歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

東大寺戒壇院厨子「扉絵」の写し発見

2008年08月31日 | Weblog
東大寺戒壇院厨子「扉絵」の写し発見…重文級の評価も(読売新聞) - goo ニュース

 戦後、行方不明になっていた絵図であるということだが、それまでどこにあって、そして、どこから出てきたのか書かれていない。
 度重なる戦火を逃れてきたのだろう。貴重なもの。
[関連年表]
天平勝宝六年(754) 唐の僧鑑真が来朝し、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇を始め百官公卿四百人に戒を授け、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨に依り造営された…(東大寺要録)
治承四年(1180)12月28日 東大寺の諸堂舎は平重衡率いる軍勢の火攻めにあい、その多くが焼失した。
文安三年(1446)〈丙寅〉正月二日。戒壇院炎上。(東大寺雑集録)
永禄十年(1567)三好松永の乱による兵火のため、東大寺の戒壇院、浄土堂、中門堂、唐禅院それに大仏殿などが焼けた。
享保十七年(1732)戒壇堂が再建される。
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南丹市 新庄遺跡 鎌倉時代の建物跡 祭祀用?青磁わんも確認

2008年08月31日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは28日、南丹市八木町室橋の集落遺跡「新庄遺跡」で、一般の住居と異なり特殊な用途と考えられる鎌倉時代の祭祀用の可能性がある建物や古墳時代の住居跡などを新たに確認したことを発表した。
 鎌倉時代の掘っ立て柱建物跡はほぼ南向きで、二間四方(東西4・3m、南北5m)の高床式。柱の直径が40-50cm。周囲を柵のようなもので囲んであったとみられる。中央の柱跡の穴からは、柱の下に敷いたと思われる中国製青磁碗2個と土師器の皿3枚の破片が見つかった。地鎮の目的で埋めたとみられる。寺院跡でも柱の下に皿を置いたものが確認されているため、「祭事に使われた建物の可能性があると考えられる」という。
 近くには奈良時代とみられる3m四方の半地下式掘っ立て柱建物跡も見つかっているが、柱の穴が浅く住居には不向きで、中にはかまどの跡もあるため、物作りの作業場とも考えられるという。
 また、古墳時代中期(5世紀前半)の4・7m四方の竪穴式住居跡も見つかり、土師器の高杯や小形の壺が確認された。中央には焼土があり、調理場とみられる。
 このほか時代不明の灌漑用水路とみられる幅約3mの溝跡も見つかった。
 現地説明会は30日午前10時半から。
[参考:8/29京都新聞、毎日新聞]
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庄原市 佐田峠3号墓 弥生時代・約2000年前に築造の四隅突出型墳丘墓を確認

2008年08月29日 | Weblog
 広島大大学院文学研究科と同市教委は28日、庄原市宮内町の佐田峠3号墓が同時代中期末葉から後期初頭(約2000年前)に築造の「四隅突出型墳丘墓」と発表した。
 1989年に国道183号バイパス工事に伴う調査で墳丘墓群の存在が判明。今年度から5年間の第2次調査に取り組み、今月初めから発掘作業を始め、佐田峠墳墓群にある3つの墓のうちの1つを発掘した。
 同3号墓は、東西15・3m、南北7・95m、高さ1・2mの長方形。墓の斜面が大小の川原石や平らな石が張り付けられ、南東側突出部に長経30~50cmの比較的大きな石が張り付けられていた。
 また、中央部から、3基の埋葬施設が見つかり、長さ1・6m、幅60cmほどの木棺も確認された。また、副葬品には土器片約100点も出土した。その中に、祭祀などに使われたとみられる大型の台付鉢形土器片には緻密な模様が刻まれた「鋸歯(きょし)文様」が描かれていた。そのことから、被埋葬者は地位の高いリーダー格の人物と推定されている。
 四隅突出型墳丘墓は同時代、中国山地から島根、鳥取両県などにかけて盛んに造られ全国で約100基が確認されており、「前方後円墳」の原型になったと見られている。
 3号墓の大きさと形態は、弥生中期後葉から後期前葉のほぼ同時期に造られた三次市の国指定史跡・陣山墳墓群と3号墓近くにある佐田谷1号墳の中間に位置するもので、同研究室の野島永准教授は「初期の四隅突出型墳丘墓が、三次・庄原地域で独自に発生、発展した変遷の過程をたどることができる貴重な遺跡」と話す。また、この地で発展した四隅突出型墳丘墓がその後、県北、山陰などに広まっていった可能性もあるという。
 調査結果の現地説明会は30日午前10時から同市宮内町佐田峠で開かれる。問い合わせは市教委文化振興係(0824・73・1189) 市では、調査完了後、史跡指定の申請をする方針。問い合わせは庄原市教委文化振興係(0824・73・1189)。
[参考:中国新聞、読売新聞、朝日新聞]
庄原で初期の四隅突出墳丘墓(中国新聞) - goo ニュース
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奈良・東大寺南大門の石造獅子像 台座文様も「南宋」と酷似

