タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

草津まち歴史の散歩道

2015年04月22日 | 日々雑感
私たち山グループのメンバーが所属している「五日市西国街道散策倶楽部」のイベントに参加してきました。

今年度最初のイベントは「長州戦争と西国街道」の1回目です。

    

広島市の西部、草津は先年以上の歴史をもつ町で、いわれのある社寺が多数あります。その草津ですが、海岸線が今よりずっと陸に近いところにあった港町で、軍(いくさ)の港としてつかわれたので「軍港」(いくさつ)と呼ばれ、それが「草津」になったといわれています。

この町にはタカ長の母方の親戚もあり、なじみの多い町といいたいのですが、、、、、、タカ長が幼少のころその親戚でいたずらをしていてひどく叱られたことがあり、、、、、そのことが子どもこころにひどくこたえたのでしょう、、、、それいらい「草津には絶対に行ってやらない」という思いをもってしまったのです。

三つ子の魂というのでしょうか、その思いは成人してからも続き、いまでも冠婚葬祭などの付き合い程度しかできない状態になっているのです。

ということで、草津はなじみのまちであっても、実際に歩いたことはまったくない、何も知らない町になっていました。その空白を少しでも埋められれば、、、、、と思って参加したのですが、、、、、

    

そのコースは右下の公民館から歩きはじめ、このコースを反時計まわりに歩いたのですが、、、、、

このところのタカ長、過密日程でお疲れ気味、チョッと集中できなくて、、、、、それらしきことは何も書くことが出来ません。

    

慈光寺での話。資料には「1447年(室町時代)に禅宗寺院として建立された、とあります。その境内には神仏習合時代の鳥居がありました。

    

そのあと鷺森神社に行きました。資料には960年(平安時代)建立、とあります。社神は市杵島姫命と金比羅神で、ご祭神が女神なので、弁天さんと称し、豊漁と海の安全を祈った、とあります。

裏の山をご神体として南北に向けて建っていましたが、JR山陽線の敷設により敷地がとられ、東西に向けて建てかえられたというような説明も受けました。

    

そのあと海蔵寺に行きました。ここには江戸元禄時代に造られた石組みの庭があり、その説明も受けたのですが、、、、

お話したように集中できなくて、何の話を聞いたのやら(先生ごめんなさい)、、、、、

ただ、今日は天気が良くてさわやかな風が吹き、この新緑を見るだけで幸せな気分になりました。

このあたりはタカ長が叱られたという親戚からも近く、もし、あの日タカ長がいい子をしていたら何度もこの親戚に行き、そのころのわが家ではとてもめずらしかった新鮮な魚などご馳走してもらい、このあたりを遊びまわっていたはずです。

そのことを思うとあの日いたずらをしたことが悔やまれますが、今となってはどうすることもできませんね。

ということで、今日も記事らしい記事になりませんが、、、、、今夜は団地の広報委員会があり、頭をそのほうに切りかえないといけないので、これで失礼します。