歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

敦賀市・向出山1号墳 1954年に出土した甲冑に金の多用が判明

2010年05月31日 | Weblog
 敦賀市教委は31日、同市吉河(よしこ)の向出山(むかいでやま)1号墳から約50年前に出土した古墳時代中期(5世紀後半)の甲冑を洗浄したところ、これまで国内で発見されたものに比べ多量の金が使われていたことが分かったと発表した。
 鉄製甲(よろい)は「鉄地金銅装頚甲(てつじこんどうそうあかべよろい)」で、全面に金メッキをし、細い鏨(たがね)で彫った「毛彫り」と呼ばれる文様を描いているのが特徴。幅18cm、高さ14cm、奥行き24cmで首周りや胸、背中を守るために着用したとみられる。総金張りの甲は奈良県五條市・五条猫塚古墳(1辺27mの方墳)での出土に続いて全国2例目。
 冑(かぶと)は「鉄地金銅装眉庇付冑(てつじこんどうそうまびさしつきかぶと)」で、冑の周囲にまいた金帯を挟んで上下6方向に金メッキを施した「六方白(ろっぽうしろ)」と呼ばれる様式であることが分かった。前後22cm、幅20cm、高さ12cm。前部に庇(ひさし、横25cm、幅9cm)があるのは同時代に大陸で作られた冑には見られない形状で、国内製とみられる。金銅装冑は全国で約15例の出土がある。このうち5例が金メッキを4方向に配した「四方白」だが、「六方白」は見つかっていないという。
 金銅装の甲冑を身に着けられる豪族は極めて少なく、港があり大陸の入り口となっていた敦賀を当時の政権が重要視して贈ったのではないかとみている。
 甲冑は昭和29年(1954)に1号墳の石室から見つかった。敦賀市三島町1丁目の八幡神社が所有しており、59年に市文化財に指定された。2008年度からクリーニングと保存作業が行われていた。いずれも金が用いられていることは分かっていたが、今回のクリーニングで豪華な金張りの全体像が判明した。
 9~27日の間、市立博物館で展示する。
[参考:福井新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 全南高興郡浦頭面吉頭里・雁洞古墳出土甲冑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東近江市・相谷熊原遺跡 縄文時代草創期の竪穴住居5棟と国内最古級の土偶が出土

2010年05月29日 | Weblog

相谷熊原遺跡出土土偶(高さ3.1cm、最大幅2.7cm、重さ14.6g)。 2011.6.14「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて撮影。

 滋賀県文化財保護協会は29日、東近江市永源寺相谷町の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で、縄文時代草創期(約1万3000年前)の竪穴住居跡5棟が見つかり、国内最古級の土偶1体が完全な形で出土したと発表した。同時期の住居群跡は全国でも数例で、しかも近畿地方では初めて。土偶は三重県の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡で2点に次3例目。
 発見された土偶は高さ3.1cm、最大幅2.7cm、重さ14.6g。女性の胴体のみを、胸や腰のくびれも優美に表現し、腕や脚はなく、頭部もなかったが、首付近に直径3mm、深さ約2cmの穴があり、棒で別の頭部をつないだなどの可能性もある。底は平らで自立するのが特徴。
 相谷熊原遺跡は、三重県境の鈴鹿山脈から流れる愛知(えち)川の南の河岸段丘にあり、山間地と平野部が接する場所にある。竪穴住居群は、緩い斜面約100mの間に5棟連なって確認された。規模の分かるものは直径約8mの歪(いびつ)な円形で、深さ約0.6~1mと、これまでの例より深く、しっかりした構造だった。作るのに相当な労力がかかる上、多くの土器や石器も出土しており、一定時期でも定住したことが考えられるという。
 現地説明会は6月6日(日) 10時と午後1時半の2回開かれる。雨天決行。
[参考:共同通信、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞]

