橿原市教委が30日、同市菖蒲町の国史跡、菖蒲池古墳(7世紀中頃)で墳丘北側と東側の裾から石列が見つかったと発表した。これまでは地形から方噴か円墳と考えられていたが、石列が直線的に延びていることから、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとしている。
石列は、墳丘北、東側の上段の裾から幅40cm、高さ30cmの石が長さ2mにわたって直線状に並べられていた。斜面は赤褐色の土で覆われ、土嚢を用いるなどしていた。上段と下段の間の平面部分には5cm程度の石を敷いていた。こうした墳丘面の仕上げは、7~8世紀の他の終末期古墳には見られない工法であることが明らかになったとしている。
南側では一段低い礫敷を確認した。天井石までの高さは5.5m。墳丘裾のテラスで、南面に前庭部が存在した可能性が高いという。
明治時代の「大和國古墳墓取調書」などの記録によると、菖蒲池古墳の墳丘は大きく削られ、石室の天井石がむき出しの状態になっていた。これまで、二つの家形石棺がある石室内の測量などが行われただけで、古墳全体の規模や形などは明らかになっていなかった。墳丘の規模は東西約30.8m、南北約30.4mとみられる。これまでは、一辺が20m前後と想定されていた。
現場は埋め戻されており、現地説明会は行わないが、4月5日から16日まで、発掘成果の写真パネルを市役所(同市八木町1丁目)1階ロビーで展示する。
[参考:産経新聞、読売新聞、奈良新聞、橿原市HP]
石列は、墳丘北、東側の上段の裾から幅40cm、高さ30cmの石が長さ2mにわたって直線状に並べられていた。斜面は赤褐色の土で覆われ、土嚢を用いるなどしていた。上段と下段の間の平面部分には5cm程度の石を敷いていた。こうした墳丘面の仕上げは、7~8世紀の他の終末期古墳には見られない工法であることが明らかになったとしている。
南側では一段低い礫敷を確認した。天井石までの高さは5.5m。墳丘裾のテラスで、南面に前庭部が存在した可能性が高いという。
明治時代の「大和國古墳墓取調書」などの記録によると、菖蒲池古墳の墳丘は大きく削られ、石室の天井石がむき出しの状態になっていた。これまで、二つの家形石棺がある石室内の測量などが行われただけで、古墳全体の規模や形などは明らかになっていなかった。墳丘の規模は東西約30.8m、南北約30.4mとみられる。これまでは、一辺が20m前後と想定されていた。
現場は埋め戻されており、現地説明会は行わないが、4月5日から16日まで、発掘成果の写真パネルを市役所(同市八木町1丁目)1階ロビーで展示する。
[参考:産経新聞、読売新聞、奈良新聞、橿原市HP]