歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

亀岡市・若宮神社 台風禍により境内の崩落地に12~13世紀の大量の土器が出現

2013年09月30日 | Weblog
 京都府亀岡市薭田野(ひえだの)町(注1)佐伯の若宮神社で、台風18号の風雨で拝殿脇の池の法面で幅10m高さ3mにわたって崩れ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての土師器や須恵器などの大量の土器が見つかった。
 土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、崩れた土砂にも多量の破片が混じっていた。釜、鉢の一部らしい破片もあった。
 形状や高台の丁寧な細工などから、12~13世紀の土器とみられる。
 祭礼などで一度に大量に使った器を集めたか、捨てる場所だったのではないかとみており、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとしている。
 土砂崩れした箇所以外は拝殿などの地下にあたり、全容の確認は難しいという。
[参考:2013.9.26京都新聞、スポーツニッポン、2013.9.27産経新聞]

(注1) 古代は、丹波国桑田郡佐伯郷
 若宮神社は延喜式神名帳には載らない神社であるが、古くは多気神社といわれ祭神は現在の大鷦鷯命(仁徳天皇)でなく、別の祭神であるらしい。 しかしながら、12~13世紀頃の大量の土器が見つかったことから、当神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとし、その不明な歴史に興味がわく。 一の谷の戦いのために、源義経軍が都を立って、丹波路を二日かかるところを一日で通リ過ぎたといっても、水分補給のために当神社に立ち寄り「若宮のご香水(ごこうずい)」と呼ばれる井泉を飲むことがあったしても不思議ではない。

 同神社境内の説明板には、下記のように記されている。
若宮神社
 当神社の創建は、奈良時代の景雲三年(注2)とされ、多気神社として鎮祭されるも、その後社運の消長があり、南北朝の嘉慶元年(1387)九月に再建され若宮神社と改称された。 祭神は窮乏の民に三年の徴貢を免じた大鷦鷯命(仁徳天皇)で昔より安産の守護神とされ八幡信仰などで若宮八幡宮と呼ばれた事もある。
 左右の小社は地主彌勒尊と六孫王経基公である。
 真下を走る旧篠山街道は寿永三年二月一日、一の谷の戦に向う義経が通った腰掛石がある。
 本殿は再建当時の流れ造りで内陣天井裏の桁に約六百年前の龍が画がかれている。 例祭は毎年八月と十月で奇祭佐伯灯篭(注3)は平安時代より続いている。井出山の地名が知るす如く井泉は若宮さんの御香水と言って薬餌(注4)と甘露の水で知られる。
(注2) 神護景雲三年(769)
(注3) 佐伯灯籠は、五穀豊穣と盂蘭盆行事が合わさった夏祭りで、国の重要無形文化財に指定されている。 稗田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿(かわくま)神社の四社の祭事で、当番を集落ごとの輪番制をとって行われている。 昼には灯籠や御輿の巡行が行われ、夜には江戸時代後期から伝わる人形浄瑠璃が上演される。 最後には、稗田野神社前で鳴り響く太鼓に御輿がのしかかる「太鼓掛け」や、御輿が灯籠を追う「灯籠追い」が行われる。
(注4) 薬餌(やくじ):病人にとっての、薬と食物

[平家物語]
 (寿永3年)正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞す。 (略)
 同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く遂(げ)行はる。(略)
 四日は吉日なればとて、大手搦手の軍兵二手に分て攻め下る。 大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、(略)都合其勢五萬餘騎、二月四日の辰の一點に都を立(つ)て、其日の申酉の刻には、攝津國昆陽野(こやの)に陣をぞ取(つ)たりける。 搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、(略)、都合其勢一萬餘騎、同じ日の同じ時に都を立(つ)て、丹波路に懸り、二日路を一日に打(つ)て、丹波と播磨の境なる三草の山の東の山口、小野原に陣をぞ取(つ)たりける。

