歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 平安時代の建物跡が出土し、1月29日に現地説明会を実施

2011年01月30日 | Weblog
 善通寺市仙遊町の旧練兵場遺跡で29日、現地説明会があった。900年以上前の平安時代のものと思われる建物跡や有力者の存在を示す青磁器の破片など、本年度の調査で見つかった遺構や出土品が紹介され、考古学ファンら約150人が集まった。
 平安時代のものと推測される掘立柱建物跡は、柱を据える穴が四角形なのが特徴という。 また中国の有名な窯元で作られたとされる青磁の水差しの破片(注1)が出土した。
[参考:四国新聞、香川県埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.8.19旧練兵場遺跡 H22.8
 2008.11.8旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡

2012.11.7追記
 (注1) その後の香川県埋蔵文化財センターの資料を調べてゆくと、平成23(2011)年3月11日付け調査メモとして、「10世紀代の越州窯系青磁水注」と記されている。緑釉陶器も一緒に出土している。
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千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの

2011年01月28日 | Weblog
(奥の神宮外苑(聖徳記念)絵画館と公孫樹並木の間に軟式グラウンドがあり、その中央付近に崇源院(江姫)が寄進した霊山寺領があったようだ。)

 崇源院宮殿であることが発見された祐天寺(東京都目黒区中目黒五丁目)は祐海上人(1682-1760)が祐天上人(1637-1718)の廟所を設けるために下目黒にあった善久院を買い取り、建立したものであり、時期は享保3年(1718)であるという。
 祐天寺の土地は崇源院の領地であり、目黒区史によると、「上、中、下目黒および衾村は入国後徳川氏の直轄地となったが、(略) 他の十数ヵ村(注1)とともに (略) 崇源院徳子の化粧料として宛てがわれた」とある。

 「江史跡紀行」(小和田哲男著、資料1)を読んでいたら、
 『慶長11年(1606)10月15日、江は湯島妻恋坂にあった霊山寺へ寺領50石を寄進する。この50石は千駄ヶ谷村に設定されたようだ。幕府からの由緒質問に答えた「霊山寺回答書」によれば、江の侍女・民部卿の取次ぎをもって、「宝祚延長・国家安全・武運栄昌」の祈祷を行うように、この寄進が行われた。』
 と記されていた。
 この千駄ヶ谷村は先(注1)の十数か村には含まれていない。

 新宿歴史博物館で購入した、「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(新宿区教育委員会、資料2)を見ると、千駄ヶ谷は現在の渋谷区の千駄ヶ谷地域だけでなく、新宿区の信濃町駅の南側付近、また、大京町の東南側一部までをも指している。
 渋谷区史(資料4)を見ると、徳川家康の江戸入部直後の千駄ヶ谷村は幕府直轄領であったが、その後、崇源院(1573-1626)が亡くなるまでの間に、三寺に寺領として知行されている。
 慶長11年(1606) 霊山寺領50石、元和4年(1618) 西福寺領100石、元和5年(1619)吉祥寺領50石のごとくである。
 このうち、霊山寺領のみが崇源院より寄進されている。その寺領は3ヶ所に分かれており、下記のとおりである。

① 千駄ヶ谷御焔蔵の東(新宿区霞ヶ丘2 神宮外苑グラウンド中央付近) 374坪

② 千駄ヶ谷御焔蔵の西(新宿区霞ヶ丘10 国立競技場正門西側付近) 72坪

③ 玉川上水に沿って北側、角筈村多門院の南 (渋谷区代々木2丁目13付近) 210坪


 ちなみに、霊山寺とは、浄土宗・常在山二尊教院霊山寺(れいざんじ)であり、現在は墨田区横川1丁目3−22にあるが、初めは、慶長6年(1601)に徳川家康の命を受けて専誉大超上人を開山・開基として駿河台紅梅坂に建立したと伝えられる。 その後、寛永十二年(1635)に湯島妻恋坂移転したが、明暦三年(1657)の明暦の大火で類焼し浅草松葉町へ移転、さらに元禄2年(1689)に現在地(墨田区)へ移ったそうである。崇源院殿は、若い時代から深い浄土宗の帰依者であったという。

