歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良・新薬師寺・金堂跡 出土の壺は薬壺? 

2008年12月31日 | Weblog
 奈良教育大で今年10月に出土した新薬師寺の金堂とみられる遺構付近から同時にみつかった小壺や周辺から採取した土砂を分析し、「病院的機能を兼ねた可能性のある寺の実態を知る手がかりにしたい」と30日、金原正明・同大准教授(環境考古学)が来年調査に乗り出すと産経新聞が報じている。
 小壺は高さ約15cm、9世紀ごろの須恵器で、金堂遺構の南側で確認された溝から、ほぼ完全品の6個と破片が見つかった。金原准教授は「壺は薬壺とみられる。」 さらに、「壺は金堂跡からやや離れて見つかり、仏前に供えるというよりも実用的なものだったのではないか。」として、今後、中に詰まっている土砂を出し、薬草などの成分が残っていないかどうか確認する。
[参考:産経新聞]
[参考前出:藤ノ木古墳のベニバナ]
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宇治市・平等院 浄土院地蔵菩薩半跏像 南北朝期の作と判明

2008年12月29日 | Weblog
 平等院(宇治市)の宝物館「鳳翔館」で27日、新春展「影向の美」が始まり、塔頭(たっちゅう)の浄土院本堂に収蔵されている「地蔵菩薩半跏(はんか)像」が初公開された。
 ハスの上に着座し左手に宝珠を持った姿のヒノキの木像で高さ30.5cm、幅15cm。修繕のため寄せ木造りの像を解体すると、彩色が二重に施されていた。江戸時代に塗られた表面の胡粉(ごふん)彩色をすべて取り除くと、造像当初の金箔や朱色などの彩色が見つかった。江戸期の柔和な表情の彩色の下から、力強く引き締まった顔立ちが現れた。像の表情や彫り方などの特徴から14世紀の南北朝時代の様式と確認された。
 期間は来年4月24日までで、開館は午前9時から午後5時。要入館料。
[参考:共同通信、京都新聞]
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桜井市・茅原大墓古墳 第2次調査

2008年12月29日 | Weblog
 桜井市広報「わかざくら」(平成21年1月掲載)で、三輪山麓の大字茅原に位置する茅原大墓(ちはらおおはか)古墳において9月~10月に墳丘の東側で実施した第2次調査の結果が発表されている。
 茅原大墓古墳は、帆立貝形の前方後円墳。
「直径約70m、高さ約9mに推定される後円部の北側には、長さ約15m、高さ約1mの小規模な前方部を観察することができる」と記される。いままで、全長66m 後円部径56m 高さ8mとされていたが、今回の調査により全長約85mに訂正されるということなのだろうか。
 ホケノ山古墳(3世紀前半)は、全長約80m、後円部径約55m、高さ約8.5m、前方部長約25m、高さ約3.5mの規模であり、これまでは茅原大墓古墳より一回り大きいとされていたが、今回の調査により逆転されたわけか。
 今回の調査では、前方部東側で葺石が確認され、高さ約60㎝分が残存、約40度の傾斜をもつ墳丘斜面に沿って構築、使用される石は30㎝前後の大きさで付近の河原などから運ばれたらしいことがわかった。また、葺石の周辺からは、円筒埴輪片が出土した。
 築造時期は、出土した埴輪から古墳時代中期初頭(4世紀末頃)とみられる。
[参考:桜井市→文化財]
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蒲郡市・竹谷城跡 白銅の雁首が出土

2008年12月27日 | Weblog
 蒲郡市教委によると、今年2月に発掘調査した竹谷城跡から、青銅の中でもスズ成分が多い白銅の雁首(キセルの先端部)が出土していたことがわかった。キセルは鉄砲の伝来(1543年)と同様に16世紀にポルトガルから伝来されたとされ、また、竹谷城は天正18年(1590)に廃城となっていることから、わずかの期間にいち早く、ヨーロッパのたばこ文化を取り入れていたのが興味深いとする。ちなみに、愛知県での出土例は清洲城跡のみであるという。
 竹谷城跡は、真下から6世紀前半の円墳の横穴石室が出土したことでも知られる。
[参考:東日新聞、読売新聞]

