ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

田中先生を偲ぶ会

2006年11月23日 21時49分55秒 | その他
勤労感謝の日
午後から、「田中昌人先生を偲ぶ教え子のつどい」に出席。
とても多くのともに学んだ人たち、お世話になった人たちとお会いすることができた。
自分自身、不勉強だったので、「教え子」を冠する集いに出席する資格があるのかは問わないこととしよう。

帰ってから『土割の刻-田中昌人先生を偲ぶ教え子のつどい記念誌』を読む。

記念誌の「結びのことば」には、「先生は、(このような名称のつどいの)集まりは、承諾されなかったでしょう」と指摘されている。しかし、続けて、「せめて一度くらい『反抗』する機会をもつことを了承下さい」とある。一種の「反抗」なのである。

夜中まで、『あの頃の若き旅立ち』(クリエイツかもがわ)を読んでしまう。今年亡くなられた稲葉先生の原稿がないのが寂しい。田中昌人先生の遺稿となった文章は後になるほど「発達論」の今後の展望となっていっている。「若き旅立ち」の事ではないが、逝くものとの自覚のもとで、最後に書いておかなければならないと思ったのだろう。中内敏夫先生の文章には、田中先生や稲葉先生との若かりし頃の交流が綴られていて興味深いものだった。


全障研奈良支部「たちあがる」の一文を書き改め、ここに掲げさせていただき、ご冥福をお祈りいたします。 

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 全国障害者問題研究会は、今年第40回全国大会を開催し、2007年には結成40周年迎えます。
 40周年というのは、半世紀でもなく、中途半端なようにみえます。しかし、この40年というのは全障研の歴史を担ってきたそれぞれの人たちに即してみるとなかなかの重みがあると思われます。とりわけ、全障研の結成を直接担い、初期の発展を支えてきた人たちは、例えば、20代から30代だった方達は60代から70代になっています。
 その中の一人だった、全障研の初代委員長田中昌人先生が、昨年11月にお亡くなりになりました。いろいろお教えいただきたかったと心底残念に思っています。実は、昨年10月末に田中先生とお会いする機会がありました。その時は、少し声が出にくいといっておられましたが、ご自宅から一人で京都駅まで出てこられ、外見からはお元気そうに見えました。話の中で、全障研の全国大会が奈良で開催されることをお伝えしたところ、おもむろに2006年の手帳を取り出し、大会の日程を書くようにとおっしゃられました。まだ何も書かれていない、7月28日から30日までのところに線を引き全障研奈良大会と記しました。「2006年に全障研の奈良大会が終わると、2007年には全障研結成40周年になります。おそらく、2007年には国連で障害者権利条約が採択されることとなると思います」というと、手帳のその部分をじっと見つめておられました。じっと見ていたその視線の中にはどのような思いがあったのでしょうか?
 田中先生の視線の先にあった全障研40周年。全障研の歴史を担ってこられた方達の願い、そして、この時代のなかですべての障害のある人たちと関係者の願いに思いをはせながら、全国障害者問題研究会40周年の重みを受け止めていきたいと思います。