🌸一神教と多神教は対立するか1
⛳西洋は「神」、東洋は「空・無」
☆日本では、 一神教と多神教とが対立するものと考えられている
⛳西洋は「神」、東洋は「空・無」
☆日本では、 一神教と多神教とが対立するものと考えられている
*一神教ではもっばら一つの神だけが信仰の対象になるために
*他の神々が排除され排他的な傾向が生まれる
*多神教では多様な神々が信仰の対象で、優劣がつけられない
*異なる信仰に対しても寛容であると日本では理解されている
*多神教では多様な神々が信仰の対象で、優劣がつけられない
*異なる信仰に対しても寛容であると日本では理解されている
*一神教が批判の対象にされることが多い
*「砂漠の宗教」と「森の宗教」の対立の風土論が重ね合わされる
☆一神教は自然環境が厳しい砂漠で生まれた信仰に対して厳しい
*「砂漠の宗教」と「森の宗教」の対立の風土論が重ね合わされる
☆一神教は自然環境が厳しい砂漠で生まれた信仰に対して厳しい
*豊かな自然に恵まれた森のなかで育まれた多神教とは、性格が異なる
☆日本人には、一神教と多神教との対比で八百万の神を信仰する点で
*多神教、日本の宗教の寛容性を高く評価しようとする
*価値判断が強く働いている
⛳一神教のなかに多神教的な側面を見出せる
⛳一神教のなかに多神教的な側面を見出せる
☆キリスト教の三位一体の教義において
*父と子と聖霊一体であるとされるが
*その考え方に多神教的な神観を見出せる
*キリスト教では、時代を経るにつれて
*キリスト教では、時代を経るにつれて
*聖母マリアに対する信仰が高まりを見せる
*父なる神やイエス・キリスト以上に信者たちの信仰を集めてきた
*父なる神やイエス・キリスト以上に信者たちの信仰を集めてきた
☆神学の世界においてもマリアの重要性は増してきている
*聖人、聖者の信仰もしだいに盛んになってきた
*聖人、聖者の信仰もしだいに盛んになってきた
*聖者に対する信仰は、日本の八百万の信仰にかなり似ている
*ご利益信仰である点で共通しているからだ。
☆キリスト教以上に唯一絶対の神への信仰を強調するイスラム教
☆キリスト教以上に唯一絶対の神への信仰を強調するイスラム教
*やはり聖者信仰が盛んである
*神の絶対性が過度に強調されると
*人間界との関係は希薄になり
*日常的な悩みや苦しみからの救いを神に期待できなくなる
*日常的な悩みや苦しみからの救いを神に期待できなくなる
☆そこに、より身近な存在である聖者の役割がある
* 一神教にも多神教的な側面が見られる
⛳仏教は、創造神話自体が存在しない
☆仏教では、私たちが生きている世界の究極的な原理として示されるのは
*「空」や「無」といったとらえ方である
☆仏教では、あらゆるものは固定的な実体をもたず
*絶えず生成と消滅をくり返していくにもかかわらず
*それに執着するところに苦が生まれるというのが
*仏教の基本的な認識である
*そこから仏教的な救済論が形成される
(一神教における神に対比されるものは、空や無)
☆仏教では、世界の成り立ちを説明する際に空や無を前提とし
(一神教における神に対比されるものは、空や無)
☆仏教では、世界の成り立ちを説明する際に空や無を前提とし
*因果にもとづいてさまざまな現象が生み出されるとする
*その因とのくり返しが現実の世界の多様性を生み出していく
⛳多神教の仏教に対し、一神教の立場からすれば
☆さまざまな神々を同時に信仰する多神教
*劣った存在を崇拝する偶像崇拝として批判の対象になる
*近代の進化論的な科学観で、多神教から一神教への進化が説かれた
☆空や無というとらえ方
☆空や無というとらえ方
*絶対的な神の存在を否定し
*世界の究極的な姿を虚無としてとらえる点で
*根源的なニヒリズムとして受け取られる可能性がある
☆神のような究極的な実在がないからこそ
☆神のような究極的な実在がないからこそ
*人間は自由であり、世界は多様な姿をとり豊だととらえる
☆一神教と多神教という側面からではなく
☆一神教と多神教という側面からではなく
*神と空、神と無という視角から
*西洋の宗教と東洋の宗教とを対比させるべきなのである
(敬称略)
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⛳出典、『世界の宗教がざっくりわかる』





『一神教=多神教の側面が(聖母・聖人)』『仏教の神=空・無』
(ネットより画像引用)
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