[2008.4.8]
蒲郡市・竹谷(たけのや)城古墳 「ガラス小玉」81点出土
去る1~2月に中世の竹谷城跡を発掘中に発見されたから、現代のビーズによく似た「ガラス小玉」81点が出土していたことが、その後の調べで分かった。
 石室床面から祭祀用の土器とともに耳環や管玉を発見したため、持ち帰った周辺の土砂の中に含まれていた。ネックレスなどの装身具に使用する小玉の大きさは、1.5mmから5mm。出土した81点のうち、70点は欠けた部分がなかった。
 吹きガラスという、紀元前に古代ペルシャで開発された製法は、中央アジアや中国、朝鮮半島を経て古代日本に伝えられた。糸を通すため小さな穴が開けられていたり、さまざまな金属を加えて鮮やかな青や緑、黄、茶などに発色させるなど、当時の技術の高さをしのばせる。
 古墳は、古墳時代後期(6世紀前半)初めごろの円墳で、戦国時代初めに「竹谷城」(竹谷松平氏)を築く際に石室上部を切り取り、付近を整地して出城とした痕跡がある。
 調査中の石室から耳環や管玉が見つかるケースはよくあるが、小さなガラス小玉は見つけにくく、このようにまとまって出土するのは、全国的にも珍しいという。
[参考:2008.4.8東日新聞]

<備考>
今年2月に、発見された石室からは金銅製耳飾り、碧玉製管玉、高坏、壷が各1点ずつ見つかった。
墳丘: 円墳 直径8m前後、  石室: 長さ2.9m、幅0.9m、高さ約30cm
竹谷城は、松平宗家3代信光の長男守家が竹谷へ移り住み竹谷松平家の祖となり、4代清善のとき1548年頃に築城されたと云われる。

[2008.2.13] 
蒲郡市・竹谷(たけのや)城古墳 城の直下に古墳石室、東海地方2例目
 発掘調査中の竹谷城跡から、古墳の石室を発掘。6世紀前半に造られた横穴式石室と見られている。床面に石が敷き詰められ、側面は石積みになっている。中から金銅製耳飾り、碧玉製管玉、高坏、壷が各1点ずつ見つかった。
墳丘: 円墳 直径8m前後、  石室: 長さ2.9m、幅0.9m、高さ約30cm 
[参考:中日新聞]
 蒲郡市のホームページでは、「守家は三河18松平のうちの竹谷松平の始祖として、天文16年(1547)に竹谷城を築いた人物である。」と書いている。守家は1503年に亡くなっているので年代が合わない。 今回の中日新聞の記事では、1467年前後に建てたとしており、そうであれば守家が築城したことになるが、どちらが正しいのであろう。ちなみに、インターネット検索での結果、「豪族牧山喜三郎から、700貫の土地を譲り受けて、天文16年(1547)に 城を構えた」とする内容のものが多く見られる。

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伏見城・城下町跡 黄金の天目茶碗が出土

2008年12月26日 | Weblog
伏見城・城下町跡 黄金の天目茶碗が出土
 「24日までに、京都市伏見区の伏見城城下町跡の発掘調査で16世紀末の天目茶碗が出土した」と、京都新聞が報じた。
 「調査地は、古地図には武将富田信高の屋敷と記されている」としているから、11月に金製品が約20点出土したといわれる桃陵遺跡か。
 東西幅14mの礎石建物の横の溝から出土した茶碗の破片は、長さ7cm、幅4cmで、金は輝きを放ち、緑色の斑点が付いている。
 調査した西近畿文化財調査研究所(兵庫県)は、「大名が使ったとすれば黄金趣味の茶会が、一般大名にも広がっていた可能性がある」と話している。
[参考:2008.12.24京都新聞]

