歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

岩手大学~岩手県立美術館

2017年04月27日 | 盛岡

4月25日晴れ。初めて岩手大学を訪れた。
ちょうど桜が見頃で、同大学図書館前の桜がきれいであった。
構内を進むと、農学部付属農業教育資料館があり、そこには宮沢賢治の資料が展示されている。資料館前に宮沢賢治モニュメントが置かれていた。
 

そばに置かれている説明板には下記が記されていた。

宮澤賢治モニュメントについて
 岩手大学農学部同窓会(北水会)が、盛岡高等農林学校以来の創立百周年記念事業の一環として建立し、岩手大学に寄贈したもの。制作者は、岩手大学教育学部の藁谷収(わらがい・おさむ)教授。賢治の花巻農学校時代も終わりに近い、大正十五年始めに、農学校付近の畑で撮ったといわれる写真がモチーフ。帽子を被ってうつむいているその代表的な写真は、ベートーヴェンにならっているのだという。素材は、賢治の色々な作品の中にも出てくるなど、賢治とも関係の深い安山岩で、岩手県北の安代(あしろ)町の山中で求められ、彫刻には難しい点もあるこの素材のほとんどが手彫りでなされている。横から見ると賢治の立ち姿のシルエットが浮かび上がるところは、抽象と具象との間に真実を探ろうとしたもので、長年の構想を温めながら、直接的には半年ほどの製作であったという。横に広がる像は賢治精神が未来へとつながっていくイメージを表現していて、賢治の志を後に続く者が受け継いでいくという思いも制作意図には秘められているという。

藁谷収(わらがい・おさむ)氏は盛岡生まれだそうであるが、「わらがい」という姓から、祖先は磐城(いわき)出身かもしれないと、ふと思った。藁谷(わらがい)とは、私の祖母(父の母)の旧姓である。現在のいわき湯本町の出身である。
その後は、岩手大学から岩手県立美術館へ向かった。中学の大先輩に当たる「萬鐵五郎展」を観るためである。
到着してびっくり。先ほどの藁谷収氏が県立美術館の館長だと分かった。
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盛岡市中央公民館 「御薬園」~南部家別邸のあった場所

2016年11月10日 | 盛岡


 11月8日(月)に盛岡市中央公民館(盛岡市愛宕町14番1号)へ行ってきました。当日は、10時30頃から雨が降り出しました。本当であれば、天気がよかった7日(月)に行きたかったのですが、休館日でした。

 当地は、4代藩主南部重信の時代に盛岡城で使用する薬草を栽培していたため「御薬園(おやくえん)」と呼ばれました。
 その後,御殿,御茶屋,能舞台,庭園などが設けられ,下小路御屋敷と称されました。
 安政元年(1854) から文久3年(1863)まで、藩校「明義堂」の経学・医学の講義所が設けられたそうです。
 明治維新後は、建物や庭園は取り壊され,一時荒廃しましたが,明治41年(1908)に南部伯爵家別邸が新築されました。
 戦後,別邸を譲り受けて,昭和33年(1958)に盛岡市公民館が設置されました。





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盛岡市 聖寿寺 南部英麿氏の墓参

2016年06月26日 | 盛岡
 
 6月19日(日)に盛岡市内の盛岡藩南部家お殿様の菩提寺・臨済宗妙心寺派 大光山 聖寿禅寺(盛岡市北山2丁目12-15)へ行ってきました。
 そこには、南部英麿氏の墓があります。南部英麿氏は安政3年(1856)9月11日,盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれました。兄の利恭氏は第41代南部家当主になりました。
 英麿氏は私の出身校・早稲田中学校の初代校長です。東京専門学校(現、早稲田大学)の初代校長でもあります。
 墓には、「明治43年5月14日歾 齢55」と刻まれています。
 また、墓の左にある手水鉢(右写真)には「奉納 早稲田中學校 早稲田中學校校友會」と刻まれています。

 「早中七十周年記念録」(昭和40年10月)の「早中明治物語」の中で、明治29年4月5日午後1時、早稲田尋常中学校の開校式が東京専門学校の大講堂で行われ、先ず大熊英麿(南部英麿)が壇に立って開校の挨拶を行ったことを記しています。

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盛岡市 原敬別邸「介寿荘」跡

2016年05月30日 | 盛岡
盛岡 原敬別邸「介寿荘」跡

昨日(5/29)は、家内の実家の法要があり、法宴の会場をホテル東日本盛岡の日本料理「介寿荘」にて行いました。
「介寿荘」は、政治家・原敬の別邸「介寿荘」の跡地という由来から命名したそうです。
ホテル東日本盛岡と隣接する七十七銀行の北裏には、別邸時代の赤いレンガ塀が残され、圓通(えんず)神社が鎮座しています。
圓通神社の由来と書かれた説明板が赤レンガ塀に掛かっており、下記のように記されています。

