長谷川等伯の作品の中でも、この「枯木猿猴図屏風」が大好きだという人が多いようである。京都・臨済宗龍寶山大徳寺蔵の牧谿作「観音猿鶴図」の構図がもとになったことが明らかだというが、手足の長さ・太さはボストン美術館蔵の伝雪舟等楊作「猿猴・鷹図」をも参考にしているに違いないとまで思ってしまう。
現在、東京国立博物館で開催されている『長谷川等伯』展で買い求めた図録に、「枯木猿猴図屏風」の説明が記されている。等伯60歳近い(1598年)頃の作品とみられている。もとは6曲1双であったらしい。 現在残っているのは、右隻の右側四扇分とみられるという。作品の表具背面に、妙心寺雑華院(ざっけいん)第十一世の暘山楚軾(ようざんそしょく)による墨書銘があり、
もとは前田利長(1562-1614)遺愛の屏風だったが、没後に江戸の蔭涼山済松寺(いんりょうざんさいしょうじ)祖心尼(そしんに)公に寄進され、うち一隻は妙心寺雑華院に移された。もう一隻は済松寺にとどめられたが、その後焼失。雑華院に移された方は、暘山楚軾により天保6年(1835)に掛幅に改装されたという。
という内容である。
この中で、特に注目するのは利長の没後に江戸の済松寺に寄進したということ。また、臨済宗妙心寺派の蔭凉山濟松寺の開基が祖心尼であることである。済松寺は江戸名所図会にも現れる大きな寺院である。
ところで、利長はどこに所蔵していたか。作品が完成した時期と利長が亡くなるまでの居城場所を追うと、以下のようになる。
1597 富山城に移り大修復をする。
1598 利家から家督を譲り受け金沢城に移る。(翌年金沢城を修復する。)
1605 利常に家督を譲り、富山城に隠居する。
1609 富山城が焼失したため、一時的に魚津城に移り、高山右近に命じて高岡城を築き移る。
1614 5月20日に高岡城で病死。
1615 高岡城は廃城となる。
となると、1598年に金沢城に移ったあたりに、作品を入手して飾ったのであろうか。そして、富山城、高岡城と作品も転々とし、利長が亡くなり、高岡城が廃城となったときに、養女であった祖心尼に形見分けとして授けたものなのか。
ところが、「利長の没後に江戸の済松寺に寄進した」ことについては、済松寺の完成が1654年ということ(後述)を考えると、その間の40年のことが問題になる。表具背面の墨書銘をそのまま受け入れて解釈をすると、作品は約40年もの間、金沢城あるいは小松城など前田家の関係建物にあり、済松寺建立後に寄進したことになる。
この後のことは、蔭凉山濟松寺発行(平成18年)の「資料 祖心尼」(前田恒治氏による論文『祖心尼公』(昭和12年)に加筆、修正を加えたもの)を主に参照してまとめることにする。
祖心尼の父は、織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えた牧村兵部大輔利貞である。利貞は天正18年、伊勢国岩手城主(度会郡)に封ぜられ、2万石を食んだ。稲葉一鉄の孫に当たり、利休七哲の一人としても名高い。簡単な略歴は、
1546 稲葉一鉄(良通)の子で稲葉重通の子として生まれる。外祖父牧村牛之助政倫の跡を継ぐ。
1584 高山右近の勧めを受けてキリシタンとなる。
1587 10月1日に開かれた豊臣秀吉が催した北野大茶会では、牧村利貞と前田利家が同席している。
1590 秀吉より伊勢国岩手城主(度会郡)2万650石に封ぜられる。
1583 実弟の妙心寺第79世一宙東黙(1552-1621)を開山として、臨済宗妙心寺雑華院(京都)を創建する。
1592 文禄の役で朝鮮に出征する。前田利家に祖心尼の養育を依頼する。
1593 朝鮮において病死。妙心寺雑華院に墓がある。
ここでは、前田家、雑華院、祖心尼との関係に注力したい。
なお、雑華院は臨済宗妙心寺の塔頭であり、祖心尼の父・牧村利貞(文禄2(1593)年7月10日死去)と母(慶長7(1602)年9月8日死去)の墓、他に利貞の弟・道通(1570-1608)と子の紀通(1603-1648)の墓もある。
次に、祖心尼(1588-1675)についてである。牧村利貞の娘で、江戸時代の幕府3代将軍・徳川家光に仕えた。名はおなあ。幼い時(6才)から前田家に養われ、成長の後、利長の養女となり、小松城代・前田長種の長子・直知(1586-1630)に嫁つぐ。2人の男子を産んだようである。直知は病で45歳に亡くなる。これより先に直知とは離縁し京都に住んだ。おそらく、雑華院に身を寄せたと思われる。京都にいる間に元・蒲生氏郷に仕えた町野幸和(1574-1647)に再嫁した。そして、1627年頃江戸に移る。同時期に江戸城大奥で権勢を振るった春日局の義理の姪にあたり、局に請われてその補佐役を務めた。