滋賀で縄文草創期の最古級土偶 3例目、女性かたどる (共同通信) - goo ニュース
リアル!最古級!縄文のビーナス出土(読売新聞) - goo ニュース

[コメント]
縄文時代の国宝としては4点あり、そのうち土偶は3点である。
 「縄文のビーナス」(茅野市棚畑遺跡、約4500年前)
 「火焔土器」(十日町市笹山遺跡、約4500年前)、
 「中空土偶」(函館市著保内野遺跡、約3200年前)
 「合掌土偶」(八戸市風張1遺跡、約3500年前)
そして、縄文時代草創期(約1万2千~1万1千年前)の土偶として、三重県飯南町粥見井尻遺跡出土品がある。
今回出土した相谷熊原遺跡・土偶は、時期的にこれらを遡るものである。

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.18東近江市・相谷熊原遺跡 愛知川上流で初の縄文時代の遺跡を発見 土器棺墓など出土
 2010.2.15 盛岡市・川目A遺跡 土偶700点を発掘 男性風土偶も出土
 2009.5.14 ドイツ・ホーレ・フェルス洞窟 世界最古のビーナス像を発掘
 2008.12.3 橿原市観音寺地区遺跡・御所市本馬遺跡 東日本文化の影響を受けた縄文晩期遺跡
 2008.8.20 茨城県 十王堂遺跡 縄文中期から中世にわたる複合遺跡と判明
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県結城市・須久保塚古墳 市内最大規模の全長75mの前方後円(あるいは方)墳

2010年05月29日 | Weblog
 結城市教委の発掘調査で、同市上山川にある須久保塚古墳が全長約75m、幅約54m、高さ4.5mに及び、市内では最大規模であることが分かった。これまで、墳長41mの前方後円墳とみられていた。出土品が限られているため、築造年代はわからない。
 古墳は墳丘の四方が削られていることから、前方後円墳と推定されるが、前方後方墳の可能性もあるという。
 溝の大きさは幅7.5~10m、深さ約1.6mで、断面は逆台形。後円部とみられる部分から、木棺を埋設したと考えられる土坑が1基確認された。土坑内部の副葬品などについて、発掘を進めている。
 築造年代を示す土器や埴輪などの遺物は出土していないが、周溝の中から平安時代に遺骨を納めた壺の骨臓器や、中国・北宋時代(960-1127)の貨幣・宋銭が出土している
 現地説明会が、30日(日) 午後1時から4時まで開かれる。
[参考:東京新聞、結城市HP]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新居浜市・正光寺山古墳群 6~7世紀の石室5基や青銅製の歩揺付冠が出土

2010年05月29日 | Weblog
 新居浜市教委は29日、2009年1月から発掘調査が行われていた正光寺山古墳群(同市坂井町2)で、6世紀中頃から7世紀までに造られた石室5基が見つかったと発表した。
 昨年1月から調査した結果、直径13~16mの円墳3基と、円墳の一部と見られる墳丘や石室が3基分見つかった。
 古墳群の中央に位置する2号墳(直径14m)の横穴式石室は、遺体が安置されていた「玄室」の奥行きが2・8mと、一般的な石室に比べてやや狭く、九州地方の流れをくんでいるという。1号墳からは、県内では出土例の少ない青銅製の歩揺付冠、3号墳から鉄製の刀が見つかった。ほかに鈴、耳飾りも今回の調査で見つかっており、新居浜平野の首長クラスの豪族が埋葬されていたとみている。
 古墳群は今後埋め戻され、古墳の地形を生かした公園として整備予定。
 現地説明会が29日(土)午前10時と午後1時の2回行われる。(雨の場合は30日に延期)
[参考:読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.4.9 市教委は8日、正光寺山古墳群の調査で、6世紀半ばの特徴を持つ須恵器が、1、2号墳からそれぞれ見つかり、6世紀半ばに築造された可能性が高いとの発掘調査内容を中間報告した。
 同古墳群は1951年に愛媛大の松岡文一教授(当時)らが1、2号墳を調査。主に石室内を調査し、副葬品の須恵器から築造年代を6世紀後半と予想。規模は直径約15mの円墳2基と推定していた。2号石室から直弧文が施された鹿角装刀子や鉄鏃などの鉄製品などのたくさんの遺物が出土した。石室はともに北西方向を向いており、石室の大きさは1号墳が幅0.8m、長さ1.5m、高さ1.4m、2号墳が幅1.77m、長さ2.74m、高さ1m。
[参考:毎日新聞、新居浜市HP]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県・国見町 阿津賀志山防塁 想定の倍の規模の土塁の基礎が見つかる

