tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

海蔵寺

2009-12-18 23:12:30 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

海が付くお寺って、全国にいくつあるのだろう。
「海がすき~」を日ごろ口にしている者にとって、やはり、ここはお参りの定番スポットとして押さえる必要があるのかもしれない。

海蔵寺の山号は扇谷山。谷戸奥に佇む四季の花が咲く寺だ。
もともとは真言宗の寺だったものを、建長五年(1253)に六代将軍宗尊親王の命により藤原仲能(道知禅師)が七堂伽藍の大寺を建立。しかし1333年の鎌倉滅亡の際の全焼。さらに、室町時代になって、関東菅領・足利氏満の命により山内上杉憲定が再興するも、今はほとんどが廃絶。

おそらく、日本の寺のルーツが、インド、あるいは、中国から来た僧の教えにあるとすれば、海蔵寺の名前のルーツは、日本各地の同名の寺とのつながりよりも、中国あたりの寺を探すべきなのだろう。
中国の甘粛省武威市に海藏寺 (HaiCangSi / ハイツァンスー)という寺がある。建立された年代は未詳だ。
だが、寺院の周囲には泉が湧き、木々が生い茂っていて海の中に隠れた寺のようであることからこの名が付いたという。
鎌倉の海蔵寺も、本堂裏の心字池、山門脇の底脱の井(鎌倉十井のひとつ)、薬師堂裏の十六の井に清らかな水を湛える寺だ。
こうした豊富な水の特徴が、この寺の名を海蔵寺としたのかもしれない。

鎌倉駅に戻る途中で寿福寺へ。
かつて立原正秋が作品のなかで「欲のない寺」と表現した静かな寺だ。総門から中門まで、高い木々に囲まれた石畳のまっすぐな参道を歩く。そして中門の左手へ。苔むした石と紅葉が美しいコントラストを織り成している。
やぐらを背負った墓地の方へ行こうかと迷っていると、犬を散歩させていた地元の男性の方が道案内をしてくれた。

冬空の下、墓地は深閑として広がっていた。
「大佛次郎」の墓は、父「野尻政之助の墓」と並んで建っていた。「実朝・政子」「高浜虚子」等の墓も香華が絶えない。


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流鏑馬(2)

2009-12-17 22:49:13 | 古都 鎌倉

 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 (鶴岡八幡宮)(2009.10月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
all rights reserved.

ほんの数メートル先をあっという間に走り去る。人馬一体となって駆ける姿はなんとも美しい。
弓を構えて射るまで、こちらも息をするのを忘れて見入る。

矢を射る瞬間をうまくタイミングを合わせて、シャッターを切る。馬が驚くのでフラッシュは使えない。
曇りの日だったので、シャッタースピードを優先すれば、絞りを開けるしかない。したがって、ピントはどうしても甘くなる。
馬馬の足が1サイクルする間に、射手は一連の作業をしていることがわかる。

何枚かの写真を見て気づいたのだが、流鏑馬の馬は右側の前足と後足を同時に出し、続いて左側という走り方をしている。側対歩という走り方らしい。
側対歩ではスピードを上げても上下動が少ないため水平に進むことができ、馬上で弓を正確に射ることができることから、合戦の際に使われていた走法とのこと。
写真でも、かなりの速度で走っているにもかかわらず、馬の頭はまったくぶれていない。すごい。


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流鏑馬(1)

2009-12-16 22:16:53 | 古都 鎌倉

 
  

【撮影地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 (鶴岡八幡宮)(2009.10月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
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「流鏑馬神事」は、文治3年(1187年)8月15日鶴岡八幡宮放生会に際して、源頼朝が流鏑馬を催行したことに始まるといわれている。4月は武田流、9月は小笠原流。
という認識だったが、10月のこの日に、境内では流鏑馬の練習が行われていた。
年間の伝統行事を通じて伝統文化の振興を図る活動を行っている外郭団体「槐の会」(年会費3,000円)に加入すれば、流鏑馬神事の拝観などの特典もあるらしい。
http://www.hachimangu.or.jp/shintou/promotion/index_cont04.html
その大祭が毎年、10月上旬に催行されているのだ。
 
鶴岡八幡宮を散策した日はその前日。練習の日だった。
本殿に向かって右手の馬場上(ばばかみ)から左手の馬場下(ばばしも)へ。全長240メートルの馬場に60メートルごと3ヶ所に設置された的を射ながら、人馬一体となって駆け抜ける。
本番の「流鏑馬神事」では、狭い流鏑馬の馬場に多くの人が押しかけるから、まともに写真を撮れる状態ではない。しかも、的反対側に招待席を設け、一般席は的側の狭い一角なので、一般席から的を射るのを撮るのは不可能だ。
したがって、練習とは言え、流鏑馬の的を射る迫力のある様子を写真に撮れたのは幸運だったとしか言いようがない。


