

 「すべての集団自決に軍が関与したというのは不正確だ。大臣に(検定を)撤回する権限があるほど日本は怖い国ではない

 前文科相の自民党の伊吹文明幹事長はこう指摘し、政治介入はしない方針を貫いていた。一方、後任の渡海氏は「(沖縄県民大会には)あらゆる党派、階層が参加した。従来とは違う。(訂正申請には)真摯(しんし)に対応したい」と方針を転換した。

 教科書執筆者の一人は「沖縄戦の犠牲に対する共感や配慮は必要だが、検定とは分けて考えるべきだ。政府の介入は教育行政において『不当な支配』を禁じた教育基本法第16条に抵触するのではないか」と批判する。

 一方、検定撤回運動を続けてきた沖縄県の教職員組合が6月に作成した資料は「撤回は文科相の政治判断であれば可能。執筆者が訂正申請すれば(撤回の)可能性が生ずる。その時、世論が関係する」と記していた。現実はこのシナリオ通りに進んでおり、政府が対応を誤れば将来に禍根を残すことになる。

                      ◆

以下は愛読ブログ「逆風って気持ちいい!」さんより丸ごと引用です。

歴史教科書

沖縄から160人を超える要請団が上京し、記述の回復と検定意見の撤回を求めている。

高校生に教える内容がどのくらい詳しくなければいけないのかは意見の分かれるところでしょうが、私は、集団自決などの悲惨な事実があったというレベルで十分だろうと思う。

我々は、時空間の中で生き、そこから逃れることは誰にもできはしない。
歴史教育の中で沖縄戦だけを殊更強調するのも「時」の制約を受けるのは仕方のないことだ。
100年後の歴史教科書に同じ紙幅で記述されている歴史的事実などないはずだ。

まして歴史の教科書は、週刊誌やトンデモ本とは違う。学校での授業は「犯人探し」の場でもないはずだ。集団自決という事実を記述している現在の教科書は、十分その役目を果たしているといえる。

「未来の子ども達に正しい歴史教育を!」と叫んだとて、歴史の蓄積には逆らえないのだから、六法全書以上の、紙幅の教科書を子どもに使用させるわけには
いかないはずだ。

歴史の研究は大学にいってから専門的にすればよい。
したがって今回の問題で文科省は「要請団」におもねる理由などない。

彼らに教科書検定を妨害できる権利という既成事実を与えてはいけない。
わが国の未来の子ども達のために!

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