参考資料
資料1 「江史跡紀行」(小和田哲男著、新人物往来社 2010/11発行)
資料2 「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(新宿区教育委員会 人文社 1983/3発行)
資料3 「大日本近世史料 市中取締類集八」(『東京大学史料編纂所報』第4号 1969発行)
資料4 「渋谷区史」(渋谷区役所編、1952発行)
資料5.「目黒区史」(東京都立大学学術研究会/編、目黒区役所、1970発行)
資料6.「新修新宿区史」(新宿区役所、1967発行)
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京都市上京区・相国寺旧境内 鹿苑院を示す江戸時代の石柱が出土

2011年01月27日 | Weblog

 写真は、相国寺塔頭・瑞春院「雁の寺」。 説明板には、「直木賞受賞の作『雁の寺』の舞台として有名であり、作者の水上勉氏が雛僧時代を過ごした禅院である。」とも記されている。

 同志社大学が発掘調査を進める、同大今出川キャンパス(京都市上京区)内にある相国寺旧境内の遺跡から、室町幕府の3代将軍、足利義満(1358-1408)が建立した塔頭「鹿苑院(ろくおんいん)」と関連するとみられる江戸時代の石柱が見つかった。
 石柱は高さ40cmほどで、発掘現場の東側から出土した。西を向いた面に、南側に「鹿苑」、北側に「瑞春」と刻まれていて、それぞれ当時存在した塔頭を示したと考えられる。また「鹿苑」「瑞春」の下には「境」の文字があり、塔頭の敷地境界を示すために設置されたとみられる。
 また、同志社大学歴史資料館HPでは1月19日付けで、底面に「鹿苑衆寮□□」と墨書された白磁皿が出土したと報告されている。
[参考:京都新聞、同志社大学歴史資料館HP→相国寺旧境内と薩摩藩邸跡の発掘調査速報]

過去の関連ニュース
 2010.11.25相国寺旧境内 足利義満建立の鹿苑院の遺構が見つかる

下の地図は、瑞春院を中心としている。
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大津市・関津城遺跡 山城から高楼のような主郭跡が出土

2011年01月27日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が26日、大津市関津3丁目の関津城(せきのつじょう)遺跡の山頂部標高118mで戦国時代後期(16世紀後半)の山城の主郭跡が見つかったと発表した。 城は土造りの山城の構造で、城郭の内部からは土蔵や城主の屋敷とみられる建物跡なども見つかった。
 建物跡は周囲を土塁(高さ2m)で囲み、整地した約13m四方(169㎡)の曲輪で見つかった。直径約20~50cmの柱穴や礎石が見つかり、建物は幅約10m、奥行き約5mの規模だったとみられる。建物の正面からは門の跡(幅1.8m、奥行き3m)も見つかった。柱穴や礎石の位置から主郭は物見櫓や舞台、高楼のような建物であったとみられ、また、周辺で酒甕や多量の土師器の皿や杯、陶磁器も出土していることから、宴会としてもよく利用されたとみている。
 関津城は、清和源氏の流れをくむという宇野源太郎守治が承久3年(1221)の承久の乱で戦功をたてたことから、恩賞として鎌倉幕府から与えられたといわれ、彼の子孫も長く城主を務めたと思われる。しかし、城の構造や、いつ築造され、いつ頃まで機能していたかなど、よくわかっていない。
 現地説明会は29日午後1時半から開かれる。
[参考:共同通信、京都新聞、BBCびわ湖放送、滋賀県文化財保護協会HP]

過去の関連ニュース
■2010.8.8 関津城遺跡・現地説明会
 滋賀県文化財保護協会が8月4日、戦国時代後期(16世紀後半)の山城跡である関津城遺跡(大津市関津)から、地盤沈下を防ぐため、土中に地覆石(じふくいし)を並べて建物の土台とした土蔵跡が出土したと発表した。8日に現地説明会が開かれた。
 調査成果は
①北裾の曲輪から、虎口と櫓台と櫓門と想定される遺構が出土。
②西裾の曲輪から、土塁、曲輪壁面とその内側を巡る排水溝、礎石建物跡3棟、1棟から酒や油などを貯蔵したと考えられる甕倉(埋甕)、土塀を伴い地覆石を基礎とし土蔵跡が出土。
③頂部の曲輪と竪堀および北裾・西裾の曲輪までの斜面から、土塁・礎石建物(調査中)が出土。
出土遺物
 調度品(屏風、厨子など)を飾る金属製品、武器(鉄砲の弾など)・武具、鉄釘、漆器椀、土器類(信楽焼すり鉢、備前焼大賀目、中国製の青花、青磁、白磁、天目茶碗、朝鮮製の壺など)など。
[参考:京都新聞、滋賀県文化財保護協会HP]


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桜井市・纒向遺跡 モモの種などと一緒に見つかった木材はヒノキ、敷居と垂木に使用か

2011年01月26日 | Weblog
 桜井市教委などの調査で、纒向遺跡でモモの種などが出土した穴から、一緒に見つかった3世紀中ごろの木材(長さ70cm、幅20cm)は、扉の敷居とみられ、倉庫の可能性があるという。先端が加工された棒状の木製品は軒の垂木と判断された。ともに、当時では珍しいヒノキが使われていた。穴の北側で東西に軸線を揃えて並ぶ4棟の建物のいずれかだった可能性が高いとしている。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.1.21 纒向遺跡 祭祀用供物か、大量の魚や動物の骨、植物の種子などを確認
 2010.9.17 纒向遺跡 大型建物跡の南側から桃の種2000個以上と祭祀関連遺物が出土
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京都市・知恩院 800年ぶり師弟対面・法然(御影)と源智発願の阿弥陀如来立像

2011年01月25日 | Weblog
 浄土宗総本山の知恩院(京都市東山区)で、宗祖法然(1133~1212年)の800年遠忌(おんき)の命日に当たる25日、同宗が取得した阿弥陀如来立像(重文)を迎える請来(しょうらい)法要が営まれた。法然の弟子・源智(げんち)1183-1238)が師への報恩のために作らせた鎌倉時代の仏像で、御影(みえい)堂の法然座像の前に置かれた。
 法要は、伊藤唯真・浄土門主(知恩院門跡)が導師をつとめ、僧侶らが念仏などを唱和。800年の時を経て法然と源智が対面した。
[参考:共同通信、京都新聞、日経新聞、産経新聞、NHK]

法然像、阿弥陀如来像 ごた~いめん 京都・知恩院(産経新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.1 信楽町・玉桂寺 木造阿弥陀如来像を京都・知恩院に安置へ
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羽曳野市・城不動坂古墳 6世紀中頃、全長36mの前方後円墳、被葬者は春日山田皇女の可能性も

2011年01月24日 | Weblog
 「古市古墳群」内の安閑天皇陵(羽曳野市)近くで、これまで全く知られていなかった6世紀中頃とみられる古墳が見つかっていたが、費用の問題などから保存されず宅地開発されていたことがわかった。古墳の発見段階では横穴式石室も残されていたが、前方後円墳と分かる前に石室が住宅開発で取り壊されてしまったという。
 羽曳野市教育委員会が、平成20年度から発掘を実施し、21年2月に地下約30cmのところで石材が積み重なっているのを確認し、横穴式石室と分かった。被葬者の遺体を納めたとみられる主室は縦4.2m、横1.6mで、2人分が入る大きさだった。 石室は、天井石の一部も含めて築造当時の2分の1ほどが良好な状態で残っていた。 市教委は、開発業者と保存について協議したが、コスト面の問題などで保存を断念し、結局、宅地造成の際に、周囲の土砂などと一緒に撤去され、その後個人の住宅が作られたという。
 出土土器によって6世紀中頃の築造と推定され、地元の旧地名から「城不動坂古墳(しろふどうざかこふん)」と命名された。墳丘を囲む周濠(幅約2m)も見つかり、全長約36mの前方後円墳と判明した。盾を持つ人物を模った埴輪の顔面部分も出土している。
 被葬者については、日本書紀巻十八・安閑天皇二年冬十二月に「是月。葬天皇于河内舊市高屋丘陵。以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵。」とあり、安閑天皇の皇后、春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)や安閑天皇の異母妹、神前(かむさきの)皇女を、安閑天皇の陵に併せて葬ったと記述している。 宮内庁では、神前皇女は安閑天皇陵に合葬されているとする一方で、春日山田皇女の墓として安閑天皇陵の南にある高屋八幡山古墳(全長85mの前方後円墳)を指定している。
[参考:産経新聞、NHK大阪]

