歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

青森県南部町・聖寿寺館跡 昨年出土した2つの青磁片は元時代の青磁鉄斑文瓶の一部か

2012年10月30日 | Weblog
 南部町教委は28日、国史跡・聖寿寺館(しょうじゅじたて、別称・本三戸城)跡から昨年出土した黒い斑文のある青磁片2個(注1)が、中国・元時代(13~14世紀)の青磁鉄斑文瓶(せいじてっぱんもんへい)の一部とみられることが分かったと発表した。
 青磁鉄斑文(飛青磁)は中国の元(13~14世紀)時代に斬新な作風として龍泉窯(浙江省)で盛んに焼かれた。
 青磁鉄斑文瓶は全国で、大阪市立東洋陶磁美術館蔵(国宝)を代表として蔵品も数少ないが、出土例も数例しかないという。
 奥州南部氏が同地に居住し始めた時期は未詳だが、鉄斑文様のある青磁器は、館が焼失した天文8(1539)年以前のもので、同館城主・三戸南部氏の隆盛ぶりを示す貴重な史料としている。 ちなみに、館が焼失した時の城主は南部家第24代当主安政(1517-1582、後に晴政に改名)。
[参考:東奥日報、デーリー東北、青森県南部町HP、広報なんぶちょう「平成23年10月号」]

過去の関連ニュース・情報
 南部家

(注1)デーリー東北新聞社の記事に貼付されている2つの青磁片のうち1つには条が見られる。
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木津川市・府立山城郷土資料館所蔵の三角縁神獣鏡の破片は椿井大塚山古墳出土のもののうちの一部

2012年10月25日 | Weblog
 府立山城郷土資料館(木津川市)は24日、同館に所蔵されている三角縁神獣鏡の破片が、3次元計測に基づくコンピューターグラフィックス(CG)画像による調査で、昭和28年に同市の椿井大塚山古墳で見つかった三角縁神獣鏡32面(重文)のうちの1面(M15)の一部であることがわかったと発表した。
 破片とM15は同館で27日から12月9日に開かれる特別展「古事記・日本書紀とやましろ」で展示される。
[参考:京都新聞、産経新聞]
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天理市・ノムギ古墳 「くびれ」を確認

2012年10月25日 | Weblog
 天理市教委が24日、前方後方墳としては国内最古級ともいわれる天理市佐保庄町のノムギ古墳(全長63m、3世紀後半)の調査で、後方部の南西端から北約12mの地点で、前方部に伸びるくびれ部分を確認したと発表した。
 ノムギ古墳は、東西方向に主軸があり、前方部が東側、後方部が西側にある。 くびれ部は、後方部の南西角から内側(北)約12mで西に直角に曲がっており、前方部の裾部も約1m分見つかった。くびれ部分の周辺では、直径約30cmの葺石の遺構や、古墳時代初期とみられる土器片が数十点出土した。
 後方部は一辺37・5mの正方形となり、古墳時代初期の前方後方墳の特徴的なくびれ部が細い形状の古墳と判明した。
 現地説明会が、27日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、奈良新聞、毎日新聞、奈良県立橿原考古学研究所HP]

過去の関連ニュース・情報
 ノムギ古墳

H8年度の調査
 それまでは、全長63m、後円部径40mを測る前方後円墳と考えられていたが、古墳の北側で実施された発掘調査で、ほぼ直角に曲がる周濠コーナーが検出され前方後方墳である可能性が高まった。また、円筒埴輪や鰭付円筒埴輪がまとまって出土したことから、築造時期は古墳時代前期後半(4世紀半ば)であるとされた。
H15.9
 古墳の周濠の南東コーナーと墳丘の南東コーナーが検出され、前方後方墳であることが確定した。
 当初の周濠埋土からまとまって出土している土器は、おおむね布留0式のものに限定され、築造は古墳時代前期前半ということになるが、平成8年調査では、古墳時代前期後半の円筒埴輪が出土しているなど築造時期の決定にはいたっていない。
H22.3
 後方部裾の周濠から、花崗岩の礫が多数、見つかった。墳丘裾の葺石が転落したとみられる。これまで葺石は確認されていなかったが、築造時の墳丘には存在した可能性が高まった。
H23.3
 後方部の南側調査で、ほぼ直角に曲がる南西角を発見。南西角では葺石が見つかった。天理市教委は過去の調査と合わせ、後方部の一辺が40mと確定。
H22.9
 奈良県立考古学研究所の発掘調査で、邪馬台国があったとされる3世紀後半に築造された可能性が高まったと発表。
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敦賀市・沓4号横穴 古墳時代終末期の横穴墓を公開