圓通神社由来
この地は、原敬(内閣総理大臣 大正7年)の別邸介寿荘のあった所です。
 原敬は、少年時代儒経の根本である漢籍を、青年時代は耶蘇経を、そして晩年はコツコツと仏教を深く研究された方です。
 仏典の2.3は暗記するほど深く研究し、とても信仰の厚い方でありました。又、神社に対しては、深く尊宗を持ち、自分で菩提寺、大慈寺を建立(大正8年)しております。
 原敬の偉大さは、特に兄弟の仲は良く、母に孝養を尽くし、友情に厚く国家本位の政治を行ない、大西郷の遺言の通り美田を求めず、人間原敬の面目全く躍如としております。
 孔子の儒教精神と、西洋の自由思想をほどよく摂取調和し実践した人間の手本とすべき人でありました。
 昭和55年ホテル建設にあたり、時の流れに荒廃していた氏神の一部が出土した事から有志により復元をはかり、無病息災、家内隆盛、子孫繁栄、良縁、商売繁盛、交通安全の守護神として造られた神社であります。
                                         昭和63年8月吉日

当時(おそらく明治後期から大正初め頃)の「介寿荘」の写真は、「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されています。奈良真順氏の撮影です。
 参考: 2011-07-05 盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館



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今年は親鸞の高弟・是信房の750年忌

2015年09月30日 | 盛岡
 家内の実家の遺品を整理していた時に、思いがけないものが出てきた。
 是信房650年紀念の時の集合写真である。写真に右上に押されたスタンプには、「彦部村石ケ森 大正四年十一月廿日 舊十月十四日」と記されている。 背景を見ると、彦部村本誓寺跡か是信房の墓の前であろう。
先の年月日からすると、今年は是信房750年忌(平成27年11月25日)である。

 


過去の関連情報
 2011-12-04 盛岡市・石森山 本誓寺


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盛岡市・石森山 本誓寺

2011年12月04日 | 盛岡
せきしんざん ちょうげんいん? ほんせいじ
真宗大谷派 石森山 重願院 本誓寺 (盛岡市名須川町3-16)
木造阿弥陀如来立像、木造親鸞上人坐像、木造聖徳太子立像が盛岡市指定文化財となっている。 また「ホンセイジシダレ」(桜)は盛岡市指定記念物である。

左は本誓寺本堂、 右は本堂前の説明板

 本堂の前に立つ説明版には、下記のように記されている。
 『本誓寺  真宗 大谷派
 浄土真宗の教えをひろめる親鸞聖人(1173-1262)の弟子は百人も数えるが、その中の主な弟子たちのことを書いたものに「親鸞門侶交名牒」とよばれるものがある。 その十番目に奥州和賀郡一柏(ひとつかしわ)(注1)の是信房(ぜしんぼう)(注2)の名がある。
 親鸞聖人が常陸稲田におられた時、奥州の人たちが弥陀の本願の教えに救われるようにとの念を深くして、当 開基の是信房に命じ、その任にあたらせた。 その時、お別れを惜しむと親鸞聖人は「後の世の記念に残す面影は弥陀たのむ身のたよりともなれ」とうたわれ、御自身肖像を彫りまた、阿弥陀如来の尊像の両側に南無阿弥陀仏と書かれた=名体不離の本尊=を是信房に与えられた。 時は建保三年(1215)であった。
 その後是信房は一寺を紫波郡彦部村松田に創建(注3)、石森山重願院本誓寺と称しておよそ52年(注4)、大いにこの道をひろめられ、そのため、聖人より光明本一幅を与えられるが、文永三年(1266)十月十四日86才で亡くなる。(注5)
 寛永十二年(1635)十六世の賢勝が南岩手郡米内(よない)村に本誓寺を移し(注6)、かわりに正養寺(注7)を彦部に建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世の是伝が寺祖の墳墓を村内三ッ割に移して現在に至る。親鸞聖人の教えをはじめて奥州へ伝えてから七百年余りになるが、近世末期までは五十六の末寺を数え当本誓寺には、初期教団としての宝物も数多く蔵されている。
 なお本誓寺宝物には「御真影」「光明本尊」「名体不離本尊」それに「光明攝取本尊」が伝わっている。』