「歴史発掘 おおさか -大阪府発掘調査最新情報-」/大阪府立近つ飛鳥博物館 特別展示室
平成23 年1月22 日(土)~3月13 日(日)月曜日休館日
で、調査成果が展示されるとともに、
おおさかを掘る-最新発掘調査の成果- (調査成果報告会)
2月26 日(土)午後1時~4時-大阪府・大阪市連携- 場所/当館地階ホール
で、調査成果が発表される。
[参考:大阪府HP、大阪府立近つ飛鳥博物館HP]
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行橋市・矢留堂ノ前遺跡 弥生前期の環濠集落を発見

2011年01月22日 | Weblog
 福岡県教委文化財保護課は21日、行橋市矢留の矢留堂ノ前遺跡(やどみどうのまえいせき)から弥生時代前期の環濠集落を発見したと発表した。
 環濠は幅約3m、深さ約2mで、弧状に約85m。環濠内に住居の柱跡や、貯蔵穴も見つかった。
 現地説明会が23日(日)午後1時に開かれる。
[参考:毎日新聞]
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三重県玉城町・田丸道遺跡 川跡から1500年前の堰が見つかる

2011年01月22日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは、度会郡玉城町妙法寺の田丸道遺跡で、約1500年前古墳時代後期の川跡から木組みの堰(せき)が見つかったと発表した。 昨年末までの調査で古墳時代後期の円墳2基が見つかっており、今回新たに川跡3筋と堰などが見つかった。
 現場は、町立有田小学校の通学路の下。川幅約40m、水深約2・5mの外城田川が流れていた場所とみられる。
 見つかった堰は川底にあり、幅2m、長さ2・3m。直径10cmほどの木の杭を組み合わせて造られていた。堰は田畑に水を導く役目があり、周辺には水田が広がっていたと推測される。
 南勢地域で木組みの堰が見つかったのは初めて。県内では伊賀市の北堀池遺跡や松阪市の片部遺跡、貝蔵遺跡などで発掘されている。
 付近からは、土器やげた、ドングリや桃の種なども見つかっている。
 説明会は23日(日)午前10時から11時まで。
[参考:中日新聞、朝日新聞、三重県埋蔵文化財センター]

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釜山市温泉洞 三韓時代前期の二重環濠を釜山で初確認

2011年01月22日 | Weblog
 釜山博物館は21日午後、釜山市東莱区温泉洞金剛公園内の発掘現場で、三韓時代前期の二重環濠と住居跡、木棺墓などの発掘成果を発表した。
 今回発掘が行われた場所は、1972年の調査で無文土器と日本の弥生系土器が出土している。
 環濠規模は、内環濠が長さ27.9m、幅4.7~6.5m、外環濠は長さ36.8m、幅3.3~3.7m。
 環濠内部の黒褐色腐植土から紀元前3~2世紀の豆形土器破片などが出土した。
 木棺墓は5基が確認されたが、東西方位を軸とし、封土に石を積んだ丸太式積石式木棺墓として紀元前後に作られたとみられる。
[参考:聨合ニュース]
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香南市・西野遺跡群 9世紀の緑釉陶器片が出土

2011年01月22日 | Weblog
 香南市文化財センターは20日、同市野市町西野の西野遺跡群から弥生時代前期末(紀元前4~5世紀ごろ)の土器や、平安時代の緑釉陶器の破片が出土したと発表した。
 弥生前期―平安末期の穴や溝から約9500点の土器片が出土し、建物跡が見つかった。同遺跡群から南西2・5kmの物部川対岸には、弥生時代の大規模集落・田村遺跡群(南国市)があり、同遺跡群から周辺の物部川流域に集落が分散していったことがうかがえるという。
[参考:2011.1.21高知新聞、2011.1.22読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.8.14香南市 西野遺跡群 銅矛の再加工品が出土
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桜井市・纒向遺跡 祭祀用供物か、大量の魚や動物の骨、植物の種子などを確認

2011年01月21日 | Weblog
                          (写真:ヘダイ)

