寒い1日。朝から雪だった。学生時代は、とくに大切な時期だから、正面から課題に向かってほしい。だから、4年なり、2年のまとめとして自分の課題から逃げてはいけないと、最近つくづく思う。そんな学生時代に、障害児医療や福祉にであった人の本を読んだ。粟屋豊『「障害児医療」40年』(悠飛社、2010年11月)である。
がんを患うことから執筆に…小児科医、聖母病院副院長・小児科部長である。この中に、1960年代の島田療育園やびわこ学園、近江学園とのふれあいが記されている。とくに、「夜明け前の子どもたち」のエピソードは、フィルムを見ながら当時の職員が発達を発見していったことが示されている。このような原体験がなければ、フィルムの中の子どもの発達を何度も何度もくりかえし吟味し抜くことはなかったであろうと思う。その意味で、はじめのふり返りの機会をどう持つかが肝心なことなのかもしれない。
はじめに
第1章 私の医療の原点-東大教養学部時代、
医療との接点/献血・売血問題と取り組んだ医療福祉研究会1年目/島田療育園と子どもたち/近江学園での国際はキャンプ/びわこ学園での合宿と、映画『夜明け前の子どもたち』
第2章 医学部保健学科時代、そして医学科へ
第3章 障害児医療福祉取り組んだ医学生時代、
第4章 小児科医として、障害児とともに、
第5章 障害のある患者とその家族に寄りそって、
第6章 たすきをつなぎ、広げるために-医師として、患者として、
第7章 すべてのお母さんお父さんに、
あとがき
1947年生まれ
1966年東京大学理科Ⅱ類入学
医学問題研究会(翌年、医療福祉研究会に発展的改組)
島田療育園と子どもたち(17頁から)
「重症児問題私感」医療福祉研究会機関誌1967年春
「この「島田療育園」は重症の子どもたちだけが入っているところで、その中でも行動障害の強い子を入れるのがこの「お城」だった。格子があり、鍵がかかった部屋を、僕たちは牢獄をのぞくような気持ちでのぞきこみ、子どもたちの様子を食い入るようにみつめた。奇妙な声をあげて本をポンポン投げる子、ウォーと言いながらガラスにどしゃんとぶつかる子。(後略)
近江学園での国際ワークキャンプ(23頁から)
びわこ学園での合宿と映画『夜明け前のの子どもたち』
教養学部二年になった1967年の夏、私たちサークルは島田療育園に続いて、日本で二番目に作られた重症心身障害児施設のびわこ学園でのボランティア合宿を希望し、連絡を取りました。(中略)東大の医療福祉研究会と、東京女子大の風車のメンバー計20名ほどが1週間合宿をすることになりました。
私たちが滞在していたとき、びわこ学園には柳澤壽男監督ら映画製作スタッフも入っていました。撮影した大量のフィルム(ラッシュ)には子どもたちの小さな変化もしっかりとらえており、それを見ながら、柳澤監督や製作中心者で児童指導員の田中昌人さん、スタッフや施設の職員の方たちの毎晩の議論は私たちにとても刺激的でした。また、学生同志いろいろ語り合い、自分は何をしなければいけないのかなどいろいろ考えさせられました。
このときの映像は、翌1968年120分の療育記録映画『夜明け前の子どもたち』として完成しました。この映画の紹介文には、「手探りの養育が始まったばかりの学園には、元気で無邪気な子どもたちと、彼らを支えるために苦悩し格闘する職員たちの姿ありました。医療と教育の両面から、子どもたちに働きかけようという「びわこ学園」の試みの記録」とありますが、私自身、映画を通して、たとえ重度の脳障害があっても、働きかけ中で、生き生きとした表情が生み出され、知能指数の上昇といった縦への変化はなくても、横への発達の広がりが確実にみられるといったメッセージを実感することができました。重症児施設が重症児を抱える家族の崩壊の防止のための収容という側面でなく、子どもの発達を保障できる場、さらにはそのような学問が育つ場として重要であること示したものと思えます。(30~31頁)
。
東大5月祭と、障害児の研究会が発足
1973年現在、文教をはじめいくつかの地域で、研究者や学生も加わった実態調査委員会ができ、その調査をもとに、自治体に対して施策を迫っていた。しかし、まだまだ国レベル、区レベルをはじめ、行政レベルでの多くの壁がある。しかし、親たちは、たとえば京都では、要求運動のなかで、与謝の海養護学校をつくらせ、さらにその内容づくりをしているといった実践の前進が見られ、文京区でも福祉センターをつくらせるといった具体的成果を力にしてがんばっている。(68頁)
福山幸夫教授の東京女子医科大学小児科
日本てんかん協会生の親
1959年の福山型先天性筋ジストロフィーの発見
などなどが記されている。
ちょうど今日の朝、「風をあつめて~実話による感動の物語」(NHK)というドラマがあった(録画するのを忘れた!)。この中に出てくる障害児が「福山型筋ジストロフィー」。ちょっと紹介。
