歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

真岡市・雷神社 棟札、懸仏を発見し、室町時代の創建を裏付け

2012年04月26日 | Weblog
 東日本大震災で被災した真岡市西郷の雷神社の修理がこのほど終了した。本殿(1989年に市指定文化財)から、焼失後に再建されたときに奉納された棟札と創建当時と同時代に当たる室町時代の懸仏が発見され、再建の時期が特定されたとともに、創建時期を裏付ける貴重な資料となった。
 雷神社は、室町時代の創建と伝えられ、江戸時代後期に火災で焼失後、再建された本殿(間口1・06m、奥行き0・94m)が今日まで残っている。
 昨年3月の東日本大震災で、本殿の床部分が壊れ、本殿の一部も傷付いた。修理中に、棟札1つと懸仏1体が発見された。
 表面には「奉上棟 大元尊神 別当雷光寺」と明記され、願主と大工の姓名も記されている。大元尊神とあることから、吉田神道系列であることが明らかになった。 裏目には「嘉永七年(1854)十月」と奉納の時期がはっきりと記されており、このときに再建されたことが明らかになった。
[参考:下野新聞]
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守山市・松塚遺跡 5世紀の甲冑形埴輪や大刀型埴輪が出土

2012年04月22日 | Weblog
 守山市教委は、同市浮気町の松塚遺跡から5世紀後半で全国最古級とみられる大刀型埴輪の一部と、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)を模して造られた甲冑型埴輪の頭部が見つかったと発表した。
 市教委が昨年末に調査し、5世紀後半の古墳の周溝とみられる長さ7m、幅2.5mの溝の中から埴輪が見つかった。ほかにも、馬形の埴輪や円筒埴輪の破片が見つかった。
 大刀型埴輪は手で握る柄の部分(高さ約27cm)が出土。鹿角で作られた大刀の装具を模している。大刀型埴輪は6世紀以降のものは関東地方に多くみられるが、5世紀のものは全国でも15例程度しかなく貴重という。
 甲冑型埴輪の頭部は高さ約26cm。眉庇付冑は古墳時代の代表的な甲冑の形態の一つで、半月形の庇がつくのが特徴。これまで出土した同類の埴輪よりも精巧に模写されているという。
 市埋蔵文化財センター(同市服部町)で21日から展示している。5月6日まで。
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豊岡市・大師山古墳群 9号墳出土の鉄刀の鍔に銀糸の象嵌を確認

2012年04月22日 | Weblog
 豊岡市立出土文化財管理センター(同市神美台)は20日、大師山古墳群(同市引野、6〜7世紀頃)から出土した飛鳥時代(7世紀初め)の鉄刀の鍔(つば、直径7~7・6mm、厚み4~5mm)をX線撮影したところ、銀糸の象眼があることを確認したと発表した。
 確認された象眼は、「C」字形のような線と波線を組み合わせた模様。
 1985年の発掘調査で、9号墳の石室内から土器や玉類などと一緒に鉄刀(全長89cm、7世紀初め)が出土した。
 象眼が確認された鉄刀と鍔は21〜30日まで、豊岡市の中筋地区公民館で展示される。
[参考:朝日新聞、毎日新聞]
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韓国全南順天市・雲坪里古墳群 500年前後の任那日本府説の4県の一つ娑陀から伽耶系の遺物が多量に出土

2012年04月20日 | 韓国の遺跡・古墳など
 昨日の聨合ニュース(日本版)は、「韓国・全羅南道・順天市の雲坪里古墳群(うんぴょんりこふんぐん、운평리 고분군)で任那日本府(임나일본부)説を覆す可能性のある遺物が出土した」と報じた。 順天大学校博物館が発掘調査中の伽耶の古墳から、6世紀初め頃のものとみられる大伽耶系の純金製耳飾りや馬具類、大刀、土器類など約200点が出土した。 雲坪里古墳群は紀元500年前後の同地域(注1)の支配層の墓であり、新たに出土した遺物は日本系のものでなく、伽耶系のものが大量に出土していることから、当時、任那4県のうちの一つだった同地域(注)が大伽耶と連盟関係にあったことを示す重要な資料としている。

