歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

高槻市・上牧遺跡 淀川右岸に古墳時代初頭(3世紀前半)から後期(6世紀前半)の集落跡が見つかる

2018年10月25日 | Weblog
 大阪府文化財センターなどが24日、大阪府高槻市上牧町3丁目の上牧(かんまき)遺跡で、古墳時代初頭(3世紀前半)に出現し、古墳時代後期(6世紀前半)まで継続した集落跡が見つかったと発表した。
 遺跡は淀川右岸にあり、昨年11月から約4000㎡を発掘した。
 建物跡はこれまでの調査結果と合わせ、竪穴建物と掘立柱建物、計約30棟が確認されている。
◆竪穴建物は、建物の中軸が正方位に近い古墳時代初頭~前期頃(3~4世紀)の一群と、それらよりやや新しい中期前半頃(5世紀前半)の地形に沿ってやや西に傾く一群とがある。正方位の一群は、一辺6~7m前後のやや規模の大きなものが多く、西に傾く新しい時期の一群は、一辺5m前後のやや小ぶりなものが多い。
◆掘立柱建物は、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)以降のものが多く、この時期を境に竪穴建物から掘立柱建物へと建物構造が変化する。 掘立柱建物の中には、周囲に区画溝を伴う一辺5.4mの規模の大きな建物や、建物規模は小さいものの神社建築との関連が指摘される独立棟持柱建物などがみつかっている。独立棟持柱建物(年代不明)については、建物の中軸方向や古墳時代初頭の遺物がまとまって出土した井戸と隣接することから古墳時代前期以前に遡る可能性が高いとみている。

 上記井戸から古墳時代初頭頃(3世紀中頃)の壺や甕がまとまって出土した。また、これら土器から桃の種が50個出土した。祭祀・儀式が行なわれていたとみられる。
 建物跡が多数見つかった居住域に隣接する地点で、周溝墓が3基見つかった。いずれも方形で、一辺6~8ⅿ前後。周溝の形状などから古墳時代初頭~前期(3~4世紀頃)とみられる。

 数百m西の井尻遺跡でも同じ頃の集落跡が見つかっており、集落はさらに広がるとみられる。
 古代の淀川は大阪湾から木津川を経由して奈良盆地へ向かう重要な水運だった。
 上牧遺跡から内ヶ池を挟んだ西側に位置する梶原南遺跡付近が古代山陽道の大原駅家(おおはらのうまや)の推定地とされる.また、周辺には安満宮山古墳なども所在することから、初期ヤマト王権の中心だった奈良盆地につながる交通の要所に集団が存在したことが明らかになったとしている。
 出土土器の形式から、滋賀県の近江南部との交流も考えられるという。
 10月27日(土)13時から15時まで一般公開される。
[参考:毎日新聞、ABCテレビ、関西テレビ、大阪府HP/報道資料「淀川右岸における古墳出現期集落の発見…」]

過去の関連ニュース・情報
 古山陽道
 桃の種

参考:周辺の名所・遺跡など
◆春日神社(かすがじんじゃ) 高槻市上牧町2-12-12
御祭神;天児屋根命、菅原道真、神奈備神社
 はじめ一の宮と呼ばれ、春日大神の一座であったが、延喜元年(901)、菅原道真が九州の大宰府に赴く途中立ち寄った縁から、のちに当社に合祀されたといわれる。大正4年(1915)には、古歌にも詠まれた『神南備森』の神南備神社を合祀している。

◆神南備の森
この辺りから北は、かつての大字地名を「神内」(こうない)といい、古代和歌に詠まれた「神南備の森」がこの地にあり、神南備の音が、年月の経過とともに変化したといわれる。 「かんなび」とは、神の宿る所との意味で、和銅4年(711)設置とされる山陽道の官駅・大原駅があったと推定される。 明治9年(1876)の東海道本線開通に伴う鉄道敷設工事で「森」は姿を消してしまった。





キーワード: 上牧遺跡、古代山陽道、桃の種、モモの種
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秋田県・払田柵跡 出土した漆紙文書に「小勝城」(=雄勝城)

