この論集は、2019年度発達教育学部教育学科教育学専攻の教育学研究ⅠⅡで、3回生のゼミメンバーのそれぞれが自分の課題として発表し、議論してきたものをもとに、今後の卒業研究を展望してまとめた論文集である。
担当は、2019年4月に教育学科教育学専攻の教員として、主に特別支援教育の担当として着任し、はじめて教育学研究ⅠⅡⅢⅣをもち、卒論指導を行った。ちなみに、教育学研究ⅢⅣは、卒論指導のゼミであり、2019年3月にご退職された教育社会学の先生のゼミをうけついだものだった。4回生はぞれぞれの卒業論文の研究計画の設定、教員採用試験、就職活動を経て、9月には教育原理系の合同卒論合宿に望んだ。4回生の1年間の間には、小学校の母校実習が2週間あり、さらに副免を取得するものは、中学校での教育実習も経験することとなった。ようやく、秋も深まる頃に、卒論の執筆にかかり、議論しながら再考、点検・修正などを繰り返して、12月20日の提出に至るということになった。4回生の苦闘の産物である卒業論文は、教育原理系の卒業論文として、1部製本され、教育学専攻の共同演習室に保存されている。
4回生の卒業研究を中心とした教育学研究ⅢⅣと並行して、3回生のゼミをどのように進めるかは、試行錯誤だった。割り当てられていたF校舎2階の演習室は、縦長のがらんとしたところで、どうもやりづらい。文献を読むこともしたが、面白いのかどうかわからない。自分なりに面白いと思って、これまでやってきた研究を紹介しようと、糸賀一雄や田村一二の話をして、その動画を見せた。ある意味、障害児教育や特別支援教育のおおもとをつくった人たちであり、糸賀や田村の未公開のフィルムも使って編集した動画は、自信作だった。白板に映した動画の場面を一生懸命説明して、ふと振り返ると、ゼミ生は爆睡。「糸賀一雄、田村一二ってだれ?」、セピア色のフィルムは「昭和」のこと、いまは「平成がおわって、令和なんだよ」とばかり。60歳も半ばになろうとしているおじさん、いや、おじいさんの世界とは、まったくちがった感性と意識、興味関心をもっているのだろうなと、「断絶」を感じざるを得なかった。
3回生の前期には、附属での2週間実習があり、それぞれ配当の学年・クラスで実地授業も行った。ゼミ生の授業のときには出来るだけ見に行くようにした。教育実習は部分的なものである。6年間を通して小学校での教育活動の全体に実感的にふれ、課題を把握することはその後の課題でもあった。この実習を経た頃から、ゼミもちょっといろんなことをやってみようと思うようになった。近くの支援学校が実習施設として開設している「カフェ」にみんなでいって、ケーキをつまみながらお茶をして、おしゃべりをしたり……。支援学校の正門を入ったところは、戦中馬町空襲の碑があり、女子大学の前身の女学校の寮もその空襲の被害にあったことなども、あわせて話をしてみた。若い3回生達にとって、遠い昔のことではあるが、自分たちの遠い先輩達の受難についてもちょっとは感じるものがあったのではないだろうか。図書館にもみんなでいってみた。特別支援教育関係の本を見たり、おしゃれな共同演習室をみたりして、そこを借りて「発表会やりたいね~」と、発表している姿を想像してみたりした。
後期の3回生のゼミ(教育学研究Ⅱ)は、演習室から研究室に場所を変えてみた。なにもない演習室は、使い勝手が悪かったからだが、机の上には散らかしっぱなしになっている本や書類の山を、毎週、なんとかしないといけないという新たな負荷が加わった。ゼミを始めるのにかたづける少しの時間が必要だったので、「売店でお茶とお菓子を買ってきて」と時間稼ぎをしていた。なんとか無理矢理研究室に詰め込んで、後期のゼミは始まった。後期は、自分で考えたいテーマを設定して、発表することをおこなった。それぞれ発表者がレジュメをつくり、そして発表する。午後のひとときなので、睡魔の誘惑に駆られることもある。でも、それでは、発表者に失礼だということで、「居眠り募金」の貯金箱も作られ、居眠りを発見されると100円をその中にいれるということになった。どんなところでも寝られるという得意技をもった学生さんが、一回発見されて、現在、貯金箱には100円が入っている。みんな、ジュースやお菓子を食べながら、よくしゃべるもんやと感心。2020年になり、新しい年がやってきたので、すこし遠方にも足をのばしたいということで、滋賀の近江学園関係の施設の見学を思い立った。その施設では陶芸をやっていたので、この際、陶芸教室と施設への訪問をくみあわせてみようかと、施設の関係の方々とも相談していた。しかし、陶芸といっても、はじめての体験となるので、準備なしでの施設での実体験となると不安があった。知りあいの陶芸教室のところにもいってみた。とはいえ、ここは清水焼で有名な東山-近くにそんな体験をするところがありますよということで、清水寺の参道沿いの陶芸体験にみんなでいった。めざすは、研究室でお茶する自らのマイカップづくり。2月の初旬だった。その頃は、まだ、観光客で清水あたりは賑わっていたのだった。つくったカップを焼いてくれて研究室に送ってくるのが4月になるといわれて、みんな4月になって、研究室でお茶をしながらゼミをすることを待ち望んだのだった。