2008年08月29日 | Weblog
「工人来日し制作」寺史裏付け
 中国・南宋(1127~1279年)の石材が使われた可能性が高いことがわかった東大寺南大門(奈良市)の石造獅子像2体(重要文化財、鎌倉時代)について、台座に彫られた雲、花、動物の文様も、南宋の石造物などの文様と酷似していることが、奈良女子大大学院生の大江綾子さんの調査でわかった。工人が手がけた文様にも共通性がみられ、「南宋の工人が日本に来て造った」との寺史の記述を改めて裏付けた。
 獅子像の台座は高さ1・4m。側面に渦巻き状の雲、ハスやボタン、シカなど様々な文様が精巧に彫られている。「東大寺造立供養記」には、平氏の焼き打ち後に同寺を復興した重源上人が1196年、宋(南宋)の工人を招き、中国から輸入した石材で獅子像を造らせたとある。
 大江さんは、獅子像と、日本の仏教とゆかりが深い中国・浙江省寧波周辺の南宋時代の石造物や陶磁器を中心に装飾を比較。雲文が南宋時代の重臣・史弥忠の墓の門飾りや、シカが集落入り口に置く標石「門鼓(もんこ)石」に彫られた文様などと、いずれも似ていると結論づけた。
 また、雲文のある台座は像を高くするため近世に加えたとされていたが、南宋時代に意匠の類例があることなどから、鎌倉時代の獅子像造立当初の制作とみられることもわかった。
 中日石造物研究会は今月、獅子像本体の石材に、寧波周辺で算出される「梅園(ばいえん)石」が使われた可能性が高いことを明らかにしている。大江さんは「石材だけでなく、南宋の工人がデザインを携えて来日したことがわかった。絵画も調べ、類例をさらに探したい」と話している。
[参考:読売新聞8/25、前出]
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旧前田侯爵邸(駒場)

2008年08月28日 | Weblog
 昨日、目黒区駒場にある旧前田侯爵邸洋館に行きました。
 もともと、前田公爵邸は本郷にありましたが、東京大学の建設が進行する過程で、大正15年に東京大学と前田家との間で土地交換が行われたそうです。それが駒場であり、昭和4年に前田邸が完成しました。

写真の説明
 左:旧前田侯爵邸洋館 チューダ・ゴシックの建物 右上:ゴシックにつきものの怪獣・グリフィン(ライオンに羽が生えたもの)
 右下:大きな十二支がついた石燈籠。おそらく本郷から持ってきたもので、公園に3つ残っている。

現地案内板より
 旧加賀藩主の系譜をひく前田家の本邸として、昭和4年(1929)5月に竣工した建物である。
 設計者は東京帝国大学教授塚本靖であったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。
 建物の規模は地上3階、地下1階。建築面積は1,129.4平方メートル。
 鉄筋コンクリート造で、外壁はスクラッチタイルを貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は銅板葺きである。
 前田侯爵邸は昭和20年(1945)9月、連合軍に接収され、極東軍司令官の官舎として使われていたが、昭和42年(1967)4月、東京都近代文学博物館に衣替えし一般に公開された。
 この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使している。
 内部の改造は少なく竣工時の雰囲気を良く留め、上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物である。
 平成4年3月31日 建設               東京都教育委員会