祖心尼の娘・たあの娘・振の局(自証院(注1)、祖心尼の養女となる)は家光との間に千代姫を生む。牛込榎木町の大友義延(1577-1612)、大橋龍慶(1582-1645)と続いた旧跡を家光から賜り、龍慶が亡くなった翌年(1646)に蔭涼山済松寺の建立を始めたようだ。
祖心尼を中心に関連の略歴をまとめてみる。
1588 牧村利貞の娘として生まれる。
1590 牧村利貞、秀吉より岩手城主(度会郡)2万650石に封ぜられる。
1592 牧村利貞、文禄の役に出征。前田利家に祖心尼の養育を依頼する。
1593 牧村利貞、朝鮮において病死。妙心寺雑華院に葬られる。
1593 祖心尼6才の時、前田利家に預けられ養育される。
? 前田利長(1562-1614)の養女となり、小松城代・前田長種の長子・直知(1586-1630)に嫁する。
1598 この頃、「枯木猿猴図屏風」が描かれる。
1605 祖心尼と前田直知との間に直正(1605-1631)が生まれる。
? 祖心尼と前田直知との間に直成(?-?)が生まれる。
? 祖心尼、直知と離縁。京都、おそらく妙心寺雑華院に身を寄せる。
1608 祖心尼、町村幸和に嫁ぐ。
1614 養父・前田利長、高岡城にて死去。(このとき、枯木猿猴図屏風は高岡城内か?翌年に高岡城は廃城となる。)
1627 町村幸和、江戸に至る。(この時祖心尼も同行か)
1637 祖心尼の娘・たあの娘・振の局(自証院、祖心尼の養女とする)は家光との間に千代姫を生む。
1639 千代姫、尾張義直の長子光友との間に婚儀が調い、尾張邸へ入輿する。
1640 振の局(自証院、注1)死去。現在、江戸東京たてもの園内に「旧自証院霊屋」が移築保存されている。
1642 祖心尼、初めて家光に召し出される。
1643 春日局死去
1646 大友義延、大橋龍慶の旧跡を家光から賜り、蔭涼山済松寺の建立を始める。
1647 町村幸和死去
1651 家光死去。済松寺内に堂宇が建立される。
1652 済松寺内に家光の新廟が造営される。
1654 済松寺の建築が成就する。
1655 山鹿素行の「年譜」に祖心尼が江戸を出発して京都に遊ぶことが記されている。(作者はおそらく雑華院に滞在したと推測)
1663済松寺はこれまで尼寺であったが、京都妙心寺雑華院第3代住職水南和尚を迎え開山として、これより以降男子の僧が継承することになった。
1675 延宝3年、祖心尼死去
1725 済松寺、火災にあう。
1763 済松寺、火災にあう。
1885雑華院に移された「枯木猿猴図屏風」右1隻は、暘山楚軾により天保6年(1835)に掛幅に改装された。
? 現在、この「枯木猿猴図屏風」は同じ妙心寺の別の塔頭・龍泉庵に飾られる。
済松寺は享保十年(1725)と宝暦十三年(1763)の2度の大きな火災にあっている。どちらかの火災で、「枯木猿猴図屏風」左1隻は焼失したのかもしれない。
[参考]
「資料 祖心尼」(前田恒治氏による論文『祖心尼公』(昭和12年)に加筆、修正を加えたもの)/蔭凉山濟松寺発行(平成18年)
没後四00年「長谷川等伯」図録 2010年2月23日発行/毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション
江戸名所図会
2010.2.26 没後400年 特別展 「長谷川等伯」
(注1)自証院(1619?-1640)
徳川家光の側室、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。振の局。22歳で亡くなった。天台宗鎮護山自證院圓融寺(市谷富久町)に葬った。この寺はもともと牛込榎木町にあったものを、振り局を葬るために新廟を作り移した。その後、明治40年尾張徳川家において、名古屋に改葬された。現在、先の霊廟数奇な運命を経て江戸東京たてもの園内(小金井市)に移築保存されている。
また、小泉八雲が明治29年に東京大学で教鞭をとるため、西大久保に移るまで5年余り、 当圓融寺の門前に邸を持ち住んでいた。明治37年、八雲の葬儀が当院において営まれ、遺骨は雑司ケ谷墓地に葬られている。