[2008.11.19掲載分]
伏見城跡・桃陵遺跡 金製品約20点が出土
 西近畿文化財調査研究所(兵庫県加東市)によると、豊臣秀吉が築いた初代伏見城(指月城)跡・桃陵遺跡(京都市伏見区)の堀跡とみられる遺構から、江戸時代前期の純金製飾り金具の一部や金箔を施したピンセット状の道具など金製品約20点が見つかった。家紋が入った漆塗りの椀 も出土した。
[参考:読売新聞]
金ピカお道具20点も…太閤さんの伏見城跡出土品(読売新聞) - goo ニュース

[10月28日掲載分]
伏見城跡・桃陵遺跡 堀・石垣跡が出土
 西近畿文化財調査研究所(兵庫県加東市)は27日、京都市伏見区東奉行町・西奉行町の伏見城跡・桃陵(とうりょう)遺跡で、堀や石垣跡(16世紀後半)が出土し、豊臣秀吉(1537~98)が1592(文禄元)年に築造した初代伏見城(指月(しげつ)城)のものである可能性が高いと発表した。
 堀の底から金箔が施された銅製煙管(きせる)の吸い口と先端(長さ各5cm)や瓦、高麗青磁の茶道具、16世紀後半の陶磁器なども出土し、秀吉の好みが反映された城の一端がうかがえる。見つかった堀は東西の幅16m、南北の長さが11m、深さ2・2mだった。本丸移築後、秀吉の家臣・富田信高の屋敷があった場所だという。堀は1600年ごろに描かれた伏見の城下町絵図などに記されていないし、屋敷のものとしては規模が大きいことなどから、初代伏見城(指月城)の遺構である可能性が高いという。現場から南約200mにある宇治川に合流していたとみられる。西側の護岸には4段の石垣が確認された。
 堀の西側から見つかった建物跡は、江戸時代の絵図などから、秀吉に仕えた戦国武将富田信高(?~1633)の屋敷とみられる。
 指月城は、秀吉が隠居所として築造したが、4年後の「慶長伏見大地震」で倒壊。その後北東約500mの木幡山に移された。
 また、堀に隣接して江戸末期の伏見奉行所跡も見つかった。幕末の鳥羽伏見の戦いで新撰組など幕府軍が陣取り、薩摩軍の砲撃で全焼した史実通りに、焼けた瓦や土壁、崩れた石垣などが出土した。
 現地説明会は11月1日午後1時から。
[参考:読売新聞、京都新聞、産経新聞、朝日新聞]
秀吉好み、金のキセル出土…伏見城跡の桃陵遺跡(読売新聞) - goo ニュース

[指月城→木幡山城→伏見城概略年表]
1592年 豊臣秀吉が隠居所として指月山に指月城を築城。
1596年 慶長伏見大地震で倒壊のため、約500m離れた木幡山(現在の桃山)に新たに木幡山城を築城。
1598年 豊臣秀吉がこの城で死去。
1600年 伏見城の戦いで焼失。
1601年 徳川家康により再建。
1625年 廃城。

[富田 信高(とみた のぶたか)]
宇多源氏佐々木氏の庶流
父・左近将監一白は秀吉が近江長浜城主の頃からの古参家臣。豊臣政権初期の奉行として活躍する。
1588年 秀吉に仕える。
1595年 一白が伊勢国安濃津3万石を拝領。
1599年 一白が死去し、遺領を引き継いで安濃津5万石の主となった。津城(安濃津城)に入る。
1600年 家康の上杉討伐に従軍。安濃津城攻防戦が開始されたが遂には開場する。剃髪して高野山に入る。
1608年 伊予国宇和島藩12万石に加増移封された。
1613年 坂崎直盛との係争がこじれて改易となり、磐城平藩鳥居家に預けられた。
1633年 死去。
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伊賀市・霊山寺 石造宝塔 伊行元の作と判明