2018年10月23日 | Weblog
 秋田県大仙市払田・仙北郡美郷町本堂城廻にまたがる平安時代の古代城柵「払田柵跡(ほったのさくあと)」から昨年7月に出土した漆紙文書に出羽国の城柵「小勝城」(=雄勝城)の名が記されていることが分かった。
 昨年の時点では、「秋田城」が記されているのが解読されていたが、その左の行に記されていた。
 出羽国司がコメの支出を記録した帳簿とみられる。
[参考:河北新報]

過去の関連ニュース・情報
 秋田城


秋田・払田柵跡から出土した文書に「小勝城」 当時の米帳簿か
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米子市・妻木晩田遺跡 「松尾頭3号墓」で首長の埋葬施設を検出

2018年10月19日 | Weblog
 県立むきばんだ史跡公園が18日、妻木晩田(むきばんだ)遺跡の松尾頭(まつおがしら)地区(鳥取県米子市淀江町福岡)で見つかった弥生時代終末期(3世紀前半)の墳丘墓「松尾頭3号墓」の中から、当時の集落の首長らを埋葬したとみられる木棺の痕跡と墓穴などの施設3基を確認したと発表した。墓の周りの溝から壺や甕の破片が出土した。
 大きさは南北7.5m、東西7.2mで高さは最大65cm。三つの墓穴のうち最大のものは東西2.7m、南北1.6m以上で、有力者が埋葬されたとみられる。
 松尾頭3号墓の西側には6m四方と5m四方の二つの墳丘墓も新たに発見された。
 21日に現地説明会が開かれる。
[参考:山陰中央新報、朝日新聞]



キーワード:妻木晩田遺跡、松尾頭3号墓
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静岡市・駿府城跡 豊臣期の天守台の石垣が見つかる

2018年10月17日 | Weblog
 静岡市は16日、徳川家康の居城として知られる駿府城跡(同市葵区)周辺の発掘調査で、豊臣秀吉が家臣・中村一氏(かずうじ)(注1)に築かせたとみられる天守台の石垣などが見つかったと発表した。
 新たに発見された天守台は天正18年(1590)秀吉による小田原攻めの後、江戸に移った家康に代わって、駿府に入城した中村一氏(かずうじ)が秀吉の支援を受けて築城したものと考えられる。これまで、史料には一氏が駿府に入場したという記録はあるものの、どこに城を築いたなど実態は不明だった。
 石垣はこれまでに発見されていた天守台とは異なる自然石を積み上げた野面積みで作られていた。

 駿府城は天正13年(1585)に徳川家康が築城。天正16年(1588)天守が完成。 天正18年(1590)に中村一氏が築城(天守台37m×33m)。江戸時代初期に家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となり江戸から駿府に隠居した。この時に大改修が行われている。天守台は、約55m×48mの規模であった。しかし慶長12年(1607)に、天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失したため、直ちに再建した。天守台は68m×61mの規模という。
寛永12年(1635)に再度の火災により天守等の殆どの建物が焼失したが、天守は再建されなかった。

 このほか、金箔瓦約330点も見つかっている。金箔瓦には豊臣方の瓦に特徴的な技法が使われている。
 20、21日の午前9時~午後4時に臨時公開される。

 (注1)中村一氏は、豊臣政権の三中老の1人。天正18年(1590)、江戸に移った德川家康の代わりとして駿河府中14万石を拝領した。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞]


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京都市・醍醐寺 鎌倉時代初期の水晶に入った木造阿弥陀如来立像(小像)が見つかる

2018年10月16日 | Weblog
 京都市伏見区の醍醐寺で、蓮の蕾の形をした水晶(高さ10cm)に入った木造の阿弥陀仏(高さ約5・5cm、『水晶宝龕入り木造阿弥陀如来立像』)が見つかった。
 阿弥陀仏には金箔が施され、水晶の中に下から嵌め込まれて固定されている。
 鎌倉時代初め頃の作品とみられる。
 水晶に入った仏像は珍しく、快慶の工房で作られた可能性もあるという。
 12月10日まで醍醐寺霊宝館で公開されている。
[参考:共同通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