(注1) 岩手県東和賀郡笹間村、現在花巻市中笹間。 法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌特別展『法然と上人』(2011.10.25~12.4 於:東京国立博物館)で展示されている、『親鸞聖人惣御門弟等光明』(滋賀県光照寺・明照寺とも)に「是信(セシン) オ〃 ワカ」と書かれている。 是信(房) 奥州 和賀のことである。
(注2) 是心房とも書かれる。 三位源頼政(1104-1180)の曾孫宗房説、吉田(大納言藤原)信明(しげあき)説があるが、寺伝では吉田信明(1181-1266)説をとる。
(注3) 彦部村松田の「松田」が不明。 是信房の墓がある紫波郡紫波町彦部字石ヶ森に草庵を創ったか、もしくは、後に石森山弘願院正養寺と改号した場所に創ったかが考えられる。 いずれにしても、山号の「石森山」は字名・石ヶ森からとったと思われる。 創建当初、彦部村を領していたのは、藤原秀郷を祖とする河村氏一族である。 『吾妻鏡』に、
■文治五年(1189)八月大十二日己亥。一昨日(阿津賀志山)合戰之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船迫驛。被尋仰其父。小童爲山城權守秀高四男之由申之。依之。於御前俄加首服。号河村四郎秀。加冠加々美次郎長也。此秀者。去治承四年。石橋合戰之時。兄義秀令与景親謀叛之後。牢篭之處。母〔二品官女。号京極局。〕相計而暫隱其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇士。企慇懃吹舉之間候御共。忽顯兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國府給。(略)
 とあり、河村千鶴丸(13歳)が先陣を切って活躍をしたことが記されている。 頼朝は、千鶴丸が、(河村)山城権守秀高の子であることを知り、目前で元服式を行い、河村四郎秀清と名付けた。 秀清の母は、頼朝の官女、京極局である。
■文治五年(1189)九月小四日辛酉。着御于志波郡。(略)今日。二品令陣于陣岡蜂杜給。(略)
 とあり、源頼朝が志和(紫波)郡に着き、陣ケ岡蜂杜(じんがおかはちもり)に陣を敷いた。
■文治五年(1189)九月小九日丙寅。鶴岡八幡宮臨時祭也。流鏑馬已下如例。今日。二品猶逗留蜂杜。而其近邊有寺。名曰高水寺。是爲 稱徳天皇(764-770)勅願。諸國被安置一丈觀自在菩薩像之隨一也。(略)
とあり、この日、蜂社に逗留したことと、近くに称徳天皇(764-770)の勅願した高水寺があることが記されている。 本誓寺近辺の情報が多少知ることができる。 先の河村秀清が、戦功により紫波郡の北上川東側を領有して、斯波氏が奥州管領に任じられる建武2年(1335)頃まで領有し続けたとも考えられるが、勢力的には小さくなっていった可能性もある。
また、天武天皇の第一子・高市親王の後裔・高階惟章(1053-1107)を祖とする彦部氏の歴史によると、惟章は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、そして、惟章の娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、惟頼は奥州検断職を命ぜられ、いわきに赴任し、惟頼の後、数代この地で過ごし光朝(1216~77)の代に、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗ったとしている。[参考:彦部家屋敷HPより]
惟頼が陸奥国菊多郡彦部郷大高(現在のいわき市勿来町大高)に居を構え、大高冠者と呼ばれたのを始めとして、光朝までの間に大高、滝口、窪田、彦部姓を名乗っている。 そのうち大高、窪田、彦部は当時の菊多郡(現勿来町)にあった地名でしかも直線距離で1kmほどのところにある。 それから考えると、彦部のもともとの地は現・勿来町にあり、そこから彦部氏が紫波町に移り彦部という名前ができたということも考えられるがいかがであろうか。
(注4) 本誓寺の創建が建保三年(1215)、その52年後の文永三年(1266)に亡くなったことを意味している。 『親鸞聖人正統伝』では寛喜3年(1231)に建立としている。
(注5) 石森山上(彦部字石ヶ森)に葬るとしている。是信房の墓(御廟)があるところ。
(注6) 南岩手郡米内村(現、盛岡市名須川町)に移る前に、1580年代の天正年中に彦部から対岸の二日町(紫波町二日町北七久保)に移転している。一説では、天正十二年(1584)に野火による堂宇消失と高水寺城主「斯波詮直」の招聘により現在地(二日町)に移るとしている。
(注7) 石森山正養寺 (紫波郡紫波町彦部川前110)
 寛永十二年(1635)本誓寺十六世賢勝が南岩手郡米内村に本誓寺を移し、代わりに昔、本誓寺があった彦部に弘願院正養寺を建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世是伝が寺祖の墳墓を米内村三ッ割に移して現在に至る。
 正養寺には、南北朝期のものとみられる板碑2基と400年以上前のものとみられる彦部氏の墓と伝えられている古碑が残っているという。

