京都府亀岡市薭田野(ひえだの)町(注1)佐伯の若宮神社で、台風18号の風雨で拝殿脇の池の法面で幅10m高さ3mにわたって崩れ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての土師器や須恵器などの大量の土器が見つかった。
土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、崩れた土砂にも多量の破片が混じっていた。釜、鉢の一部らしい破片もあった。
形状や高台の丁寧な細工などから、12~13世紀の土器とみられる。
祭礼などで一度に大量に使った器を集めたか、捨てる場所だったのではないかとみており、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとしている。
土砂崩れした箇所以外は拝殿などの地下にあたり、全容の確認は難しいという。
[参考:2013.9.26京都新聞、スポーツニッポン、2013.9.27産経新聞]
(注1) 古代は、丹波国桑田郡佐伯郷
若宮神社は延喜式神名帳には載らない神社であるが、古くは多気神社といわれ祭神は現在の大鷦鷯命(仁徳天皇)でなく、別の祭神であるらしい。 しかしながら、12~13世紀頃の大量の土器が見つかったことから、当神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとし、その不明な歴史に興味がわく。 一の谷の戦いのために、源義経軍が都を立って、丹波路を二日かかるところを一日で通リ過ぎたといっても、水分補給のために当神社に立ち寄り「若宮のご香水(ごこうずい)」と呼ばれる井泉を飲むことがあったしても不思議ではない。
同神社境内の説明板には、下記のように記されている。
若宮神社
当神社の創建は、奈良時代の景雲三年(注2)とされ、多気神社として鎮祭されるも、その後社運の消長があり、南北朝の嘉慶元年(1387)九月に再建され若宮神社と改称された。 祭神は窮乏の民に三年の徴貢を免じた大鷦鷯命(仁徳天皇)で昔より安産の守護神とされ八幡信仰などで若宮八幡宮と呼ばれた事もある。
左右の小社は地主彌勒尊と六孫王経基公である。
真下を走る旧篠山街道は寿永三年二月一日、一の谷の戦に向う義経が通った腰掛石がある。
本殿は再建当時の流れ造りで内陣天井裏の桁に約六百年前の龍が画がかれている。 例祭は毎年八月と十月で奇祭佐伯灯篭(注3)は平安時代より続いている。井出山の地名が知るす如く井泉は若宮さんの御香水と言って薬餌(注4)と甘露の水で知られる。
(注2) 神護景雲三年(769)
(注3) 佐伯灯籠は、五穀豊穣と盂蘭盆行事が合わさった夏祭りで、国の重要無形文化財に指定されている。 稗田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿(かわくま)神社の四社の祭事で、当番を集落ごとの輪番制をとって行われている。 昼には灯籠や御輿の巡行が行われ、夜には江戸時代後期から伝わる人形浄瑠璃が上演される。 最後には、稗田野神社前で鳴り響く太鼓に御輿がのしかかる「太鼓掛け」や、御輿が灯籠を追う「灯籠追い」が行われる。
(注4) 薬餌(やくじ):病人にとっての、薬と食物
[平家物語]
(寿永3年)正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞す。 (略)
同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く遂(げ)行はる。(略)
四日は吉日なればとて、大手搦手の軍兵二手に分て攻め下る。 大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、(略)都合其勢五萬餘騎、二月四日の辰の一點に都を立(つ)て、其日の申酉の刻には、攝津國昆陽野(こやの)に陣をぞ取(つ)たりける。 搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、(略)、都合其勢一萬餘騎、同じ日の同じ時に都を立(つ)て、丹波路に懸り、二日路を一日に打(つ)て、丹波と播磨の境なる三草の山の東の山口、小野原に陣をぞ取(つ)たりける。
延喜式神明帳には、桑田郡の神社として下記19社が記されているが、若宮神社および多気神社の名は見られない。 ただ、多気は「たき」と呼ばれたかもしれないし、同じ桑田郡内の多吉神社が「たき」神社と呼ばれることから、「滝」に関係しているのかもしれない。あるいは、「竹」に関連した「たけ」かも。
[延喜式]
府タ桑田郡十九座/大二座/小十七座∥
出雲神社/名神/大∥、 桑田神社、 三宅神社、 小川月神社/名神/大∥、 三県神社 、神野神社、 山国神社