2012年10月23日 | Weblog
 敦賀市教委は22日、古墳時代終末期(7世紀頃)に築造された可能性が高い同市沓の横穴墓(おうけつぼ)「沓4号横穴」を報道陣に公開した。 通常は斜面から横方向に掘り始めるが、斜面からまず正方形に近い形の縦穴を掘った後に横穴を掘る特殊な構造になっている。 北九州から各地に広まった横穴墓が敦賀に伝わったことを示す最古の例としている。
 市教委は、同市沓、常宮地区で横穴が約40基存在することが確認されているが、そのうち薬研谷(やげんだに)1号、沓4号、同6号の3基を8、9月に測量した。 沓4号横穴は、丘陵の花崗岩に掘られ、前室と玄室がある。前室は幅60cm、奥行き50cm、高さ30~50cm(深さ1.6m)。玄室はドーム状で幅1.9m、奥行き2.5m、高さ1.4m。
 3基は同様の構造で、遺物の出土はなく、築造時期は断定できなかった。
 地元住民向けの説明会が26日(金)午後7時から常宮集落改善センターで開かれる。
 現地説明会が27日(土)午前10時からが開かれる。(同市沓の常福寺に集合)
[参考:中日新聞、読売新聞、福井新聞]
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城陽市、井出町・茶臼塚古墳 南山城地域最大の横穴石室と判明

2012年10月18日 | Weblog
 城陽市と井手町の両教委は17日、城陽市市辺茶臼塚と同町多賀にまたがる茶臼塚古墳(直径約20mの円墳)の横穴式石室が、南山城地域で最大の全長約12mとわかったと発表した。
 古墳は出土した須恵器などから6世紀後半ごろの築造とみられる。石室は、玄室の長さ4・5m、幅約2m、羨道の長さ約7・1m、幅約1.5mで、全長が約12mであった。 玄室の床は、羨道幅1・5mより広く両側に小石が敷かれ、両袖式の石室と分かった。側石は大小12個(直径50cm~1・5m)の多賀石と言われる花崗岩で、井手町側にある南谷川から運ばれたものであることが確認されている。
 同古墳から北へ1kmには6世紀後半の黒土1号墳(直径26.5mの円墳)など、石室規模が10m前後の墳丘が点在し、一帯が大和から東国に抜ける要衝の地であったことがうかがえるとしている。
 現地説明会は、21日(日)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:洛南タイムス、京都新聞、毎日新聞、城陽市HP、井出町HP]

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五所川原市・五月女萢遺跡 環状に配列された土壙墓約130基を確認

2012年10月14日 | Weblog
 五所川原市教委は12日、同市相内の五月女萢(そとめやち)遺跡(縄文時代後期~晩期(約3000~2300年前)で、環状に配列された土壙墓約130基を確認したと発表した。
 土壙墓は丘陵頂部から南側緩斜面にかけて発見された。
 うち19基で墓の蓋の役割をする黄褐色の粘土を盛り土してマウンドを作った構造が見つかり、発掘した人骨からは抜歯の風習も明らかになった。 墓の内部から赤色顔料(ベンガラ)が見つかったものが29基ある。
 墓からはヒスイや緑色凝灰岩で出来た勾玉や丸玉などの玉類や小型の壺型土器や耳飾り、サメの歯、矢尻など多くの副葬品も出土した。ヒスイは新潟方面から持ち込まれた物とみられる。墓からは人骨が昨年度3体、今年度も1体発掘され、昨年度発掘分のうち2体では、犬歯などを抜いた痕を発見。抜歯の風習があったことが分かったという。
 一方、北側斜面では土器などの捨て場が見つかり、多くが盗掘されていたほか、平安時代の畑跡も見つかった。
 市民向け説明会が14日午後1時から、現地で開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、東奥日報、陸奥新報]

キーワード:五月女萢遺跡
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松浦市・鷹島神崎遺跡 元寇沈没船の船底が二重構造と判明

2012年10月11日 | Weblog
 琉球大と松浦市教委は10日、昨年海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で見つかった元軍の沈没船の再調査を行い、沈没船の底板が二重構造になっていたと発表した。
 韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
[参考:共同通信、毎日新聞、読売新聞、KTNテレビ長崎、長崎国際テレビ]

過去の関連ニュース・情報
 2012.6.27鷹島神崎遺跡 元寇沈没船の全長は27mと推定
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甲府市・甲府城下町遺跡 江戸時代の「甲州金座」跡が出土?

