東禅寺 山門 境内
今日の読売新聞の夕刊で、「飫肥」(城)」のことが書かれていた。「飫肥」とは読みを忘れてしまっていたが、「おび」と読む。
「飫肥」の語源は、冬も暖かくて肥沃な土地であるため、食べ物 にも不自由しない所から来ているらしい。
何故、「飫肥」を覚えていたかというと、昨年10月に、幕末の安政6 年(1859)に最初の英国公使館が置かれた東禅寺に行ったことによる。東禅寺は、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となった。東禅寺は公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されている。
東禅寺は、開基の伊東祐慶(すけのり、1589-1636)の法名・東禅寺殿前匠征泰雲玄興からとっている。嶺南宗六(れいなんすうろく、1583-1643)禅師が開山となり、慶長15年(1610)赤坂溜池に嶺南庵と号して創建、寛永13年(1636)当地へ移転して東禅寺と改めたという。正式名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺、臨済宗妙心寺派別格本山である。
屋根の軒丸瓦は飫肥藩伊東家の定紋・十曜紋である。
(境内の案内板より)
国指定史跡
東禅寺
所在地 港区高輪三丁目
指 定 平成二二年二月二二日
東禅寺 は、幕末の安政六年(一八五九)、最初の英国公使館 が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派 に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。
幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコック が着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(一八六五)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(一八六一)五月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが着した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
現在の東禅寺の寺城は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
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