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God bless You 祈りをささげた日々(2)

2009-12-15 22:54:40 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 (鶴岡八幡宮)(2009.10月撮影)
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昨日、我欲をむき出しにして直訴する日本語で書かれた絵馬と、海外から来た人々が書く絵馬の内容とでは、祈りの次元が異なるということを書いた。
だが決して、「だから日本人の品格は・・・」などと書く気はさらさらない。
日本人は、その昔から、神様に対しては、己の欲をフランクにさらけ出してきたのだ。これが日本の文化なのである。
自分の理想を強いイメージで描くこと。強くイメージすることで、自分に本当に必要なものが見えてくる。大切なことが分かってくる。
日本人はこうして、神様と直に向き合うことで、自分の心を見つめてきた。そして、自分の理想へまっすぐに近づく努力をしてきたのだ。
だから、神社仏閣がいつの時代にも必要なのである。

一方、西洋人のお祈り。主を称えること、主に感謝することが主体である。もちろん、キリスト教信徒の場合でも、「神さま、お願い!」と祈りをささげる場合もある。
このような"お願い!"をするときには、神様は慈悲深いもの、だから私のお祈りが届けば神様は願いを叶えてくれるという前提がある。
祈りが届くか届かないかは本人の心がけ次第。願いが叶わなくてもそれも神の思し召しなわけだ。

無宗教の人が多い日本で、どうやって道徳を維持しているのだろうと西洋の人たちは不思議がる。ぼくに言わせれば、「道徳心を保つのになんで神様が必要なんだ」と言いたいのだが、無宗教と聞くとあからさまに未開の人々のように見下す西洋人に対しては、「宗教は仏教です。お盆にはお休みを取ります」ととりあえず東洋の神秘を強調して答えている。

日本での道徳は、集団の中で共同生活を営むうちに自然と芽生える信頼を元に定まってゆく。つまり、人による人のための法である。一方、キリスト教徒にとって道徳とは神の教えを守ることだ。道徳とは神が人間に与えた従うべき道であり、神による人のための法なのだ。
西洋でキリスト教という道徳体系が発展したのは、異民族同士の侵略戦争が絶えなかった欧州では、絶対的な権威をもち隣人愛を説く神という名の道徳規範が必要だったからなのだろう。お互い理解しあえる同士なら宗教なぞ不要だと言うのは無茶な意見なのだろうか。

・・・主よ、上に書いたことが間違っていたらおゆるしください。。ついでに、この世界的な恐慌が早くおわり、人類が適正な環境を維持したまま、平和に過ごせる日々が永く続く世の中になることを祈る勇気をぼくにください。アーメン。


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God Bless Us 祈りをささげた日々(1)

2009-12-14 22:59:49 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 (鶴岡八幡宮)(2009.10月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
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鶴岡八幡宮の願い事が記された絵馬。ちょっと行儀が悪いのだが、目に付いたものを読ませてもらっていたら、後ろに人だかりができてしまった。
熱心に見入っていたから、何事かと通りがかった多くの人の興味を引いたのだろう。大勢の人が絵馬を覗き込んでくる。身動きもままならないので早々に退散。。
絵馬にそれぞれの言語で書かれた願い事。英語でかかれたものには、世界平和とか母国に平和をと書かれている。
異国の地に入れば、母国のことが懐かしく、そして誇りに思うものである。だが、例えば外国の教会に行って祈りをささげる時に、果たしてぼくは世界平和を祈るのだろうか。。

詳しくはないが、キリスト教にはいろいろな宗派がある。それにもかかわらず、海外の小説などで目に付くものは、
「主よ、今日一日貧しい人や病んでいる人を助けるために私の手をお望みでしたら今日、私のこの手をお使いください」
というような意味の祈りの言葉だ。神が助けるのは「我々」であって、けっして「私」ではない。「私」が望むのは、神に対し良い行いをする「勇気」である。
また、祈りの言葉に「私」が出てくる場合は、
「主よ、みだらな私をお救いください」
というように、自分の非を謝罪する場合だ。

えてして、やれ受験に合格したいだの、恋愛が成就するようにだの、我欲をむき出しにして直訴する日本語で書かれた絵馬とは、祈りの次元が異なるようだ。
ひょっとしたら、日本人の場合は連帯意識が強いから、「悪いのは我々」であって「私」ではなく、そして、「私だけを大衆から抜け出させて」と常々、思っているのかもしれない。もちろん、これは、ぼくが日本人はみな同じ感覚だろうと考える同族意識から来るものなのだが・・・。

・・・神様、上に書いたことが間違っていたらゆるしてください。。ついでに、この世界的な恐慌が早くおわり、人類が適正な環境を維持したまま、平和に過ごせる日々が永く続く世の中になることを祈る勇気をぼくに与えてください。合掌。  って、願い過ぎか。。


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