 延喜式神明帳には、桑田郡の神社として下記19社が記されているが、若宮神社および多気神社の名は見られない。 ただ、多気は「たき」と呼ばれたかもしれないし、同じ桑田郡内の多吉神社が「たき」神社と呼ばれることから、「滝」に関係しているのかもしれない。あるいは、「竹」に関連した「たけ」かも。 
[延喜式]
府タ桑田郡十九座/大二座/小十七座∥
出雲神社/名神/大∥、 桑田神社、 三宅神社、 小川月神社/名神/大∥、 三県神社 、神野神社、 山国神社 
阿多古神社、 小幡神社、 走田神社、 松尾神社、 伊達神社、 大井神社、 石穂神社、 與能神社、 多吉神社
村山神社、 鍬山神社、 薭田野神社

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宮城県蔵王町・前戸内遺跡 120年前の墨書土器に「苅田」を確認 郡名か

2013年09月21日 | Weblog
 蔵王町教委は、集落遺跡「前戸内遺跡」(宮崎県苅田郡蔵王町小村崎地区)で、約1200年前の平安時代初期の豪族居宅跡とみられる遺構から、「苅田」など墨で書かれた文字が入った「墨書土器」27点が発掘調査で確認されたと発表した。
 同町教委は、同遺跡がある円田盆地北部が、近世までの行政区「刈田(かった)郡」と「柴田郡」のどちらに帰属していたか未解明だったが、墨書土器(土師器)に書かれた「苅田」が当時の郡の名前を記したものと考えられるとし、刈田郡に属していたことを示す史料としている。
 他にも「草手」「勝」「大」などの文字が書かれた土器が確認された。
 町ふるさと文化会館で墨書土器を含む同遺跡の出土品、写真パネルなどが展示されている。10月14日まで。
[参考:毎日新聞、蔵王町HP]
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見附市・耳取遺跡 約5000年前の県内最大級のヒスイ製大珠出土

2013年09月21日 | Weblog
 新潟県見附市教委は18日、同市名木野町の「耳取遺跡」で発掘調査をしている縄文時代中期(約5000年前)の集落跡から、県内では最大級となるヒスイ製の大珠(たいしゅ)が出土したと発表した。
 同遺跡は市街地南側の丘陵地に広がる縄文時代草創期から晩期にかけた複合遺跡。 これまでにも2点のヒスイが見つかっている。
 発見されたヒスイは長さ10・6cm、幅3・7cm、厚さ2・4cmの楕円形。 紐を通して首飾りにできるよう直径6・5mmの穴が開いていた。
 10月29日からみつけ伝承館(見附市学校町2―7―9)で開催予定の「耳取遺跡展」で一般公開される。
[参考:毎日新聞、見附市HP]



キーワード: ヒスイ大珠、ヒスイの大珠、ヒスイ製大珠
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能美市・和田山23号墳 5世紀末の須恵器に、「未」と「二年」の文字

2013年09月19日 | Weblog
 石川県能美市教育委員会は19日、同市和田町の国史跡「和田山・末寺山(まつじやま)古墳群」の和田山23号墳(円墳、直径22・5m)から出土した古墳時代中期(5世紀末)の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることを確認したと発表した。文字が刻まれた須恵器としては国内最古で、「未」は十二支の「ひつじ」、「二年」は時期を示していると考えられるという。 文字の普及の過程を知る一級の資料としている。
 須恵器は、1977年に和田山23号墳で行った発掘調査で、墳丘の西側周溝から約50個が出土した。 市教委が出土品を改めて調査したところ、文字があったのはこのうちの2個だった。
 小型の壺(口径10.4cm、高さ15.3cm)の側面には、2cm四方の大きさの「未」
 高坏(口径11.8cm、高さ5cm)の蓋の表面には、縦3.5cm、横1.3cmで「二年」
の文字が刻まれていた。串のような道具で刻んだとみられ、製作に携わった工人らが刻んだ可能性が高いという。
 須恵器は、古墳時代の4世紀末ごろから作られ始めた(注1)。文字が刻まれた古墳時代の須恵器は、これまでに桜生(さくらばさま)古墳群(滋賀県野洲市)で6世紀後半〜7世紀半ばの小型の壺が、また野々井古墳群(堺市)で6世紀頃と推定される鉢のような器の破片の出土例がある。
 国内での文字使用は5世紀半ばとされる。5世紀後半の稲荷山古墳(埼玉県行田市)で出土した鉄剣などに文字が記されているが、この時代は有力者が系譜や功績を記す政治目的が主と考えられていた。 今回の発見は、文字の使用が5世紀末には上流階層にとどまらず、幅広い階層に文字文化が広がっていた可能性を示すものとしている。
 須恵器は21日から10月27日まで、能美市立博物館で展示される。
[参考:時事通信、毎日新聞、共同通信、北國新聞、読売新聞、朝日新聞]

