日本のどこへいっても、東京とかわらない月並みさに変りはててしまっている。
ところが、遠野だけにはそれがない。
遠野は貧しい村だった。
江戸時代は、年貢米を中心とする「米の経済」といわれながらも、遠野地方は寒冷地なために、麦・ヒエ・アワなどの雑穀中心の農業だった。
1782年-1788年(天明2年-8年)。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉だった。
特に天明4年は、6月ごろから急に寒い日がつづき、土用の入りに袷を着なければならないというような寒波が遠野を襲っていた。
夏畑のキュウリもササゲも早枯れしてしまい、ナスも玉子ぐらいにしかならなかった。
トウモロコシや赤いトウガラシさえもが種子を作らず、米は平年の半分の収穫もなかった。
人びとは食料を求めて山に入り、クリ、トチ、シダミ、ワラビの根、木の芽や葦の葉などまで採集にかけまわった。
全国的な大飢饉であった。時の南部藩主は諸代官を通じて、非常食糧としてワラの食べ方を指示している。
「生わらの穂をとり去って水に半日つけ、それをよくきざんで蒸し、石臼へかけて粉にする。その粉一升と米の粉二合を水でこね、ゆでて塩か味噌をつけて食ぺよ。米の粉がなければ、ワラビの花(澱粉)やクズを用いるとよい」
このような大飢饉ゆえに、いくつもの悲惨な話が残されている。
・・・乳飲み子をを川に投げすてて乞食に出る女や、一家そろっていずこへともなく立ち去ってしまったもの。
遠野物語に出てくる山へ入ったまま出てこない夫や娘の話は、現実にあったことの言い伝えなのだ。
はるか遠い昔のこの地には、そのような悲惨な現実が広がっていた。
一見、のどかに見える景色には、いくつもの悲惨な出来事が埋没している。
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