[関連年表]
大正15年 東京大学と前田家との間で土地交換が行われ、本郷から駒場に移ることになる。
昭和 4年 駒場に前田邸が完成
昭和19年 邸内の一部を譲り受け、中島飛行機製作所の本社が疎開
昭和20年9月 連合軍に接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸となる。
昭和26年4月 極東総司令官リッジウェイの官邸として使用される。
昭和28年 富士産業(旧中島飛行機製作所)の所有
昭和31年 和館及び一部の土地が国の所有となる。
昭和32年 連合国軍による接収が解除となった。
昭和38年 旧前田邸に公園を建設することが決定
昭和39年 洋館を東京都が富士産業から買収。
昭和40年 国有地については、東京都に無償貸与され、都はさらに民有地を買い足し。
昭和42年4月 洋館をそのまま利用した都立近代文学博物館と、和館に隣接して新築された財団法人日本近代文学館とが、同時に開館した。
昭和42年7月 旧前田邸は東京都立駒場公園として生まれ変わる。
昭和50年 公園の管理が目黒区へ移管されて現在に至る。
平成03年 東京都有形文化財(建物)に指定
平成14年 博物館としての使命を終えた。

[参考:[駒場の歴史と建築」藤森照信(東京大学生産技術研究所教授)]
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牧之原市 白百合遺跡 弥生時代後期の海浜集落跡現れる 

2008年08月28日 | Weblog
 牧之原市教委は同市静波の白百合遺跡で、弥生時代後期の掘立柱の建物が複数建っていたとみられる海浜集落跡が見つかったことを発表した。
周辺は当時海岸に近い砂地で、このような海岸べりの集落跡は浜松市の伊場遺跡で見つかっているが、天竜川以東の県内では初めてという。
 遺跡は牧之原市役所榛原庁舎から北へ約100mの畑地で、広さ約600㎡。
 集落跡は地表から約1mの深さの砂地で見つかった。縦3m、横4mのいずれも高床式倉庫など掘立柱の建物とみられる4棟の跡があり、それぞれに4-6本の柱を建てたような穴(直径40-50cm、深さ30-60cm)が残っていた。集落外には砂地を人工的に区画したような大溝も作られていた。
 周辺からは食料や水を入れた壺、煮炊きに使ったとみられる甕、食べ物を盛り付けた高坏の土器が約200点出土した。
 海岸線に近い砂の堤防か砂丘につくられた集落で、県内での発見例はほとんどない。これまで砂丘は人が住みにくいと考えられていたが、古代人の土木技術の高さがうかがえ、海浜集落の実態を解明する上で貴重な発見と話している。
 市教委では30日午前10時30分と午後1時30分から、現地説明会を開く。
[参考:中日新聞]

 白百合遺跡は現在の海岸線からは西に1kmの地点で標高は3.4m。
 伊場遺跡(浜松市)は現在の海岸線からは北に3.2kmの地点で、標高は約2.5m。

 白百合遺跡のすぐ東そばには由緒ある服織部(はとりべ)神社がある。祭神は麻立比古命と 天八千千比売命。
 境内の案内板によると、
服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、景行天皇の七年に勧請され上古は圭田を賜った。往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されている。安政元年の大地震直後建立、明治六年三月郷社に列せられた。
(略)
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平戸市・殉教遺跡の発掘開始 隠れキリシタンの歴史実証へ (2)

2008年08月27日 | Weblog
 8月27日読売新聞で標題調査中の記事が出ている。
 調査対象は「ウシワキの森」(大石脇町)、「殉教地・焼山(やきやま)」(生月町)、「上中津良(かみなかつら)教会跡」(上中津良町)の3ヶ所。
 2か所で人為的に石が並べられた部分(約1m四方)を確認したが、の年代を特定する発見までには至っていない。周囲では人骨が見つかったこともあり、墓の一部だったとの見方を強めているとのこと。
 調査は9月初旬までの予定。
[参考:読売新聞、前出]
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桜井市 箸墓古墳 前方部に幅60mの外濠