 この記事に先立って、今年の2月14日に、やはり聨合ニュースは「順天市・雲坪里古墳群3次発掘調査に着手」と報じていた。
 5世紀後半から6世紀初期にかけて伽耶系古墳と評価される雲坪里古墳群では、2005-2008年に2回の発掘調査で封墳3基(1~3号墳)、土壙墓9基、石槨墓21基などが発掘された。
 特に長方形石室の埋葬主体部を中心にとして同心円上に12基の石槨墓が築造された2号墳では、金製耳飾り、大型器台など1千点余りの遺物が出土し、当時の順天地域最高首長層墓であることがわかった。 当時伽耶勢力と順天支配集団間の活発な政治的交流があったことを示す重要資料している。
 また、従来、全南東部地域は馬韓社会から百済につながる歴史性を持っていたと理解してきたが、雲坪里古墳群発掘調査では伽耶系墓と出土遺物からみて、馬韓社会から百済に渡る中間に全南東部地域が伽耶勢力と密接な関係を結んでいるということが確認されたとしている。
[参考:聨合ニュース]

(注1)任那4県とは、上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁であり、娑陀(サタ、사타)が現在の順天の地域に当る。
参考: 『日本書紀』
継体天皇六年(512)冬十二月。百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰。此四縣近連百濟。遠隔日本。旦暮易通。鷄犬難別。今賜百濟合爲同國。固存之策無以過此。然縱賜合國。後世猶危。况爲異場幾年能守。大伴大連金村具得是言。同謨而奏。迺以物部大連麁鹿火宛死宣勅使。物部大連方欲發向難波館宣勅於百濟客。其妻固要曰。夫住吉大神。初以海表金銀之國。高麗百濟新羅任那等。授記胎中譽田天皇。故大后氣長足姫尊。與大臣武内宿禰。毎國初置官家。爲海表之蕃屏。其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰。教示合理。恐背天勅。其妻切諌云。稱疾莫宣。大連依諌。由是改使而宣勅。付賜物并制旨。依表賜任那四縣。大兄皇子前有縁事不關賜國。晩知宣勅。驚悔欲改。令曰。自胎中之帝置官家之國。輕随蕃乞。輙爾賜乎。乃遣日鷹吉士。改宣百濟客。使者答啓。父天皇圖計便宜勅賜既畢。子皇子豈違帝勅妄改而令。必是虚也。縱是實者。持杖大頭打。孰與持杖小頭打痛乎。遂罷。於是或有流言曰。大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣。

欽明天皇元年(540)九月乙亥朔己卯。幸難波祝津宮。大伴大連金村。許勢臣稻持。物部大連尾與等從焉。天皇問諸臣曰。幾許軍卒伐得新羅。物部大連尾與等奏曰。少許軍卒不可易征。襄者男大迹天皇六年。百濟遣使表請任那上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁四縣。大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。於是大伴大連金村居住吉宅。稱疾不朝。天皇遣青海夫勾子。慰問慇懃。大連怖謝曰。臣所疾者非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。乃以鞍馬贈使厚相資敬。青海夫人依實顯奏。詔曰。久竭忠誠。莫恤衆口。遂不爲罪。優寵彌深。☆是年也太歳庚申。

