歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

松江市・海崎古墳群 6~7世紀の石室を調査 伯耆地方との関係性

2017年10月29日 | Weblog
 松江市は25日、同市美保関町美保関の海崎(かいざき)古墳群で、3基ある古墳のうち6~7世紀前半に造られたとみられる石室2基を調査した。
このうち1号墳は、鳥取県の伯耆地方に多く分布する竪穴系横口式石室で、出土した副葬品などからも島根半島東部と海を隔てた伯耆地方との交流や関係性の深さがうかがえるという。
 3号墳は横穴式石室で床から天井までの高さが1.7mあった。 いずれも奥に1枚の石を置き、側面は大きな石を土台にして、その上に板状の石を積み上げ、伯耆で見られる石室と共通するという。
 石室の石は、海岸から標高100mの現地に運んだものとみられる。
 3号墳からは金でめっきした耳環が出土した。 
 28日午前10時半から、現地説明会を開く。
[参考:2017.10.26山陰中央新報、2017.10.28朝日新聞]


キーワード:海崎古墳群 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初代松江藩 出雲国の家臣分配を示す「知行目録」を発見

2017年10月26日 | Weblog
 松江歴史館(松江市)は26日、江戸時代の初代松江藩主堀尾忠氏が、関ケ原の合戦後に領主となった出雲国の土地を家臣らに分け与えたことを示す文書「知行目録」(縦31.4cm、横44.9m)が見つかったと発表した。
 関ケ原の合戦の功績により、出雲、隠岐国の領主になった堀尾忠氏が、現在の島根県出雲市や雲南市の土地計1010石を、家臣6人にそれぞれ130~250石ずつ与えたことが記されている。
 慶長6年(1601)3月に作成されており、忠氏が合戦から半年という短時間で支配体制を整えようとしたことが分かるという。
 見つかった知行目録は松江歴史館で11月17日~来年1月17日に展示される。

 堀尾忠氏(1578-1604)は、堀尾吉晴(1543-1611)の次男。早世したため、忠氏の長男・忠晴(1599-1633)が継いだが、幼少のため、吉晴がその後見として事実上の藩主になった。忠晴は成人後も子供に恵まれず、死後堀尾家は改易となった。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 堀尾
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本能寺の変直後の秀吉 堀尾吉晴ほか家臣に宛てた書状発見 信長ゆかりの品の略奪を許さず

2017年10月26日 | Weblog
 織田信長が明智光秀に討たれた天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。
 変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。
 東京大史料編纂所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査し、筆跡や内容から新発見の書状と判断した。
同年8月14日付で、秀吉が堀尾毛介(もすけ、吉晴)ら3人の家臣に宛て、文末に「筑前守 秀吉」の名と直筆の花押がある。
 書状では、家臣の略奪を受け、「預ヶ物(預物)」や「乱妨物(強奪した物)」については「(今後)一切調査は行わない」と伝える一方、信長の所有物や、信長から賜った「上様御物(うえさまごもつ)」は返還を命じている。
[参考:読売新聞、NHK]


本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず

秀吉の書状 新たに発見 信長亡きあとの試行錯誤示す


キーワード: 堀尾吉晴,本能寺の変

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向日市・五塚原古墳 前方部西側のくぼ地から石敷き跡を確認、祭祀施設か

2017年10月22日 | Weblog

 京都府向日市埋蔵文化財センターは18日、同市寺戸町芝山の五塚原(いつかはら)古墳(3世紀半ばから後半の築造、全長約91mの前方後円墳)で、前方部の西側にあるくぼ地(南北35m、東西25mの楕円状)から直径約3cmの小石が敷き詰められた跡が見つかり、古墳の付帯施設(祭祀場)として人為的に掘られた可能性があると発表した。 2001年の調査では、くぼ地は自然の地形と判断されていた。
 また、前方部西側の隅角を特定し、前方部が前期古墳特有の左右対称のバチ形の2段構造と確認された。
 現地説明会が21日午前11時~午後3時に開かれる。
[参考:2019.10.19京都新聞、毎日新聞、2019.10.21産経新聞] 

過去の関連ニュース・情報
 五塚原古墳


石敷き詰めたくぼ地確認、祭祀遺構か 京都・向日の五塚原古墳

<五塚原古墳>くぼ地に敷き詰めた石 人が掘った可能性高まる 向日 /京都

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和歌山市・中飯降遺跡 縄文時代後期(約4000年前)西日本最大規模の大型竪穴建物跡の移設復元現場を公開