(注1)須恵器の製作開始時期については、近年では4世紀末頃からとされるようになってきているが、今回の報道では、須恵器は5世紀初頭頃に朝鮮半島から伝わった、としているものもある。

5世紀土器に「未」「二年」=広い層に文字普及か―石川県の和田山・末寺山古墳(時事通信) - goo ニュース

5世紀末の須恵器に刻まれた文字確認…国内最古(読売新聞) - goo ニュース

日本最古の文字入り須恵器か 文字普及示す 石川・能美(朝日新聞) - goo ニュース




キーワード: 和田山・末寺山古墳群、桜生古墳群
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出雲市・斐川中央工業団地予定地内から島根県内最古のガラス玉が出土

2013年09月19日 | Weblog
 出雲市文化財課が18日、斐川中央工業団地予定地内(同市斐川町直江)で弥生時代中期(約2千年前)の竪穴住居跡からのガラス玉や、奈良時代の「山陰道」とみられる道路遺構などが見つかったと発表した。
 ガラス玉は透き通った濃い青(直径4・5~6・0mm、孔径1・0~2・5mm)で、5個が出土した。島根県で最古という。
 ほかに、鉄斧(てっぷ)が出土した。
 調査地南側の標高28mの尾根上からは側溝を備えた「山陰道」とみられる道路遺構(長さ60m、幅9m)が見つかり、「波板状凹凸面」などが確認された。県内で山陰道とみられる遺構は、松江市の松本古墳(松江市乃木福富町)に次いで2例目という。
 現地説明会は21日(土)午前10時と午後1時半の2回開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、出雲市HP]

過去の関連ニュース・情報
2013.9.6 鳥取市・青谷横木遺跡 9~10世紀の因幡国気多郡の地方支配を示す出挙木簡が出土
 古代の幹線道路「山陰道」と考えられる幅9mの道路遺構を確認。
2010.9.9 鳥取市・松原1号墳丘墓 弥生後期前葉(約1900年前) 521点の青色のガラス玉が出土
2010.9.5糸島市・三雲・井原遺跡 遥か遠い海から渡った黄色と紫色のガラス小玉
 出土したガラス小玉(弥生時代後期(1-2世紀))に、国内では極めて珍しい黄色と紫色の小玉が含まれていたことが4日、分かった。
2009.11.22 富山市・百塚遺跡 弥生時代後期~古墳時代の埋葬施設 ガラス玉が出土
 方形周溝墓の埋葬部分からは、直径3~5mmの美しい鮮やかな青色のガラス小玉が約70個見つかった。

追記 2013.11.30
 奈良時代の官道「山陰道」とみられる道路遺構について、文化庁と島根県教育委員会とで協議した結果、あらためて遺構の重要性を確認し、出29日、雲市が保存する方針を固めたことが分かった。
 尾根上を縦断する形で東西30m以上にわたって延び、地盤改良工事の凹凸面や側溝もはっきりと見られる。
[参考:山陰中央日報]




キーワード:杉沢遺跡
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奈良県田原本町・十六面・薬王寺遺跡 勾玉や管玉の材料が出土、玉造り工房が存在か

