歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

堺市・寺山南山古墳 造り出しが見つかる

2016年11月30日 | Weblog
 堺市文化財課が30日、同市西区上野芝町の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵、墳丘長約360m)の陪塚「寺山南山古墳」(方墳、5世紀初)で、東南側に造り出しが見つかったと発表した。
 造り出しの大きさは、幅約9.5m、長さ約3.6m、高さ約0.9m。
 百舌鳥古墳群の方墳で確認されたのは初めてで、大王に近い人が埋葬された可能性が高いとしている。
[参考:共同通信、産経新聞、堺市HP]

過去の関連ニュース・情報
2011.3.4寺山南山古墳
 長方形の方墳と判明
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栗東市・下鈎遺跡 弥生後期の大溝見つかる

2016年11月30日 | Weblog
 栗東市教委は29日、下鈎遺跡(同市下鈎)から、弥生時代後期につくられたとみられる大溝(長さ約35m、幅約4m、深さ約1・3m)が見つかったと発表した。
大溝は、周辺遺構から村の中心部が楕円状に直径約250mの規模だとみられる。
 下鈎遺跡は、過去に祭殿とみられる大型建物3棟や門状の遺構、青銅器などが見つかっている。
 守山市伊勢町の伊勢遺跡(国指定史跡)と区画が似ているという。
[参考:京都新聞]

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 下鈎遺跡


弥生後期、大溝見つかる 滋賀・栗東の下鈎遺跡
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長岡京市・井ノ内車塚古墳 第9次調査 横穴式石室を確認

2016年11月25日 | Weblog
 京都府長岡京市埋蔵文化財センターは24日、乙訓古墳群の一つである井ノ内車塚古墳(同市井ノ内向井芝)の第9次調査で、横穴式石室を確認したと発表した。
 石室は奥行き約4m、幅約2m、高さ約1・6mの規模だったと推測されるという。
 遺体を安置する玄室の北東隅から南約2・5mにわたり、側壁の基底付近の石が見つかった。側壁に使う大きな石を置く前に、倒壊防止用として地面をあらかじめ約20cm掘り、石と粘土を詰めて地盤を固めた。玄室に基底石を置き、土で覆って安定させて側壁を築きながら墳丘の盛り土も施していたことがわかった。
 玄室につながる通路(羨道)の位置などから、右片袖式(みぎかたそでしき)とみられることも判明した。
 石室内からは、副葬品とみられるガラス製の管玉(くだたま)や土器などが出土した。 現地説明会は26日午後1~3時に行われる。

 前回の8次調査より、古墳の概要は、
 全長約39 m、後円部の直径約24 m、前方部長約17 m、前方部幅約26 m 、後円部の高さ約3m、前方部の高さ約2.5 m 、6世紀前半築造
[参考:京都新聞、産経新聞、長岡市埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 井ノ内車塚古墳
 乙訓古墳群


京都・長岡京の前方後円墳から横穴式石室 井ノ内車塚古墳、6世紀前半の築造手順明らかに
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岡山市・造山古墳 前方部墳端部から葺石が出土

2016年11月24日 | Weblog
 岡山市教委が行っている国史跡・造山古墳(前方後円墳、岡山市北区新庄下)で前方部の墳端とみられる葺石の一部が出土した。墳丘本体で発掘による遺構の確認は初めて。
 葺石は、地山を削って造成した斜面の裾に、直径20~50cmの花崗岩の角礫(かくれき)が隙間なく葺かれていた。葺石は墳丘全面を覆っていたとみられる。
[参考:山陽新聞]

過去の関連ニュース・情報
 岡山市・造山古墳

造山古墳から墳端部の葺石出土
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豊橋・西側北遺跡 縄文時代草創期(約1万1000年前)国内最古級の竪穴建物跡

2016年11月24日 | Weblog
 豊橋市の文化財センターは22日、同市牛川町の「西側北遺跡」で、縄文時代草創期(約1万1000年前)の日本最古級の竪穴建物の跡が確認されたと発表した。
 竪穴建物跡は長径が約3・5m、短径が約3mで中央部分が浅いすり鉢状(断面形は深さ20cm)である。また、建物の部材を支える直径約30cmの主柱穴、建物の外周 には幅 15cm 前後の壁溝(へきこう)を確認。また、竪穴建物跡からは、縄を表面に押しつけて作った「押圧縄文土器」、剥片石器、磨石(すりいし)や敲石(たたきいし)などが出土している。
 27日午前10時半と午後1時半の2回、現地説明会がある。
[参考:東愛知新聞、読売新聞、豊橋市HP]

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 西側遺跡
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松山市・文京遺跡 縄文時代晩期末-弥生時代前期初頭の畑跡を発見

2016年11月21日 | Weblog
 愛媛大埋蔵文化財調査室が21日、松山市文京町の文京遺跡で、縄文時代晩期末-弥生時代前期初頭(紀元前700~同500年)の畑跡が見つかったと発表した。
 弥生時代前期前半の庄・蔵本遺跡(徳島市)や筋違遺跡(三重県松阪市)を1世紀余り遡り、国内最古の畑跡という。
 南北は約6~7メートル、東西の長さは不明だが、小規模な畑という。栽培した作物は分かっていない。木製のすきで耕していたとみられ、泥の層が無いことから、水田でなく畑と判断した。畝は作らない平らな畑だった。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