 以上、本殿前の『説明版』、さらに『盛岡の寺院/盛岡仏教会1995』をみても寺の歴史はかなり簡略化されている。
 インターネットに公開されている『真宗 石森山 本誓寺』のしおりがある。この本誓寺は紫波郡二日町新田郡山(現・紫波郡紫波町二日町北久保)で、区別しやすいように郡山・本誓寺と呼んでいる。それに対して盛岡市名須川にある本誓寺を盛岡・本誓寺。さらに、最初に開かれた彦部郷石ケ森の本誓寺を彦部・本誓寺と区別すると、それらの関係と歴史は複雑である。さらに、郡山・本誓寺のすぐ北にあった慈運山永光寺、そして彦部・本誓寺を改号した石森山弘願院正養寺を加えての説明が必要となるだろうが、ここでは省略する。
 ただ、郡山・本誓寺と盛岡・本誓寺は同じ山号寺号で「真宗大谷派 石森山 本誓寺」であるが、現在、郡山・本誓寺は本山(東本願寺)直末寺院となった。


 本堂の横に、赤いオダマキが咲いていた。愛らしい。(6月10日撮影)

追記 2014.1.6
幕末の本誓寺
慶応4年2月(1868年3月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。総督・九条道孝一行は6月3日盛岡に入り、一行の宿舎は寺院が当てられた。 本誓寺には九条殿本陣が置かれた。24日、秋田へ向って発ったというから、3週間ほどの駐屯であった。
当時の本堂は明治30年に類焼し、大正7年に再建された。
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盛岡市・瑞鳩峰山 報恩寺

2011年11月08日 | 盛岡
   ずいきゅうほうざん ほうおんじ 
曹洞宗 瑞鳩峰山 報恩禅寺 (盛岡市名須川町31―5)

山門と本堂、 山門の山額「瑞鳩峰山」は永平寺76世慈眼福海禅師筆によるもの。

 応永元年(1394)南部家13代守行(開基、1359-1437)により、三戸八幡宮(注1)の側に南部家代々を弔うため一寺を開創したのが始まり。
 足利末期には、寺跡を残すのみとなり、名久井(現・三戸郡名川町)の白華山法光寺(注2)の別院が建てられた。
 24代晴政(1517-82)の代に、新潟県柏崎市の香積寺5世通山長徹大和尚(開山)を師と仰ぐ久山舜桂大和尚(2世)によって、法地に格上げ再興され、「瑞鳩峰山報恩禅寺」が建立された。 山号の「瑞鳩峰」とは、開創の地が瑞鳩を象徴とする八幡様の側であったため。
 永禄12年(1569)南部家より知行200石が与えられた。
 27代利直(1576-1632)の代に、本城を三戸から盛岡(古来方)に移すことにより、慶長6年(1602)、同寺も4世養山玄想大和尚の時に、現在地に移転した。
 万治字3年(1660)に南部藩内曹洞208カ寺の総録司に任命され、明治35年(1902)まで続いた。

(注1) 本三戸八幡宮
 創建は初代南部光行(1165?-1236?)が、本拠だった甲州から勧請したのが始まり。境内に隣接して別当の金剛院があり代々の墓があったが、天明4年(1784)の大洪水で堂宇と共に流されたと伝えられている。
(注2) 白華山 法光寺 (はっかさん ほうこうじ、三戸郡南部町法光寺)
 旧名・名川町にある曹洞宗別格地。 北条時頼(1227-1263)を開基、玉峰損城和尚を開山として、建長年間(1249~1256年)に創建と伝わる。 山号は山門下の池の白連華に由来する。


 羅漢堂と、第14代盛岡藩主南部利視筆による扁額。

 報恩寺に安置されている五百羅漢は、享保16年(1731)藩主南部利視(1708-1752)の代に、17世曇樹一華和尚が大願主として造立4年の歳月をかけ作られたものと考えられている。 京都の法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人の仏師で木彫り漆塗り。 マルコポーロやフビライの像もみられ、499体が現存する。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行、盛岡報恩寺しおりなど]
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盛岡市・松尾大明神

2011年11月05日 | 盛岡
松尾大明神(松尾神社、松尾社とも) 盛岡市茶畑1-1-1 


 盛岡八幡宮を南に降りてゆくと、十六羅漢の道路手前にある。入り口はやや狭く、階段を上ったところに境内があり、さらにその奥の一段高いところに社殿がある。 目立たないので、通り過ぎてしまいそうである。 地図には、松尾大明神と記されていた。


 だが、この場所は社殿の北側が、天正年間に城主・中野康実(九戸政実の弟)が築城した中野館(なかのだて)跡なのだそうな。 そんなこととは知らずに、その後、ひょんなきっかけでわかった。 [参考:もりおか歴史散歩(東北堂)]


 社殿の扁額には「松尾社」と書かれている。 その扁額を書いたのは新渡戸■岳。 ■は姫と読めそうである。そうすると、新渡戸姫岳(きがく、1760ー1823)。 盛岡馬町(現・清水町)にある、現在は本山修験宗であるがもとは天台宗・峯寿院(ほうじゅいん)の住職で与謝蕪村に俳諧を学び、諸国を漫遊したそうな。 曾孫に、教育者、書家かつ俳人であった新渡戸仙岳(1858-1949) がいる。仙岳は盛岡高等小学校校長時代の教え子に金田一京助、石川啄木らがいる。
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盛岡市・松峰山 東顕寺