2010年05月28日 | Weblog
 国見町教委は27日、阿津賀志山周辺の防塁の幅や高さが、従来考えられた規模の2倍近かったことを明らかにした。「阿津賀志山の戦い」(1189年)に備え、奥州藤原氏が大規模な工事を行った様子がうかがえる。
 発掘調査現地説明会が29日(土)午後1時30分~2時30分に開かれる。
[参考:毎日新聞、福島県文化財センター白河館HP]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.19 阿津賀志山防塁 第6次発掘調査 二重堀が一重堀に変化する部分の解明
 2008.10.11 阿津賀志山防塁に切れ目 激戦区特定へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜松市・浜松城 天守門は2階建ての櫓門で2階部分の幅が12m

2010年05月28日 | Weblog
 浜松市文化財課の発掘調査で26日、浜松城(同市中区元城町)の天守門が、2階建ての櫓門で、2階部分の櫓は幅約12mと推定されることがわかった。
 17日からの調査で、天守曲輪を作る石垣上部から、天守門の礎石や屋根に葺かれた瓦などが次々と見つかった。礎石などの位置関係から、櫓の幅は約12mと考えられる。地面から屋根までの高さは10m近い可能性がある。
 また、櫓の両脇からは、土塀に使用する塀瓦が多く出土しており、天守門に土塀が連接していたことも確認できた。
 昨年末の調査では、天守門跡からは土台部分となる4個の礎石などが発見され、礎石と礎石の間隔は約4・5m、礎石の幅から観音開きの扉の幅と高さは約4mで、門の上に櫓が乗る2層式だったとみられることがわかっていた。
 今回の調査では、譜代城主の家紋をあしらった瓦片も見つかり、瓦の特徴から16世紀末に建てられ、天守閣が17世紀初め(江戸時代初期)に消滅した後も、浜松城の象徴的な存在として改修が繰り返され維持されたとみられる。
 浜松城は天正18年(1590)、徳川家康の移封に伴い、豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が入り、天守閣や天守門を建造。関ケ原の合戦(1600年)後は徳川幕府の譜代大名が順次治めた。
 現地説明会が30日午前10時と午後1時30分から開かれる。雨天時は出土品の見学のみ。
[参考:読売新聞、中日新聞、2009.12.8前出]

過去の情報・ニュース
 2009.12.8 浜松城跡 天守門跡と富士見櫓跡から礎石などの遺構
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国・益山市 弥勒寺址 石塔舎利孔から出土した円形盒から百済官吏「達率目近」の名前を確認

2010年05月27日 | Weblog
 国立文化財研究所は26日、昨年1月に弥勒寺址(미륵사지)石塔(석탑、国宝11号)舎利孔(사리공)出土遺物を整理する過程で、新たな事実を確認したと発表した。
① 円形青銅盒(청동합)蓋表面に「上部達率目近」と判読される字が現れた。
 刀子、あるいはキリのような鋭い道具で刻まれたこの銘文は「上部(中北部)区域に住む達率(百済官職中2品)の目近」という人の名前であり、銘文が刻まれた青銅盒は弥勒寺石塔を建てる時に、達率目近が施主した供養品と判断される。
 弥勒寺址石塔出土遺物のうち、貨幣機能をしたと考えられる金塊でもこれと似た様式の銘文が既に確認されており、これらが石塔を建てる時の供養品という点には疑いの余地がなくなったとする。
② この青銅盒をはじめとして舎利具からは銀盒5点を合わせ、全6点に達する円形盒が収集された。その中には瑪瑙や真珠、琥珀、金塊のような各種宝石が現われた点からみて、宝石箱であったとみられる。
 「1番盒」と命名された青銅盒からは、金製玉370点強をはじめとして金製輪、金製小型板など多くの金製品と小玉、真珠、勾玉など総4千800点強に達する遺物が収集された。
③ さらに規模が最も大きい「4番銀盒」からは、彩られた金装飾帽子を被せた曲玉1点を含む4千400点余りの遺物が発見された。
④ その他にも織物と香粉(향분)と推定される有機物質などが円形盒から確認された。