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小田原市永塚 「美濃」刻印の須恵器が出土

2012年04月19日 | Weblog
足下郡家が存在?
 小田原市は18日、同市永塚の発掘現場で、「美濃」の刻印がある奈良時代の須恵器が発見されたと発表した。 関東以東では初めてで、当時の小田原地域の役所とされる相模国足下郡家(あしのしもぐうけ)が存在していた可能性が考えられる貴重な資料としている。
 昨年8~10月に行われた発掘調査で、口径14・1cm、高さ4cm、底径約7cm(復元時推定)の皿状土器の3分の1程度が見つかった。 皿の底面に「美濃」の文字が刻印されていた。
 刻印のある須恵器は、712~725年にかけて美濃国の公的な窯と考えられている老洞(おいぼら)・朝倉須恵器窯を中心に生産された。 これまでに、大阪、奈良、岐阜、愛知、三重、長野の6府県55遺跡で1000点以上見つかっている。
[参考:読売新聞、東京新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.12.17 関市・笠屋石塚遺跡 奈良時代の鍛冶作業跡と住居跡が見つかり、「美濃国」と刻印された須恵器が出土
 2011.11.13 小田原市・千代南原遺跡 平安時代の墨書土器が多数含まれていることが判明
 2010.2.16 岐阜市・岩田西遺跡 「美濃国」と刻印された奈良時代(8世紀)の須恵器の破片2点が出土
 2010.1.21 佐久市・西近津遺跡群 「美濃国」刻印の須恵器が出土
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平城宮外苑・「松林苑」の東築地跡を初確認 想定より1.5倍の規模

2012年04月18日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は、平城宮の外苑「松林苑」(奈良市佐紀町)で東を区切る築地跡を初めて見つけ、現在の想定の約1・5倍の規模だったことが確実になったと明らかにした。
 これまでの県遺跡地図では水上池の東側で区切る東西約1km、南北約1・3kmが想定されていたが、遺跡地図の範囲から約350m東側で、ウワナベ古墳も取り込むとみている。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.4.24平城宮外苑 「松林苑跡」 コナベ古墳の西側から楼閣?跡と石張りの護岸を備えた苑池が見つかる
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泉佐野市・諸目遺跡 飛鳥時代~奈良時代頃の亀形須恵器が出土

2012年04月18日 | Weblog
 泉佐野市長滝の諸目遺跡(もろめいせき)で同市立長南小学校屋内運動場増改築工事に伴い、大阪府文化財センターが2月から約1100㎡の発掘調査をしたところ、飛鳥時代~奈良時代(7~8世紀)頃の、亀の形をした土器が見つかった。
 諸目遺跡は、弥生時代から中世の複合遺跡で、今回の調査地はその南東に位置する。
 今回検出した遺構は、弥生時代末~古墳時代初頭の竪穴建物?2棟、古代(AD650~750頃)の掘立柱建物5棟、多数のピット、土坑、溝など。 出土遺物は、縄文時代の石鏃、弥生時代の土器、古墳時代の土師器、須恵器、埴輪、古代の土師器、須恵器、中世の瓦器、青磁、白磁など。
 亀の形をした土器(亀形須恵器)は、古代の土坑から出土した。 長さ約20cm、高さ約6cmで、甲羅の部分などが一部欠けていた。 頭の部分に穴を開けて目や鼻などを表現している。 平城京などでは亀形の硯が出土しているが、墨をためる凹みがなく、腹部に穴があるなど、硯とは特徴が異なり、用途は不明。
[参考:読売新聞、大阪府文化財センターHP]
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高槻市・成合遺跡 弥生時代の北陸産ヒスイ製勾玉が出土

2012年04月17日 | Weblog
 大阪府文化財センターが17日、弥生時代中期の集落跡である高槻市成合の成合遺跡(なりあいいせき)で、北陸地方で生産されたとみられるヒスイ(翡翠)製小型勾玉が見つかったと発表した。
 勾玉は淡い緑色に乳白色が混ざった、長さ1.7cm、幅1.4cmの大きさ。
 ほかに、弥生時代中期後葉から後期初頭の竪穴建物跡が8棟分見つかった。 建物跡はいずれも改築した跡がなく、遺物の量が少ないことから、短期間で廃絶した集落とみている。
 成合遺跡の衰退期と、川を挟んでより高台(標高80~100m)にある最大級の高地性環濠集落である古曽部・芝谷遺跡(高槻市美しが丘)の出現期と重なるとしている。
 現地説明会が21日(土)午後1~3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、大阪府文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2009.7.15 東大阪市・鬼虎川遺跡 姫川産ヒスイ製獣形勾玉
 東大阪市弥生町他の鬼虎川遺跡からは、弥生時代中期の翡翠製「獣形勾玉」(あるいは「櫛形勾玉」とも)が1999年に見つかっている。 長さ4.1cm、厚さ1cm、重さ19.2g
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木津川市・馬場南遺跡 出土した歌木簡「阿支波支乃・・・」は大伴家持作

