東大寺戒壇院厨子「扉絵」の写し発見…重文級の評価も(読売新聞) - goo ニュース
戦後、行方不明になっていた絵図であるということだが、それまでどこにあって、そして、どこから出てきたのか書かれていない。
度重なる戦火を逃れてきたのだろう。貴重なもの。
[関連年表]
天平勝宝六年(754) 唐の僧鑑真が来朝し、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇を始め百官公卿四百人に戒を授け、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨に依り造営された…(東大寺要録)
治承四年(1180)12月28日 東大寺の諸堂舎は平重衡率いる軍勢の火攻めにあい、その多くが焼失した。
文安三年(1446)〈丙寅〉正月二日。戒壇院炎上。(東大寺雑集録)
永禄十年(1567)三好松永の乱による兵火のため、東大寺の戒壇院、浄土堂、中門堂、唐禅院それに大仏殿などが焼けた。
享保十七年(1732)戒壇堂が再建される。
戦後、行方不明になっていた絵図であるということだが、それまでどこにあって、そして、どこから出てきたのか書かれていない。
度重なる戦火を逃れてきたのだろう。貴重なもの。
[関連年表]
天平勝宝六年(754) 唐の僧鑑真が来朝し、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇を始め百官公卿四百人に戒を授け、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨に依り造営された…(東大寺要録)
治承四年(1180)12月28日 東大寺の諸堂舎は平重衡率いる軍勢の火攻めにあい、その多くが焼失した。
文安三年(1446)〈丙寅〉正月二日。戒壇院炎上。(東大寺雑集録)
永禄十年(1567)三好松永の乱による兵火のため、東大寺の戒壇院、浄土堂、中門堂、唐禅院それに大仏殿などが焼けた。
享保十七年(1732)戒壇堂が再建される。