🌸仏教において宗派(2)
☆日本仏教宗派の源流南都六宗寺院
⛳ゼネコンであり銀行でもあった南都北嶺
☆清水寺は、京の都で祗園社と同じような状況であった
*南都の興福寺、清水寺を末寺にしていた
☆清水寺は、京の都で祗園社と同じような状況であった
*南都の興福寺、清水寺を末寺にしていた
☆中世の興福寺
*現在の奈良県のほとんどの土地を荘園として所有しいた
*その圧倒的な経済力によって京にも影響力を及ぼしていた
*「南都北嶺」は延暦寺と南都の諸寺のことをさすが
*「南都北嶺」は延暦寺と南都の諸寺のことをさすが
*実質的には延暦寺と興福寺のことを意味する
*南都北嶺は僧兵を抱え、武力を所有し、独立性を保っていた
*南都北嶺はさまざまな産業を担っていた上に、金融活動も実践していた
☆今日のゼネコンや商社、銀行などと似た役割を果たしていた
*その上に武力まで有していた
*独立国としての性格をもっていた
*東大寺も、多数の荘園を寄進され僧兵を抱えて、強訴なども行っていた
☆朝廷や武家と対立関係が生じ、全面的な武力衝突に至ることもあった
*平清盛の命令によって平重衡が興福寺や東大寺を焼き討ちにした
*「南都焼き討ち」の事件も起きている
☆織田信長の比叡山焼き討ちや豊臣秀吉の検地や刀狩
*寺社勢力から領地や兵力を奪い
*世俗の権力の支配下におく試みだった
☆『南都北嶺』への弾圧、徳川幕府の成立で強固なものになる
⛳「神仏習合」で「廃仏毀釈」の影響を被る
☆南都六宗の寺院の「神仏習合」の傾向を強めた
⛳「神仏習合」で「廃仏毀釈」の影響を被る
☆南都六宗の寺院の「神仏習合」の傾向を強めた
*東大寺の大仏が建立される際にその無事を祈るために
*九州から宇佐八幡宮の八幡神が勧請された
☆興福寺の場合には、藤原氏の氏寺として創建され
*藤原氏の氏神として創建された春日大社と密接な関係をもってきた
*興福寺の各仏堂に祀られた仏は
*春日大社の祭神の本地仏であるとされたのだった
☆神仏習合の傾向が著しかったことが
*近代に入ると、南都六宗の寺を荒廃させることにつながる
*日本に固有の神道の純粋性を強調する国学者や神道家が台頭し
*明治新政府を立ち上げる際に重要な役割を果たしたことで
*神道の世界から仏教的なものを一掃しようとする動きが生まれた
☆近代に入ると広大な領地を抱えていた南都六宗の寺院
*それを奪われた上に仏教を排斥しようとする
*過激なの廃仏毀釈の風にさらされた
①興福寺
*二重塔や五重塔、売却されそうになったり
*境内地も奪われて奈良公園になった
➁法隆寺など
*廃仏毀釈の影響を受け、経済的に困難な状況におかれる
*聖徳太子の肖像画や隋唐からの金銅仏などの宝物皇室に献納された
*その際に法隆寺は皇室から1万円を下賜され
*それで伽藍を修理したり、公債を購入して、利子を維持費にあてた
⛳高度経済成長時代の修学旅行が南都六宗を救った
☆南都六宗の各寺院、近代に入って厳しい状態におかれた
☆南都六宗の各寺院、近代に入って厳しい状態におかれた
*広大な土地を奪われることで経済基盤を失ってしまった
*それを救ったのが戦後の高度経済成長だった
*それを救ったのが戦後の高度経済成長だった
*国民全体が豊かさを享受できるようになると
*観光のために奈良を訪れるような人たちが増えていった
☆中学生や高校生も修学旅行に出掛けるようになった
*その行き先に奈良が含まれるようになった
☆薬師寺の管主となる高田好胤など
*修学旅行生に対してユーモア温れる法話を行い
*500万人以上の生徒を集めた
☆南都六宗の各寺院は「観光寺院」として生き抜くための努力を重ね
*戦後、しだいに復興を遂げていった
*さらに、世界遺産に指定されたことも追い風となり
☆今日では多くの観光客を集め
*安定した経済基盤を確保できるようになっている
(敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』
(興福寺)
『興福寺』『南都北嶺』『廃仏毀釈』『観光事業』
(ネットより画像引用)
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