 桜井市教委は21日、纒向遺跡で昨年夏の調査で大量の桃の種が出土した穴の土を詳細に分析した結果、祭祀の際に供えたとみられるタイなどの魚の骨、シカなどの動物や鳥の骨、植物の種子などが見つかったと発表した。
 それらは大型建物(3世紀前半)の南側にあった柵の解体後に掘られた穴(南北約4・4m、東西約2・2m、深さ約80cm)から見つかった。
 市教委が土坑内の土嚢400個分の土をふるいにかけ、動1000点以上の物の骨や歯と約9800点の植物の種や花粉を採取した。骨や歯は宮路淳子・奈良女子大准教授(環境考古学)、種は金原正明・奈良教育大教授(植物考古学)が分析した。
 見つかった骨や種子は下記のとおり。
 ■ マダイ、ヘダイ、サバ、アジ、イワシ、コイ科などの魚の骨 
 ■ カモ科などの水鳥、ニホンジカ、イノシシ、ネズミなどの動物の骨、両生類のカエル
 ■ 植物は73種類、モモを筆頭にイネ、アサ、コウゾ、ウリ、ヒョウタン、アワ、ウリや果実酒原料のニワトコサルナシなど。
 また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できるという。(注1)
 これらは、人が調理して食べた形跡がなく、供物と推定している。
 現地説明会はなく、市立埋蔵文化財センターで22日~2月27日に出土品が展示される。
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞、NHK放送、MBS毎日放送]

お供え物?動植物の骨や種=穴で大量発見―奈良・纒向遺跡(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.17纒向遺跡 大型建物跡の南側から桃の種2000個以上と祭祀関連遺物が出土

2012.6.10追記
 2012.6.10付け読売新聞朝刊で、花粉の分析をしたところ桃の花粉が約1%含まれていたとしている。
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明日香村・飛鳥京跡 飛鳥浄御原宮の一部か、石組み溝と石敷き出土

2011年01月21日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が20日、明日香村の飛鳥京跡にある天武、持統両天皇の宮殿、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)跡の内郭の北側で、同宮と同時期の7世紀後半の石組み溝と石敷き、塀跡とみられる柱列が見つかったと発表した。周辺は役所群があったと想定され、計画的な区画整備が明らかになったとしている。
 内郭の北約100mの場所が調査され、出土した石組み溝(幅40cm、深さ10cm)は直角に東に曲がっており、南北5m、東西1m分を確認。石敷きはその周囲など東西、南北各5mの範囲であり、こぶし大の石を使っていた。 石敷きの20~30cm下層には小石敷きがあり、さらに下層は、黄色い山土で厚さ20~30cmに整地していた。 同宮の造営で土地利用が変更された可能性がある。また、柱穴は水路部を隔てて南北に5基見つかった。板塀だったとみられ、石組み溝と同様、同宮の建物群と同じ方位を向いていた。
 今回の調査地の東側では、昭和34年(1959)の奈良国立文化財研究所(当時)による試掘調査で発掘された石敷きとつながり、石敷きの面積は東西32m、南北40mに広がることが明らかになった。
 また、石敷きの西側で、南北16・5mに並ぶ柱穴5基が出土。石敷き遺構の西端を区画する塀だった可能性がある。
 宮の北側には、役所などの施設があったとみられているが、建物跡は見つからなかった。
 今回の調査は、農業用水「吉野川分水」の改修工事に伴って実施されたが、半世紀前の同分水の整備で、石敷きや柱跡が壊されていたことが明らかになり、公共事業と文化財保護のあり方が改めて問われている。
 現地説明会はなく、成調査果は橿考研付属博物館(橿原市)の速報展(2月11日~3月6日、月曜休館)で展示される。
[参考:読売新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.20飛鳥京跡 大型建物遺構を確認、飛鳥浄御原宮の関連施設か
 2090.2.10飛鳥浄御原宮 北限溝の北に大型建物跡が出土
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木津川市・上狛北遺跡 恭仁京の京域の遺構か 溝跡が見つかる