2011年11月05日 | 盛岡
   しょうほうざん とうけんじ
曹洞宗 松峰山 東顕寺 (盛岡市名須川町2-1)
 

 本寺は旧水沢市の正法寺(しょうぼうじ)(注1)。 正法寺の70いくつかある末寺のひとつであるが、盛岡市ではこの東顕寺のみである。
 開山・古山良空和尚(1362-1415)(注2)。 開基・不来方(こずかた)館主・福士五郎政長(?-1391、法号・源翁心公大禅定門) (注3)として、至徳元年(1384)頃建立。 2世は天蓑瞬賀(てんさしゅんか)(注4)。
(注1) 正法寺: 大梅拈華山(だいばいねんげざん)圓通正法寺(えんづうしょうぼうじ)(奥州市水沢区黒石町)、1348年創建。
 現在は、大本山總持寺筆頭末寺であるが、往時は東北地方における曹洞宗の本寺・第三の本山であった。
(注2) 正法寺2世月泉良印の嗣法。後に正法寺4世住職。初めに「天台止観」を学んだ後、衣を変えて月泉の教えを受ける。
(注3) 福士氏は源義光(新羅三郎)の四男?・實光が甲斐国巨摩郡福士郷(現、山梨県巨摩郡南部町福士)を賜り、福士實光と改名した。 4代後に近隣の南部氏の家臣として奥州に下向する。 南部氏は義光の次男・義清の2代後、加賀美遠光の長男・光行が甲斐国南巨摩郡南部郷(現、山梨県巨摩郡南部町)を領し南部光行(南部家初代)と改名。
(注4) 天蓑瞬賀は、室町時代中頃(1444年)に旧御城内の毘沙門淵に曹洞宗・養廣山正傳寺を開山した。開基は不明。 元は、天台宗であったが、曹洞宗に改宗したと伝わる。改宗した時期を開山としている。 正傳寺は盛岡城築城のため現在地(盛岡市愛宕町)に移転した。

 初め、盛岡城跡からみて盛岡市動物公園の手前あたりに草庵を結んだという。 現在も地名に盛岡市東中野里東顕寺と残るあたり。 その後、至徳元年(1384)頃、不来方の慶喜館石間(いしあい)(注5)に一宇を開いたとする。(開山) その後、盛岡城築城のために移転するが、現在地の名須川に移るまでに、直接ないしい2,3回の移転があったとみられる。
(注5) 現岩手医大学の北で、盛岡城が築城されてからは、家老・楢山河内守の屋敷となった。

 山門、本堂の屋根に曹洞宗と永平寺の紋が飾られているが、ほかに九曜紋が飾られている。 福士氏の家紋の一つに割菱九曜紋があり、それかと思ったが、飾られている九曜紋の日曜には割菱がない。 それではと、寺に問い合わせたところ、本寺の正法寺の紋(注6)であるという回答であった。
(注6) 正法寺の本堂は、日本一の大きさの茅葺屋根をもつ建物(国指定重要文化財)であるが、文化8年(1811)に仙台藩により再建された。 そのため、本堂には、仙台藩(伊達家)の家紋「竪三つ引両」と「九曜」と「竹に雀」が飾られている。
 
東顕寺の山門と本堂の屋根に飾られている九曜紋が、正法寺の紋だからといって、仙台藩(伊達家)の紋であるとは断言し難い。
 本堂の山額「松峰山」は永平寺64世性海慈船禅師筆によるもの。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行など]
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盛岡市・臨済宗妙心寺派 大智山 法泉寺 「金森頼錦の墓」

2011年10月20日 | 盛岡

左写真は本堂、 右写真は山門

臨済宗妙心寺派 大智山法泉寺 (盛岡市北山2-16-8)
 江戸時代前期(1624-1644)、東禅寺(臨済宗妙心寺派)の住職・東岩和尚が開創。 盛岡五山(注1)のひとつ。
 寛文11年(1671)、南部家第29代重信が、第30代行信の母堂・大智院の菩提のために建立(再興)して、法泉寺と称したとされる。 この時の中興開山が朱巌和尚である。 寺領百石。
(注1) 南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた際に、京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼び領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)を特に「盛岡五山」と定めた。
[参考:法泉寺HP、「盛岡の寺院」(盛岡仏教会1995発行)]