2012年04月13日 | Weblog
 吉田金彦・姫路獨協大名誉教授・京都地名研究会会長が、木津川市の馬場南遺跡から出土した木簡に書かれた万葉歌について、「大伴家持の作品で、歌が収録されている万葉集巻10のほかの『詠み人知らず』の作品も家持らによるものが多い」との新説をまとめた。
 2008年に同遺跡で、「阿支波支乃之多波毛美智(あきはぎのしたばもみち)」と墨書された木簡が見つかり、万葉集巻10の作者未詳歌(注1)と一致。 その後の研究で、木簡の裏側から「越中守」の文字も見つかり、同時代に越中守で万葉集の編者ともいわれる大伴家持との関係が指摘されていた。
 22日午後2時から、龍谷大大宮キャンパス本館講堂(京都市下京区)で京都地名研究会の講演会が開かれ、そこで発表する。
[参考:京都新聞]

(注1) 秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨 (2205)

過去の関連ニュース・情報
 2009.8.16馬場南遺跡 万葉集木簡の裏面に「越中守」?
 2009年1月17日 馬場南遺跡 現地説明会
 馬場南遺跡
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大津市・中路遺跡 近江国庁手前の東山道北側区画溝から礎石建物跡を確認

2012年04月13日 | Weblog
 大津市教委が11日、近江国庁(奈良~平安時代)の関連施設があったとされる中路(ちゅうろ)遺跡(大津市神領)で8世紀中頃~9世紀中頃の礎石建物跡が見つかったと発表した。市教委は、古代の官道・東山道沿いにあり、国庁の手前に位置することから、道の往来を監視する重要な施設(警備の詰め所?)があったのではないかとしている。
 2009年度の発掘で、東山道北側で造成された区画溝が見つかり、新たな建物の存在を確認した。 今年一月から区画溝の内部を発掘調査したところ、側溝(幅約2m)に囲まれた敷地(東西24m、南北10m)を発掘。 礎石が抜き取られた建物の跡(東西、南北とも6m以上)の一部などを確認した。 不用となった瓦が投棄された穴もあった。 二度の建て替えがされていたことも分かった。
 近江国庁の南西約400mにあり、東山道沿いに堅固な礎石建物を築いていたことから、国庁付属の重要な施設跡である可能性が高まったとしている。
[参考:読売新聞、中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.27中路遺跡 古代官道「東山道」の関所の可能性
 中路遺跡
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奈良県広陵町・巣山古墳 葺石が3か所で延べ180m出土 築造時の姿がわかる資料

2012年04月12日 | Weblog
 巣山古墳(全長220mの前方後円墳、4世紀末~5世紀初め)で、町教委が墳丘の東西に張り出した「造り出し」付近と、東側の外堤の3か所、計860㎡を発掘し、葺石が延べ約180mにわたって出土した。
 墳丘の西側裾で幅2mの葺石を68m分確認し、また、東側では、墳丘裾と外堤の内側で葺石が各58m分出土した。
 葺石は10~40cm大の安山岩など。基底部に石を並べ、目地になる石を斜面の縦方向に積んで区画を設け、その中に石を敷き詰める工法で造られていた。区画ごとに石の大きさや種類に違いがあることも確認した。
 三角形をした造り出し(幅14・6m、長さ33・1m)の全体もわかった。
 現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
 古墳の築造時の姿がわかる貴重な発見としている。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.30 巣山古墳 新たに葺石が120m出土、湧き水対策か
 周濠を取り巻く外堤の斜面から、葺き石が約120m、幅2mにわたって出土した。 これまでの調査と合わせると葺石が確認された外堤は計約300mに及ぶ。 丘陵を切り崩して築造された西側では、捨て石(底石)を埋めて基礎工事を施した上に葺石を積んでいたことが新たに分かった。この場所は豊富な湧き水があり、地盤が弛みやすいために石で地盤を固めたと考えられる。

