ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

『教育研究のメソドロジー』(東京大学出版会)

2009年05月17日 13時28分07秒 | 
参加観察型の教育研究(卒論・修論)指導のために(研究方法論)、秋田喜代美・恒吉遼子・佐藤学編『教育研究のメソドロジー』(東京大学出版会)をよんでいる。
が、なかなか進まない。第1部はフィールドへの誘いだが、それぞれの経験から書かれたものとなっている。
なかでもおもしろかったのは、恒吉遼子「研究における「わたくし」の領域と異文化の研究」というもの。自身の帰国子女としての経験から、日本の教育についてつぎのように述べている。日本の教育の内側にいるとわからなののだが、しかし、それに気づくといろんな示唆をあたえてくれる。

「父親の仕事の関係で日本に突然帰国すると、今度は、帰国の心構えも、学力的にもなにも準備していなかったなかで小学校高学年に入り、学業の遅れとアイデンティティ・クライシスに見舞われた。自分がおかれた状況に対応するなかで、色々と考えさせられた。日本の教育は系統的な教科の積み上げを行っている。筆記試験が中心の受験体制と言い、個別化された指導のすくなさといい。外から入ってくる人、途中から入ってくる人を想定したシステムではない。どの教科も、習得すべきスキルがかなりあり、段階的に設置され、課題目標を一斉に突破していくことが求められる。体育の逆上がりなどはその端的な例であろう…(中略)…それまで、アメリカの体育で嫌なことをさせられた思い出がない。なぜ、人生において逆上がりができることがそれほど大切なのか、一定時期になるとなぜ、体育の時間は逆上がりばかり練習するのか。全員共通ラインを設定すると、それを突破できいない子どもが目立ち、プレッシャーがかかる。もちろんそこには遅れた子どもを大事にする日本的共同体の支え合いがあるわけであるが、なぜそうまでする必要があるのかが見えないわけである。当初、かなりのことがこの調子で、いわゆる「根性」ものと、集団の圧力を用いるものはすこぶる苦手であった(後略)」(p.55)

教科の系統性を強調してきた立場としては、一考の価値がある経験、そしてまた、defferenciated instructionなども検討してみたいと思う。