 金森兵部頼錦の墓 右写真に見える墓の左面(裏面)には「金森兵部頼錦」と刻まれ、その表面には法号が刻まれ、美濃郡上の方を向いている。

金森頼錦の終焉の地・盛岡
 金森頼錦(1713-1763)の墓が法泉寺にあるというので、出掛けてみる。寺に着くと、東側に墓地が見える。丘陵の斜面に細長く広がっており探すのが非常に大変そうである。 お寺を訪ねて、場所を教えていただいた。 先ほどの墓地とは反対側の寺の西側、数軒ほどの民家を越えた場所にある。往時は、寺の境内であったそうだ。 金森頼錦の墓は上り坂を上がって、さらに背丈ほど少し高くなったところにある。 墓だけが、ぽつんと一基、見晴らしのよい場所にある。 法号が刻まれた墓碑面は故郷を向いているようだ。大事に葬られたことが窺える。 墓の前には説明板が立っている。

 金森兵部(ひょうぶ)の碑
 金森兵部は少輔(しょうゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)3万8千石の藩主でしたが、宝暦八(1758)年に領民騒擾(そうじょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになりました。
 盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇しておりましたが、宝暦九年二月の流謫(るたく)から四年余り過ぎた同十三(1763)年六月に病死しております。享年五一歳。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものです。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきました。
 金森家は長く謹慎の身に置かれておりましたが、嫡孫靱負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元(1789)年に遺骨は江戸へ引き取られております(注4)。
 碑の前面に「曹雲院殿性海善理大居士」(注2)の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」(注3)の没年が刻まれています。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われます。
平成十六年三月 盛岡市

(注2) 東京広尾・祥雲寺(臨済宗大徳寺派)での法号は「覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士」
(注3) 実際には「宝暦十三癸未禩」「六月六日」と刻まれている
(注4) 頼錦死から26年後、金森家再興の翌年寛政元年(1789)に頼興(1753-1797)は遺骨を引き取り火葬の上、京都・大徳寺あるいは江戸・祥雲寺に改葬したとしている。
 2005年6月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉66 工藤利悦(注5) 南部家お預かりの大名の由来とその後(3)
 2006年11月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉140 工藤利悦 郡上八幡金森様ご病死につき
            (注5)工藤利悦氏: 「近世こもんじょ館」(盛岡市)主宰
に、頼錦の盛岡での日常の様子および埋葬のことが記されている。
 頼錦の死後、遺骸は長さ6尺8寸5分(2.1m)、高さ1尺9寸4分(0.6m)、横2尺8寸6分(0.9m)の箱に入れ、いっぱいの塩が詰められた。
 その後、頼錦の孫靱負頼興(注6)の代、天明八年(1788)に1500石で名跡を継ぐことが許され、頼興は翌寛政元年(1789)祖父(注6)の遺骨を引き取るため僧等を引き連れ、盛岡に到着、火葬の上法事万端を済ませ江戸に帰ったという。 「篤焉家訓(とくえんかくん、市原篤焉筆)」によれば、遺骸を掘り出したところ、形は少しも損なっていなく、塩は固まってきれいであったという。 その後、京都紫野大徳寺寺中にある金森家墓所に葬られたとしている。
(注6)頼興は頼錦の六男のはずで、間違いでは?

過去の関連ニュース・情報
 2011.5.27 渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

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盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館探し

2011年10月19日 | 盛岡
 宮沢賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年(1917) 10月31日に、同人誌の仲間4人で写真を撮ったといわれる奈良写真館があった場所を探しに出掛けてみました。
 盛岡駅方面より中ノ橋を越えて、岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行)の手前を左に曲がり、細い道を中津川沿いに歩いたところにあるはずです。


 (写真左) 奥に見える青色は中ノ橋。中央は雑貨屋の茣蓙九 森九商店(ござく もりくしょうてん)の土蔵群。 江戸時代後期から明治時代末期にかけて建てられたもので、昭和54年に保存建造物指定を受けています。 表の通りに面した店の構えは、昔ながらの面影を色濃く残しています。 残念ながら写真には収めていませんでした。
 (写真右) 左に茣蓙九 森九商店の土蔵群。 その右(写真中央)が喫茶店「深草」。 さらに右に進むと中ノ橋がある。

 Azalea(宮沢賢治と「アザリア」の友たち)さん から教えていただいた、喫茶店「深草」で場所を聞いてみようと、朝9時40分頃に店の前に着きました。 店は開いていなく、散歩しながら付近の写真を撮っている間に、飼い犬の世話で店主が外に出てこられました。 奈良写真館のあった場所を聞いてみると、「そこの角だよ」と。 「角」となると、先ほどの、中の橋を越えて、岩手銀行中ノ橋支店の横庭(ばらを植えている場所)あたりになるのではないでしょうか。 判然としないが...、家に戻ってからあらためて調べてみることにしましょう。 店主は、かなりのご高齢。 奈良写真館が開業をしていた最後の年・1933年は、まだお生まれでないかもしれないし、お生まれであったとしても覚えていないくらいのお歳かと。