[参考:同上および「文学アルバム 小泉八雲」小泉時、凡(恒文社、2000年4月発行)]
現在、東京国立博物館で開催されている『長谷川等伯』展で買い求めた図録に、「枯木猿猴図屏風」の説明が記されている。等伯60歳近い(1598年)頃の作品とみられている。もとは6曲1双であったらしい。 現在残っているのは、右隻の右側四扇分とみられるという。作品の表具背面に、妙心寺雑華院(ざっけいん)第十一世の暘山楚軾(ようざんそしょく)による墨書銘があり、
もとは前田利長(1562-1614)遺愛の屏風だったが、没後に江戸の蔭涼山済松寺(いんりょうざんさいしょうじ)祖心尼(そしんに)公に寄進され、うち一隻は妙心寺雑華院に移された。もう一隻は済松寺にとどめられたが、その後焼失。雑華院に移された方は、暘山楚軾により天保6年(1835)に掛幅に改装されたという。
という内容である。
この中で、特に注目するのは利長の没後に江戸の済松寺に寄進したということ。また、臨済宗妙心寺派の蔭凉山濟松寺の開基が祖心尼であることである。済松寺は江戸名所図会にも現れる大きな寺院である。
ところで、利長はどこに所蔵していたか。作品が完成した時期と利長が亡くなるまでの居城場所を追うと、以下のようになる。
1597 富山城に移り大修復をする。
1598 利家から家督を譲り受け金沢城に移る。(翌年金沢城を修復する。)
1605 利常に家督を譲り、富山城に隠居する。
1609 富山城が焼失したため、一時的に魚津城に移り、高山右近に命じて高岡城を築き移る。
1614 5月20日に高岡城で病死。
1615 高岡城は廃城となる。
となると、1598年に金沢城に移ったあたりに、作品を入手して飾ったのであろうか。そして、富山城、高岡城と作品も転々とし、利長が亡くなり、高岡城が廃城となったときに、養女であった祖心尼に形見分けとして授けたものなのか。
ところが、「利長の没後に江戸の済松寺に寄進した」ことについては、済松寺の完成が1654年ということ(後述)を考えると、その間の40年のことが問題になる。表具背面の墨書銘をそのまま受け入れて解釈をすると、作品は約40年もの間、金沢城あるいは小松城など前田家の関係建物にあり、済松寺建立後に寄進したことになる。
この後のことは、蔭凉山濟松寺発行(平成18年)の「資料 祖心尼」(前田恒治氏による論文『祖心尼公』(昭和12年)に加筆、修正を加えたもの)を主に参照してまとめることにする。
祖心尼の父は、織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えた牧村兵部大輔利貞である。利貞は天正18年、伊勢国岩手城主(度会郡)に封ぜられ、2万石を食んだ。稲葉一鉄の孫に当たり、利休七哲の一人としても名高い。簡単な略歴は、
1546 稲葉一鉄(良通)の子で稲葉重通の子として生まれる。外祖父牧村牛之助政倫の跡を継ぐ。
1584 高山右近の勧めを受けてキリシタンとなる。
1587 10月1日に開かれた豊臣秀吉が催した北野大茶会では、牧村利貞と前田利家が同席している。
1590 秀吉より伊勢国岩手城主(度会郡)2万650石に封ぜられる。
1583 実弟の妙心寺第79世一宙東黙(1552-1621)を開山として、臨済宗妙心寺雑華院(京都)を創建する。
1592 文禄の役で朝鮮に出征する。前田利家に祖心尼の養育を依頼する。
1593 朝鮮において病死。妙心寺雑華院に墓がある。
ここでは、前田家、雑華院、祖心尼との関係に注力したい。
なお、雑華院は臨済宗妙心寺の塔頭であり、祖心尼の父・牧村利貞(文禄2(1593)年7月10日死去)と母(慶長7(1602)年9月8日死去)の墓、他に利貞の弟・道通(1570-1608)と子の紀通(1603-1648)の墓もある。
次に、祖心尼(1588-1675)についてである。牧村利貞の娘で、江戸時代の幕府3代将軍・徳川家光に仕えた。名はおなあ。幼い時(6才)から前田家に養われ、成長の後、利長の養女となり、小松城代・前田長種の長子・直知(1586-1630)に嫁つぐ。2人の男子を産んだようである。直知は病で45歳に亡くなる。これより先に直知とは離縁し京都に住んだ。おそらく、雑華院に身を寄せたと思われる。京都にいる間に元・蒲生氏郷に仕えた町野幸和(1574-1647)に再嫁した。そして、1627年頃江戸に移る。同時期に江戸城大奥で権勢を振るった春日局の義理の姪にあたり、局に請われてその補佐役を務めた。
