★報道ステ。
夜の報道ステのプロローグが変わりましたね。
今までは中国の真っ赤な五星紅旗から始まっていたが、4月からライトグリーンに変わった。中国共産党を礼賛するテレ朝と朝日新聞が批判を浴びて変えたのだろう。
★日本の神社に油脂かけテロ事件。
過去のこういう事件は在日韓国朝鮮人の犯行であったし、仏像や観音様の破壊は韓国からやって来た朝鮮人であったし、今回も韓国朝鮮人の犯行であることは間違いない。
動機? 韓国にはそういう伝統的建物がほとんどないから、日本に対する嫉妬と羨望なんだな。日本人はヨーロッパやタイ、インドの歴史的建造物を見ると、純粋に畏敬の念で称賛するが、朝鮮人は嫉妬で腹が痛くなる土人なんだな。(笑)
★復興大臣の今村雅弘。
「出て行け」
「うるさい」と逆切れ。
今村雅弘が4月4日の会見で、福島で今も帰れない原発避難者への対応について、フリーランスの記者から質問されて、ブチ切れてしまった。
今村大臣はこう言い放った、「帰れないのは本人の責任。不服なら裁判でもなんでもやればいい」とな。
そもそも、問題の責任と所在は原発を推進した国(経産省と文科省)そして東電にあり、その責任は非常に重い。
今村雅弘は大臣失格である以上に人間失格だな。
★みずきさんの嫌韓宣言。
つい先日、韓国で起こった事件。
「2001年から16年間、韓国に住んでいるコロンビア国籍で大学教授である「レオ・メンドーサ」(43)は、フェイスブックに英語で、「韓国に住んでいる外国人に通知する、警察に逮捕されないように警告する」という一文を上げた。
メンドーサと韓国人の妻は、釜山のある大型マートで買い物を終えて駐車場に戻ると、知らない子供が車に轢かれそうになった。そして大きな声を上げて、子供を救った。そしてメンドーサは、その子供の母親に、「子供をちゃんと守らなければ」と忠告した。
すると子供の祖父がやって来て、「お前の子供でないんだから、構うな、さっさと行け」と言い放ち、「犬野郎」などと罵ったという。
そして掴み合いになり、メンドーサが地面に倒された。警官が駆け付け、二人は交番に連れていかれたが、メンドーサがコロンビア人だと知ると、「最悪な国からやって来たコロンビア野郎」と罵倒したという。
メンドーサ夫婦は警察に「人種差別的な発言をやめてほしい」と要請した。しかし警察は「ニグロ野郎」と言った訳でもないのに、それがどうしたと取り合わなかったという」
さて、日本を見てみよう。
1920年代から本格化した日本人の米国への移民だったが、LAの日系新聞は、黒人の人権を擁護する記事や、黒人のリンチを批判する記事をよく掲載した。
また、肌の色で優劣を評価することが当たり前とされていた人種差別の時代、ロサンゼルスにあった日系病院では、二人の黒人医師が働いていた。
ほとんどの病院が黒人医師に門戸を固く閉じていたが、日系の病院は黒人医師に門戸を開放した。黒人患者は、白人医師から診てもらえず、同じ黒人の医師から診療を受けられる安心があったという。このように黒人を差別しないという日本人のイメージは、米国社会で広く知られるようになった。
人権活動家の米国の黒人「デュボイス」は、1936年、中国と日本にそれぞれ2週間滞在した。白人社会が有色人種に及ぼした影響を研究するためだった。デュボイスのこの時の経験は、「ピッツバーグクリア」紙にコラムとして連載された。
中国上海でのことだった。
デュボイスは、白人の子供が、中国人の大人3人に対して、威張った態度で、「今すぐ道をあけろ」と命令する光景を目撃した。
すると中国人の大人3人は、振り返って、白人の子供であると見ると、慌てて道をよけた。デュボイスは思った。このようなシーンは、アメリカの南部でよく目にする光景と同じだと。上海は、白人の支配圏に入っていたので、このような姿になったのだ。
デュボイスは次に日本を訪問した。当初、中国と大差ないだろうと思っていた彼は、日本では全く違う経験をすることになった。
日本の帝国ホテルでのことだった。
デュボイスはフロントでチェックアウトを行っていた。
そこに、アメリカ人の白人女性が来て、いつもそうであるような当たり前の態度で、チェックアウトをやっているデュボイスの前に割り込んだのだ。当時としてはあまりにも当たり前のことだった。白人が黒人の後ろで待つことなど有り得ないことだった。
しかし帝国ホテルのフロントは、割り込んだ白人女性を丁寧な英語でお待ち願い、デュボイスのチェックアウトをそのまま進行して終わらせた。
それからそのスタッフは、その威張った白人女性に向かい、何事もなかったような態度で、チェックアウトの手続きを行った。
そこでデュボイスは、白人が支配していた世界とは全く違う新しい世界がまさに日本にあると感じた。 祖国の米国は私を冷遇するが、日本人は本気で黒人の私に丁寧に接してくれると。以降デュボイスは大の親日家になった。
「私を人間として歓迎してくれたのは、アフリカと日本だけだった」
米国の黒人ジャズ演奏家として有名なアート・ブレーキーが言った言葉だ。1961年、アートブ・ブレーキー・ジャズグループは、日本に初めて到着した。アート・ブレーキーは、自分たちの音楽が既に日本のNHK放送を通じて日本全国に放映されたというニュースを聞いて、大きく驚き、「本当か?嘘ではないか?」と半信半疑だった。なぜなら、そのような放送は、米国でなかったことだったからである。
羽田空港に夜10時に着くと、アート・ブレーキー一行を歓迎する多くの日本人が花束などを用意して出迎えた。
アート・ブレーキーは「誰か有名な人が同じ飛行機に乗っていたのだろうか」と思った。しかし、その歓迎の人波は、自分たちの為のものであると知って、彼は思わず涙を流してしまった。
そして、日本人が近づいてきた。
「ミスター・ブレーキー、お願いがあります」
「何ですか?」
「私と一緒に写真を一枚撮っていただけないでしょうか?」
彼らは人気のあるジャズのスターだったが、自分の祖国の米国では、彼らはひどい人種差別を受けていた。
ところが、国籍も人種も全く違うのに、自分たちの音楽を好きになり、肌の色で人を差別しない日本でのこのような経験は、彼にとって一種の衝撃であった。アート・ブレーキーは日本公演を終えて出国する前、このような話をした。
「私は今まで多くの国に行ったが、日本ほど私の胸の中に強い印象を残した国はなかった。私たちの演奏を聞く態度はもちろんだが、アフリカを除いて、日本だけが唯一、私たちを人間として歓迎してくれた。日本はあるがままの人間として私たちを迎えてくれた」
彼はそれ以来熱狂的な親日家になり、日本人女性と結婚して、1990年に亡くなるまで頻繁に日本を訪問した。
(みずきさんの嫌韓宣言)
(じゅうめい)