 研究所は青銅盒とその収集遺物に関する1次的な調査内容を27~28日に、国立故宮博物館で開催する「弥勒寺国際学術シンポジウム」を通じて公開する予定。
[参考:連合ニュース]

過去のニュース・情報
 弥勒寺址
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津市・中路遺跡 古代官道「東山道」の関所の可能性

2010年05月27日 | Weblog
 市教委が26日、奈良―平安時代に近江国を統治した近江国庁の関連遺跡「中路(ちゅうろ)遺跡」(大津市神領)で、古代の官道・東山道(とうさんどう)に面した造成地などが見つかったと発表した。道路幅約12mで敷かれたと考えられていた東山道を約5m、侵食するような形で造成して道路幅を狭くし、関所のような役割をした施設、官道を管理、警備する事務所のような施設、あるいは駅屋(うまや)だった可能性があるとしている。
 同遺跡では2008年、東西方向に直線で延びる東山道の側溝(幅約2m)を検出。今回、約20m東の約200㎡を発掘したところ、側溝(同約1・6m)が想定より約5m南側で出土した。
 側溝北側では、傾斜地を平らに造成した面(南北約16m、東西約23m)を検出。この造成面に沿った東西約30m間は、東山道の道路幅は約7mに縮小していたことがわかった。
 造成面の周囲は側溝や溝で囲われ、ほかの近江国庁関連遺跡で確認された蓮華文軒丸瓦や複数の柱穴なども見つかったが、建物跡は判然としなかった。
 発掘地点は丘陵上にあり、08年の調査では、道路両端に礎石建物などの下に敷く根石も発見され、門などがあった可能性が指摘されている。
 中路遺跡は07年に市教委が初めて本格調査し、大型建物2棟跡や「修」の字が刻印された瓦12枚が出土。近江国庁の南から南東に位置し、高官の居館と想定される青江遺跡、大型倉庫群の惣山遺跡、駅家とみられる堂ノ上遺跡とともに、国庁関連遺跡として国史跡に指定されている。
 現地説明会が29日午後1時半に開かれる。
[参考:読売新聞、中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.26 大津市・近江国府跡 国庁北側から建物跡が出土、役所跡か
 2008.12.11 中路遺跡 近江国府跡、勢多(瀬田)唐橋につながる東西一直線の道路跡を確認



キーワード:近江国府跡・国庁跡

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市・村ノ内町遺跡 飛鳥時代の竪穴住居跡10棟分が出土

2010年05月27日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所は26日、村ノ内町遺跡(同市右京区常盤出口町)で飛鳥時代の竪穴住居跡10棟分が見つかったと発表した。近くの渡来系豪族・秦氏の氏寺とされる広隆寺が造営されたとみられる時期と重なっており、当時の集落がより広範囲だったことが明らかになったとしている。
 見つかったのは一辺が3~5・5mの方形をした住居跡。7世紀前半ごろとみられ、住居を囲う溝の状況から、ほぼ同じ場所で1、2回建て替えられていたことが分かった。また3棟の内部に煮炊きにより土が焼けた跡があったが、据え付け式のかまど跡はなく、渡来人が持ち込んだとされる移動式かまどを使用していたとみられる。
 同時代の住居跡は広隆寺周辺で多数見つかっているが、寺から北東約300mに位置する村ノ内町遺跡内で見つかったのは初めて。
 現地説明会が29日(土)午前10時から11時までを行われる。
[参考:京都新聞、京都市埋蔵版家財研究所HP]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慶州市仁旺洞・伝仁容寺址 7世紀初葉の「瓦築基壇」が出土