2008年12月26日 | Weblog
 伊賀市教育委員会は25日、同市下柘植の霊山山頂(標高765.8m)にある鎌倉時代の石造の宝塔(霊山寺所蔵)を市文化財に指定した。
 石造宝塔は、霊山山頂にあった鎌倉時代の寺院跡から、笠(高さ40cm、縦・横62cm)、塔身(高さ41cm、直径53cmの円柱形)、基礎部分(高さ38cm、縦・横66cm)が確認された。ともに花崗岩製。下から基礎、塔身、笠、相輪で構成される宝塔のうち、相輪部分は失われ、塔身と基礎は山頂の石室にある聖観音菩薩像の台に、笠は近くの五輪塔に、それぞれ使われていた。
 市教委が各部の拓本を取るなど調査を進めた結果、基礎に「永仁3年」(1295年)、「大工伊行元」と彫られていることが確認できた。伊行元(い・ゆきもと)は行末の孫に当たるとみられる。
伊派は東大寺を復興した重源上人が中国から招致した石工の子孫とされ、大和を中心に優れた石造物を多く残した。重源上人は新大仏寺(伊賀市富永)とのかかわりが深かったため、今回の石造宝塔についても、伊派の一族が伊賀で仕事をしていたことをうかがわせるという。伊派が伊賀地域でも活躍していたことを証明する貴重な資料という。
 伊行元の作品としては、大宇陀春日神社の五輪塔(奈良県宇陀市)や藤原不比等の墓と伝わる十三重石塔(奈良県桜井市)が確認されている。
 伊派が作った石造物の発見は、昭和48年、奈良県大和郡山市の額安寺の宝篋印塔が確認されて以来、35年ぶりとなった。
 市教委は、聖観音像が現在も信仰されているため、塔は復元せず現状のまま保存する。
[参考:産経新聞、中日新聞]

霊山寺(れいざんじ)
最澄が開基したと伝えられる古刹。山頂765mに大伽藍があったらしい。江戸時代に標高395mの現在の場所に再興された。
本尊は十一面観音世音菩薩(像高1.8m)、江戸時代初期作。

参考:前出
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
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平城京で和同開珎の「種銭」が判明 地方へ供給し量産工程の証か

2008年12月24日 | Weblog
 奈良時代の国内最古級の貨幣「和同開珎」(銅銭)は、平城京で「種銭(たねせん)」を造った後、この「種銭」が地方の銅生産地に配給され、大量生産された可能性があることが国立文化財機構奈良文化財研究所の調査でわかった。
 平城京で過去に出土した鋳型が「種銭」用だったことが最近の分析で明らかになり、規格を統一するため、中央に「種銭」の官営工房を置いていたとみられる。
 奈文研によると、和同開珎の鋳型の破片数百点が79年に平城京の中心部で平城宮から約1kmの場所から見つかった。鋳型は730年代に造られたもので、平城京内の鋳銭司についての記述した文献がなかったため、これまではニセ銭造りの跡とみられてきた。
 奈文研の松村恵司・都城発掘調査部長が07年度に実施した実験で、銭を鋳造すると完成品の大きさは原型より1.78%収縮することがわかったことなどから、出土した鋳型は「種銭」用だったと判断した。
 和同開珎を製造する際は、木を彫った原型銭を粘土に押しあてて鋳型とし「種銭」の元となる母銭を造ったとみられる。原型銭は見つかっていないが、平城京からは以前、母銭とみられる和同開珎1枚が見つかっている。
 730年代には銅の生産地が近くにある山口県下関市や、都に近い京都府木津川市の2カ所に「鋳銭司(ちゅうせんし)」と呼ばれる造幣局があった。中央で「種銭」を製造した後、生産地に送り、現地で大量生産したらしい。「種銭」用の鋳型自体は地方に送らず、中央で厳重に管理していたとみられる。
[参考:朝日新聞]
和同開珎に量産工程 平城京で「種銭」、地方へ配給か(朝日新聞) - goo ニュース
平城京跡出土の和同開珎、規格統一用の「種銭」か(読売新聞) - goo ニュース