上地図は、「深草」の店主が指示した場所。 下写真の緩やかな坂を上り切った左側で、岩手銀行中ノ橋支店西側の庭あたりとなる。 当時は、多分緩やかな坂はなく、水平であったと思われる。

 さて、家に戻ってからいろいろ調べた結果、少ない情報の中からわずかな出来事と、写真を探しました。
 まずは、考察するのに中ノ橋、宮沢賢治、盛岡銀行に関する簡単な年表を作ってみました。

<中ノ橋、宮沢賢治、盛岡銀行に関する年表>
慶長16年(1611) 中ノ橋が架けられる。 以後、洪水による数度の流失がある。
明治35年(1902) 奈良写真館開業。
明治42年(1909) 4月 賢治、盛岡中学へ入学(~1914.3)
明治43年(1910) 9月3日 中津川大洪水で中ノ橋が流される。
  中ノ橋流失直前の写真(写真1)が[2006年3月13日盛岡タイムスHPおよび北上川学習交流館「あいぽーと」HP]に載っている。
明治44年(1911) 4月 盛岡銀行本店が完成。
  同年     7月9日 某写真集に掲載の奈良写真館(写真2)の撮影日
明治45年(1912) 4月 中ノ橋は洋風で石組橋脚の橋に架け替え。 欄干は鉄製。 護岸は石造とし、石積みは高くなった。
大正3年(1914) 4月 賢治、盛岡高等農林学校入学(~1918.3)
大正6年(1917) 10月31日 同人誌「アザリア」の仲間4人で、奈良写真館で写真(写真3)を撮る。
大正7年(1918) 4月 賢治、盛岡高等農林学校研究生(~1920.5)
昭和6年(1931) 盛岡銀行経営破綻。
昭和7年(1932) 5月2日 岩手銀行が設立。(旧盛岡銀行の建物を使用)
昭和8年(1933) 奈良写真館閉館。宮沢賢治亡くなる。
  盛岡市上下水道局HPに当時の盛岡銀行(西側)の小さい写真(写真4)が掲載されていた。
昭和9年(1934) 盛岡市で初めて水道の給水を開始
昭和31年(1956) 中ノ橋、現在の橋へ架け替え。

<考察>
 奈良写真館が開業してから8年後に大洪水が起こり、中ノ橋が流失しました。 中ノ橋のたもとにあったとされる奈良写真館がどうなったのかは不明ですが、奈良写真館は上流側にあり、助かった可能性があります。
 (写真2)の奈良写真館の右手前に橋らしきものが写っています。 現在の写真と比べてみると、川沿いの細い道が橋に近づくに連れて傾斜をつけて上がっていくのに対して、奈良写真館があった当時は、傾斜なしにそのまま平行な道になっていたのではないでしょうか。 すなわち、旧盛岡銀行の地面に対して、奈良写真館の地面は低い位置にあります。 したがって、現在、旧盛岡銀行の西側の庭は、奈良写真館がなくなった後、かなり盛り土をしたのではないでしょうか。

2012.1.17追記
 奈良写真館の写真が「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されているようです。

2012.1.31追記
 「蔵から出てきた盛岡 」を図書館から借りてきて、あらためて読み直しています。
 奈良写真館の写真が3枚ありました。年代順に、
①明治35年開業当時のもの。場所不明となっています。「本日開業 奈良写真館」と書かれた幟(旗竿)を持ち、その後ろから笛、太鼓を持つ人が練り歩く姿が写されています。また、幟の字は裏になっているところを写しているので見えにくいのですが、先の「本日開業 奈良写真館」の両側に「中の橋 東川岸」と書いてあるように見えます。よく見ると、真ん中に写っている建物の屋根に「奈良寫眞館」の看板が架かっています。②、③の建物とはまったく別のもので、これが開業当初の奈良写真館のようです。すると、②、③の奈良写真館は、明治35年から44年の間に移転ないし建替えしたことになります。
②明治44年3月3日撮影のもの。整備前と記しています。
③明治44年7月9日撮影のもの。中ノ橋際にあった。大水害被災後整備したと記しています。②にはなかった「奈良寫眞館」の看板が屋根に掲げられています。この看板は、もしかしたら①の看板と字体、大きさ、配列が似ており、同じのものかもしれません

 いや、よく見ていくともう1枚あるようです。初めの方のページに、中ノ橋の西川岸際から岩手銀行を見た写真があり、写真の説明に「明治43年洪水で流出後、架けられた中ノ橋。金属の欄干となった。左端の白い蔵は奈良写真館。」と書いてあります。岩手銀行と中津川の間のスペースの左に白い蔵が見え、少し間隔を置いて同じような白い蔵が見えます。それが、奈良写真館ということなのでしょう。 先の③には、「奈良寫眞館」の看板を屋根の上に掲げた2階建ての建物とその左に白い蔵が写っています。同じ形の白い蔵です。喫茶「深草」の右隣にその白い蔵があったような感じですが、いかがなものでしょうか。



