WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

自然のアートと表現の自由

2019年08月30日 | アート

これは何だと思いますか?

ナスカの地上絵?、どこかの天体表面の写真?、墨で描いた絵?

実はこれ、木の虫食い跡の拓本なんです。”魚拓”ならぬ”木拓”。なんかアーティスティックですね。

実体はこれ。
伐採後、しばらく放置されていた丸太の皮を剥くと、虫食いの跡が現れます。

その一部を拡大してみると、

中央には見事な放射状の線画が描かれています。また、周りにはもう少し太めの川のような虫食い跡がくねくねと四方八方に伸びています。
これらの線描は、大小異なる2種類の虫たちが描いたものと推測されます。

次の画像は、上の写真の虫食い跡がより鮮明に分かるように画像処理ソフトで加工したもの。
まさに”ナスカの地上絵”のような線画と、川か道路網のような造形がよりくっきり浮かび上がって、まさにアート作品のようです。

もう一例、
こちら元の写真。

画像処理ソフトで加工すると、

これらの虫たちの造形を見て何を感じられますか?アート的なものを感じませんか。
でも虫たちはもちろん、アート作品を作ろうとしたわけではありません。単に食欲のままに喰いすすんだ結果です。しかし、人間という生き物は、脳の進化に伴いそこにアーティスティックなものを感じる「感性」を獲得したわけです。ここに、脳がある物体や造形、自然現象を”アート”と認識するメカニズムの原点、ヒントが隠されているような気がします。上の虫たちの造形だけを純粋に見て、とりあえず思いつくのは、私たちは「一定の規則性・法則性」あるいは「特異なカタチ」にアート的な感覚を抱くようです。

 

さて、ここで「表現の自由」問題を考えてみましょう。
虫たちが作るアーティスティックではあるけれど無目的なその作品に、作者の政治的な意思、あるいは鑑賞者の歴史観が加わるとどうなるでしょうか?
時代は1930年代~1940年代、”木”が韓国、中国、旧満州で、虫たちは日本(軍)で、作者は「日本の不当な侵略、女性の性奴隷化(慰安婦)や民衆虐殺」への抗議の意味を込めたのだと主張したらどうなるか。とたんに「慰安婦や虐殺などでっち上げだ」と考えている鑑賞者にとっては実に不愉快な「作品」に転化してしまうでしょう。逆に、「慰安婦や虐殺は事実」と考えている鑑賞者にとっては強い「共感」を抱くのではないでしょうか。


要するに何が言いたいかというと、「単なるモノである作品自体には意思も主張もないのであり、あるのは単純に鑑賞者(=人間のみ)のアーティスティックな感性を刺激するか否かだけで、作品から受け取られる意味はむしろ鑑賞者の思想、歴史観次第だ」ということです。
言い換えれば「作品による表現の自由」とはまさに「作品からの受け取り方の自由」でもある、ということです。その意味で言うと「表現の不自由展」問題は、「慰安婦は無かったと主張する」作品や「天皇は国体の長である」と主張する作品の展示を拒んでいたわけではないという意味において、「表現の自由」は一応保障されていた、と言えます。むしろ「受け取り方の自由」が保障されていたかどうかが問題であって、「『少女像』を見ると不愉快だから展示するな、一方的な展示に公費を使うな」という主張は、自分たちの「受け取り方」以外の「受け取り方」は許さないということで、上の「虫たちアート」の例で言えば、虫たちに「お前の作品は不愉快だからそんな喰い方はするな」と言っているようなもの、虚しいだけです。むしろそうした言い分は戦時思想統制的なまことに危険な考え方と言わざるを得ません。戦時中の思想統制はまさにこの「表現の自由」とともに「受け取り方の自由」もが大きく抑圧されていた時代でした。



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