2011年01月21日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは20日、木津川市山城町上狛(かみこま)の上狛北遺跡の発掘調査で、恭仁京に都が置かれていた奈良時代中期の長さ約100mの溝跡や建物跡、大量の須恵器などが見つかったと発表した。 恭仁京の関連施設跡の可能性もある。 恭仁京をめぐってはこれまでの発掘調査で、左京とみられる区域に大極殿の回廊跡などが見つかっているが、右京の遺構は確認されていなかった。
 続日本紀に
天平十二年(740)十二月十五日丁夘。 皇帝在前幸恭仁宮。始作京都矣。太上天皇皇后在後而至。
天平十三年(741)九月十二日己未。 (略) 從賀世山西道以東爲左京。以西爲右京。
と記され、740年12月に平城京から遷都し、聖武天皇が造営した恭仁京の構造について「鹿背山を挟み、左京と右京に分かれる」との記述がある。 発見された溝跡は恭仁宮跡の西約5kmに位置し、鹿背山(同市)の西側にあり、恭仁京の右京の遺構ではないかとみている。
 確認された溝跡は幅が最大1m、深さは20~80cmで約100mにわたり、ほぼ正確に南北方向に掘られていた。西側に沿う形で、掘立柱の建物跡3棟も見つかった。溝内の土器から、ともに8世紀中ごろの遺構とみられ、同時代の井戸跡や、恭仁宮跡と同じ唐草文のある軒平瓦も発見された。
 溝跡は規模や方向から、国家か権力者が計画的に掘ったもので、建物も、役所や邸宅の一部と考えられるとしている。
 遺構の発見地点は、歴史地理学者の足利健亮氏(故人)が、続日本紀などをもとに復元した恭仁京域の「右京四条三坊」に当たるほか、山背国府があったとする説もある。
 現地説明会は23日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞、京都府埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.23恭仁宮跡 大極殿の南面回廊跡の遺構を確認 続日本紀の記述に符号
 2009.11.22恭仁宮跡・朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形
 2008.11.27 恭仁宮跡・朝堂跡?見つかる

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群馬県川場村・青龍山吉祥寺 大友氏時が創建

2011年01月20日 | Weblog


 鎌倉建長寺を本山とする臨済宗の禅寺で、南北朝時代の暦応2年(1339)建長寺42世中巌円月(ちゅうがんえんげつ)禅師を開山とし、大友氏時(うじとき)により創建された。
 当時、上野国利根庄は鎌倉武士大友氏の領地であり、九州に移った後、先祖の発祥のこの地に聖地建立と菩提供養の為に寺を建立したのが始まりである。 [参考:吉祥寺パンフレットより]

山門(写真左上)
 文化12年(1815)に再建された。入母屋造で、間口8.5m奥行き5.5m。山門にある「青龍山」(写真上中)の額は、後光厳(ごこうごん)天皇(1338-1374)御染筆によるもの、裏には「文和元年壬辰(1352) 後光厳院 喜平上幹」とある。
 山門右手(写真は裏から撮っているので左)の階段を登ると、楼上には文殊菩薩(写真右)を中尊に江戸中期に創られた木造の十六羅漢が安置されている。

釈迦堂(写真左下)
 寛政2年(1790)に建築された宝泉殿(注1)。 堂内中央には鎌倉時代後期(南北朝期)に創られた釈迦三尊像(写真下右)、左右奥には中興開山和尚像が祀られている。中央正面の釈迦如来像は(像高3尺4寸3分、ヒノキの寄木造、硬地漆箔仕上げ)、当山の本尊で鎌倉時代後期の作と伝えられる。(県重文) 左には獅子に乗った文殊菩薩像・右には白象に乗った普賢菩薩像が配されている、どちらの像も江戸期のもの。

創建の伝説
 吉祥寺開基は、大友家8代氏時(うじとき、?-1368)公(注2)であるが、大友家の初代能直(よしなお、1172-1223)公誕生にまつわる源頼朝公と利根局(河波姫)のロマンスとして、今でも、川場村吉祥寺に語り伝えられている。藤原時代のこの利根庄は相模守波多野氏の領地であった。その波多野四郎の娘は河波姫と称していたが、流浪の身であった若き源頼朝との間に儲けた子が、豊後大友家の開祖となった大友能直との事である。鎌倉幕府を創立の後、赤城の狩りに出た折、頼朝は離ればなれとなった河波姫を探したそうである。そして、ついに青龍の滝の下で、源氏再興を祈願していた河波姫と再び出逢ったそうだ。
他に、本堂、鐘楼などの建物と、庭園・臥龍庭や青龍の滝、昇龍の滝、不動の滝、丈六の滝が配されている。

[参考:青龍山吉祥寺HP、パンフレットおよび境内説明板(川場村教育委員会)]

(注1) 釈迦堂の算額(下中)は法泉殿と書かれているようである。
(注2) 大友能直、親秀 、頼康 、親時、貞親 、貞宗 、氏泰 、氏時 と続く。有名なキリシタン大名の大友宗麟(義鎮)は21代目となる。
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