ところが、御存知の通り、中国武漢で新型肺炎発生のニュースが流れ、横浜のクルーズ船・ダイヤモンドプリンセス号での感染の広がりが報道され、船内隔離が日々テレビで映された。その後、あれよあれよと深刻な事態が広まっていった。中国はもとより、韓国、そしてイタリア、スペインなどヨーロッパでこの新型肺炎は大流行し、アメリカ、そして日本にもということになった。2月の終わりには、突然、政府の学校の休校要請があり、混乱に拍車がかけられることとなった。3月に予定されていた、卒業式はいろいろあったすえ、中止となり、卒業生は皆と晴れ着の袴で交流すること無く、涙をのんで卒業していった。4月には、政府が緊急事態宣言を出し、「自粛」が要請され、卒業式に続いて入学式も中止、大学は閉鎖されるということになった。
新型コロナウィルスの猛威はすさまじく、新年度への決意や思いは、桜の花びらと共に誰に見られるともなくはらはらと散っていった。何処で感染するかわからない不安の中で、輝かしいとされるゴールデンの週はすぎた。大学は、4月からゴールデンの前後まで、遠隔教育の準備を進め、ようやく慣れないリモート授業(遠隔講義)の体制を整え、5月の連休明けより、遠隔講義が行われていった。教育学研究Ⅲは、はじめはLINEのグループ通話で遊んだりして、自粛の中で交流し、その後、毎週Zoomで近況報告とブックトークをやっている。2020年は、いろんなことが起こったし、今後も起こっていくだろう。なにせ、本番の卒論が残っている。
それでも、それぞれみんなが自分の体験や経験をもとに問題意識を精選し、テーマを設定して、討議しあい、自分なりに文献を検討し、まとめ、論究したことは貴重なものである。ゼミでの発表とは異なるテーマで論集に寄稿したものもいるし、発表をより深めてものもある、「ゆらぎ」や「未熟」があってもよいだろう。そんな若かりし頃、大学の時代に考えたこと、それをみんなの意見をよせあって、自分なりに整理したことは、これからの人生にとっても大切な思い出になるのではないかと思われる。若かりし日のこと、あの頃のことということで、この論集がそのような思い出を引き出すものとなれば幸いである。
3番目の孫の誕生から1週間を経た、2020年6月6日 (3回生論集に寄せて)
担当は、2019年4月に教育学科教育学専攻の教員として、主に特別支援教育の担当として着任し、はじめて教育学研究ⅠⅡⅢⅣをもち、卒論指導を行った。ちなみに、教育学研究ⅢⅣは、卒論指導のゼミであり、2019年3月にご退職された教育社会学の先生のゼミをうけついだものだった。4回生はぞれぞれの卒業論文の研究計画の設定、教員採用試験、就職活動を経て、9月には教育原理系の合同卒論合宿に望んだ。4回生の1年間の間には、小学校の母校実習が2週間あり、さらに副免を取得するものは、中学校での教育実習も経験することとなった。ようやく、秋も深まる頃に、卒論の執筆にかかり、議論しながら再考、点検・修正などを繰り返して、12月20日の提出に至るということになった。4回生の苦闘の産物である卒業論文は、教育原理系の卒業論文として、1部製本され、教育学専攻の共同演習室に保存されている。
4回生の卒業研究を中心とした教育学研究ⅢⅣと並行して、3回生のゼミをどのように進めるかは、試行錯誤だった。割り当てられていたF校舎2階の演習室は、縦長のがらんとしたところで、どうもやりづらい。文献を読むこともしたが、面白いのかどうかわからない。自分なりに面白いと思って、これまでやってきた研究を紹介しようと、糸賀一雄や田村一二の話をして、その動画を見せた。ある意味、障害児教育や特別支援教育のおおもとをつくった人たちであり、糸賀や田村の未公開のフィルムも使って編集した動画は、自信作だった。白板に映した動画の場面を一生懸命説明して、ふと振り返ると、ゼミ生は爆睡。「糸賀一雄、田村一二ってだれ?」、セピア色のフィルムは「昭和」のこと、いまは「平成がおわって、令和なんだよ」とばかり。60歳も半ばになろうとしているおじさん、いや、おじいさんの世界とは、まったくちがった感性と意識、興味関心をもっているのだろうなと、「断絶」を感じざるを得なかった。