2008年08月27日 | Weblog
 邪馬台国の女王卑弥呼の墓の説がある前方後円墳、箸墓古墳(3世紀半ば-後半、全長約280m)で、前方部正面外側から幅60-70mと推定される外濠跡が見つかったことが、27日同市教委の調査で初めて分かった。
 国内最大の仁徳天皇陵(堺市、5世紀、全長485m)に匹敵する大規模な周濠が、仁徳陵の200年近く前に整備されていたことを示す極めて貴重な発見で、被葬者論争にも新たな一石を投じることになりそうだ。
 市教委が5~7月、前方部前面にあたる南西約70m、水田約110㎡を調査し、大きな「落ち込み状遺構」(深さ1・3m以上)を35m分確認。落ち込みはそのまま前方部の墳丘に向かって広がっていたとみられ、古墳の周囲を大規模に掘削した周濠と判断した。底に水があったことを示す腐植層(植物が腐って土になった層)があった。落ち込みと墳丘の位置関係や出土した土器の年代から、外濠の一部と判断した。
 過去の調査でも前方部の側面2カ所で周濠の一部らしいものが見つかり、市教委はこれまで周濠の幅について前方部は約30m、後円部は約50mと推定していた。(また、ある記事では「これまで周濠の明確な痕跡は認められておらず、学界でもその存在を疑問視する声が根強かった」と記す。) 今回は墳丘南側で確認された。墳丘を一定幅で一周する幅60~70mの大規模な馬蹄形で、内堤を挟んで内濠と外濠が巡る二重構造であることも、ほぼ確定。周濠を含む古墳の全長は推定で一回り大きい約450mになった。
 同古墳の墳丘は宮内庁の陵墓に指定されており、学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれている。
 こうした中、桜井市教委や奈良県立橿原考古学研究所は10年以上前から墳丘の周辺を丹念に発掘。その結果、大規模周濠の存在を突きとめた。市教委の橋本輝彦主任は「60m以上という周濠の幅は、実に古墳1つが入るほどの大きさ。周濠によって、被葬者と外部との隔絶性をより明確にしたのだろう」と推測する。
 被葬者については、248年ごろに死亡した卑弥呼か、後継の女王・臺与との説があり、大規模周濠の発見は被葬者の強大な権力の存在を示し、こうした説を裏付ける証拠になるとみられる。 卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。
 日本書紀は、箸墓古墳の築造を「昼間は人が夜は神が造った。大坂山の石を山から墓まで人々が連なり手渡しで運んだ」と、その壮大さを伝えている。墳丘を一定の幅で囲む大規模周濠の存在が明らかになったことは、箸墓古墳が前方部の周濠が著しく狭い「箸墓以前」の前方後円墳と一線を画すことを示す。これまで確認された墳丘のふき石や、内堤と墳丘をつなぐ渡り堤の存在と合わせて、箸墓古墳が後の古墳の原形だったことを改めて裏付けた。
 大規模周濠は5世紀の大型古墳などにみられ、3世紀の箸墓古墳には存在しないという見方があったが、学説の見直しも迫られそうだ。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]
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栃木県上都賀郡西方町弥八田遺跡 弥生時代の「再葬墓」出土

2008年08月27日 | Weblog
 西方町教委は、県立博物館の協力で発掘調査していた真名子地区で、竹薮になっている約2.5mの小高い丘を削り取った斜面近くから、弥生時代中期後半から後期初頭の「再葬墓」2基が26日までに見つかったことを発表した。
 「弥八田遺跡」と名付けた。
再葬墓は南北に細長い楕円形で、穴の大きさは縦約110cm、横80cmと、縦約100cm、横70cm。
 再葬墓は、墓を掘り起こし白骨化した骨を骨壷である土器に入れ、再び埋葬した墓のことで、弥生時代の特徴的な埋葬方式。
 出土した土器は、県内で見られる紋様のほか、長野県や群馬県で見られる紋様が確認されており、弥生時代中期後半(約1900年前)と思われる。
[参考:下野新聞]
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和歌山市・岩橋千塚古墳 胡ろくかたどった埴輪 全国初出土

