歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

千曲市・真言宗智山派 智識寺

2016年03月21日 | Weblog
青源山花蔵院智識寺 (せいげんさん かぞういん ちしきじ) 長野県千曲市上山田八坂1197-2

左が仁王門、右が大御堂
大御堂の幕には、真田家の家紋「六文銭」と源氏の家紋「笹竜胆」が並んで飾られている。

智識寺の由緒については、寺からいただいたチラシと境内の説明板から合わせてみると下記のようになる。
 天平12年(740)に聖武天皇の勅願所として大御堂を建立したと伝わる。 ご本尊として行基(668-749)作と伝わる十一面観音立像(けやき一木彫り立像、像高3.06m)を安置する。 実は、平安時代後半の作とみられるとしている。
 大同2年(807)には坂上田村麻呂(758-811)が堂宇を改修したという伝承も残る。
 源頼朝(1147-1199)も篤く信仰し、建久9年(1209)には七堂伽藍を建立し仁王像を寄進し、寺の名を智識寺とした。
 現在の大御堂は、天文10年(1541)に再建されたもので寄棟造、妻入茅葺、桁行四間、梁間三間、禅宗様式の仏堂で当時の様式を継承する貴重な建物として国指定重要文化財に指定されている。
 仁王門も室町時代に建立されたもので寄棟、茅葺、三間一戸、桁行三間、梁間二間、両側には木造金剛力士立像(阿形像:像高2.15m・檜材・一木造・吁形像:像高2.1m・檜材・一木造・室町時代制作)を安置し、ともに千曲市有形文化財に指定されている。
 徳川時代には上田城主真田幸村公(1567-1615)が尊崇し、その後真田家が松城城主となっても代々の城主の祈願所となっていた。

 十一面観音立像が平安時代後半の作とすれば、行基作と伝わる年代にはまったく合わないし、また、仁王尊(像)は寺からもらったチラシには、頼朝公の寄進としているが、現存のものが室町時代制作とすれば、これも時代が合わない。

 これらは、初め冠着山(かむりきやま)に建てられたもので、その後、現在地に移転された。寺側では、慶長14年(1609)に移転したとしているが、町史では、それ以前としているようである。
 十一面観音菩薩像、大御堂ともに国指定重要文化財である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糸島市・三雲・井原遺跡 倭人伝を裏付ける? 最古級すずり片が出土

2016年03月03日 | Weblog
 糸島市教育委員会が1日、「魏志倭人伝」(注1)に登場する「伊都国」の都だったとされる三雲・井原(いわら)遺跡(福岡県糸島市)で、弥生時代後期のものとみられる国内最古級の硯(すずり)の破片1個(長さ6cm、幅4・3cm、厚さ6mm)が出土したと発表した。
 昨年12月、不要になった土器を捨てたとみられるくぼ地を調査して見つかった。ここから中国・前漢が朝鮮半島に置いた「楽浪郡」製の土器(弥生後期)が多数見つかっているため、市教委は硯も同時期の1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。
 田和山遺跡(松江市)で、平成10年(1998)に弥生中期ごろの地層から、硯と研石の破片が見つかっている。
 現地説明会は、5日午後2時から開かれる。硯の破片は15日から31日まで、市立伊都国歴史博物館で一般公開される。
[参考:西日本新聞、読売新聞、時事通信、毎日新聞、産経新聞]

(注1)収租賦、有邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之。自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国。於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜遺乃物、詣女王不得差錯。

過去の関連ニュース・情報
 三雲・井原遺跡

弥生時代後期の国内最古級すずり出土 「魏志倭人伝」の記述裏付け 福岡

国内最古級の硯、倭人伝が記す伊都国王都で出土


キーワード:弥生硯
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲市・上塩冶横穴墓群 新たに横穴墓9基を発見

2016年03月02日 | Weblog
 出雲市は1日、島根県内で最大規模の横穴墓群「上塩冶(かみえんや)横穴墓群」(出雲市上塩冶町)で、6世紀後半~7世紀前半(古墳時代後・晩期)のものとみられる横穴墓9基が新たに見つかったと発表した。
 上塩冶横穴墓群は、南北1.5km、東西0.8kmの範囲で、古墳時代後・晩期とみられる横穴墓が約220基確認されている。今回の調査は平成27年9月から進められ、幅0.8~1.7m、奥行き2m前後の横穴墓が9基見つかった。
このうち1基からは縦2.2m、横1.1m程度の石棺が見つかり、石棺内に長さ75cmの鉄製大刀や長さ20cmの鉄製刀子、被葬者の枕にしたとみられる須恵器などが残っていた。両隣の横穴墓からは、直径約3cmの銀環が計3点出土し、やじりなども多数見つかった。
 石棺内は蓋がないことから木の板で蓋をしていたと考えられると言う。
上塩冶横穴墓群の近くには、有力な豪族が埋葬された国の史跡の上塩冶築山古墳があることから、今回の調査で見つかった横穴墓には、豪族を支えた人々が埋葬されたと考えられるということです。
 現地説明会は6日、午前10時と同11時の2回開かれる。
[参考:産経新聞、NHK松江放送]

過去のニュース・情報
 新たに横穴墓35基が見つかる、県内横穴墓では初となる「くりぬき式家形石棺」も
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする