You May Say I'ma Dreamer But I'm Not the Only One - John Lennon
ぼくだけじゃないよね。きっと、これを読んでいる貴方も・・・・・・
この映画。復活がテーマだ。主人公は馬・・・・・・といったらダコタ・ファニングの熱烈なファンから石を投げつけられること必至。ちょっと前に似たような映画を観たよなあ・・・・・・と、「シービスケット」を思い出す。あの映画も、怪我をした競走馬が復活を遂げる実話をベースにした映画だ。むしろ、あっちの映画こそ馬が主役、そして最後に一気に感動。涙に誘われるのはシービスケットの方かもしれない。どうも、家族愛や騎手の復活など感動要素を盛り込まれると、ついつい涙が分散してしまって集中砲火ができないんだよね。
実は競走馬の復活については、日本でも感動の実話があるようだ。競馬にはまったく疎いがこの馬の名前だけは知っている。
オグリキャップはその競走成績以上に日本の競馬界に様々な影響を残した馬である。
主な勝ち鞍は有馬記念2回、マイルチャンピオンシップ、安田記念等。ハイセイコー以来のアイドルホースで、競馬ブームを巻き起こした。1990年JRA年度代表馬。
岐阜県の笠松けいばから中央競馬に移籍し、ハイセイコー以来の競馬ブームの立役者となったアイドルホース・怪物オグリキャップ。怪物と言われた馬だが、現役最後の6歳の年の春は安田記念に優勝したものの、宝塚記念ではオサイチジョージの2着に敗れ、秋には天皇賞を6着、ジャパンカップを11着と見せ場もない大敗が続き、限界説が囁かれた。「・・・・・・もう負けるオグリは見たくない」と。そして、その年の最後の重賞レースの有馬記念。オグリキャップのファン達は、オグリキャップの引退レースと決まっていた有馬記念にファン投票1位で送り出したのだった。
オグリキャップは、1985年3月27日の深夜、ホワイトナルビーの6番仔として誕生した。誕生時には、右前脚が大きく外向しており、すぐには自力で立てず、人の助けなしには初乳も飲めないほどであったらしい。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、障害を抱えた仔馬に対する願いもあって、幼名は「ハツラツ」と名付けられた。
当時のオグリキャップは、ホワイトナルビーの乳の出が悪かったこともあり、痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかし、削蹄の効果で次第に脚の外向が矯正され、雑草もかまわず食べるなど食欲も旺盛だったことから、2歳の秋頃には、他馬に見劣りしない馬体に成長し、負けん気の強さも見せ始めた。
1986年の10月には、岐阜県美山町(現山県市)にある美山育成牧場に移り、3ヶ月をこの地で過ごした。賢く人なつっこい馬だったが、調教時には、人間を振り落とそうとするなど勝負を挑んでくることもあったらしい。他馬に対しては、一歩引いたようなところがあり、自分から喧嘩を仕掛けて怪我をするような真似は一切しなかった。
引退レースの有馬記念(12月23日)。当日の中山競馬場には中山競馬場史上最高の17万7779人のファンがつめかけた。オグリキャップとしては過去最低の4番人気にまで落ち、単枠指定にもならなかった。レースはスローペースで展開。オグリキャップは、武豊に導かれて落ち着いたレースぶりで中団を追走。3コーナーから徐々にペースを上げ、4コーナーで外から先頭に並びかけると最後の直線で抜け出した。そして、大歓声の中、2着のメジロライアンに4分の3馬身差をつけてゴールに飛び込み、見事に優勝。「奇跡の復活」、「感動のラストラン」といわれる勝利を収めた。レース後、スタンド前でウイニングランを行うオグリキャップに17万大観衆の「オグリコール」が贈られた。つめかけた観客は感動で涙した。
馬が自分の意思で走っているとは知らなかった。騎手のムチで無理やり走らされているものと思っていた。サラブレッドは走るために生まれてきて、走るために進化を続けているのだろう。それが、自らの種を存続させるための選択肢として。だから、競馬は感動を生むのかもしれない。
♪今でも同じように見果てぬ夢を描いて 走りつづけているよね どこかで♪
加藤登紀子の「時には昔の話を」の一節。
「見果てぬ夢」という言葉の意味を知らなかった。「尽きることのない夢」という意味だと思っていた。その意味が、「実現不可能な事柄」というものであることをはじめて知った。
Yes, I am a dreamer.......