2013年09月13日 | Weblog
 田原本町教委が12日、同町の十六面(じゅうろくせん)・薬王寺遺跡で、溝や土坑から勾玉や管玉の材料となる古墳時代前期(4世紀)の滑石や緑色凝灰岩、碧玉の破片などが多数出土したと発表した。 玉をつくるための石鋸(いしのこ)なども見つかり、遺跡内に玉造り工房が存在したことを裏付けるものという。
 また、遺跡内の古墳時代中・後期(5~6世紀)の溝の中からは、祭祀遺物とみられる小型彷製鏡(ほうせいきょう、直径約6cm)や、鏡を模した鏡形石製品2点(直径3~3・5cm)などが出土した。
 現地説明会は14日(土)午前10時と午後1時から開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
2013.5.2十六面・薬王寺遺跡で下記を発見
■ 玉の未成品や失敗品が出土した古墳時代中期前半(4世紀末〜5世紀前半ごろ)の竪穴住居跡(一辺約4m)。
■ 東西100m以上ある飛鳥時代の水路跡。(条里を意識した溝を確認)
■ 奈良時代の柱穴のひとつから、柱の沈下を防ぐ礎石の代わりに置かれていた瓦が出土。 平城宮東院と周辺で出土しているものと同じ「単弁八弁蓮華文軒丸瓦」だった。
[参考:毎日新聞]
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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 谷を埋め造成 7世紀半ばの掘立柱建物跡が見つかる

2013年09月06日 | Weblog
 奈良文化財研究所が5日、飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)で、これまでの調査地とは別の谷で小規模な谷を埋め立てて造成した跡と、7世紀半ば頃の掘立柱建物跡が見つかったと発表した。
 邸宅跡の中心部とみられる場所の北約100m地点で、邸宅跡の中心部とみられる場所と同様に、急斜面を最大5・5m以上埋め立て、東西20m以上、南北30m以上の平面に整地した大規模な造成工事がされていた。 平面には掘っ立て柱建物(東西4・5m、南北3・9m)の柱穴13個があった。 柱列ごとにまとめて穴を掘る「布掘り」式で、同遺跡での発見は初めて。 高床建物の可能性があるが、用途は不明。 この南側にも別の1棟が確認された。 規模は東西5・4m、南北3m 。 建物の性格は不明という。 飛鳥盆地を見下ろす丘は、7世紀に大規模開発され、丘全体が巨大な遺跡である可能性がより高まったとしている。
 出土した土器から、造成は7世紀中ごろとみられ、ごく短期間で遺構は廃絶したと考えられるという。
 甘樫丘は標高148m。飛鳥時代の宮殿跡や飛鳥寺などがある飛鳥盆地の西側に位置し、飛鳥盆地を一望できる。日本書紀によると、甘樫丘の谷に蘇我入鹿の邸宅が、丘の上に蝦夷の邸宅があったとされる。
 現地説明会は7日(土)午前11時~午後3時に開かれる
[参考:奈良新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞]

奈良・甘樫丘遺跡で新たに建物跡発見 蘇我氏の邸宅跡か(産経新聞) - goo ニュース

過去の関連情報・ニュース
 甘樫丘東麓遺跡


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守山市・金森西遺跡 4世紀の管玉(完成、未完成、失敗品)が大量に出土 近くに工房か

2013年09月06日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が5日、守山市金森町の古墳時代前期(4世紀)の集落遺跡「金森西遺跡」の高台や周辺の溝や穴から、緑色凝灰岩でできた古墳時代前期(4世紀ごろ)の管玉が見つかったと発表した。緑色凝灰岩は県内に産出地がないため、貴重な石材だったとみられる。
 完成品の管玉2点のほか、未完成品や失敗品な数百点があった。このほか、滑石を素材にした管玉や、刀(剣)や鏡を模した祭祀)用の石製品なども出土したことなどから、玉製品を作る工房が遺跡内にあったとみられる。
 出土した完成品の管玉は長さ1・5~2cm、直径4mmほど。緑色凝灰岩と比べて加工しやすい滑石で作った管玉や勾玉なども出土した。
 掘っ立て柱建物の跡も見つかったが、工房の遺構はまだ確認されていない。
 現地説明会は7日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:中日新聞、読売新聞、産経新聞、朝日新聞]
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鳥取市・青谷横木遺跡 9~10世紀の因幡国気多郡の地方支配を示す出挙木簡が出土