参考前出
藤原宮跡出土・富本銭 考察
大阪市・細工谷遺跡 ぴかぴかの和同開珎見つかる
和同開珎の入った壺、平城京跡の太安万侶邸の区画から出土
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甲府城 本丸付近に高層建造物 天守閣か

2008年12月23日 | Weblog
 山梨県教委の甲府城跡保存活用等調査検討委員会(委員長=萩原三雄・帝京大山梨文化財研究所長)が22日、甲府城に天守閣などの高層建造物があった可能性を示す報告書を発表した。
 出土した鯱瓦(しゃちがわら)の一部から実際の大きさを132cmと推計して復元すると、五層の天守閣がある松本城(長野県松本市)の鯱瓦は約130cmのため、甲府城は松本城に匹敵する25m級の建造物があったと推測できるという。松本城は、現存する12の城では姫路城に続き2番目の高さ。
 調査委は、京都大学工学部建築系図書室で見つかった絵図などから、内堀を含めた甲府城の敷地面積を約18ヘクタールと認定。小田原城(小田原市)の約17ヘクタールを上回る規模で、江戸城や駿府城など国家事業として建てられた城を除くと、東日本で五指に入る可能性があるという。
また発掘調査や京都大絵図によって「銅(あかがね)門と鉄(くろがね)門の存在や形が確認できた」と明記した。
 甲府城は安土桃山時代、甲斐領主の浅野長政・幸長親子によって建てられた。城跡は6ヘクタールしか残っていない。江戸時代の大火などで建造物の多くが失われ、文献も少ないことから、「天守閣があったかどうか」が謎の一つとなっている。
[参考:読売新聞、山梨日日新聞]

関連年表
1582(天正10) 織田信長(1534-1582)が支配し、川尻秀隆(1527-1582)が甲斐領22万石を受領する。
1582(天正10) 本能寺の変により信長死去し、徳川家康(1543-1616)が入国、平岩親吉(1542-1612)が城代となる
1583(天正11) 家康による築城説(1)
1589(天正17) 家康による築城説(2) 家康から平岩親吉に築城に着手の命令が出されるものの小田原城出兵、そして翌年の関東への転封のため実現せず。
1590(天正18) 豊臣秀吉が天下統一し、家康は関東へ転封、羽柴秀勝(1568-1586)(秀吉の甥、秀吉の養子)が入国。
1591(天正19) 秀勝が岐阜へ転封し、代わって加藤光泰(1537-1593)が城主(24万石)となる。築城を本格的に開始。築城説(3)
1592(文禄元) 文禄の役、光泰朝鮮へ出兵。翌年、光泰釜山の陣中にて病没。
1593(文禄2) 浅野長政(1547~1611)・幸長(1576-1613)が城主(22万5千石)となる。
1597(慶長2) 慶長の役、幸長朝鮮へ出兵.
1598(慶長3) 豊臣秀吉(1537-1598)死去
1600(慶長5) 関ヶ原の戦い。長政・幸長東軍として戦う.
1601(慶長6) 長政・幸長が和歌山へ転封。徳川家康の命により平岩親吉が再度城代(6万3千石)となる
1603(慶長8) 徳川義直(1601-1650)(家康九男)が城主(25万石)となる.
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深谷市・皿沼西遺跡 遺跡見学会12/24

2008年12月23日 | Weblog
 皿沼西(さらぬまにし)遺跡(深谷市上敷免)は古墳時代中期(約1550年前)と奈良・平安時代(約1300~1100年前)の大きなムラ跡で、数多くの住居跡や土器などが出土している。
 市内には榛澤(はんざわ)郡の役所跡とされる中宿(なかじゅく)遺跡と幡羅(はら)郡の役所跡とされる幡羅遺跡がある。皿沼西遺跡はちょうどその中間に位置し、どちらの郡に属したのか興味のあるところ。
 日 時:平成21年1月24日(土) 小雨決行。 
 午前の部 10:30~12:00、午後の部 13:30~15:00 
 場 所:深谷市大字上敷免字皿沼  皿沼西遺跡発掘現場
[参考:(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団]