老人ホームに勤務する誠と摂に生まれた第一子が、福山型筋ジストロフィーと診断される。2人目の子どもも同じ病になる可能性は高いが、誠は健康な子を持つ希望を捨てきれない。
がんを患うことから執筆に…小児科医、聖母病院副院長・小児科部長である。この中に、1960年代の島田療育園やびわこ学園、近江学園とのふれあいが記されている。とくに、「夜明け前の子どもたち」のエピソードは、フィルムを見ながら当時の職員が発達を発見していったことが示されている。このような原体験がなければ、フィルムの中の子どもの発達を何度も何度もくりかえし吟味し抜くことはなかったであろうと思う。その意味で、はじめのふり返りの機会をどう持つかが肝心なことなのかもしれない。
はじめに
第1章 私の医療の原点-東大教養学部時代、
医療との接点/献血・売血問題と取り組んだ医療福祉研究会1年目/島田療育園と子どもたち/近江学園での国際はキャンプ/びわこ学園での合宿と、映画『夜明け前の子どもたち』
第2章 医学部保健学科時代、そして医学科へ
第3章 障害児医療福祉取り組んだ医学生時代、
第4章 小児科医として、障害児とともに、
第5章 障害のある患者とその家族に寄りそって、
第6章 たすきをつなぎ、広げるために-医師として、患者として、
第7章 すべてのお母さんお父さんに、
あとがき
1947年生まれ
1966年東京大学理科Ⅱ類入学
医学問題研究会(翌年、医療福祉研究会に発展的改組)
島田療育園と子どもたち(17頁から)
「重症児問題私感」医療福祉研究会機関誌1967年春
「この「島田療育園」は重症の子どもたちだけが入っているところで、その中でも行動障害の強い子を入れるのがこの「お城」だった。格子があり、鍵がかかった部屋を、僕たちは牢獄をのぞくような気持ちでのぞきこみ、子どもたちの様子を食い入るようにみつめた。奇妙な声をあげて本をポンポン投げる子、ウォーと言いながらガラスにどしゃんとぶつかる子。(後略)
近江学園での国際ワークキャンプ(23頁から)
びわこ学園での合宿と映画『夜明け前のの子どもたち』
教養学部二年になった1967年の夏、私たちサークルは島田療育園に続いて、日本で二番目に作られた重症心身障害児施設のびわこ学園でのボランティア合宿を希望し、連絡を取りました。(中略)東大の医療福祉研究会と、東京女子大の風車のメンバー計20名ほどが1週間合宿をすることになりました。
私たちが滞在していたとき、びわこ学園には柳澤壽男監督ら映画製作スタッフも入っていました。撮影した大量のフィルム(ラッシュ)には子どもたちの小さな変化もしっかりとらえており、それを見ながら、柳澤監督や製作中心者で児童指導員の田中昌人さん、スタッフや施設の職員の方たちの毎晩の議論は私たちにとても刺激的でした。また、学生同志いろいろ語り合い、自分は何をしなければいけないのかなどいろいろ考えさせられました。
このときの映像は、翌1968年120分の療育記録映画『夜明け前の子どもたち』として完成しました。この映画の紹介文には、「手探りの養育が始まったばかりの学園には、元気で無邪気な子どもたちと、彼らを支えるために苦悩し格闘する職員たちの姿ありました。医療と教育の両面から、子どもたちに働きかけようという「びわこ学園」の試みの記録」とありますが、私自身、映画を通して、たとえ重度の脳障害があっても、働きかけ中で、生き生きとした表情が生み出され、知能指数の上昇といった縦への変化はなくても、横への発達の広がりが確実にみられるといったメッセージを実感することができました。重症児施設が重症児を抱える家族の崩壊の防止のための収容という側面でなく、子どもの発達を保障できる場、さらにはそのような学問が育つ場として重要であること示したものと思えます。(30~31頁)
。
東大5月祭と、障害児の研究会が発足
1973年現在、文教をはじめいくつかの地域で、研究者や学生も加わった実態調査委員会ができ、その調査をもとに、自治体に対して施策を迫っていた。しかし、まだまだ国レベル、区レベルをはじめ、行政レベルでの多くの壁がある。しかし、親たちは、たとえば京都では、要求運動のなかで、与謝の海養護学校をつくらせ、さらにその内容づくりをしているといった実践の前進が見られ、文京区でも福祉センターをつくらせるといった具体的成果を力にしてがんばっている。(68頁)
福山幸夫教授の東京女子医科大学小児科
日本てんかん協会生の親
1959年の福山型先天性筋ジストロフィーの発見
などなどが記されている。
ちょうど今日の朝、「風をあつめて~実話による感動の物語」(NHK)というドラマがあった(録画するのを忘れた!)。この中に出てくる障害児が「福山型筋ジストロフィー」。ちょっと紹介。
老人ホームに勤務する誠と摂に生まれた第一子が、福山型筋ジストロフィーと診断される。2人目の子どもも同じ病になる可能性は高いが、誠は健康な子を持つ希望を捨てきれない。