2008年08月26日 | Weblog
 和歌山市岩橋の県立紀伊風土記の丘(県教委)は26日、岩橋千塚古墳群内の大日山35号墳(6世紀前半、県内最大級全長約86mの前方後円墳)から、腰に装着して矢を入れる道具「胡籙(ころく)」をかたどった形象埴輪が見つかったことを発表した。
 これまで胡ろくの実物自体の出土例もなく、同古墳と近くの古墳から、胡ろくを身に着けた人物埴輪は出土していたが、胡ろく自体を写実的に表現した形象埴輪の出土は全国初。
 同古墳でこれまでに見つかっている、飛ぶ鳥や両面に顔が付いた人物に続く類例のない埴輪で、ここに葬られた人か地域かは分からないが、独創性から、支配者一族がヤマト政権に屈しない強い権力を持ち、独自の埴輪を作る人々がいたことを示唆しているという。
 05年度調査で、前方後円墳の西側造り出し部分から出土した逆台形の胡ろくは、円筒形の基部を取り付け、高さ約96cm、幅約39cm。中央の矢筒は立体的で、筒に収納されている5本の矢と矢羽根が線で刻まれている。金具など細部も表現。県教委はほぼ原寸で写実的な埴輪の出土は「古代の武具の研究に貴重な資料」としている。
 古墳時代の胡ろくは、木やつる、動物の皮に飾り金具が付けられていたと考えられているが、有機質部分はなくなって出土する。
 胡ろく形埴輪については今年3月までに復元作業をし、その後、他に出土例がないかなど専門家に評価を依頼していた。胡ろく形埴輪近くから出土した両面人物埴輪のほおにも矢羽根と矢尻が線刻されており、弓矢を重要視していたことがうかがえると言う。
 古墳群は4~7世紀ごろ一帯を支配していた紀氏一族の墓とされる。
杉山晋作・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「実物の胡ろくの約4倍の大きさ。配下に置いた技術者集団が胡ろくなどの革製品作りにかかわっていたことを象徴的に示したのでは」とみている。
 8月30日~9月15日、風土記の丘資料館で速報展を開く。
 胡籙(ころく、「ろく」は竹かんむりに録の右側が碌の右部分)は、5世紀に朝鮮半島から伝わった矢筒で、馬上から矢を射る際に用いる。春日大社や正倉院(ともに奈良市)に実物が残っているが、古墳時代のものは金具など一部しか見つかっていない。
[参考:毎日新聞、紀伊日報、時事通信、産経新聞]

写真は、2009.7.7 江戸博物館にて撮影

キーワード: 胡籙形埴輪、胡ろく形埴輪、胡録形埴輪
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高知市・朝倉古墳 県内最後(7世紀前半)の大型古墳

2008年08月26日 | Weblog
 高知大人文学部考古学研究室は25日、高知市朝倉丙の朝倉古墳築造年代を出土した須恵器の形状から古墳時代終末期(620~630年ごろ)と特定し、県内の大型古墳としては最後に造られたものであることが確認されたと発表した。
 朝倉古墳(1950年県指定史跡)は、南国市の小蓮古墳や明見彦山1号墳とともに「土佐三大古墳」に数えられ、現存する横穴式の石室の中では県内で2番目に大きい。石室の形状などからこれまでも7世紀前半に造られたと推測されていたが、他の2つの古墳より築造年代が20~30年新しいことが判明した。
 石室内の玄室から須恵器などのかけら約100点以上が出土。「坏(つき)」と呼ばれる須恵器皿のふた部分の破片が出土し、付いていたつまみ(直径1.5cm、高さ9mm)の形状から年代を確定した。
 古墳全体の大きさや形は宅地開発で墳丘が削られていて分からなかった。石室内 玄室は奥行き5.2m、幅2.5m、高さ2.5m。石室床面に1辺約30cmの石が敷き詰められていた。

 国全体が律令国家へ移行する中で土佐の豪族がどのように対応していったのかを知る上で重要で、今回の調査では、小蓮古墳のある南国市周辺から朝倉古墳のある高知市へと豪族の勢力図が変遷した様子も想像することができるという。
 一般向け現地説明会は行われないが、11月16日午後1時半~4時に同大総合研究棟で開催される研究会で報告される。
[参考:毎日新聞、読売新聞、高知新聞]

現地の案内板より抜粋
 (略)封土は取り除かれ石室の石組は露出しているが、構造は両袖の横穴式石室である。遺骸を安置する玄室の奥壁は一枚岩で、長さ5.4m、高さ2.4m、側壁は二枚の石で2段積みである。玄室と外部との通路である羨道は、現存部で長さ2.6m、幅2.13mを測る。明治の初期に発掘され、須恵器・馬具などが発見されたといわれるが、遺物は現存しない。(略)
 平成元年三月 高知市教育委員会
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発掘された日本列島2008 城久遺跡群出土 徳之島産壺