2017年10月20日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは、かつらぎ町の中飯降(なかいぶり)遺跡(同町中飯降)から見つかった縄文時代後期(約4000年前)の大型竪穴建物跡の移設復元現場を公開した。
 建物跡は直径約15mのほぼ円形(約180㎡)で、縄文時代としては西日本最大規模。一般的な竪穴建物の大きさは直径5mほどという。京奈和道改良工事に伴う発掘調査で計4棟の大型建物跡が確認され、うち重要な1棟を2008~09年度の発掘調査に合わせて保存処理し、発掘現場の東約30mの国有地に移設した
 かつらぎ町教委は22日、現地学習会を開く。午後1時と2時、3時の計3回、それぞれ30分間。
[参考:毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ユース・情報
 中飯降遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮崎県えびの市・島内139号地下式横穴墓 平胡簶(ひらやなぐい)の底板を展示

2017年10月19日 | Weblog
 えびの市教委などが9月28日、同市島内地下式横穴墓群139号墓(6世紀前半)からほぼそのままの形状で出土した、弓矢を入れる道具の平胡簶(ひらやなぐい)の木製底板が、古墳時代の出土品としては国内最古級であると発表した。
 底板は平成26年に発掘された。幅33・4cm、奥行き3・6cm、厚さ2cm。織物や毛皮、銅や鉄の板が金具で留まっていた。推定高さ80cm前後。
 10月4日(水曜)~12月3日(日曜)の間、えびの市歴史民俗資料館展示ホールで公開される。
  銀象嵌鍛冶具、小刀群、金銅装馬具(五鈴杏葉、無脚雲珠、辻金具)なども展示される。
[参考:2017.9.29宮崎日日新聞、毎日新聞、2017.10.14 産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 島内139号地下式横穴墓
 胡ろく



キーワード: 胡籙、胡ろく、胡録
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥取・青谷上寺地遺跡 弥生時代のガラスなどを加工・生産か

2017年10月05日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターが4日、弥生時代の集落遺跡、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(同市青谷町)で、弥生時代後期から終末期(2世紀後半~3世紀前半)の地層からガラス加工用の素材と考えられるガラス片1個が出土したと発表した。ガラス片は白みを帯び、長寸11ミリ、短寸7ミリ、厚さ5ミリ。
 同遺跡では昨年に、加工途中のガラス玉1個が出土し、近くでは加工場を伺わせる焼土面2か所も見つかったため、貴重なガラス製品が同遺跡で作られていた可能性が裏付けられたとしている。
 また、青銅製の銅鏃が新たに10点出土し、過去の出土と合わせ計60点となった。同遺跡で銅鏃を生産した痕跡は未確認であるため、山陰のほか九州、近畿、東海の各地方に特徴的な形状の銅鏃が含まれることから、各地で生産された銅鏃が持ち込まれたと考えられる。
 中国の新の時代(AD8~23年)の貨幣「貨泉」も新たに1点見つかった。
 現地説明会が7日午後1時半から開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞、鳥取県HP]

過去の関連ニュース・情報
 青谷上寺地遺跡
 貨泉


古代のガラス片出土 弥生の物流拠点、鳥取・青谷上寺地遺跡

<青谷上寺地遺跡>加工前ガラス片が出土 弥生期、勾玉など製造の可能性 /鳥取
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

各務原市・坊の塚古墳 大型石槨と判明

2017年10月03日 | Weblog
 各務原市は、同市鵜沼羽場町の坊の塚古墳(全長120mの前方後円墳、四世紀後半から末期(注1)の石槨の大きさについて、少なくとも長さ6m、幅1.5mあり、同時代の古墳としては大型だったと発表した。 
同古墳は県内で大垣市の昼飯大塚古墳(全長150mの前方後円墳、4世紀末)についで2番目の規模。
 今回の調査で、石槨の蓋(ふた)に使ったと思われる長さ2m、幅1mの板状の石4枚を発掘。一五年度に長さ2.85m、幅1.38mの蓋石を発見しており、これらを合わせて、石槨の大きさを推定した。
 祭祀で使われたとみられる土製品や副葬品を発見した。長さ6.5cmと8.2cmの魚型の土製品2点もあった。魚型のものが出土するのは、東海地方で初めてではないかという。
[参考:2017.9.29中日新聞]

(注1) 築造時期は、これまで5世紀前半、あるいは4世紀末~5世紀初頭としていた。

過去の関連ニュース・情報
坊の塚古墳
2017.1.29 5世紀前半に造られた全長約120mの前方後円墳で、後円部は3段の階段状であることが判明。


大型な石槨と判明 各務原「坊の塚古墳」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする