昨年末の抜き打ち総選挙では、大方の予想通り安倍ちゃんが「信任」された。
今回、私は投票へ行くのを止めた。
選挙結果については、「アベノミクスに対するそれなりの期待感」や「小選挙区制という選挙制度のせい」、「野党がだらしなさ過ぎる」などと、子供でも予想できそうな薄っぺらい分析もされている。そして、低投票率をあげつらい、マスコミ、政党、一般国民あげて「右」から「左」まで「とにかく投票へ行こう」の大合唱、まるで「国家総動員法」の選挙版である。
しかし、代議員制度って本当に民主主義的な制度といえるのだろうか?、そもそも日本は民主国家といえるのだろうか、私には大いに疑問である。これほど「民意」をコントロールしやすい制度、国はない。
何はともあれ“投票へ行く”という行為は、このエセ民主主義(国家)を思慮無しに肯定する行為に他ならない。
2014年12月17日付け「京都新聞」、『民意が示したもの 「戦後70年体制」の行方』という衆院選結果分析リレー論説シリーズ2、の論説は私の考えに近かった(と勝手に思っているだけかもしれないが)。「・・・帝国日本の歴史に学び反ファシズム統一戦線を」という陳腐な結論がつまらなすぎて不十分とはいえ、そこそこまともな分析をできる方もまだいるのだと思えたので大筋の論旨をご紹介しておきたい。
-------- 「アベノミクスから漂う臭気」 福家 崇洋(ふけ たかひろ) --------
(( )内は私)
・・・投票日の翌日に終わりを迎えた香港の学生運動は、日本のメディアでは「民主化」の一環として報道されていた。
この「民主化」なる言葉は、他国に対してはともかく、現在の日本の政治・社会を指して使われることは今ではほとんどない。この使い分けからは、成熟した日本国では民主主義は十分に達成されてきたはずだという自負が透けて見える。(私にはそれさえも巧妙なマインドコントロールと見えるけどね)
・・・自国の民主主義があるはずのものとしてなおざりにされ、空洞化しつつあるその場所に、民主主義の顔をしたファシズムが民意という錦の御旗の下で我が物顔に闊歩する、そんな忌まわしき社会が到来しつつあるのではないか。しかも、その民意は、つい先年隣の府で「維新」を標榜するプレ元勲を選挙で圧勝させたかと思えば、今度の総選挙ではそのお仲間にそっぽを向くという実に気まぐれなものである。(こうした“集団マインドコントロールの使い手”という点ではまさに“安倍”=“橋本”である)
この制御不能な生き物(思いっきり制御されていると思いますけど)は、・・・アベノミクスの果実にありつこうとするのか、どこからか漂う果実の臭気に本能的に吸い寄せられているかのようである。与えられる果実をただ貪るだけの存在なのか、それともエサを拒絶し人間の尊厳を守って餓死していく存在なのか。・・・そのいずれでもない道を探すことが求められている。(そう、細胞をお酢に浸けただけで先祖返りするなんてありえないのと同様、階級社会に“民主主義的社会変革”などありえない)
ただし、エサはどこまでもエサである。安倍政権の真の目的は、改憲のただ一点にある・・・。それを無意識に許容するためのアベノミクスであり、新「一等国」(中国)に対する旧「一等国」日本の劣等感をくすぐっているのが同政権の外交手法であり、東日本大震災後に湧きあがる絆論と排外主義を官製愛国心と秘密保護でまとめあげようとするのが同政権の思想動員である。(白人への卑屈な劣等感とヘイトスピーチに象徴される、アジアとりわけ朝鮮人への卑しき優越感もね)
・・・与党に対抗できる野党を日本国民がどう育てていくのかが問われると思ったが、現実はそうならなかった。(そこがそもそもの間違い)
日本の「戦後70年」は、おそらく<平和と繁栄>の物語として描かれることだろう。しかし、その一方で、冷戦という新たな戦時の下で沖縄や朝鮮の人々に多大な犠牲を強いてきた歴史であることを忘れてはならない。・・・・
(せっかく「民意」なるものの愚かさに気付いていながら、そんなつまらない〆方はないだろう)