2012年10月10日 | Weblog
 山梨県県埋蔵文化財センターは、戦国時代から江戸時代に甲斐国で使用された金貨「甲州金」の製造拠点「金座」とみられる遺構が甲府城下町遺跡(甲府市中央2丁目)の城東通りと遊亀通りの交差点脇の地表から約1mの深さで出土したと発表した。 甲州金の金座跡は、文献などから同市内にあったとみられていたが、具体的な場所は分かっていなかった。
 周辺から出土した陶磁器などから江戸前期の17世紀頃の遺構とみられる。
 出土したのは、石臼の炉や、鞴(ふいご)に取り付ける「羽口」と呼ばれる管、溶かす金を載せる素焼きの土器「かわらけ」など計13点。それぞれに微量の金が付着していた。石臼炉の周囲は赤く焼けた状態で、高熱にさらされていたとみられる。
[参考:2012.10.6山梨日日新聞、10.10読売新聞]

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 2009.1.10 甲府市・甲府城下町遺跡 金の粒が付着した土器片が58点見つかる

2012.11.6追記
 産経新聞のニュースで「甲府城下に金座」と記事が出ていた。先(2012.10.19付)の朝日新聞記事を合わせてみると、
 石臼炉は直径約40cm、中央に直径約15cmのくぼみがある。中からは灰、周りには銀が付着していることが県立博物館の蛍光X線分析で分かった。 鉛の成分も確認されている。 「灰吹法」と呼ばれる精錬技術で金を精製していたことを証明するものとしている。
 出土品は県立博物館(笛吹市御坂町成田)で開催中の企画展「黄金の国々-甲斐の金山と越後・佐渡の金銀山-」(12月3日まで)で展示されている。

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済州市高山里遺跡 韓国最古、新石器時代草創期の村遺跡、竪穴住居26棟などを確認

2012年10月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 済州文化遺産研究院は9日、済州市翰京面高山里遺跡(제주 고산리 유적)を発掘調査した結果、平面円形の竪穴住居(움집)26棟を確認したと発表した。新石器時代の人々が定着して形成した村遺跡では最も古い証拠としている。
 高山里遺跡で初めて確認された高山里式土器(고산리식 토기)と命名した新石器時代草創期土器と隆起文土器、模様のない土器などが出土した。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 高山里先史遺跡 試掘調査で1万年前の遺構や遺物が多量出土 けつ状耳飾も

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多賀城市・多賀城跡 4期にわたる正殿の変遷と伊治公呰麻呂の乱の痕跡

2012年10月08日 | Weblog
 宮城県多賀城跡調査研究所が4日、国特別史跡・多賀城跡(陸奥国府跡)で、4期にわたり建て直されたとみられる正殿の規模や工法の変遷の全容が判明したと発表した。また、政庁の中心施設の正殿が、780年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失したことを示す焼土が、礎石を据えた穴の中から見つかった。
 正殿が何度か建て替えられていたことはわかっているが、呰麻呂の乱で焼失したかどうかは文献に記録が残されておらず、不明だった。正殿跡(東西27m、南北15m)の周囲では、焼土が見つかっていることから、正殿は、多賀城を襲った蝦夷の族長・呰麻呂の反乱の際に焼け落ち、その後、再建されたと推定されていた。
 わかったこと。
■1期(724~762年)
 正殿も含めすべての建物が掘立式で建てられた。 創建時の正殿は東西を軸として、掘立式ながら桁行5間、梁行3間、南側に廂(ひさし)の付く建物であった。
■2期(762~780年)
 2期以降は礎石式の正殿になり、新たに礎石を設置し直した新旧の据え穴などの痕跡を発見した。 2期の正殿は四面廂付きの建物に建て替えられた
■3期(780~869年)
 礎石を据えるために掘った穴の中からは赤黒い焼土が見つかったことから、不明確だった780年の蝦夷(えみし)の反乱(伊治公呰麻呂の乱)による火災後の3期にも建て替えられたことがわかった。礎石の周囲には、正殿の建築や解体を行う際に足場を組んだ際に掘った柱穴も多数確認され、そこからも焼土が見つかった。
 基壇の装飾が玉石から凝灰岩の切り石になった。
■4期(869~10世紀中葉)
 869年に「貞観大地震」が起こった。 たくさんの足場穴があり、第4期にも建て替えられた可能性がある。

