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「承久の乱」をめぐる新説1

2021年10月02日 | 歴史
🌸「承久の乱」をめぐる新説1

後鳥羽上皇の「命令書」「北条義時を討て」の一文
 ☆「承久の乱」鎌倉時代に起きた大きな騒乱である
 *後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒せと呼び掛けたことから始まる
 *後鳥羽上皇の呼び掛けを聞いた鎌倉幕府、朝廷に徹底抗戦を決めた
 ☆鎌倉幕府、京都に大軍を送り込む
 *各地で朝廷軍を打ち破り、京都になだれ込む
 ☆鎌倉幕府、後鳥羽上皇を捕らえ、隠岐島へ流した
 *朝廷は敗北したが承久の乱の「定説」
 ☆最近に承久の乱に関する新たな説が出てきた
 *後鳥羽上皇が倒したかったのは、あくまで北条義時その人
 *鎌倉幕府を否定しようとは思っていなかった説
 ☆古文書の文言には、「北条義時を討て」と書かれていた

「承久の乱」で有名な北条政子の演説の真偽
 ☆承久の乱を扱う際、有名なシーンが北条政子の演説
 ☆後鳥羽上皇が「鎌倉幕府を倒せ」という命令書を出した後
 *幕府の首脳陣が集まって会議をした
 ☆北条政子の名演説の伝えられている内容
 *頼朝様の恩は海よりも深く、山よりも高い
 *お前たちは今、心を一つにして、未曾有の危機に対処しろ
 *名演説で、心をひとつにした鎌倉の御家人たちは
 *決死の思いで朝廷と立ち向かっていく
 ☆天皇が命令して官軍が結成され、天皇側が負けた戦い
 *日本の歴史上では実はこの一回だけ
 *錦の御旗が翻ったにもかかわらず負けてしまった戦だった
 ☆承久の乱での北条政子が演説をした史料は存在しない
 *鎌倉時代の歴史資料『吾妻鏡』と京都で作られた『承久記』
 *政子の演説内容は、全然違う話をしたと書かれている

鎌倉時代には「幕府」という言葉はなかった
 ☆「幕府」という言葉ができたのは、室町時代以降
 ☆江戸時代でも鎌倉時代は、幕府という言葉は使っていない
 *「柳営(りゅうえい)」と呼んでいた
 ☆現代で幕府という名前が使われるようになった理由
 *明治時代に入って、過去の歴史の話を論じる際に
 *「武士による権力体とか政権組織」等と呼ぶのは面倒くさいから
 *「武士による権力体のことを、″幕府”と呼ぼう」と決めた
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史の論点』






「承久の乱」をめぐる新説1(ネットより画像引用)

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