阿多古神社、 小幡神社、 走田神社、 松尾神社、 伊達神社、 大井神社、 石穂神社、 與能神社、 多吉神社
村山神社、 鍬山神社、 薭田野神社
土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、崩れた土砂にも多量の破片が混じっていた。釜、鉢の一部らしい破片もあった。
形状や高台の丁寧な細工などから、12~13世紀の土器とみられる。
祭礼などで一度に大量に使った器を集めたか、捨てる場所だったのではないかとみており、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとしている。
土砂崩れした箇所以外は拝殿などの地下にあたり、全容の確認は難しいという。
[参考:2013.9.26京都新聞、スポーツニッポン、2013.9.27産経新聞]
(注1) 古代は、丹波国桑田郡佐伯郷
若宮神社は延喜式神名帳には載らない神社であるが、古くは多気神社といわれ祭神は現在の大鷦鷯命(仁徳天皇)でなく、別の祭神であるらしい。 しかしながら、12~13世紀頃の大量の土器が見つかったことから、当神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとし、その不明な歴史に興味がわく。 一の谷の戦いのために、源義経軍が都を立って、丹波路を二日かかるところを一日で通リ過ぎたといっても、水分補給のために当神社に立ち寄り「若宮のご香水(ごこうずい)」と呼ばれる井泉を飲むことがあったしても不思議ではない。
同神社境内の説明板には、下記のように記されている。
若宮神社
当神社の創建は、奈良時代の景雲三年(注2)とされ、多気神社として鎮祭されるも、その後社運の消長があり、南北朝の嘉慶元年(1387)九月に再建され若宮神社と改称された。 祭神は窮乏の民に三年の徴貢を免じた大鷦鷯命(仁徳天皇)で昔より安産の守護神とされ八幡信仰などで若宮八幡宮と呼ばれた事もある。
左右の小社は地主彌勒尊と六孫王経基公である。
真下を走る旧篠山街道は寿永三年二月一日、一の谷の戦に向う義経が通った腰掛石がある。
本殿は再建当時の流れ造りで内陣天井裏の桁に約六百年前の龍が画がかれている。 例祭は毎年八月と十月で奇祭佐伯灯篭(注3)は平安時代より続いている。井出山の地名が知るす如く井泉は若宮さんの御香水と言って薬餌(注4)と甘露の水で知られる。
(注2) 神護景雲三年(769)
(注3) 佐伯灯籠は、五穀豊穣と盂蘭盆行事が合わさった夏祭りで、国の重要無形文化財に指定されている。 稗田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿(かわくま)神社の四社の祭事で、当番を集落ごとの輪番制をとって行われている。 昼には灯籠や御輿の巡行が行われ、夜には江戸時代後期から伝わる人形浄瑠璃が上演される。 最後には、稗田野神社前で鳴り響く太鼓に御輿がのしかかる「太鼓掛け」や、御輿が灯籠を追う「灯籠追い」が行われる。
(注4) 薬餌(やくじ):病人にとっての、薬と食物
[平家物語]
(寿永3年)正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞す。 (略)
同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く遂(げ)行はる。(略)
四日は吉日なればとて、大手搦手の軍兵二手に分て攻め下る。 大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、(略)都合其勢五萬餘騎、二月四日の辰の一點に都を立(つ)て、其日の申酉の刻には、攝津國昆陽野(こやの)に陣をぞ取(つ)たりける。 搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、(略)、都合其勢一萬餘騎、同じ日の同じ時に都を立(つ)て、丹波路に懸り、二日路を一日に打(つ)て、丹波と播磨の境なる三草の山の東の山口、小野原に陣をぞ取(つ)たりける。
延喜式神明帳には、桑田郡の神社として下記19社が記されているが、若宮神社および多気神社の名は見られない。 ただ、多気は「たき」と呼ばれたかもしれないし、同じ桑田郡内の多吉神社が「たき」神社と呼ばれることから、「滝」に関係しているのかもしれない。あるいは、「竹」に関連した「たけ」かも。
[延喜式]
府タ桑田郡十九座/大二座/小十七座∥
出雲神社/名神/大∥、 桑田神社、 三宅神社、 小川月神社/名神/大∥、 三県神社 、神野神社、 山国神社
阿多古神社、 小幡神社、 走田神社、 松尾神社、 伊達神社、 大井神社、 石穂神社、 與能神社、 多吉神社
村山神社、 鍬山神社、 薭田野神社