 2009.1.8 周濠外堤から長さ100mにわたる葺石が出土 17日に現地説明会
 周濠の外堤から築造当初のままの葺石が長さ約100m、幅2mにわたって出土した。 墳丘と外堤の両方に葺石を敷き詰め、被葬者の威厳を高める視覚効果? 二上山で産出する板状(長さ約30~40cm)と、拳大の安山岩が使われていた。

 2006.1.19 巣山古墳の前方部斜面で、古墳を装飾する葺石が長さ約100m、幅約3mにわたって出土した。 前方部裾の最下部に人頭大の石を並べ、斜面に拳大の石を敷き詰めていた。いずれも二上山産とみられる安山岩。
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沼津市・高尾山古墳(旧・辻畑古墳) 調査報告書に古墳築造230年説、250年説を併記

2012年04月11日 | Weblog
 沼津市東熊堂の高尾山古墳(全長62mの前方後方墳、辻畑古墳を改名)の発掘調査を行っていた沼津市教委は10日、調査報告書がまとまり、市議会文教消防委員会に報告した。
 同古墳は、市教委が2008年に発掘調査を開始し、09年には国内最古級の230年頃に作られた高坏が見つかり、西暦230年頃に成立したとの説と、副葬品の鉄鏃などがそこまで古くないため、同古墳が250年頃にできたと唱える専門家もいる。 報告書には、2つの年代説を併記。
 同古墳は、保存か、道路建設のために取り壊すかで揺れており、シンポジウムを開き成果を市民に報告するなどして、古墳のあり方について意見を募ることにしている。
 同古墳は、国道1号と同246号を結ぶ市道建設予定地にあり、市は2009年9月から工事を中断していた。
 市教委は5月上旬から市文化財センター(同市大諏訪)で同古墳の出土品を展示する。また、7月下旬には同古墳にまつわるシンポジウムを市民文化センター(同市御幸町)で開く予定。
[参考:静岡新聞、読売新聞]
 
 また、2011年10月8日の静岡新聞では、
 静岡県清水町教委会が7日、同町伏見の恵ケ後・谷口遺跡(えがうしろ・やぐちいせき)で、弥生時代後期から古墳時代前期(200~250年頃)に造成されたとみられる大溝が見つかったと発表した。 周辺地からは過去に大規模な住宅跡も出土していて、関係者は同遺跡に東日本最古級の前方後方墳とされる高尾山古墳(旧・辻畑古墳、沼津市東熊堂)に埋葬された豪族が住んでいた可能性が高いとみて、調査を進めている。 当時の住居跡や伊勢湾岸地域が由来の土器、高坏なども見つかった。高尾山古墳は同遺跡から西に約3kmの位置にある。(要約)
と、報じており、沼津市だけでなく、清水町での関心も高まっている。

過去の関連ニュース・情報
 高尾山古墳(旧・辻畑古墳)
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韓国・京畿金浦雲陽洞遺跡 楽浪土器と韓国式銅剣が出土