関連ニュース・情報
 幡羅遺跡
 皿沼西遺跡
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東京都・有楽町二丁目遺跡 「大岡越前守」木札が出土

2008年12月21日 | Weblog
 江戸南町奉行所があった東京都千代田区の有楽町二丁目遺跡で、「大岡越前守」と書かれた木札が出土していたことが、区教育委員会などの調査で分かった。
 大岡越前守は、奉行の大岡忠相(ただすけ)(1677~1751)を指しており、出土品で大岡の名が確認されるのは初めてという。
木札は当時の書記官が仕事をする地下の部屋に残っていた。
伊勢神宮の神主が大岡の側近3人のために書いたらしい。詳しい用途は不明。
 区教委は平成17年に奉行所跡を発掘。木札は縦26cm、横5cm。上段は「大岡越前守様御屋敷ニ而(テ)」で始まり、左に「市川儀平太様」「山本左右太様」「小林勘蔵様」と3人の側近の名があった。下段は「檜垣(ひがき)六神主」など伊勢神宮の神主3人の名を連ねていた。
[参考:共同通信、産経新聞]
「大岡越前守」の木札が出土 東京・南町奉行所跡(共同通信) - goo ニュース

参考:前出・江戸初期の南町奉行所は呉服橋のそばにあった

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 江戸遺跡研究会会報N0.108(2007.12.27発行)/(江戸遺跡研究会)を見ると、「有楽町二丁目遺跡」の発掘調査は2005年度に2回に渡り(延べ100日間)実施され、この時に今回の木札は出土され、既に「大岡越前守屋敷ニ而し ~」の部分は判読されている。
 南町奉行所の場所は、現在の有楽町マリオンと東京交通会館の間に位置し、有楽町イトシアとして2007年(平成19年)10月12日に開業された。したがって、この遺跡を再び我々の代で見ることはできないだろう。

大岡氏
 藤原北家教実流九条忠教(1248-1332)の後裔あるいは九条 尚経(1469-1530)の子とされる(大岡)伝蔵善吉、あるいは善吉以前の者が三河国八名郡大岡村(現、新城市黒田大塚字大岡)に住み、その地名をとって大岡氏と名乗ったとする。大岡善吉の子の大岡助勝(1522-1594)が松平氏に仕え、主君広忠(1526-1549)から偏諱を受け忠勝と名乗り、以降「忠」の一字を用いることとなる。忠勝が大岡宗家初代当主となる。
次代忠政(1550-1629)は徳川家康に仕え、功績により家康の関東転封に従い、相模国高座郡堤村を知行しそこに移った。
大岡忠助(1677-1752)は4代目当主忠真(1637-1700)の養子となり5代目当主となる。

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平安京跡 正月に宮中で生薬を飲む儀式に使われた酒杯が出土

2008年12月21日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所は20日、正月に長寿を願い、お屠蘇(とそ)に続いて生薬「白散(びゃくさん)」を飲む儀式に使われたとみられる平安時代末期の酒杯が、の平安京跡(京都市下京区)で出土したことを発表した。
 白散は、キキョウやサイシンなどを調合した生薬で、温かい酒に入れ正月に飲むと、無病息災の効能があると言い伝えられている。当時の宮中の儀式では、お屠蘇の次に飲むとされる。
 酒杯は内側の縁近くに墨で白散と書かれた白色土器(口径7・5cm、高さ2・7cm)。円形の井戸跡(直径約170cm)の底から、土師器の皿などともに見つかった。
[参考:共同通信、京都新聞]
長寿願う儀式の酒杯か 京都平安京跡で出土(共同通信) - goo ニュース
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栗東市・手原遺跡 製塩土器の破片が大量出土