2013年09月06日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターが5日、鳥取市青谷町青谷の青谷横木(あおやよこぎ)遺跡から平安時代(9~10世紀)に住民の代表が行政に対し税の返納などを約束する国の制度「出挙(すいこ)」に関する木簡2点(注1)が出土したと発表した。 当時の因幡国気多郡に於ける、律令体制下の地方支配や祭祀に関して解明する貴重な遺跡としている。
(注1)木簡は破片も含め約300点出土し、文字が判別できるのは10点だった。
 出挙に関する木簡は、長さ約32cm、幅約4cmと長さ約36cm、幅約4cmの2点。
 赤外線カメラで解析したところ、1点には気多郡(注2)にあった「日置郷」の戸主が出挙の元利を9月中に進上(返済)する旨の内容が確認できた。 当時は行政が農民に対し強制的に稲を貸し付け、農民がそれを育てて収穫し、利子分を加えた稲を返納するシステムが整っていたらしい。 日置郷の地名が書かれた初めての木簡。
(注2) 『和名抄』に、大原、坂本、口沼(かぬ)、勝見(かちみ)、大坂、日置、勝部の7郷が記載されている。

 2点とも、同じ文の繰り返しや書き間違いがあり、実際に使用された木簡ではなく、役所側で作文し、農民に提出させていた可能性もあるとしている。
 住民代表が上部機関に提出する史料としては、紙に書かれた例はあるが、木簡としては国内初。
 このほか、祭祀に用いる木製祭祀具の人形や馬形などの形代や斎串が約3800点も出土。
 倉庫と見られる建物跡も見つかっており役所の倉庫施設があった可能性もあるという。 古代の幹線道路「山陰道」と考えられる幅9mの道路遺構が確認され、交通の要衝だったこともうかがえる。
 遺跡周辺は、現在の鳥取市気高町周辺を治めた「気多郡衙」の出先機関の場所でないかとしている。
 現地説明会が8日(日)午前10時~11時30分と午後2時~午後3時30分に開かれる。
[参考:読売新聞、朝日新聞、産経新聞、鳥取県埋蔵文化財センターHP]

キーワード:青谷横木遺跡
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仙台市・中在家南遺跡隣接地 東北初の弥生中期の機織り部材「緯打具」が出土

2013年09月05日 | Weblog
 仙台市教委は4日、若林区蒲町字南の中在家(なかざいけ)南遺跡の西に隣接する農地で、弥生時代中期に使われたとみられる機織り機の部材「緯打具(よこうちぐ)」が見つかったと発表した。弥生期の機織り機の部品は、東北での発見は初めて。弥生時代に布を織る技術が仙台平野に伝わっていたことを証明する史料という。
 今回の調査で、中在家南遺跡で確認された川跡の延長部分が確認され、ここから弥生時代(約2000年前)と古墳時代(約1600から700年前)の木製農具が出土。 緯打具は8月上旬に、地下約2.5m地点から出土した。 幅約5cm、長さ約23cm、厚さ約1cmの木片で、糸で擦れたような線状の跡が何本も付いていた。 麻を織っていた可能性が高いとみている。
 ほかに、東北で初めてとなる木製農具「組み合わせ斧柄(おのえ)」も見つかった。
 発掘調査結果の報告会が7日(土)午前10時半~11時半に開かれる。
[参考:河北新報、仙台市HP]