 一般向けの現地公開会が7、9~11日に正殿跡で開かれる。いずれも午後2時から。
[参考:読売新聞、毎日新聞、宮城県HP]

過去の関連ニュース・情報
 多賀城跡

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京都市上京区 聚楽第跡 本丸の石垣遺構を確認

2012年10月07日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日、豊臣秀吉が16世紀後半に造営した「聚楽第」跡地(京都市上京区)で本丸推定地の南端約1100㎡を調査し、本丸の石垣の一部とみられる遺構が見つかったと発表した。 本丸を囲む堀の南側の北端とみられるという。
 本丸を囲む東西約200m、南北約320mの堀(幅約40m)の南側から2、3段に積まれた石垣(高さ8m)が東西約7mにわたって見つかった。 石は計11個あり、長さ約100〜70cm、幅約50cm前後。 北之丸の堀からも石垣が発掘されているが、本丸では初めて。
 北側の1か所では施設跡とみられる柱穴(縦約1・5m、横約1・2m、深さ約50cm)も見つかった。 周辺から金箔を施した瓦片3個が出土した。
 聚楽第は豊臣秀吉が1586年、平安宮跡の内裏近くに造営を始め、87年に完成した。 91年1月(注1)、天正遣欧使節を伴い帰国したイエズス会のヴァリニャーノ巡察師、ルイス・フロイスらが聚楽第で秀吉、秀次と謁見している。 ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で「壮麗で、感嘆せずにはいられない」と記している。同年12月に秀吉が養子・秀次(1568-1595)に関白職とともに譲り渡した。 93年に秀吉は嫡男・秀頼が生まれると、秀次に謀反の疑いをかけて自害させ、聚楽第を取り壊した。1595年のことである。
 桃山時代の「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)には石垣に囲まれた天守などの本丸が描かれている。
 現地説明会は7日午前10時~午後3時に開かれる。上京区西辰巳町の辰巳公園に集合。
[参考: 2012.10.4産経新聞、10.5毎日新聞、10.7読売新聞]

(注1) 天正19年1月8日(1591年3月3日)、天正遣欧使節(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)は聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽を演奏した。ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prés)の「千々の悲しみ」を演奏したと推測されている。

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.13 上越市・聚楽第行幸図屏風 一般公開が始まる



キーワード: 伊東マンショ、伊東祐益
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太安万侶墓誌 銘文と同じ文字が毛筆で書かれていた

2012年10月05日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は4日、「古事記」を編纂した奈良時代の官僚、太安万侶の墓誌(注1)に、銘文と同じ文字が銘文のすぐ左隣に毛筆で書かれていたことが三次元計測装置で分かったと発表した。
 墓誌は、名前の他、住所、死亡日など2列41文字が刻まれていた。発見当時の調査では、銘文のそれぞれ左横に、幅1mm程度の2本線が見つかったが、何かは分かっていなかった。
 今年の古事記編纂1300年に合わせて、最新のレーザー走査式三次元計測装置で墓誌を測定し、「安萬侶」など12文字の痕跡を読み取った。 毛筆を使って墨や朱墨で書いた文字の輪郭部分だけが錆、残ったとみられる。毛筆の文字痕は刻字の銘文と同じ内容で、字体も似ていた。
 古代の墓誌は、これまでに16例が見つかっているが、毛筆の文字は確認されておらず、ほかの墓誌についても詳しく調査し、誰が何のために書いたのか、調べる必要があるとしている。
 この研究成果が、6日から橿考研付属博物館(橿原市)で始まる特別展で一般公開される。

(注1)太安万侶:墓誌
 太安万侶の墓は、1979年に奈良市郊外の茶畑で見つかった。銅製の墓誌(縦約29cm、横約6cm、厚さ約1mm)が収められていた。 墓誌には、下記のように41文字が2列に刻まれていた。
 左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
  年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳
[参考:産経新聞、日経新聞、毎日新聞、NHKニュース]

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