WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

沖縄の旅 -百度踏揚の墓-

2022年10月05日 | 沖縄
南城市にあるグスクロードに沿ってグスク跡群と南山王ゆかりの史跡、陵墓を巡る。
とりわけ行きたかったのが、当時の首里王府、尚泰久王の長女百度踏揚の墓。

百度踏揚
絶世の美女で、当時勢力を拡大しつつあった勝連按司 阿麻和利に政略的に嫁がされる。ところが阿麻和利が首里王府打倒を画策していると知り、付き人大城賢雄とともに阿麻和利の元を離れ首里王府に阿麻和利の計画を知らせる。阿麻和利は大城賢雄率いる首里王府群に滅ぼされ、彼女は助け出してくれた大城賢雄の妻となる。しかし、二人目の夫もこれまたクーデターで自害させられる。出身地南山に落ち延びた彼女は、弟の住む玉城城に駆け込んで生涯を閉じる。まさに戦国の世に振り回された悲劇の王女(写真はある方が百度踏揚に扮したイメージです)。


墓に参って往時を偲びたかったのですが、Google Mapを頼りに探し回ったものの見つかりませんでした。Google Mapのポイントはどうみても入り込めそうもない藪の中。炎天下、小1時間探し回って諦めました。
その後各地を回ってあきらめきれず、沖縄県立博物館でたまたま行われていた琉球史講座のボランティア解説員の方に行き方を教えていただき、5日後再び訪れてようやく探し当てることができました。
 
グーグルマップで検索すると「百度踏揚の墓」示す地点が2つも出てくる!?
しかし、片方は山の藪の中、もう一方は山の上のグスクロード公園近くの草むら、???
5日後、博物館で解説ボランティアの方に教えてもらった場所はどちらとも異なっていた。どうしてこんなことになってしまったんだろう?見つけた「墓」の解説板に「昭和37年(1962年)に中学校建設に伴い現在地に移転」とあった。でもグーグルマップが示すどちらのポイントにも中学校など影も形もない?

さんざん探し回っているとき案内板を見つけた。しかしその方向に行ってみても見つからず。

代わりに見つけたのは、嶺井妙美さんという方のお墓。
ホームレスの救済に尽力された方だとの説明。これはこれで立派な方なのだが...。

結局この日はあきらめたのですが、5日後見つけたので”続き”の後日談。
どうしても百度踏揚(ももとふみあがり)さんに会いたくて再挑戦、やっと会えました🥰
Google Mapsに表示される2つ!?のポイントはどちらも間違ってます!ご注意。ま、私みたいな物好きはいないと思うけれど、ももとさんに会いに行こうという物好きな方のために行き方を説明しておきます。
 
那覇バスターミナルから琉球バス50番百名バスターミナル行きで約1時間、富里下車。
近くの富里公民館と並ぶ正泉井(湧水)向かいの道(写真の右手、角に太い木がある道)を約200m上がっていくと南城市陸上競技場の駐車場に出ます。
駐車場を奥へ(グラウンドが見える)いくと百度踏揚の墓の矢印標識があります。

実は最初見つけられなかった日にあった木の案内板の方向に山道をどんどん歩いて行くと、嶺井妙美さんの墓を経由して下の写真左上に見えている階段に出てこれるのですが、その時はここへ出てくるまでにあきらめてしまったのがかえすがえすも残念でした。ただ、その道は徒歩でしか行けない山道なので、知らなければ不安で私のようにあきらめる人もいるでしょう。地図も掲載するとかもう少し親切な案内があってもいいのにと思いました。
車で行くならここで紹介した道以外ありません。陸上競技場の駐車場をめざして行けば見つけやすいでしょう。
標識から20mほどの所に来た道と逆方向に上がる階段と百度踏揚を解説する看板があります。
階段を20mほど上がると左手にさらに階段が続きます(Google Mapsの間違いポイントにも同じ写真あり)。
階段を10mほど登ったところがももとさんのお墓。夫の阿麻和利亡き後、庇護を受けて共に暮らした弟さんと一緒に祀られています。
看板の説明によると、このお墓も1962年に中学校新設に伴い元あった場所から移転されたそうです。琉球組踊りや物語では悲運の王女として広く語られているのに、亡くなって600年以上たってもつくづく不遇な扱いを受け続けられていることが不憫でなりません。
「百度踏揚」は実は本名ではなく「神女(みこ)名」。古琉球では神事を司る「神女」役の女性がいて、彼女もその1人だったと推測されています。墓碑銘に「百度踏揚按司加那志」とあり、これが彼女のフル「神女(みこ)名」。「按司」は領主や代官、彼女のような「神女」など何らかの役職に就いていた人の尊称のようです。
墓碑銘が「百度踏揚按司悲し」とも読めるのがまた哀れを誘ってしまいますね。
 

沖縄の旅 ー陸軍病院南風原壕群20号ー

2022年10月05日 | 沖縄

陸軍病院南風原壕群20号
虚妄の「大東亜共栄圏」を旗印に、資源と労働力収奪を目的に侵攻した中国大陸、朝鮮半島、東南アジア、グァム・サイパン、ミッドウェーなどの太平洋諸島、ミクロネシア諸島を次々と奪還され本土決戦寸前まで追い込まれていた日本皇国軍。
本土決戦準備のための時間稼ぎの捨て石とされた沖縄戦。沖縄に配備された第32軍は、アメリカの大群上陸にもちこたえられず、住民を盾に犠牲にしながら南へ南へと敗退を繰り返し南端の地摩文仁で自らが鼓舞してきたはずの玉砕さえも果たすことなく、身勝手な自決で雲散霧消してしまうことになる。
陸軍病院南風原壕も首里から遁走してきた皇国軍が南風原住民を強制動員して手掘りで掘らせた病院豪群であった。そのほとんどは米軍の爆撃などで崩壊、現在その第20号豪だけが観覧可能な跡地として公開されている。
国が遺族懐柔とアリバイ作りのために作った国策「平和祈念」公園なんかよりよほど訪れる価値がある。

朴訥と語る戦後生まれのおかあさん案内員さん。
父親は酒に溺れ、だらしない父と軽蔑感も抱いていた。その後、生き別れたが何年かたって偶然再会。後に父親を知る人から「一人生き残ったのが辛かったのだろう」と聞き、父親から沖縄戦の話を聞かされたことはなかったが、父の辛さを漸く理解でき後々まで悲劇をひきずる戦争を2度と起こしてほしくないと案内員を買って出て続けているのだという。

沖縄戦終盤、劣勢の日本軍は軍病院を南風原村(当時)へ移した。
村民を動員し手掘りで病院壕を掘らせた。
女子学徒隊も動員され看護にあたった。負傷兵が亡くなると初期には埋葬もしたが、末期には麻酔薬もなく押さえつけて手術したり、亡くなると爆撃でできた穴に切断した手脚と一緒にゴミ捨て場のように放り込まれた。
いよいよ戦況悪化しこの地も放棄し摩文仁へと死の行軍撤退。動けない者には青酸カリ入りのミルクが渡された。


豪内に残されていた医薬品。

手掘りで壕を掘った時に使われたツルハシ。


憲法9条の碑。町民各世帯500円ずつ出し合って建立されたそうだ。町民の平和への強い決意がうかがわれる。
左は犠牲者慰霊(組まれた祈りの手)と平和への願い(上部が平和の象徴ハトの翼をモチーフ)を込めたモニュメント。