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『曹洞宗、カルト宗教』『正法眼蔵』『螢山紹瑾』

2024年12月31日 | 宗教
🌸葬式仏教の生みの親道元の曹洞宗2

カルト宗教と見なされた道元とその弟子たち
 ☆道元の宗教思想を説明することは容易ではない
 *入宋時における道元の悟り明らかにできない
 *帰国した道元は京に上り、明全のいた建仁寺に身を寄せる
 ☆道元は、建仁寺に3年ほどいた後、深草の安養院に退く
 *当時は、禅宗が比叡山の反感を買うようになっていた
 *迫害を避けるために隠棲したとも言われている
 *安養院に近い宇治に興聖宝林寺を創建する
 *越前に赴くまで10年間の時代に
 *後に道元の語録である『正法限蔵随聞記』を編纂
 *永平寺二世となる懐じょうが入門している
 *達磨宗からは義介、義いん、義演が道元へ入門している
 *この出来事は、オウム真理教のことを連想させる
 ☆出家して禅の修行に専念しようとする道元の集団
 *比叡山からの強い迫害を受けた
 *興聖宝林寺の時代には、「カルト宗教」と見なされていた
 ☆道元の信徒には、波多野義重という武将
 *義重は、鎌倉幕府の執権北条義時の三男、重時の娘をめとっている
 ☆波多野家は越前志比庄に地頭として所領を有していた
 *そこを道元に寄進し、傘松峰大佛寺が建立され、永平寺へと発展した
 *永平寺は、道元の考えを実践する禅の道場となっていく

⛳難解かつ87巻の大著『正法眼蔵』
 ☆道元は膨大な量の著作や説法集などを残している
 *主著は『正法眼蔵』で、それは87巻にも及ぶ大著で
 *『正法眼蔵』自体の内容は相当に難解である
 ☆一般には、『正法眼蔵随聞記』によって
 *道元の思想が理解されるとしているが
 *これは、弟子の立場にあった懐じょうが編纂したもの
 *そこには編者の解釈が相当に入っている
 ☆親鸞の『歎異抄』と同様
 *道元の考えと理解していいのか大きな問題をはらんでいる.
 ☆道元があらわしたものとして重要なのが、『永平清規』
 *禅の修行を行う雲水の生活規範を定めたもの
 *ここには、生活自体を修行としてとらえる
 *道元の考え方が明確に示されており
 *永平寺では実際にそれが実践に移された

⛳道元後、曹洞宗純粋禅から兼修禅ヘ
 ☆道元が亡くなった後の永平寺
 *道元の教えを守るか、教団としての発展をめざすかで対立が起こる
 ☆後者の立場に立った永平寺三世の徹通義介
 *永平寺を下り加賀大乗寺へ移り、義介に従う者は多かった
 *永平寺は住職のいない無住の寺となり、廃寺同然の状態にまで衰えた
 ☆永平寺と加賀大乗寺の対立関係は、室町時代の終わりまで続く
 *両者は没交渉の状態となる
 *加賀大乗寺の方は発展していくが
 *永平寺は衰えたままだった
 *永平寺は見捨てられたような状態にあった
 ☆曹洞宗を興隆へと導くことになるのが螢山紹瑾
 *曹洞宗では、道元を「高祖」とするのに対して
 *紹瑾を「太祖」としており、両者を宗祖的な存在と位置づけている
 *紹瑾は、宗派を大きく発展させたという点で
 *浄土真宗における蓮如のような存在なのである
 ☆紹瑾は、加持祈蒔などの密教を取り入れ
 *神祗に対する祭祀も導入した
 *現世利益の実現を求める武家などに信仰を広めるためだった
 ☆曹洞宗は、純粋禅から兼修禅へと
 *臨済宗がたどったのとは逆の道をたどることになる
 *南北朝時代から室町時代になると、地方の豪族の庇護のもとに
 *曹洞宗は大きく発展し、教勢は加賀や能登にとどまらず
 *越中から奥羽、西では近江、丹波、伯者、備中、九州にまで伸びた
 *室町時代後半には、遠江、駿河、三河にも広がった
 *それほど曹洞宗は広がっていった理由
 *そこにはやはり紹瑾の改革が生きていた
                       (敬称略)
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⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』




『曹洞宗、カルト宗教』『正法眼蔵』『螢山紹瑾』
(ネットより画像引用)

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