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 庄・蔵本遺跡
 筋違遺跡
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後藤又兵衛の最期の様子を克明に報告した書状が見つかる

2016年11月18日 | Weblog
 岡山県立博物館(岡山市北区)が17日、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で真田幸村らとともに「大坂城五人衆」の「槍の又兵衛」と称され活躍し、討ち死にした武将・後藤又兵衛基次(1560-1615)の最期の様子が豊臣秀頼に報告された状況を記した書付が京都市内で見つかったと発表した。
 大坂夏の陣で落城前日の5月6日、小松山(大阪府柏原市)で伊達政宗の重臣片倉重綱が率いる鉄砲隊に撃たれたとされる。致命傷を負った又兵衛が、秀頼から拝領した脇差し「行光(ゆきみつ)」で家臣に介錯を頼んだことが記されている。
 又兵衛は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛に仕え、黒田家を離れてから浪人となり、大坂の陣で徳川方の大軍に囲まれた末に討ち死にしたとされる。
 書面は縦27・4cm、横35・0cmの1枚紙で、豊臣方で又兵衛の下で戦った備前国(岡山県)出身の武将・金万平右衛門(こんまへいえもん)か、その子孫が書いたとみられる。山陽新聞では宇喜多氏以来の岡山城主には仕えず、大坂の陣に豊臣方で参戦した。戦後は徳川家臣の稲葉正成に仕官し、子孫は京都・淀藩稲葉家の家老を務めたと記している。
今春に博物館職員が京都府内の子孫宅にあった書面を受け取ったという。
 「後藤又兵衛討死之時」とする13行の文面には、又兵衛が長四郎という小姓に脇差し「行光」を渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の折れた「指物(さしもの)」(旗か刀の意味)を秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。
 書付は25日から来年1月15日まで、同博物館で展示される。
[参考:共同通信、山陽新聞、読売新聞、朝日新聞、デイリースポーツ、NHKニュース]


  柏原市玉手山公園の「後藤又兵衛基次の碑」  (平成17年11月3日撮影)      同説明板

(注)説明板では元和元年と記されているが、慶長20年7月13日をもって元和に改元されている。

過去の関連ニュース・情報
 又兵衛桜


武将・後藤又兵衛の最期の記録
大坂夏の陣で討ち死に、後藤又兵衛最期の記録
又兵衛の最期、克明に 大坂夏の陣、豊臣方の書面発見
哀川翔 後藤又兵衛の貴重資料発見に「ロマン感じる」 大河ドラマで好演中
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栃木県壬生町・遠見塚古墳 県内初の複室胴張り石室が出土

2016年11月17日 | Weblog
 県内で初めて「複室胴張り石室」が出土した遠見塚(とおみづか)古墳(羽生田字三番塚地先)で13日、現地説明会が開かれた。同古墳はこれまで「三番塚(さんばんづか)古墳」と呼ばれていた。
 町教委が9月から始めた調査で全長約9mの石室が発見され、消滅したと伝えられていた「遠見塚古墳」だと確認された。
 「複室胴張り石室」は複数の部屋があり、側壁が弓状に張っている。古墳全体の大きさは50mを超える大型とわかった。また、石室の形が北部九州に源流をもつことがわかったとしている。
[参考:下野新聞、NHK宇都宮ニュース、壬生町HP]

過去の関連ニュース・情報
 銅張



キーワード: 遠見塚古墳、三番塚古墳、胴張り石室、胴張石室
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渋川市・金井下新田遺跡 馬2体の輪郭が見つかる

2016年11月17日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が16日、渋川市の金井下新田(かないしもしんでん)遺跡で、6世紀初頭の榛名山噴火に伴う火砕流で埋没した竪穴建物から、10代と推定される古墳人の歯と2歳未満の子馬(性別不明)と、雌とみられる3歳半未満の馬の輪郭が見つかったと発表した。
 金井下新田遺跡は、金井東裏遺跡に隣接している。
[参考:共同通信、渋川市HP]

過去の関連ニュース・情報
 金井下新田遺跡



キーワード: 金井下新田遺跡、金井東裏遺跡
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盛岡市中央公民館 「御薬園」~南部家別邸のあった場所

2016年11月10日 | 盛岡


 11月8日(月)に盛岡市中央公民館(盛岡市愛宕町14番1号)へ行ってきました。当日は、10時30頃から雨が降り出しました。本当であれば、天気がよかった7日(月)に行きたかったのですが、休館日でした。

 当地は、4代藩主南部重信の時代に盛岡城で使用する薬草を栽培していたため「御薬園(おやくえん)」と呼ばれました。
 その後,御殿,御茶屋,能舞台,庭園などが設けられ,下小路御屋敷と称されました。
 安政元年(1854) から文久3年(1863)まで、藩校「明義堂」の経学・医学の講義所が設けられたそうです。
 明治維新後は、建物や庭園は取り壊され,一時荒廃しましたが,明治41年(1908)に南部伯爵家別邸が新築されました。
 戦後,別邸を譲り受けて,昭和33年(1958)に盛岡市公民館が設置されました。





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