2010年05月26日 | Weblog
 国立慶州文化財研究所は26日、新羅千年の王城「月城(월성)」南側に所在する新羅時代の「伝仁容寺址(전 인용사터)」に対する発掘調査の結果、7世紀初葉頃に造営したと推定される瓦築基壇(와축기단)建物跡と井戸から統一新羅時代史草(사초)と推定される内容を記録した木簡一点を発掘したと発表した。
 瓦を積んで建物の基壇を作る建築方式は、今まで韓半島古代三国の中では百済だけでしかも、泗沘首都期百済(538~660年)のものと知られていたが、新羅にも既に600年代初期にこのような方式で建物を作ったことが明らかになった。
 今回確認した瓦築基壇建物址は、道理(도리)3間、梁(보)1間(12.6×6.7m)の規模。瓦を利用して基壇を構築する形式は百済のものと同じだが、瓦を傾斜するように交錯して積んだという点が、瓦をきちんと積んだり立てたりして積む百済のものとは多少違いを見せている。
 この瓦築基壇建物跡が登場した時期は、基壇内部から収集した古式の単弁蓮華文軒丸瓦(단판연화문 수막새라)や短脚高杯(단각고배)などの出土遺物と建物跡の重複関係(寺刹建物の下の層で確認)で見ると、7世紀初葉頃と推定される。
 また、井戸から収集した木簡は、細長方形(長さ15.8㎝、幅1.38㎝、厚さ0.77㎝)、樹種は松で、木簡両面にかけて墨書文字約40余字が確認された。書体は典型的な王羲之体。墨書からは、王に大龍という人が所貴公など2人に対する人物評と薦挙を申し上げる内容と推定されるとする。史草(初稿)である可能性が高いという。
 木簡に見える大龍という人物は三国遺事では元聖王(원성왕 在位785-799)の娘中1人の大龍夫人である可能性があると指摘した。
 この他にも、池、井戸、建物址などで円盤型土製品と 銅鏡、土器、桃の種など統一新羅祭儀行為の一面をのぞくことができる多様な遺物も収集された。
 三国遺事紀異第二・文虎王法敏条によれば、仁容寺創建の経緯は武烈王(604-661)の次男であり文武王(626-681)の弟として唐に行っていた金仁問(629-694)のための弥陀道陽として建てられた寺であったとされる。
[参考:聨合ニュース]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明石市・太寺遺跡 鎌倉時代の掘立柱建物跡など見つかる 太寺廃寺の関連施設か

2010年05月26日 | Weblog
 明石市教委は、太寺遺跡で平安時代末期(12世紀後半)から鎌倉時代(13世紀前半)の掘立柱建物跡や古墳時代後期の円筒埴輪片が見つかったと発表した。
 今年2月から約430㎡を調査し、建物跡は約350の柱穴が見つかった。柱の跡は直径約25cmの円形で、深さ20~25cm。柱は2~2・5mの間隔で立っており、十数棟があったとみられる。
 柱穴の一つから太寺廃寺で見つかった蓮華模様の軒丸瓦片と同じ瓦片もあった。瓦や土器、磁器など約200点も出土。このうち古墳時代後期のものが約50点あった。このほか、古墳時代の円筒形埴輪の破片なども見つかった。
 発掘場所の東約100mには、7世紀後半の白鳳時代に建てられた「太寺廃寺」があり、古墳時代から地方の豪族が住み、「太寺廃寺跡」に関係する集落があったとみている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

参考:
太寺廃寺(明石市太寺2丁目)
 太寺は白鳳期(7世紀後半~8世紀初)に造営された寺院の名であるが、早くより廃寺となった。現在は江戸時代に明石城主小笠原忠政(のち忠真、1596-1667)によって再興された天台宗太寺山高家寺がある。
 境内の東南隅にある小高い土盛は太寺廃寺の塔跡で、塔の基壇は高さ約1.5m、円形造りだしの柱座が設けられた礎石が3石、現位置に埋没して残存している。1辺約7.3m(24尺)の塔であったと推定される。
 寺の境内からは奈良時代~江戸時代の瓦が出土しており、奈良時代以降、数度にわたる改修を受けていたことがわかる。
[参考:明石市立文化博物館HP]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市・平安京 大極殿を造営する際の「掘り込み地業」の遺構が出土

2010年05月25日 | Weblog
 京都市中京区の平安宮跡で、遷都(794年)前後に「大極殿」を造営する際に施されたとみられる掘り込み地業(ちぎょう)の遺構が市埋蔵文化財研究所の調査で見つかった。
 平安宮の大極殿は桓武天皇による遷都の際に建てられたが、1177年の火災以降は再建されなかった。絵巻物から平安後期の大極殿は東西53m、南北21mの単層だったと推定されているが、中世以降の開発で遺構などはほとんど確認できていない。
 同研究所が大極殿正殿の推定地の北西角を発掘したところ、全面で南北5m、東西13mにわたって地業跡が出土。深さは0・9m以上で、土を何層にも突き固める「版築」の工法が用いられていた。
[参考:読売新聞]

平安宮大極殿、「基礎工事」跡が出土(読売新聞) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇治市・平等院鳳凰堂 平安時代中期頃の地層からサルスベリの花粉を発見 通説を遡る時代に植栽?

