ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

教育の特集番組

2006年11月12日 19時21分50秒 | 生活教育
 昨日の雨の後、今日は1日寒い。
 子どもの生活と教育をめぐっても、「寒い!」
いじめ自殺や高校世界史未履修問題、「やらせ」のタウンミーティングと教育基本法の改悪などなど、子どもの生活と教育に関するニュースも相次いでいる。文部科学大臣宛に自殺予告が来たり、今日の朝も大阪で中学1年生が飛び降り自殺という報道もあった。
 この間、テレビで教育の特集番組が組まれている。昨日(11日)にあった「たけしの日本教育白書」もその一つだ。
 「いじめ自殺」「学級崩壊」「給食費の不払い」「わが子を主役にとの要望で台なしになる学芸会」などなど、子どもと学校、そして保護者にかんして「日本人の品格」を問題にしながら取り上げられていた。
 「給食費の不払い」問題では、学校や教育委員会が取り立てに行く姿や払う払うと言って払わない保護者の姿が映し出されていた。給食費か携帯の費用かとの問いに、躊躇なく「携帯」を選択するとの答えが返ってくる。その論理はこうだ。
「義務教育だから、子どもを学校に行かせてやっている。だから、学校が学校生活に責任を持つのはあたりまえ…」「義務教育は義務だから無償…」
 国会では、このような「品格のないのは教育基本法のせいだ」とばかりに、「愛国心」を入れた教育基本法案の審議を強行していく。しかし、教育や学校をそのようなものとして捉えることは、教育は国のものだという論理で、実は、給食費を滞納する論理とコインの裏表の関係のようにみえる。
 学校を「教化(教え化かす)」機関にしていこうとする、政府と文科省の「品格」が問われる。
 この社会の未来を担う子どもは、国家のものでもないし、保護者のものでもない。学校教育が、一人ひとりの中に内在する可能性を引き出し、人類の蓄積してきた文化遺産を継承し、社会の形成者となっていく子どもたちを援助するという本来の姿を取りもどすことが求められている。それは、人権としての、権利としての教育という考え方からしか導き出せないのではないだろうか。
 いじめ自殺の連鎖は終わりを見せない。学習指導要領に殉じて高等学校長も自殺をする。子どものいじめを「金銭トラブル」と教育委員会に報告していたとのことで小学校長が自殺したと報道があった。管理職の悲哀なのだろうか? 
 男性教師の抑鬱感は、通常の男性に比して1.8倍という結果が労働科学研究所の調査で判明したという。しかし、学校の関係者は憂鬱ばかりであるとはいえないだろう。教師や指導員としての喜びを感じるとき、保護者が子どもの成長をともに喜び合うとき、教育の再生の光が見えると思う。そんな経験は、学校教育の中で日々、子どもを中心において、教師、指導員、保護者によって蓄積されているのではないか。そんな水脈を大切にしていきたい。