慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

世界三大宗教(宗教家への道)

2017年05月11日 | 宗教
三大宗教の教祖の宗教家への道

イスラム教とキリスト教は、一神教で啓示宗教です
 ☆啓示(何らかの究極的な真理が、神もしくは聖なる存在者によって人間に示されること)
仏教の教祖ブッダは、啓示を受けていません
 ☆苦行では何も得られず、瞑想と禅定により自ら真理に到達した(悟りを開いた)
 ☆真理に目覚めるまでの道程は、独力で乗り切りました
 ☆イエスやムハンマドと大きく異なります
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、世界『三大宗教(洋泉社)』(中法大学保坂教授)






宗教家への道(世界『三大宗教(洋泉社)記事より画像引用)

イエスの宗教家への道
ユダの裏切りによってイエスが捕らえらました
 ☆大祭司邸に連行されたとき一部の人は逃げ隠れしました
信者のなかには、連座を恐れず、刑死の瞬間に立ち会った者も多数いました
イエスと十二使徒
 ☆復活したイエスの姿を目にしてからは、信者は二度と心揺らぐことが有りませんでした
 ☆最期まで布教活動に奔走しています

ムハンマドの宗教家への道
ムハンマドの死去で、アラビア半島の部族民で離反した者もいました
死後離反者が生じた理由?
 ☆彼が聖職者の制度を定めず、後継者も指名しなかったので教団内が混乱
カリフ(ムハンマドの後継者の意味)が選出され、「啓示」やムハンマドの意思が継承されました
イスラム教は急激なスピードで世界に広まりました
 ☆布教時に強力な武力、ジハード(聖戦)も大きな要因す
 ☆イスラム教は、政教一致、聖俗未分離ではじまりました

ブツダの宗教家への道
ブッダは、「生・老、病、死」人間にとって避けられない苦しみを目の当たりにしました
苦行者を目にしたことが、出家への道のきっかけといわれています
悟りを開いてから亡くなるまでの45年間
 ☆王族から下層民まで多くの信者に真理を説いてまわる
仏教教団は、出家信者と在家信者からなっていました
特別優秀弟子10人は「十大弟子」と呼ばれていました
 ☆ブッダの人となりに心服して、その教えにも純粋に帰依した人々でした


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世界史(春秋五覇、戦国の七雄)

2017年05月11日 | 歴史
春秋五覇、戦国の七雄が争つた戦乱の時代

周王朝が衰え、有力諸侯が覇者を目ざす
春秋時代をへて「戦国の七雄」の時代へ
戦国の7雄国富国強兵策を推進
 ☆鉄製農具や牛耕の登場により農業生産力が向上
 ☆商工業も発達した、青銅貨が鋳造される
 ☆諸侯は、治水や灌漑、未開地の開墾、新都市の建設を進めた
諸国は、支配地の邑を県とし、行政単位に置きかえ領内支配を強めた
戦乱の世では、支配体制を強固のために人材と思想が求められた
 ☆諸子百家と称される思想家が活躍
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂)』




戦国の7雄(世界史(成美堂)記事より画像引用)

長い戦乱の時代へ
異民族が周の都、鏑京に侵入、周は都を東の洛邑に遷した(東周)
遷都以降、周王の権威は衰え、諸侯が各地で覇権争いを展開する戦乱の時代となる
春秋時代(東周の前期)には、200あまりの諸侯があった
 ☆春秋の五覇に有力諸侯に併合されていく
覇者らは、周王を尊び、異民族を退ける尊王攘夷を名目として勢力拡大に努めた
その後、諸侯の下の大夫層が政権を奪う下剋上が起こるようになる
諸侯が王と称して領土拡大を図る戦国時代

戦国の世に生まれ諸子百家
春秋・戦国時代に、各地で活躍した思想家たちを総称
この時代は、中国の社会・経済ともに大きな変動期
封建制の崩壊により、新しい思想を生むことになった

儒家(孔子を祖とする学派)
家族に対する孝悌(こうてい)を重んじる
それを他に及ぼす「仁」を最高の道徳とする
孔子の後、孟子(もうし)、荀子(じゆんじ)を輩出
儒家は、前漢時代には官学となった

墨家(ぼっか)(墨子を祖とする学派)
手工業従事者や農民が中心で、博愛主義の兼愛、絶対平和の非攻を唱えた
儒家と並ぶ勢力となった

法家(韓非(かんぴ)祖とする学派)
法に基づく厳格な政治を行い、権力を君主に集中
富国強兵を図ることを説く学派

道家(老子を祖とする)
万物は「道」に従ってあるがままにある
道にのみ従って生きる無為自然の立場に身を置くことを説いた




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伊達政宗(遅れてきた英雄)

2017年05月11日 | 歴史上の人物
伊達政宗のミステリー(戦国時代の武将)

幼いころ、天然痘で罹り右目を失明した
 ☆名僧虎哉宗乙、重臣片倉景綱の指導の下、自らの心の殻を破り家督を譲られる
伊達政宗は、領地を拡大、朝鮮出兵、大坂夏の陣などにの戦にも参戦
伊達政宗には型破りなエピソードが多い
 ☆豊臣秀吉を驚愕させた死装束
 ☆政宗の一揆扇動の弁明で秀吉に謁見の衣装は、磔の衣装と金の十字架
 ☆秀吉の出兵依頼での伊達家の部隊の戦装束は絢爛豪華
伊達政宗は弟を殺していなかった!?
信長や秀吉より30歳も若く〝遅れてきた英雄"とも称される政宗
伊達政宗は天下取りを何故出来なかったのか?
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、番組BS11(尾上松也謎解き歴史ミステリー)、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)












伊達政宗(尾上松也謎解き歴史ミステリー番組画面引用)



伊達政宗幼少期
患った疱瘡(天然痘)により右目を失明
自らの心の殻を破り、独眼竜として見事に立ち直る
「独眼龍」は、中国の唐王朝、軍事的に最強と謳われた李克用のあだな
 ☆克用一目微眇(片方の目が見えない)なり、これを独眼龍と謂う

伊達政宗の死装束
秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)で、小田原参陣を催促され会津を出立する
米沢・小国を経て、越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った
 ☆伊達政宗は、約2ケ月遅れ小田原征伐に参戦
遅参の詰問に来た前田利家らに
 ☆千利休の茶の指導を受けたいと申し出秀吉らを感嘆させた
秀吉との謁見では、豊臣秀吉を驚愕させた死装束
 ☆秀吉の派手好みの性格を知っての行い?

伊達政宗の弟殺害?
小田原参陣前に、義姫によって毒殺されそうになる
義姫を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺
 ☆義姫は実家に逃走した?
「毒殺未遂事件」は、反政宗派一掃のための狂言説?
 ☆弟は殺害していない

伊達政宗が「伊達者(だてもの)」と言われる所以
伊達政宗が一揆を煽動したのか?疑いをかけられる
政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許される
 ☆謁見の衣装は、磔の衣装と金の十字架
秀吉の文禄の役に従軍
 ☆政宗が伊達家の部隊の戦装束は絢爛豪華なもので、上洛の道中で巷間の噂となった

伊達政宗が、豊臣・徳川と上手に渡り歩けたのは?
幕臣との交際が多くなる
 ☆政宗の交際は情報収集のための一端
 ☆贈答品に心をくだいたり、酒宴、歌会、茶会、能見物等に懸命であった
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図
政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命
 ☆家臣・支倉常長ら一行をローマ他へ派遣した

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