2010年05月25日 | Weblog
 平等院と高原光・京都府立大大学院教授(森林科学)が24日、江戸時代初期頃に中国から日本に伝わったとされていたサルスベリの花粉が、平等院鳳凰堂(1052年創建)にある阿字池(あじいけ)に堆積した940年(平安時代中期)頃の地層から発見されたと発表した。
 サルスベリは、醍醐寺(京都市)の僧侶が、江戸初期の1604年に境内に植えられたと日記に記したものが最古の記録となっていたが、通説より600年以上も前から植栽されていたことになり、渡来時期が大幅に遡ることになる。
 また、サルスベリの花粉の飛散距離は数百m以内であることなどから、阿字池の南側に植栽されているサルスベリが、最古の系統になる可能性もあるとしている。
 平等院の場所は、9世紀末に源融(みなもとのとおる)、10世紀後半に源重信ら貴族が別荘を構えたとされる。その後の998年、藤原道長が買収し、その子頼通が寺とした。
[参考:時事通信、毎日新聞、産経新聞]

過去のニュース・情報
 2010.3.25 平等院鳳凰堂・「仏後壁」(国宝)に描かれた舞楽は延喜楽と判明
 2090.1.24 平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝)極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡市・石清水八幡宮 境内に大石内蔵助ゆかりの「太西坊」跡が出土

2010年05月25日 | Weblog
 市教委が21日、石清水八幡宮境内で赤穂藩士の大石内蔵助(1659-1703)ゆかりの僧坊「太西坊(だせいぼう)」跡が見つかったと石清水八幡宮境内遺跡調査専門委で明らかにした。
 太西坊跡は、江戸時代中期に作られたとされる絵図から位置は分かっていたが、今回の調査で、八幡宮の本殿裏で枯れ葉などに埋もれるようにして見つかった。本堂とみられる建物の痕跡部分には、直径約1mの花崗岩の礎石7基が6m四方に配置され、礎石の上部には柱がのせられるような四角いくぼみがあった。
 地誌「男山考古録」によると、赤穂浪士の討ち入りの頃、太西坊の住職は大石家の親類から養子に迎えられ、住職についた覚運(かくうん、1687-1754)。「仇討ちのことについて密かに手助けをした」などと書かれている。覚運の前の住職は内蔵助の実弟・専貞(?-1698)が務めており、大石家と石清水八幡宮との関係が浅くないことをうかがえる。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 石清水八幡宮
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒲郡市・上ノ郷城跡 物見台/物見櫓?の遺構が出土

2010年05月23日 | Weblog
 市教委が13日から第5次調査(~7月上旬)を行っていた上ノ郷城跡(蒲郡市神ノ郷町)の発掘調査で、物見台のような背の高い建物を支えたとみられる遺構が出土した。
 遺構は、大きめの礫(40―50cm)をぎっしりと敷き詰めた石積みで、縦約2m、横約4m、深さは約40cmがあった。
 これまで調査してきた城郭区域の東南の端にあり、三河湾の方向がよく眺められる位置にあることと、しっかりした工法などから、物見櫓の可能性もある。
 さらに、20―30cm大の石を寄せ集めた、幅約2mの石群が、先に出土した排水溝から帯状に南方向に伸びていた。ほかに土器片も見つかっている。
[参考:東日新聞]

過去の関連ニュース
 2009.7.24上ノ郷城跡 大量の盃が出土、鵜殿氏一族の結束の儀式に使用か
 2009.6.30上ノ郷城跡 虎口付近から金銅製飾り金具が出土
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする