歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

宝塚市・万籟山古墳  くびれ部から埴輪列が出土 初期ヤマト政権と技術交流

2018年04月24日 | Weblog
 大阪大考古学研究室は、兵庫県宝塚市切畑字長尾山にある前方後円墳「万籟山(ばんらいさん)古墳」(4世紀前半)のくびれ部で、古墳築造時に立てて並べた状態のままの円筒埴輪3点を発見した。円筒埴輪と朝顔形埴輪の破片も大量に見つかっており、製作技術からヤマト政権との交流を裏付けることができたという。
 万籟山古墳は武庫川と猪名川に挟まれた長尾山丘陵山頂部にある。周囲に他の古墳が築かれない「単独墳」で、規模、竪穴式石室の存在から、地域を治めた実力者の古墳と考えられている。
 今回の発掘調査で、埴輪を立てて並べていたことなどが確認され、初期のヤマト政権中枢の有力古墳と同じ特徴が見られたという。
[参考:神戸新聞、毎日新聞、大阪大学考古学研究室HP]

過去の関連ニュース情報
 万籟山古墳
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鳥取市、青谷横木遺跡 「般若心経を書写」と記した平安の勧請板が出土

2018年04月18日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターが17日、鳥取市の青谷横木遺跡で、「承和12年(845)3月17日に般若心経34巻を書き写した」と記した平安時代の勧請板が出土したと発表した。 
 板は10世紀には田げたに転用されていた。 平成27年に出土し、昨年2月に勧請板と判明した。
 鎌倉時代以降の勧請板が、堅田B遺跡(金沢市)、松原内湖遺跡(滋賀県彦根市)でも見つかっているが、平安時代にさかのぼるものは珍しい。
 田げたは、長さ45.7cm、幅9.6cm、厚さ1.4cm。 板の作成者として「糸井広女」「糸井広成」(注1)「鴨取」の名前が記されていた。 3人は文献にはない名前で、未知の有力氏族が遺跡付近にいたことを示すという。
[参考:共同通信、産経新聞]

(注1)平城宮から出土した木簡に糸井人足、国足、廣庭の名が見える。

過去の関連ニュース、情報
青谷横木遺跡
松原内湖遺跡(彦根市)


845年、般若心経を書写と記す 平安の勧請板、鳥取で出土
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藤岡市・本郷塚原A遺跡 前方後円墳から埴輪棺が見つかる

2018年04月15日 | Weblog
 群馬県藤岡市教委が発掘を行った「本郷塚原A遺跡」(同市本郷)で、前方後円墳から埴輪棺が見つかったことが3日、分かった。古墳の周溝に並べることが多い埴輪を棺に転用するのは特殊という。
 同遺跡には本郷埴輪窯跡と前方後円墳1基、円墳3基がある。これまでの調査では、窯跡と4基の古墳との関連は明らかになっていない。
 埴輪棺は縦約50cm、横約20cmで、前方後円墳の下から今年2月に出土した。複数の「円筒埴輪」を組み合わせて作られ、上下は円筒埴輪の破片が詰め込まれて塞がれていた。人骨は見つからなかった。 小型のため、子ども用の棺か、1度葬った遺体を再び埋葬したものと考えられるという。前方後円墳に葬られた有力者ではなく、その近親者の可能性がある。
 埴輪棺は埴輪を作る工人集団がいた地域で出土する例が多く、市教委はこの前方後円墳が埴輪工人の墓だった可能性があるとしている。 本郷塚原A遺跡から約300m南には、日本書紀の中に死者を弔うために埴輪を作ったとの記述があり、土師氏の祖先とされる「野見宿禰」を祭る土師神社がある。
[参考:2018.4.4上毛新聞、2018.4.14毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
埴輪棺


<本郷塚原A遺跡>前方後円墳から埴輪棺 工人集団「土師氏」埋葬か 藤岡 /群馬

古墳から埴輪棺見つかる 群馬・藤岡市の本郷塚原A遺跡
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明日香村・石神遺跡 湖西古窯跡群産の須恵器が初出土

2018年04月13日 | Weblog
 奈良文化財研究所(奈文研)の調査で、天武天皇が築いた飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)時代に官庁があったとみられる明日香村の石神遺跡で、静岡県浜名湖西岸の湖西古窯跡群産の須恵器が供膳具(食器)として使用されていたことがわかった。
 湖西古窯跡群の須恵器は関東の集落などで多く出土しているが、飛鳥での供膳具としての使用が明らかになったのは初めて。
 石神遺跡から出土した飛鳥浄御原宮期とみられる須恵器の産地を分析したところ、調査対象の約4%、供膳具に限ると5%弱を湖西窯産が占めていた。 尾張産の須恵器が多かったという。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報 
 湖西古窯跡群
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大山古墳(仁徳天皇陵) 墳丘は40m大きかった

2018年04月13日 | Weblog
 百舌鳥・古市古墳群(大阪府)にある国内最大の古墳、大山古墳(仁徳天皇陵、堺市堺区)の墳丘が、同古墳を管理する宮内庁書陵部が周濠の水中に隠れた墳丘全体を測量した結果、従来考えられていた486mよりも約40m大きい525mとわかった。
 同庁が2016年⒓月〜⒘年3月に音波探査を実施。本来の墳丘裾(縁へり)は三重の周濠のうち、最内側の周濠(水深約3・5m)内に延びており、墳丘長は少なくとも525mになることが確認された。
 墳丘裾はさらに、周濠の堆積ヘドロの下に埋もれている可能性もあるという。
 2番目に大きい古墳は、誉田御廟山古墳(応神天皇陵、羽曳野市誉田)。
[参考:共同新聞、読売新聞、毎日新聞]


さらに40m大きかった…国内最大の大山古墳

「仁徳陵」40メートル長かった 520メートル超、築造当初
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公州市 大通寺跡の近くから銘文瓦など多量に出土

2018年04月02日 | 韓国の遺跡・古墳など
 忠淸南道公州市班竹洞(공주시 반죽동) 大通寺址 (대통사지) 幢竿支柱から150m離れた地点で熊津首都期百済瓦と塼石など大量の遺物が出土した。
 「大通」とみられる字がある銘文瓦(명문기)も見つかった。国立公州博物館にある「大通」銘文瓦と模様が似ているという。瓦は三国史記に出てくる「風が吹いて瓦が飛んで行った」という記録のようにとても薄い点が特徴。
 これらの遺物は一定な層上で多量に出土したことからみて、大通寺跡にあった建物が再建築されたり、廃棄される時に一度に埋められたとみられる。
 「大通」は、南朝梁の武帝(464∼549)の治世527~529年の間に使った元号であり、大通寺は百済聖王(在位523~554)が建てたと伝えられる。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009-03-08慶州市 新羅初めての寺院『興輪寺』の名前を刻んだ瓦片が出土 
523年 聖王が即位。武寧王陵を築造する。
526年 熊津城を修復する。
527年 大通寺を建立する。百済最初の本格的な寺院である。
 大通寺式の瓦当は梁(南朝)の直接的な技術支援を受けて、段階的に成立。慶州で発見された興輪寺(真興王5年(544)に新羅が最初に建設した寺院)式瓦当は、大通寺式瓦当をモデルにし、百済―南朝系(梁)、特に百済の直接的な支援によって製作されたと考えられている。
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