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木津川市・浄瑠璃寺 本堂は保元2年(1157)移築の記録裏付け

2013年09月05日 | Weblog
 
 京都府木津川市教委は4日、真言律宗 小田原山浄瑠璃寺(同市加茂町)で、12世紀前半に高さ約1mにわたり土を盛って造成し、本堂が移築されていたことが分かったと発表した。
 現在の本堂・九体阿弥陀堂(国宝)は庭園の池の西側にある。当寺に伝わる寺の変遷を記した室町時代の文献「浄瑠璃寺流記」(重要文化財)(注1)には12世紀中頃までに庭園整備が完成し、「保元2年(1157)に本堂を西岸の辺に壊し移す(移築した)」などと記されており、その記述を裏付け、寺の成立を知る発見という。
 本堂の下を発掘したところ、土が層状になっており、地面の約50cm下に盛り土や井戸状の石組み遺構が見つかった。庭園の池の岸に小石を敷き詰めた洲浜を確認した。
 今回見つかった遺構からは、1110~30年代によく使われた瓦器椀が出土し、盛土造成や洲浜整備が、12世紀前半から行われたことがほぼ裏付けられたとしている。
石の間にあった土器1点(12世紀前半の瓦器(がき)碗)から、盛り土された時期を12世紀前半と特定した。
移築前から現在のような浄土式庭園もあったことがほぼ裏付けられた、と発表した。
 現地説明会は7日(土)午前11時、午後2時の2回開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]
 
(注1) 『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるき)
 南北朝時代の観応元年(1350)に寺僧長算が転写したもの。
 当寺は応承2年(1047)、僧・義明(ぎみょう)上人を開基として創建されたものであるという。
 嘉承二年(1107) 本仏である薬師如来像などを「西堂」へ移す。本堂は取り壊し。
 嘉永三年(1108) 新・本堂(九体阿弥陀堂)を建立。
 久安三年(1147) 藤原忠通の第一子・伊豆僧正恵心(えしん)が入寺。
 保元二年(1507) 本堂(九体阿弥陀堂)を西側に移建。
[参考:「浄瑠璃寺と南山白の寺」(肥田路美著、昭和62年保育社発行)]



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古賀市・谷山北地区遺跡群 新たに漆塗りの弓を複数確認、累計10点以上

2013年09月05日 | Weblog
 6世紀末から7世紀初頭(古墳時代)の漆塗りの弓6点が確認された福岡県古賀市の谷山北地区遺跡群で、新たに複数の弓が見つかり、出土点数が少なくとも10点に上ることが分かった。
[参考:共同通信]

過去の関連ニュース・情報
013.6.8谷山北地区遺跡群 新たに武器、農具を確認
 弓は馬具の下に敷き詰められ、見た目は黒い漆膜状だが等間隔に装着された飾り鉄製金具や、先端に取り付ける金具「弓弭(ゆはず、弓の両端の、弦の輪をかける部分)」が4点確認され、少なくとも6点、漆膜状の広がりから、それ以上あるとみられるという。
2013.4.19谷山北地区遺跡群 船原3号墳に隣接した埋納坑から古墳時代後期の金銅製馬具が一式出土
 馬具の下には類例のない黒漆の膜が確認


キーワード: 船原3号墳、船原古墳
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五所川原市・五月女萢遺跡 2600〜2500年前の人面付き浅鉢形土器が出土

2013年09月04日 | Weblog
 青森県五所川原市教委は3日、同市相内の五月女萢(そとめやち)遺跡(注1)で、底部が人の顔をかたどった浅い鉢形の土器が出土したと発表した。
 人面は顔の額から上部は欠けているが、縦約8cm、幅約12cm、深さ約7cm。 鼻、口がはっきり分かるなど、立体的で精巧な作りである。 赤色顔料のベンガラが塗られていた。 鼻の部分が出っ張っているため平面に置くと倒れる形なので、祭事などで回し飲みする際に使われたのではと推測している。 取っ手など一部に人の顔を施した土器はあるが、底部全体に人面をかたどった土器の出土は国内初とみられるという。
(注1)津軽半島北西部の十三湖北岸にある縄文時代後期〜晩期(3500〜2300年前)の遺跡。 同遺跡では、地面に穴を掘った「土壙墓」と呼ばれる墓跡計約170基などが発掘されている。