祖心尼の娘・たあの娘・振の局(自証院(注1)、祖心尼の養女となる)は家光との間に千代姫を生む。牛込榎木町の大友義延(1577-1612)、大橋龍慶(1582-1645)と続いた旧跡を家光から賜り、龍慶が亡くなった翌年(1646)に蔭涼山済松寺の建立を始めたようだ。
祖心尼を中心に関連の略歴をまとめてみる。
1588 牧村利貞の娘として生まれる。
1590 牧村利貞、秀吉より岩手城主(度会郡)2万650石に封ぜられる。
1592 牧村利貞、文禄の役に出征。前田利家に祖心尼の養育を依頼する。
1593 牧村利貞、朝鮮において病死。妙心寺雑華院に葬られる。
1593 祖心尼6才の時、前田利家に預けられ養育される。
? 前田利長(1562-1614)の養女となり、小松城代・前田長種の長子・直知(1586-1630)に嫁する。
1598 この頃、「枯木猿猴図屏風」が描かれる。
1605 祖心尼と前田直知との間に直正(1605-1631)が生まれる。
? 祖心尼と前田直知との間に直成(?-?)が生まれる。
? 祖心尼、直知と離縁。京都、おそらく妙心寺雑華院に身を寄せる。
1608 祖心尼、町村幸和に嫁ぐ。
1614 養父・前田利長、高岡城にて死去。(このとき、枯木猿猴図屏風は高岡城内か?翌年に高岡城は廃城となる。)
1627 町村幸和、江戸に至る。(この時祖心尼も同行か)
1637 祖心尼の娘・たあの娘・振の局(自証院、祖心尼の養女とする)は家光との間に千代姫を生む。
1639 千代姫、尾張義直の長子光友との間に婚儀が調い、尾張邸へ入輿する。
1640 振の局(自証院、注1)死去。現在、江戸東京たてもの園内に「旧自証院霊屋」が移築保存されている。
1642 祖心尼、初めて家光に召し出される。
1643 春日局死去
1646 大友義延、大橋龍慶の旧跡を家光から賜り、蔭涼山済松寺の建立を始める。
1647 町村幸和死去
1651 家光死去。済松寺内に堂宇が建立される。
1652 済松寺内に家光の新廟が造営される。
1654 済松寺の建築が成就する。
1655 山鹿素行の「年譜」に祖心尼が江戸を出発して京都に遊ぶことが記されている。(作者はおそらく雑華院に滞在したと推測)
1663済松寺はこれまで尼寺であったが、京都妙心寺雑華院第3代住職水南和尚を迎え開山として、これより以降男子の僧が継承することになった。
1675 延宝3年、祖心尼死去
1725 済松寺、火災にあう。
1763 済松寺、火災にあう。
1885雑華院に移された「枯木猿猴図屏風」右1隻は、暘山楚軾により天保6年(1835)に掛幅に改装された。
? 現在、この「枯木猿猴図屏風」は同じ妙心寺の別の塔頭・龍泉庵に飾られる。
済松寺は享保十年(1725)と宝暦十三年(1763)の2度の大きな火災にあっている。どちらかの火災で、「枯木猿猴図屏風」左1隻は焼失したのかもしれない。
[参考]
「資料 祖心尼」(前田恒治氏による論文『祖心尼公』(昭和12年)に加筆、修正を加えたもの)/蔭凉山濟松寺発行(平成18年)
没後四00年「長谷川等伯」図録 2010年2月23日発行/毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション
江戸名所図会
2010.2.26 没後400年 特別展 「長谷川等伯」
(注1)自証院(1619?-1640)
徳川家光の側室、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。振の局。22歳で亡くなった。天台宗鎮護山自證院圓融寺(市谷富久町)に葬った。この寺はもともと牛込榎木町にあったものを、振り局を葬るために新廟を作り移した。その後、明治40年尾張徳川家において、名古屋に改葬された。現在、先の霊廟数奇な運命を経て江戸東京たてもの園内(小金井市)に移築保存されている。
また、小泉八雲が明治29年に東京大学で教鞭をとるため、西大久保に移るまで5年余り、 当圓融寺の門前に邸を持ち住んでいた。明治37年、八雲の葬儀が当院において営まれ、遺骨は雑司ケ谷墓地に葬られている。
[参考:同上および「文学アルバム 小泉八雲」小泉時、凡(恒文社、2000年4月発行)]