2008年12月21日 | Weblog
栗東市・手原遺跡 現地説明会12/20 大型掘立柱建物が出土
 20日現地説明会が行われ、手原遺跡(同市手原)から、奈良時代後半から平安時代初頭にかけての大型掘立柱建物跡が見つかっていたことがかった。古代の豪族の館跡あるいは有力な役人の居宅だった可能性が高いという。
 手原遺跡の中央には古代の東海道が東西に走っていたと推定され、北側で役所の中心部が見つかっている。
 今回の調査地は推定東海道の南側で、見つかった掘立柱建物は東西約12m、南北約5m。南を向いた庇の柱跡も発見された。約5m西側には、約5m四方の立派な倉庫があり、重量に耐えられるよう密に柱を立てていた。当時は2つの建物の数十m南側に葉山川が流れており、陸路だけでなく、琵琶湖の水運とつながっていた可能性も考えられる。
 建物周辺の溝からは、薬や調味料などを入れた須恵器壺や緑釉陶器など、一般の集落では出土しない高価な遺物が出土。平安時代中ごろの遺構からは、役人のベルトの一部である「銅製帯金具」も見つかり、奈良時代後半から平安時代中ごろにかけ、経済力を持った役人が住んでいたことを裏付けている。
[参考:産経新聞、栗東市出土文化財センター]

栗東市・手原遺跡 製塩土器の破片が大量出土
 奈良時代中期から平安時代初期の郡役所の一つとみられる同市手原1丁目の手原遺跡で、製塩土器の破片約4000点が見つかった。製塩土器は塩を取り出すために割られることが多く、復元できるのは稀だという。破片から土器(口径13-16cm)10個を復元した。20日から始まった栗東歴史民俗博物館「湖国の塩-その歴史と民俗」で展示している。
[参考:京都新聞] 


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朝来市・池田古墳 現地説明会 12/23

2008年12月20日 | Weblog
 朝来市教委は19日、但馬最大の前方後円墳とされる池田古墳(同市和田山町平野、5世紀前半)の後円部南側約100㎡の発掘調査結果を発表した。基底部のテラスの幅は3.6mとわかったほか、9個の円筒形の埴輪(直径20~25cm)が5~10cm間隔で一列に並んで出土した。底部の10~15cmしか残っていないが、元々の高さは約60cmと推定される。
 一昨年度の発掘調査では、それまで141mとされていた全長が136mと確認され、造り出しも見つかった。堀を含めた全長は約170mと推定されている。
 埴輪の破片は約1000点出土し、ほとんどが円筒形か朝顔形。古墳を囲むテラスは100m以上あったとみられる。墳丘の基底部と2段目の葺き石50~60個(直径10~60cm)も見つかった。基底部の角度は20度、2段目は10度と異なっており、高い後円部と低い前方部を調整したとみられる。
 現地説明会は23日午後1時半から行われる。
[参考:毎日新聞]
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伊藤若冲 晩年の『象鯨図屏風』を発見

2008年12月20日 | Weblog
 江戸時代半ばの画家、伊藤若冲(1716-1800)が晩年に描いた屏風の大作が、北陸地方の旧家から見つかったことが20日分かった。象と鯨という巨大動物を対比させる奇想の画面で、専門家は晩年の傑作と高く評価している。
 屏風は六曲一双(各縦159.4cm、横354cm)。波打ち際を隔てる形で、右隻(うせき)に鼻を空に向けて水辺にうずくまる白い象が座り、左隻には潮を吹き上げながら水中に潜ろうとする黒い鯨が水墨で描かれている。
 北陸地方の旧家の納戸にしまわれていたのを今年8月、訪れた美術関係者が発見。石川県の美術関係者を通じて、「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)の辻惟雄(のぶお)館長・東大名誉教授に鑑定の依頼があった。波の表現や署名、印などから80歳頃の若冲作と鑑定した。
 ▽波頭の独特な描写 ▽スケールの大きさ ▽ゾウを描いた他作品との酷似-などから真作と判断した。
 確認された屏風からは若冲の号などを示す「米斗翁八十二歳画」の落款や「若冲居士」の印が読み取れる。箱書きはない。
 図柄が似た屏風はの売り立て目録に掲載後に行方不明となった幻の作品がある。象の描写はともに、前足を腹の下に折り曲げて、長い牙と鼻を上に向け、耳は同心円(内側の円はくぼみであろうか)で大きく描いている。背景の部分が、今回の作品は渦巻く波の迫力が増し、象の尾やボタンの花が加わった点などが異なる。
 辻館長は「前作の評判が良かったことからもう一枚描いたのでは」と話す
 保存状態は比較的良好だが一部修復が必要で、公開は早くても2009年秋以降になる見通し。
[参考:共同通信、京都新聞、時事通信社]
伊藤若冲のびょうぶを発見 鯨と象を描いた晩年の傑作(共同通信) - goo ニュース
若冲の「最も奇抜な」作品発見=波打ち際で白象と黒鯨が対峙-北陸の旧家所蔵(時事通信) - goo ニュース