医療と教育の両面から、子どもたちに働きかけようという「びわこ学園」の試みの記録」とありますが、私自身、映画を通して、たとえ重度の脳障害があっても、働きかけ中で、生き生きとした表情が生み出され、知能指数の上昇といった縦への変化はなくても、横への発達の広がりが確実にみられるといったメッセージを実感することができました。
「 大量のフィルム(ラッシュ)には子どもたちの小さな変化もしっかりとらえており」「それを見ながら、毎晩の議論は私たちにとても刺激的」「知能指数の上昇といった縦への変化はなくても、横への発達の広がりが確実に」まさにそうなんです。
田中昌人先生が繰り返し言っておられたのは。この取り組みの教訓から子どもの全面発達の真の意味を具体的に田中昌人先生は、具体的に証明しはじめます。
大量のフィルム(ラッシュ)は、当時莫大な費用を必要としました。財政面でも大赤字だったでしょう。でも、この一コマ一コマの画像とその繋がりの中のから、ただ何となく見ていた子どもの発達の真の姿を集団的に解明されていきます。
一コマ一コマの画像。そこには瞬時しか見えなかった子どもたちの姿がある。そして、それが「繋がる」と一コマ一コマの画像では見られなかった子どもたちの姿がある。
ここから田中昌人先生は、あまりにも多くのことを学んだ。あまり気づかれていないが、「子どもの発達と診断」には、このことの教訓が貫かれている。撮影したカメラマンのA氏が田中昌人先生の撮影の指定やどこをどうとるのかというあまりにも多い固執性に多くの点で訝しがっていたが、彼はまったく解っていなかった。
彼は、写真を一枚の画像としてとらえていたため田中昌人先生の撮影の指定やどこをどうとるのかというあまりにも多い固執性と断定していた。
だから、一コマ一コマの画像。そこには瞬時しか見えなかった子どもたちの姿がある。そして、それが「繋がる」と一コマ一コマの画像では見られなかった子どもたちの姿がある、という田中昌人先生の意図がわからなかったのである。
「子どもの発達と診断」は、写真でもあり、映画でもあると知る人はあまりにも少ない。
柳澤監督や製作中心者で児童指導員の田中昌人さん、スタッフや施設の職員の方たちの毎晩の議論、ここに「ひとりよがりではなく」とよく言われた田中昌人先生のルーツがあるように思える。
それにしても、田中昌人先生の発達をもとに「子どもの発達」を講演する人より、著者のほうがはるかに田中昌人先生の精神を引き継いでいるので驚く。
あらゆることが、知能指数で断定され、分類、ランキングさられていたことを打ち砕く理論が発達理論として形成さられていることを捉えた部分の文章で感動を覚えます。
IQがいくらと具体的数値をあげ、知的にのーまるだが、とアスペルガーを説明する文章を読むたびに何か発達を歪曲しているように思えるし、数値をあげられた子どもたちの基本的人権が踏みにじられているように思えます。
知能指数からの断定的解放の論理が、発達保障理論なのです。
学校でIQ検査がされ、ひとりひとりに数値が発表されて、おまえはIQが高いのに勉強してない。怠けている。おまえはIQが低いから、バカで勉強してもバカは治らない。そう教師から言われたみんなの悲しみの顔を思い出します。
戦後、教育はすべて民主主義に貫かれてはいない。
アメリカから導入された選別教育が横行した。
IQ検査で輪切りと断定された知的障害の子どもたちや家族やみんなが、悲しみの日々を送ったことが忘れさられている。
それからの解放が発達保障理論だった。
ところが知的にノーマルという根拠に知能検査だけをあげる発表に苛立ちばかりか、差別教育と言っても言いような怒りを感じる。
なぜか哀しすぎたが、小学生の自分にはなすすべもなかった。
決められた時間内に機械的に回答する知能検査。結果の断定。能力の断定。ランキングの断定。そして競争原理。
人間を人間として扱わない検査からの解放の理論。
それに出会った時の気持ちは説明できないほど。
発達保障理論を説明する人々は、過去の悲惨で非人間的な扱いを受けてきた人々の悲しみを忘れてはならない。また発達保障理論を理論だけに終始してはならない。
何よりもすべての人々の人間発達のために。障害児者の発達のために役立てる。
田中昌人先生のこころからのねがいを受け止めている研究者は、多いだろうか。
でも、それまで軍国日本を賛美していた先生が、頭を簡単に民主主義に切り替えたと考えることがおかしいと思いませんか。
むしろ平和を大切にしていた先生が、戦後しばらくして、先生たちからいじめられていました。
その先生は、暴力を振るはないので生徒はこころの中で喜んでいました。
IQのふるい分けと今のIQは違うかも知れません。でも知的に問題はないという唯一の根拠が、IQが高いからとするのはおかしくないですか。
では、発達障害はからだの障害なんでしょうか。