2008年08月26日 | Weblog
 「奄美に大宰府「出先」か/喜界島・城久(ぐすく)遺跡群」の新聞記事(ニュース)が出たのは2006年9月10日(日)沖縄タイムスであった。
 下記のように記されている。 
 中国製青磁片や土師器片など国の役所跡でしか出土しない貴重な品々。役所とみられる大型建物跡(直径30cm前後の十本柱で囲まれた部分は14.5m×11m)もあり、来島した研究者から大宰府との関連を指摘する見解が相次いでいる。
 10世紀の文献に、大宰府の出先機関とみられる『キカイガシマ』の記述があり、それがこの遺跡である蓋然性は高い。
 平安時代に日本の貴族が珍重したヤコウガイなどの南島産物の需要が高まり、その調達のために現地で交易を取り仕切ったのが『出先機関』の一番の役割だった可能性がある。

 それ以前にも、9世紀ごろ大宰府近辺で使われた食膳用の器と同じ形式の土器片(高坏の底部か)が出土している。

 写真は、山田中西遺跡から出土されたカムィヤキと呼ばれる徳之島産の壺か。
 
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発掘された日本列島2008 大坂城三の丸跡 「豊臣家最後の晩餐」出土品

2008年08月26日 | Weblog
 昨年11月1日の新聞(ニュース)で、大坂城三の丸跡の北辺から陶器・魚の骨が大量出土したとの報道がされた。
 17世紀初め慶長年間後半のものとみられ、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅びる直前、大規模な宴会が開かれたことがうかがえるという。
 白木の箸は432膳分と推測され、当時の宴席では本膳、二の膳など各膳毎に箸を4、5回変えたとされ、出席者は100人近くと推測。
 出土した器は国産陶器が主で、志野焼、唐津焼の向付、備前焼の茶入れなど。マダイ、シイラなど魚の骨、シカなど動物の骨、サザエ、ハマグリ、アワビなど貝類も発見された。
 「鼠志野」の向付は、専門家の研究で1605年以降に生産されたとされる。
 会席料理のような宴会の食事の痕跡で、一度に捨てられたとみられる。
 当時の大名らの宴席については、豊臣秀吉が侘び茶の影響で「二汁三菜」と定め、簡素化されていたが、秀吉死後は、大名茶人の古田織部が「侘びと言っても、あまり粗末なものを出すものではない」として料理や器に工夫を凝らした。出土した器や多様な食材は織部が工夫したという慶長年間の会席料理の特徴に合致するとしている。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
 写真は出土品のうち器の一部。中ほどの薄手の絵唐津も品がよい。
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発掘された日本列島2008 本能寺跡の瓦

2008年08月25日 | Weblog
 昨年8月7日に、織田信長が明智光秀に責められ自害した「本能寺の変」(天正10年、1582年)で焼けたとみられる大量の瓦、寺の堀跡、石垣などが京都市中京区西洞院通六角下ルの旧本能寺跡で見つかったと報じられた。
 「本能寺の変」を巡る遺物、遺構が発見されたのは初めて。
 天文14年(1545)の古文書で、調査地点一帯の土地を本能寺が購入したことが記され、調査地が旧本能寺の境内だったことが裏付けられる発見となりそうだ。
 瓦の中に、「能」の異体字で「ヒ(火)を避ける」意味で、現在も本能寺で使われる「能」の文字の右側の部分が「去」字を記した丸瓦があり、本能寺の瓦であることが確認された。
 堀跡の一部には約2mにわたる強固な護岸の石垣も出土し、寺が城塞のように堅固に守られていた可能性が出てきた。
[参考:読売新聞、京都新聞]

 新聞(ニュース)の報道ではなかったが、鬼瓦も同時に出土していた。(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館『「本能寺の変」を調査する』によると、仏教宝具の輪宝を頭に戴いた鬼瓦だそうである。
 写真左は「能」の異体文字、右は鬼瓦。
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発掘された日本列島2008 太子塚古墳 人物埴輪

2008年08月25日 | Weblog
 盾持人埴輪
 かぶり物に魔除けの入墨、盾を持ち墓を守る武人の埴輪です。


2018.9.5追記
太子塚古墳は群馬県高崎市箕郷町にある、古墳時代中期末(5世紀末)築造、全長24mの帆立貝式古墳。
盾持人埴輪は句兵(くへい)と言う武器を盾に付けているのが特徴
中国では、句兵(こうへい)と称される。盾と句兵を持つ方相氏の姿を想像させる。
日本最古の盾持人埴輪は、桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(全長約86mの帆立貝式前方後円墳、4世紀末)から出土。句兵のような武器は見当たらない。




キーワード: 盾持人埴輪、盾持ち人埴輪
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