🌸「承久の乱」をめぐる新説1
⛳後鳥羽上皇の「命令書」「北条義時を討て」の一文
☆「承久の乱」鎌倉時代に起きた大きな騒乱である
⛳後鳥羽上皇の「命令書」「北条義時を討て」の一文
☆「承久の乱」鎌倉時代に起きた大きな騒乱である
*後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒せと呼び掛けたことから始まる
*後鳥羽上皇の呼び掛けを聞いた鎌倉幕府、朝廷に徹底抗戦を決めた
☆鎌倉幕府、京都に大軍を送り込む
*各地で朝廷軍を打ち破り、京都になだれ込む
☆鎌倉幕府、後鳥羽上皇を捕らえ、隠岐島へ流した
*朝廷は敗北したが承久の乱の「定説」
☆最近に承久の乱に関する新たな説が出てきた
*後鳥羽上皇が倒したかったのは、あくまで北条義時その人
*鎌倉幕府を否定しようとは思っていなかった説
☆古文書の文言には、「北条義時を討て」と書かれていた
☆古文書の文言には、「北条義時を討て」と書かれていた
⛳「承久の乱」で有名な北条政子の演説の真偽
☆承久の乱を扱う際、有名なシーンが北条政子の演説
☆後鳥羽上皇が「鎌倉幕府を倒せ」という命令書を出した後
☆承久の乱を扱う際、有名なシーンが北条政子の演説
☆後鳥羽上皇が「鎌倉幕府を倒せ」という命令書を出した後
*幕府の首脳陣が集まって会議をした
☆北条政子の名演説の伝えられている内容
*頼朝様の恩は海よりも深く、山よりも高い
*お前たちは今、心を一つにして、未曾有の危機に対処しろ
*名演説で、心をひとつにした鎌倉の御家人たちは
*決死の思いで朝廷と立ち向かっていく
☆天皇が命令して官軍が結成され、天皇側が負けた戦い
*日本の歴史上では実はこの一回だけ
*錦の御旗が翻ったにもかかわらず負けてしまった戦だった
☆承久の乱での北条政子が演説をした史料は存在しない
*鎌倉時代の歴史資料『吾妻鏡』と京都で作られた『承久記』
*政子の演説内容は、全然違う話をしたと書かれている
⛳鎌倉時代には「幕府」という言葉はなかった
☆「幕府」という言葉ができたのは、室町時代以降
☆「幕府」という言葉ができたのは、室町時代以降
☆江戸時代でも鎌倉時代は、幕府という言葉は使っていない
*「柳営(りゅうえい)」と呼んでいた
☆現代で幕府という名前が使われるようになった理由
*明治時代に入って、過去の歴史の話を論じる際に
*「武士による権力体とか政権組織」等と呼ぶのは面倒くさいから
*「武士による権力体のことを、″幕府”と呼ぼう」と決めた
*「武士による権力体のことを、″幕府”と呼ぼう」と決めた
(敬称略)
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⛳出典、『日本史の論点』
「承久の乱」をめぐる新説1(ネットより画像引用)
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