コメント:
若冲は象を見ていた。
 若冲は、今回の発見で象の絵を5枚書いていたことになる。
 ①樹花鳥獣図屏風
 ②鳥獣花木図屏風
 ③白象群獣図
 ④象鯨図屏風1
 ⑤象鯨図屏風2
 升目描手法を用いたものは①②③、象が立っているものは①②、座っているものは③④⑤、
 耳は①②はやや大きいが、③④⑤は顔より大きく描かれている。
 5点に共通しているのは牙が非常に長く白い象であることである。

 「江戸名所図会」中野・宝仙寺の箇所で、江戸時代に2匹の象が貢献されてやって来たと書かれる。
将軍・吉宗の時代に、長崎から陸路で京都に至り天覧の後、江戸へ到着したのは長崎から出発して73日後であったという。そこで、脳裏をよぎったのは、伊藤若冲がこの象を見たか否か。
 若冲は、1716年3月に京都・錦小路の青物問屋の跡取り息子として生まれ。先ほどの象は、1729年4月に大阪から京都・伏見に着いたとされるから、若冲が13歳の時にこの象を見た可能性が高いと推察する。少年の時に見たそのイメージが後年になって、これらの図に反映されたと考えると興味深いものがある。
 写真は、おそらく若冲が少年時代に見たであろうと考える享保の象が、最後に飼われていた場所に掲げられる説明版「象小屋(象厩)の跡」。

参考:
前出:襖絵「鹿苑寺大書院障壁画」
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大阪市・(後期)難波宮跡 五間門の南側に建物跡を確認

2008年12月19日 | Weblog
 昨年度の調査では、朝堂院西側かつ五間門の直ぐ南に、後期難波宮時期の柱穴7本が、東西方向に2列(北側4本、南側3本)で見つかり、区画堀あるいは大規模な建物があったと考えられるとみられ、新たに官衙の区画が存在した可能性が高くなったとされていた。
 今年度の調査では、昨年度調査場所のすぐ西側を調査したところ
① 1辺が1.1~1.2mの方形の穴が南北に3ヶ所並んで見つかった。柱痕跡は直径約30cm。3ヶ所の柱穴のうち、真中の柱穴は昨年出土した2列の柱穴群の中間で西端のものとみられる。1967年と2007年の調査と合わせて、これら東西に並ぶ柱穴が10ヶ所見つかっており、梁行き2間(5.3m)、桁行き7間(横18m)の建物が建っていることが分かった。
 この建物の東側は、後期難波宮の五間門区画の東端と柱筋が揃い、五間門区画と並存したと考えられる。
 市教委は役人が執務した実用的な建物とみている。
② 5間門区画の南側を区画する堀の柱穴(1辺0.9mの方形)が2つ見つかった。
  15m東では、この区画の南東隅が既に見つかっている。
 現地説明会は23日午後1時半~3時半。問合せは、市文化財協会難波宮調査事務所
[参考:12/16読売新聞、大阪歴史博物館]
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