3回生の前期には、附属での2週間実習があり、それぞれ配当の学年・クラスで実地授業も行った。ゼミ生の授業のときには出来るだけ見に行くようにした。教育実習は部分的なものである。6年間を通して小学校での教育活動の全体に実感的にふれ、課題を把握することはその後の課題でもあった。この実習を経た頃から、ゼミもちょっといろんなことをやってみようと思うようになった。近くの支援学校が実習施設として開設している「カフェ」にみんなでいって、ケーキをつまみながらお茶をして、おしゃべりをしたり……。支援学校の正門を入ったところは、戦中馬町空襲の碑があり、女子大学の前身の女学校の寮もその空襲の被害にあったことなども、あわせて話をしてみた。若い3回生達にとって、遠い昔のことではあるが、自分たちの遠い先輩達の受難についてもちょっとは感じるものがあったのではないだろうか。図書館にもみんなでいってみた。特別支援教育関係の本を見たり、おしゃれな共同演習室をみたりして、そこを借りて「発表会やりたいね~」と、発表している姿を想像してみたりした。
後期の3回生のゼミ(教育学研究Ⅱ)は、演習室から研究室に場所を変えてみた。なにもない演習室は、使い勝手が悪かったからだが、机の上には散らかしっぱなしになっている本や書類の山を、毎週、なんとかしないといけないという新たな負荷が加わった。ゼミを始めるのにかたづける少しの時間が必要だったので、「売店でお茶とお菓子を買ってきて」と時間稼ぎをしていた。なんとか無理矢理研究室に詰め込んで、後期のゼミは始まった。後期は、自分で考えたいテーマを設定して、発表することをおこなった。それぞれ発表者がレジュメをつくり、そして発表する。午後のひとときなので、睡魔の誘惑に駆られることもある。でも、それでは、発表者に失礼だということで、「居眠り募金」の貯金箱も作られ、居眠りを発見されると100円をその中にいれるということになった。どんなところでも寝られるという得意技をもった学生さんが、一回発見されて、現在、貯金箱には100円が入っている。みんな、ジュースやお菓子を食べながら、よくしゃべるもんやと感心。2020年になり、新しい年がやってきたので、すこし遠方にも足をのばしたいということで、滋賀の近江学園関係の施設の見学を思い立った。その施設では陶芸をやっていたので、この際、陶芸教室と施設への訪問をくみあわせてみようかと、施設の関係の方々とも相談していた。しかし、陶芸といっても、はじめての体験となるので、準備なしでの施設での実体験となると不安があった。知りあいの陶芸教室のところにもいってみた。とはいえ、ここは清水焼で有名な東山-近くにそんな体験をするところがありますよということで、清水寺の参道沿いの陶芸体験にみんなでいった。めざすは、研究室でお茶する自らのマイカップづくり。2月の初旬だった。その頃は、まだ、観光客で清水あたりは賑わっていたのだった。つくったカップを焼いてくれて研究室に送ってくるのが4月になるといわれて、みんな4月になって、研究室でお茶をしながらゼミをすることを待ち望んだのだった。
ところが、御存知の通り、中国武漢で新型肺炎発生のニュースが流れ、横浜のクルーズ船・ダイヤモンドプリンセス号での感染の広がりが報道され、船内隔離が日々テレビで映された。その後、あれよあれよと深刻な事態が広まっていった。中国はもとより、韓国、そしてイタリア、スペインなどヨーロッパでこの新型肺炎は大流行し、アメリカ、そして日本にもということになった。2月の終わりには、突然、政府の学校の休校要請があり、混乱に拍車がかけられることとなった。3月に予定されていた、卒業式はいろいろあったすえ、中止となり、卒業生は皆と晴れ着の袴で交流すること無く、涙をのんで卒業していった。4月には、政府が緊急事態宣言を出し、「自粛」が要請され、卒業式に続いて入学式も中止、大学は閉鎖されるということになった。
新型コロナウィルスの猛威はすさまじく、新年度への決意や思いは、桜の花びらと共に誰に見られるともなくはらはらと散っていった。何処で感染するかわからない不安の中で、輝かしいとされるゴールデンの週はすぎた。大学は、4月からゴールデンの前後まで、遠隔教育の準備を進め、ようやく慣れないリモート授業(遠隔講義)の体制を整え、5月の連休明けより、遠隔講義が行われていった。教育学研究Ⅲは、はじめはLINEのグループ通話で遊んだりして、自粛の中で交流し、その後、毎週Zoomで近況報告とブックトークをやっている。2020年は、いろんなことが起こったし、今後も起こっていくだろう。なにせ、本番の卒論が残っている。
それでも、それぞれみんなが自分の体験や経験をもとに問題意識を精選し、テーマを設定して、討議しあい、自分なりに文献を検討し、まとめ、論究したことは貴重なものである。ゼミでの発表とは異なるテーマで論集に寄稿したものもいるし、発表をより深めてものもある、「ゆらぎ」や「未熟」があってもよいだろう。そんな若かりし頃、大学の時代に考えたこと、それをみんなの意見をよせあって、自分なりに整理したことは、これからの人生にとっても大切な思い出になるのではないかと思われる。若かりし日のこと、あの頃のことということで、この論集がそのような思い出を引き出すものとなれば幸いである。
3番目の孫の誕生から1週間を経た、2020年6月6日 (3回生論集に寄せて)
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