 
過去の関連ニュース・情報
 2011.7.5 盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館
 宮沢賢治(宮澤賢治)


キーワード:奈良写真館、 奈良真順

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盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館

2011年07月05日 | 盛岡


写真は、中ノ橋付近の地図。 中ノ橋の右上に岩手銀行中ノ橋支店(注1)があり、その裏側(上側)に奈良写真館があったと思われる。

 5,6年前に、早稲田大学の図書館で昔(明治期頃)の写真集を眺めていたときに、ふと、中ノ橋・「奈良写真館」の写真が目に留まった。
 2階建ての屋根に架かる「奈良写真館」と書かれた看板と、写真館の左隣に並ぶ白い土蔵が印象的であり、雰囲気のある写真である。 (写真が載っていた本の名前は、記録していないのでわからない。 多分B4サイズの本である。)
 中ノ橋は盛岡市内を流れる北上川の支流中津川に掛かる橋であり、地名としても残っている。
 盛岡市は家内の生まれ育った場所。 そして、ピアニストの奈良希愛さん、ポップアート作家の奈良美智(青森県)さん、あるいは会社の同期の人間(青森県)にも奈良さんがいたなどと思い浮かべ、さらに奈良さんは意外にも東北にたくさんいるんだと感心をしながら、図書館の複写機でコピーをした。

 その当時、インターネットで「奈良写真館」を検索しても何も情報が得られなかったのが、今回、再びインターネットで検索をしたら、宮沢賢治ゆかりの写真館だとわかり感激をした。
 それは、azaleaさんのブログ『宮沢賢治と「アザリア」の友たち』で見つけさせていただいた。
 「アザリア」とは西洋ツツジの「アザレア」であり、宮沢賢治(1896-1933)とその仲間が立ち上げた文芸同人誌に「アザリア」と名付けられた。
 宮沢賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年(1917) 10月31日に、同人誌の仲間4人が奈良写真館で撮影したそうである。この写真は、「宮沢賢治の青春」(菅原千恵子著、角川文庫)の本の表紙にも使われている。
 これについては、2009年6月6日(土)の盛岡タイムスに『賢治ら「アザリア」の4人写った写真の撮影場所が判明 小菅健吉が手紙に記す』の見出しで記事が掲載されたようであるが、残念ながらインターネットでは記事が削除されてしまって見ることができない。
 一方、奈良写真館は明治35年(1902)から昭和8年(1933)の間、開業されたらしい。
 ちなみに、コピーした写真の撮影日は、明治44年(1911) 7月9日と書かれている。さらに、「奈良真順→真一、勝郎」とメモをしてあるので、多分館主であろう。そうすると、撮影者は奈良真順さんあるいは奈良真一さんとなる。写真を掲載できないのが残念である。

(注1) 旧盛岡銀行は昭和恐慌の影響で1931年に破綻し、翌年救済のため岩手銀行が設立された。

2012.1.17追記
 先の奈良写真館の写真は「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されているようだ。

関連ニュース・情報
 宮沢賢治(宮澤賢治)


キーワード:奈良写真館、 奈良真順
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盛岡市・館野前遺跡 経塚跡から「一字一石経」?出土

2010年10月21日 | 盛岡
 盛岡市飯岡山の麓の長善寺境内で16日、館野前遺跡の現地説明会が行われた。(曹洞宗飯鳩山)長善寺の位牌堂新築に伴い、盛岡市教委が9月から初めての発掘調査を行っている。
 これまでに平安時代の竪穴住居跡や江戸時代の経石などが発掘された。長善寺を中心に古くから地域が発展してきた歴史を物語る。
 平安時代(9世紀~10世紀)の竪穴住居跡5棟、柱穴、水場遺構などが見つかり、土師器や須恵器が出土した。 竪穴住居跡は方形で壁際にはかまどが用意され、排煙の煙道が掘られ、当時の土器が残されていた。
 江戸時代の経塚跡は山門脇にあり、約2・4m×1・8mの長方形。深さ40~50cm部分から直径3~5cmの石が多数見つかった。小石1個ごとに経文1字を墨書した「一字一石経」で、法華経の文字数と同じ約7万個埋まっていたとみられる。 経塚には、由来を示す経碑はなく、上にあったと見られる盛り土もなくなっていた。経塚の発掘は県内でも10例程度、市内で4例目だという。ほかに、陶磁器、金メッキが施された煙管(きせる)、砥石、寛永通宝や中国から輸入された宋銭の明道通宝などが出土した。
[参考:2010.10.17盛岡タイムス、2010.10.21読売新聞]

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 2010.9.16 伊賀市・沖打越1号墳(全長23m)および沖打越中世墓(経塚)の発掘調査
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