2018.10.19
昨日、サントリー美術館の「醍醐寺展」を観てきました。
開館15分前に到着した時点で、20人程並んでいました。
一番最初に展示されていたのが、如意輪観音座像(重文)で優しいお顔に癒されます。
国宝の薬師如来および両脇侍像、快慶作不動明王坐像などたくさんの国宝、重要文化財が展示されていて見応えがありました。


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南国市・若宮ノ東遺跡 平安時代の完形白磁碗が出土

2018年10月13日 | Weblog
 高知県文化財団埋蔵文化財センターは12日、南国市篠原の若宮ノ東遺跡で、遺跡西側の土坑墓(縦約1・8m、横約60cm)の北側から、平安時代の白磁碗が県内では初めて完全な状態で見つかったと発表した。
 白磁碗は直径約16cmで、中国大陸で製造したとみられる。詳細な時期および製造地はいまのところ不明。埋葬する際に、副葬品として埋められたと考えられる。近くからは甕の破片も見つかっている。
 地域の実力者が所有していたと考えられ、遺跡付近が当時の長岡郡内の中心だったことが改めて裏付けられたとしている。
 現地説明会は、14日午前10~11時に開かれる。
[参考:読売新聞、高知県HP]

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 白磁碗
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東京国立博物館 特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」を観てきました。H30.10.3

2018年10月03日 | Weblog
 東京国立博物館の特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」
 昨日が初日で、今日は2日目です。
 正門入口に朝9時に到着しました。2番目でした。
 まだ空いていますね。平成館3-4号室なので、通常の展示会の半分のスペースです。
 1時間かけてゆっくりと観ました。
 肥後定慶の作品はあまり見る機会がないので感激です。


 展示会場で唯一許された撮影ポイントである六観音菩薩像の「聖観音菩薩立像」。
 像高178cm 鎌倉時代・貞応三年(1224)
 肥後定慶(1184‐?)

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 肥後定慶
 定慶
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大洲市・如法寺 毘沙門天立像が奈良時代の木心乾漆像と判明

2018年10月02日 | Weblog
 奈良国立博物館は1日、愛媛県大洲市の如法寺が所蔵する毘沙門天立像が奈良時代の木心乾漆像であることが分かったと発表した。 別の仏像の調査で偶然見つけ、CTスキャンなどを使い調査を行ったという。
 像は高さ約28cmで、木粉などを混ぜた漆を塗った木心乾漆造りだった。心木と乾漆の間に麻布が張られていることもわかった。
 甲冑を身に纏い、左手で宝塔を捧げ持ち、振り上げた右手には戟(げき、武器)を持ち、斜に構える姿。両足は2体の邪鬼を踏みつけている。
 乾漆造りが奈良時代に流行したことや、甲冑を纏っている点、彩色の技法などから奈良時代中期(8世紀半ば)頃と判定した。
 如法寺に伝わる地誌「富士山志(とみすさんし)」では、江戸時代に大洲藩士が大坂勤めの時、奈良・信貴山(朝護孫子寺)で出会った僧侶から毘沙門天立像を譲り受け、藩主の菩提寺である同寺に寄進したとの記述がある。
 仏像は奈良国立博物館の「なら仏像館」で公開されている。
[参考:共同新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、NHKニュース]


追記 2018.10.3
芸大コレクション展を観に行ったところ、ちょうど芸大保管の木心乾漆造月光菩薩像が展示されていました。
東京国立博物館保管日光菩薩像とともに、もとは京都・高山寺蔵薬師如来像と一具をなしていたそうです。
これらは京都府亀岡市・金輪寺の旧像と伝わります。
製作時期は如法寺の毘沙門天立像よりやや新しく8世紀後半とみられています。
芸大コレクション展は11月11日まで芸大美術館で開催されています。


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 亀岡市・金輪寺
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