(奥の神宮外苑(聖徳記念)絵画館と公孫樹並木の間に軟式グラウンドがあり、その中央付近に崇源院(江姫)が寄進した霊山寺領があったようだ。)
崇源院宮殿であることが発見された祐天寺(東京都目黒区中目黒五丁目)は祐海上人(1682-1760)が祐天上人(1637-1718)の廟所を設けるために下目黒にあった善久院を買い取り、建立したものであり、時期は享保3年(1718)であるという。
祐天寺の土地は崇源院の領地であり、目黒区史によると、「上、中、下目黒および衾村は入国後徳川氏の直轄地となったが、(略) 他の十数ヵ村(注1)とともに (略) 崇源院徳子の化粧料として宛てがわれた」とある。
「江史跡紀行」(小和田哲男著、資料1)を読んでいたら、
『慶長11年(1606)10月15日、江は湯島妻恋坂にあった霊山寺へ寺領50石を寄進する。この50石は千駄ヶ谷村に設定されたようだ。幕府からの由緒質問に答えた「霊山寺回答書」によれば、江の侍女・民部卿の取次ぎをもって、「宝祚延長・国家安全・武運栄昌」の祈祷を行うように、この寄進が行われた。』
と記されていた。
この千駄ヶ谷村は先(注1)の十数か村には含まれていない。
新宿歴史博物館で購入した、「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(新宿区教育委員会、資料2)を見ると、千駄ヶ谷は現在の渋谷区の千駄ヶ谷地域だけでなく、新宿区の信濃町駅の南側付近、また、大京町の東南側一部までをも指している。
渋谷区史(資料4)を見ると、徳川家康の江戸入部直後の千駄ヶ谷村は幕府直轄領であったが、その後、崇源院(1573-1626)が亡くなるまでの間に、三寺に寺領として知行されている。
慶長11年(1606) 霊山寺領50石、元和4年(1618) 西福寺領100石、元和5年(1619)吉祥寺領50石のごとくである。
このうち、霊山寺領のみが崇源院より寄進されている。その寺領は3ヶ所に分かれており、下記のとおりである。
① 千駄ヶ谷御焔蔵の東(新宿区霞ヶ丘2 神宮外苑グラウンド中央付近) 374坪
② 千駄ヶ谷御焔蔵の西(新宿区霞ヶ丘10 国立競技場正門西側付近) 72坪
③ 玉川上水に沿って北側、角筈村多門院の南 (渋谷区代々木2丁目13付近) 210坪
ちなみに、
霊山寺とは、浄土宗・常在山二尊教院霊山寺(れいざんじ)であり、現在は墨田区横川1丁目3−22にあるが、初めは、慶長6年(1601)に徳川家康の命を受けて専誉大超上人を開山・開基として駿河台紅梅坂に建立したと伝えられる。 その後、寛永十二年(1635)に湯島妻恋坂移転したが、明暦三年(1657)の明暦の大火で類焼し浅草松葉町へ移転、さらに元禄2年(1689)に現在地(墨田区)へ移ったそうである。崇源院殿は、若い時代から深い浄土宗の帰依者であったという。
参考資料
資料1 「江史跡紀行」(小和田哲男著、新人物往来社 2010/11発行)
資料2 「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(新宿区教育委員会 人文社 1983/3発行)
資料3 「大日本近世史料 市中取締類集八」(『東京大学史料編纂所報』第4号 1969発行)
資料4 「渋谷区史」(渋谷区役所編、1952発行)
資料5.「目黒区史」(東京都立大学学術研究会/編、目黒区役所、1970発行)
資料6.「新修新宿区史」(新宿区役所、1967発行)