2012年04月06日 | 韓国の遺跡・古墳など
 文化財庁は5日、漢江文化財研究院による京畿道金浦市雲陽洞遺跡(김포 운양동 유적)の発掘調査で、三国時代以前の馬韓(마한)の墓様式で知られる墳丘墓(분구묘)6基が追加して発掘され、ソウル・京畿地域初期鉄器時代(注1)木棺墓からだけ出土した韓国式銅剣が楽浪土器(注2)と一緒に出土したと発表した。
 金浦雲陽洞遺跡は漢江下流に隣接する海抜73m丘陵に位置する青銅器時代から朝鮮時代の遺跡。 2009年には青銅器時代住居跡と原三国時代墳墓30基などが現れ、環頭大刀、金製イヤリングなどが出土した。
 雲陽洞遺跡が、当時楽浪など周辺地域との交易で重要な役割をした支配階層の墓であったのを再証明するだけでなく、馬韓百済史研究の重要な資料になるだろうとしている。
(注1)BC3世紀~BC1世紀
(注2)BC1世紀~AD4世紀の楽浪郡時期の遺物
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.16 韓国・京畿金浦で3世紀の馬韓勢力墳墓を大量に発掘し、鉄器類、鉄製武器類などが多数出土
 2010.12.2 韓国・京畿金浦陽村で3世紀の墳丘墓22基を確認
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高崎市・中尾遺跡 転用硯の虫の圧痕がヨツボシカミキリと同定

2012年04月05日 | Weblog
 昨日の読売新聞朝刊で、「ヨツボシカミキリだった 平安時代の土器に圧痕」と題して、高崎市の中尾遺跡(注1)で出土した9世紀の土器にヨツボシカミキリ(注2)の圧痕が残っていたと報じられた。
 実は、群馬県埋蔵文化財調査事センター発掘情報館(渋川市北橘町下箱田784-2)で開催されているミニ展「古代の土器に眠る昆虫~鮮明に残る1200年前の昆虫圧痕」(平成24年3月21日~4月8日)で既に展示されている。
 後に硯に転用された甕の破片(19×8cm、「転用硯(てんようけん)」)とみられ、虫の形の圧痕(長辺1.2cm)がそのまま残っていた。1976年に出土していたが、今年になって専門家に観察(注3)および分析を行ってもらったところ、ヨツボシカミキリのオスと同定されたという。
 圧痕がちょうど硯の内面(硯面)中心にあり、虫を意識して硯にしたのではないかとみられるとしている。

(注1) 中尾遺跡: 古墳時代から平安時代の遺跡。 平安時代(10世紀)の竪穴住居内で灰釉陶器の埦と皿が出土している。
(注2) ヨツボシカミキリ: 学名はStenygrinum quadrinotatum、コウチュウ目 カミキリムシ科、環境省のレッドリスト(2007)では絶滅危惧Ⅱ類(VU)(絶滅の危険が増大している種)として掲載されている。
(注3) 痕跡にシリコーンを注入して形を転写して観察するレプリカ法による。

[参考:読売新聞、群馬県HP、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]
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明日香村・檜隈寺跡周辺遺跡 平安後期の巨大柱根、幢竿支柱跡?

2012年04月05日 | Weblog
 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区の整備に伴う奈良文化財研究所の発掘調査により、明日香村檜前(ひのくま)の檜隈寺跡周辺遺跡で、平安時代後期(10~11世紀)の直径約0・7mの巨大な柱根2つが並んで出土した。 太さは奈良市の唐招提寺金堂の列柱並み。檜隈寺(7世紀後半)を氏寺にしたとされる渡来系氏族・東漢(やまとのあや)氏の子孫が儀式で立てた「幢竿(どうかん)支柱」跡の可能性が高いという。
 同寺の金堂跡から南東70mで、1辺1・5~1・8m四方、深さ1.2mの柱穴2基が2m間隔で出土。内部に高さ約0.7mの柱根が残っていた。
 方位や位置などから創建時ではなく、寺の塔跡に10~11世紀に建てられた十三重石塔(重要文化財)に関連する柱とみている。
 「日本書紀」には620年、各氏族が柱を立てるのを競う儀式で東漢氏の一族がひときわ太く高い柱を立てたため、「大柱直(おおはしらのあたい)」と呼ばれたと記されている。(注1)
 調査現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:2012.3.30 読売新聞、2012.4.4産経新聞]

(注1)日本書紀・推古天皇二八年(620)
 冬十月。以砂礫葺桧隈陵上。則域外積土成山。仍毎氏科之。建大柱於土山上。時倭漢坂上直樹柱謄之太高。故時人號之曰大柱直也。
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