🌸密教と闇の日本史(戦国・近世編)1(謙信と信玄&信長)
⛳水遠のライバル上杉謙信と武田信玄の「呪法合戦」
⛳水遠のライバル上杉謙信と武田信玄の「呪法合戦」
☆戦国乱世を生きた武将たちはみな密教の力を当てにする
*おかかえの密教僧がいた
☆戦国時代は、大呪術合戦の時代だった
☆戦国時代は、大呪術合戦の時代だった
☆上杉謙信と武田信玄どちらが天下をとっても不思議なかった
*あまりに両者の力が拮抗していた
*あまりに両者の力が拮抗していた
*川中島4度の激闘でも決着がつかず
*そのうちに若い織田信長や徳川家康らの台頭を許してしまった
☆謙信、信玄というのは法名、上杉輝虎、武田晴信という名
☆謙信、信玄というのは法名、上杉輝虎、武田晴信という名
*俗名を捨てて仏に帰依し出家した
☆謙信、信玄は、本気で呪力を獲得しようとしていた
☆謙信、信玄は、本気で呪力を獲得しようとしていた
⛳上杉謙信
☆出陣が決まると、敵将を調伏するための護摩を焚いた
☆謙信がつねに奉じていたのは軍神の毘沙門天
☆謙信がつねに奉じていたのは軍神の毘沙門天
*上杉軍の旗指物に「毘」の一字が染め抜かれている
☆生涯独身をつらぬいた謙信
*伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨(現在より高位)になっている
☆みずから毘沙門天の化身と称す
☆みずから毘沙門天の化身と称す
⛳武田信玄
☆最初は禅宗で得度した武田信玄
☆謙信の影響力で天台宗に接近した
*出陣に際しては多数の密教僧を同道させた
*ありとあらゆる神仏に勝利を祈願し、敵将呪誼の祈祷を行なった
☆信玄は、仏師に自分の姿を彫刻させた
☆信玄は、仏師に自分の姿を彫刻させた
*すさまじい形相で不動明王さながらの像になっていた
*信玄は、これを正式に不動明王像とした
☆謙信の毘沙門天に対抗する、強力な本尊像の誕生
☆謙信の毘沙門天に対抗する、強力な本尊像の誕生
*信玄生き写しの武田不動、今も山梨県甲州市の恵林寺にある
☆謙信と信玄、双方ともに戦場ではほぼ無敗を誇った
*信玄は天下とりの途上で病に倒れた
*謙信も上洛へ向けての遠征のさなか脳溢血で急死した
⛳織田信長と宗教
☆謙信や信玄に限らず、この時代の武将たち
☆謙信や信玄に限らず、この時代の武将たち
*神仏や呪術に対して、畏れに近い感情を抱いていた
*例外は、神も仏も畏れぬ男織田信長だった
☆信長は、宗教そのものが嫌いだったわけではない
*キリスト教の宣教師たちを相手に宗教の話を聞き出していた
(霊魂・天地創造の話など)
*仏教や神道の宇宙観についても議論している
☆信長は、俗化し権力欲におぼれた坊主どもが嫌いだった
⛳「第六天魔王の力」で天下に君臨した織田信長
☆信長は天下統一を目前に、幻の城、安土城を建設する
*安土山の頂上にそびえていた7層からなる城
*安土山の頂上にそびえていた7層からなる城
*ふもとには”そう見寺”がつくられ、住職は密教僧だった
*寺には、さまざまな仏像が、安置されていたらしい
*寺には、さまざまな仏像が、安置されていたらしい
☆安土城は、仏教の世界観において”須弥山”を模して建てられた
☆信長は、信玄にあてた書状で「第六天魔王信長」と名のっていた
☆第六天魔王とは
*須弥山より上空、弥勒菩薩が待機する兜率天よりもさらに上
*天界である他化自在天(第六天)にいる魔王
☆信長は、信玄にあてた書状で「第六天魔王信長」と名のっていた
☆第六天魔王とは
*須弥山より上空、弥勒菩薩が待機する兜率天よりもさらに上
*天界である他化自在天(第六天)にいる魔王
*形がある物質世界において最高位の存在
☆信長は、自分を”この世の帝王”になぞらえている
☆信長は、自分を”この世の帝王”になぞらえている
☆信長は、須弥山たる安土城で
*みずからを帝王に変成させるための秘儀を実践していたのでは
(敬称略)
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⛳出典、『眠れないほどおもしろい「密教」の謎』
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日本の歴史を動かした「闇の法力」8(謙信と信玄&信長)
(『眠れないほどおもしろい「密教」の謎』記事、ネットより画像引用)
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