 土器は今年7〜9月の調査で、土器の破片やヤマトシジミの貝殻などが積もった2600〜2500年前ごろのものと見られる遺構から見つかった。遺構の表面には赤色の顔料が残っていた。 顔料は漆と混ぜて塗られることが多く、この土器にも漆が塗られていたと見られる。
 ほかに、埋葬された人骨2体、簪(かんざし)などの骨角器、イヌやイノシシ、クジラの骨などのほかに、首飾りに使用される玉の原石(緑色凝灰岩)や、未完成品も見つかっている。 この遺跡周辺で玉造りをしていた可能性がある。
 現地説明会が8日(日)午後1〜3時に開らかれる。
[参考:共同通信、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]


キーワード:五月女萢遺跡
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奈良県高取町・市尾天満古墳 7世紀前半の円墳を発見 巨勢氏一族の墓か

2013年09月02日 | Weblog
 高取町脅威は7世紀前半の円墳(直径24m)が見つかったと発表した。横穴式石室の一部も出土した。「市尾天満(いちおてんま)古墳」と命名。
 一帯は大化改新で活躍した豪族・巨勢(こせ)氏の本拠地とされており、一族の有力者だった可能性が高いとみている。
[参考:読売新聞]
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奈良県三郷町・持聖院 一針薬師笠石仏に仏師・快慶を示す銘文 最初期の作品か

2013年09月02日 | Weblog
 奈良県三郷(さんごう)町の持聖院(じしょういん)(注1)にある鎌倉時代前期の薬師如来像の「一針薬師(ひとはりやくし)笠石仏」(町指定文化財)が、同時代を代表する仏師・快慶を示すとみられる銘文が刻まれていることがわかった。町教委などでつくる調査委員会が11月30日、岡山市の就実大学で行われる歴史シンポジウムで発表する。
(注1)貞慶(解脱上人(げだつしょうにん)、1155-1213)が開いたとされる惣持寺(そうじじ、廃寺)の子院。
 石仏は花崗岩の表面に彫られ、高さ、幅各約2m、厚さ25~30cm。薬師如来を中心に、左右に日光、月光両菩薩、周囲に十二神将の像を細い線で刻んでいる。
 笠のように上に載った石の裏側に銘文が刻まれており、造立にかかわった人物として、「アン(梵字)大工匠人(しょうじん)」の名があることがわかった。「巧匠アン阿弥陀仏」という法号は快慶の手がけた初期の作品で用いており、快慶を指す可能性が高いという。 快慶が石仏の作図にかかわったというこれまでの説を裏付けた形である。快慶が下図を書き、東大寺復興に携わった宋人石工が彫ったと考えられるという。
 石仏にはほかに、同院の前身の寺院を創建した鎌倉時代の高僧・貞慶が造立を発願したことや、「如月廿日(2月20日)」に誰かの一周忌にあわせて造られたことなどが記されていた。また、貞慶と親しかった僧侶・慶円(1140-1223)の伝記「三輪上人行状」(1255年、慶円の弟子・塔義が撰した)に貞慶の発願で快慶に依頼して薬師像を造立し寺院を建立したとの記述があり、一致する。
同じ時代の公家で、貞慶と親しかった九条兼実の長男・良通が1188年2月20日に22歳で亡くなっていることから、一周忌となる1189年に造られた可能性があるという。
2013年11月30日(土) 13:00~ 就実大学付属図書館で行われる歴史シンポジウムの中で発表される予定。
[参考:2013.9.2 読売新聞、朝日新聞、就実大学HP、海住山寺HP、2013.9.26 奈良新聞]

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