青源山花蔵院智識寺 (せいげんさん かぞういん ちしきじ) 長野県千曲市上山田八坂1197-2
左が仁王門、右が大御堂
大御堂の幕には、真田家の家紋「六文銭」と源氏の家紋「笹竜胆」が並んで飾られている。
智識寺の由緒については、寺からいただいたチラシと境内の説明板から合わせてみると下記のようになる。
天平12年(740)に聖武天皇の勅願所として大御堂を建立したと伝わる。 ご本尊として行基(668-749)作と伝わる十一面観音立像(けやき一木彫り立像、像高3.06m)を安置する。 実は、平安時代後半の作とみられるとしている。
大同2年(807)には坂上田村麻呂(758-811)が堂宇を改修したという伝承も残る。
源頼朝(1147-1199)も篤く信仰し、建久9年(1209)には七堂伽藍を建立し仁王像を寄進し、寺の名を智識寺とした。
現在の大御堂は、天文10年(1541)に再建されたもので寄棟造、妻入茅葺、桁行四間、梁間三間、禅宗様式の仏堂で当時の様式を継承する貴重な建物として国指定重要文化財に指定されている。
仁王門も室町時代に建立されたもので寄棟、茅葺、三間一戸、桁行三間、梁間二間、両側には木造金剛力士立像(阿形像:像高2.15m・檜材・一木造・吁形像:像高2.1m・檜材・一木造・室町時代制作)を安置し、ともに千曲市有形文化財に指定されている。
徳川時代には上田城主真田幸村公(1567-1615)が尊崇し、その後真田家が松城城主となっても代々の城主の祈願所となっていた。
十一面観音立像が平安時代後半の作とすれば、行基作と伝わる年代にはまったく合わないし、また、仁王尊(像)は寺からもらったチラシには、頼朝公の寄進としているが、現存のものが室町時代制作とすれば、これも時代が合わない。
これらは、初め冠着山(かむりきやま)に建てられたもので、その後、現在地に移転された。寺側では、慶長14年(1609)に移転したとしているが、町史では、それ以前としているようである。
十一面観音菩薩像、大御堂ともに国指定重要文化財である。
左が仁王門、右が大御堂
大御堂の幕には、真田家の家紋「六文銭」と源氏の家紋「笹竜胆」が並んで飾られている。
智識寺の由緒については、寺からいただいたチラシと境内の説明板から合わせてみると下記のようになる。
天平12年(740)に聖武天皇の勅願所として大御堂を建立したと伝わる。 ご本尊として行基(668-749)作と伝わる十一面観音立像(けやき一木彫り立像、像高3.06m)を安置する。 実は、平安時代後半の作とみられるとしている。
大同2年(807)には坂上田村麻呂(758-811)が堂宇を改修したという伝承も残る。
源頼朝(1147-1199)も篤く信仰し、建久9年(1209)には七堂伽藍を建立し仁王像を寄進し、寺の名を智識寺とした。
現在の大御堂は、天文10年(1541)に再建されたもので寄棟造、妻入茅葺、桁行四間、梁間三間、禅宗様式の仏堂で当時の様式を継承する貴重な建物として国指定重要文化財に指定されている。
仁王門も室町時代に建立されたもので寄棟、茅葺、三間一戸、桁行三間、梁間二間、両側には木造金剛力士立像(阿形像:像高2.15m・檜材・一木造・吁形像:像高2.1m・檜材・一木造・室町時代制作)を安置し、ともに千曲市有形文化財に指定されている。
徳川時代には上田城主真田幸村公(1567-1615)が尊崇し、その後真田家が松城城主となっても代々の城主の祈願所となっていた。
十一面観音立像が平安時代後半の作とすれば、行基作と伝わる年代にはまったく合わないし、また、仁王尊(像)は寺からもらったチラシには、頼朝公の寄進としているが、現存のものが室町時代制作とすれば、これも時代が合わない。
これらは、初め冠着山(かむりきやま)に建てられたもので、その後、現在地に移転された。寺側では、慶長14年(1609)に移転したとしているが、町史では、それ以前としているようである。
十一面観音菩薩像、大御堂ともに国指定重要文化財である。