歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

栃木県壬生町・車塚古墳 2重の周溝を発見

2009年12月29日 | Weblog
 同町教委は27日までに、下野国の首長墓である車塚古墳(円墳、直径82m、7世紀~8世紀初め)で墳丘を取り巻く2重目の周溝を確認した。終末期古墳の2重周溝の確認は全国的にもまれで、県内では初めて。「県内の終末期古墳には2重周溝はない」という通説を覆す発見。
 1重目の周溝とその外側の周堤までの直径は約122m。今調査で墳丘西側の周堤外側に3カ所のトレンチを入れ、幅約6m、深さ約1mの2重目の周溝が見つかった。2重周溝の発見で墳域が拡大し、直径は約136mにも達する。
県内でも2重周溝が確認されているのは宇都宮市の笹塚古墳(5世紀中~後半)など同時代中期までの4古墳だけ。今回の2重周溝発見で、町終末期の他の古墳にも2重周溝存在の可能性が出てきたという。
[参考:下野新聞]

過去の関連ニュース
  2009.2.7. 宇都宮市・笹塚古墳 墓域総長が県内最大の前方後円墳と確認
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国河南省安陽市・曹操高陵 三国志の曹操の墓と認定

2009年12月28日 | Weblog
 河南省文物局は27日、安陽市安陽県安豊郷西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155-220年)の墓と断定したと発表した。
 墓は後漢末期のもので、前室と後室、四つの側室がある構造で、全体の面積は740平方m。墓室は20m四方で、墓道は全長39.5m、幅9.8m。最も深いところは地表から15m。
 曹操の墓については「うたぐり深い性格から、盗掘防止のため、72の偽の墓を造らせた」などのさまざまな伝説があり、曹操の墓と伝えられていものはほかにも多く、この「曹操高陵」を根拠のない伝承と疑う声も多かった。河南省文物局の陳愛蘭局長によると、墓の規模や状況などが当時の記録と合致し、内部の壁画も後漢末から魏にかけての時代のものと判断できた。
 墓は多くの盗掘にあっていたが、幸いにも重要な副葬品が残っており、銅帯鈎(どうたいこう)、鉄甲、鉄剣、鉄鏃、玉珠、水晶玉、瑪瑙玉、石圭、石璧、石枕、銘が刻まれた石牌、陶俑など、金、銀、銅、鉄、玉、石、骨、漆、陶、雲母などの多種の材質を使った副葬品が250点以上出土した。
 出土品の中には銘を刻んだ石牌が59点あり、銘文には副葬品の名称と数量が記録されている。その中の8点の圭形の石牌はきわめて貴重で、その中には「魏武王常所用挌虎大戟」「■常所用挌虎短矛」などの銘文があった。また、石枕の裏には「魏武王常所用慰項石」と刻まれていた。
 記録によると、曹操は「魏公」、次に「魏王」に封じられた。諡号は「武王」。曹操は後に「魏の武帝」と呼ばれるようになったが、「武帝」と称するようになったのは子の曹丕が後漢の献帝からの禅譲により皇帝に即位してからという。石牌にある「魏武王」は、曹操が死去した当時の史実に合致する。
 陵墓の墓室からは60歳前後の男性の遺骨と女性2人の遺骨が見つかった(注1)。男性の遺骨は、66歳で死去したとされる曹操と年齢面でも一致する。
[参考:河南省文物管理局HP、中国新聞網、時事通信、共同通信、日本テレビ、読売新聞、朝日新聞、産経新聞]

(注1)女性2人は50余歳と20余歳で、骨密度が比較的高く生前は栄養状態が良好だったと考えられることから、身分が比較的高い女性が殉死したとの説や、50余歳の方は卞皇后で、曹操死去10年後に同葬されたとの説が出ている。
[参考:中国新聞網、新华社]

「三国志」の英雄・曹操の墓を発見・日テレNEWS24
曹操の墓発見 三国志の英雄、遺骨も 中国河南省(産経新聞) - goo ニュース
三国志・曹操の墓を発見か 河南省発表「遺骨や碑文も」(朝日新聞) - goo ニュース
三国志・曹操の墓発見=副葬品に「魏武王」、遺骨も-中国河南省(時事通信) - goo ニュース
三国志の英雄、曹操の陵墓発見 中国河南省(共同通信) - goo ニュース
「三国志」の英雄・曹操の墓発見…中国河南省(読売新聞) - goo ニュース


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆の国市・笠石山遺跡 鉄剣と碧玉製管玉が出土し墳墓と判明

2009年12月27日 | Weblog
 伊豆の国市教委の大仁町史編さん委員会が再調査を進めていた笠石山遺跡(同市神島)でこのほど、鉄剣と碧玉製管玉が出土した。5世紀後半の古墳に埋葬される遺物で、これまで住居跡と考えられていた同遺跡が墳墓であることが判明した。
 沿海部の墳墓と特徴が似ており、狩野川水運を握っていた海人集団の埋葬地ではないかと推定している。
 同遺跡は葛城山の中腹に位置し、標高70mの岩陰にある洞窟遺跡で65年に発見された。崩れた巨岩が天井になった形状で、幅約5m、奥行き6m、高さは最大で約2m。旧大仁町教委などが翌年1966年に、洞窟東側半分を発掘調査した際、焚き火したことをうかがわせる赤土の塊が見つかり、住居跡とされた。
 18日から始まった今回の調査では未調査部分を発掘し、長さ24・5cm、幅4cmの鉄剣と首飾りの一部で大きさ3cmの「碧玉製管玉」を確認した。これらの遺物は住居跡からほとんど出土しないため墳墓と断定した。出土品から身分の高い人が埋葬された可能性が高いという。
 田方平野には洞窟遺跡を埋葬場所とする古墳は他に確認されていないが、このような特徴を持つ古墳は、千葉県や長野県などで同じ時代に海や川を利用した物資運送集団の首長とみられる洞窟埋葬が確認されている。
編さん委員会は、同遺跡近くの天野地区に住んでいた天野氏の祖先が埋葬され、海と通じる狩野川水運を握っていたとも考えられるとしている。
[参考:2009.12.24静岡新聞、12.26毎日新聞]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都府井手町・井手寺跡 南端の溝が見つかり、寺域は南北240mを確認

2009年12月25日 | Weblog
 井手町教委は24日、奈良時代中期(8世紀中ごろ)に左大臣橘諸兄が創建したとされる井手寺跡(同町井手)から、寺の南端にあたる築地塀と排水溝の跡が見つかったと発表した。これまでの調査と合わせ、寺域が南北約240mにわたることが確定した。
 町教委は2007年度から5年計画で、寺域画定に向けた発掘調査を行っている。本年度は10月から、寺跡南側の約80㎡を調べ、築地塀跡とみられる多数の瓦片と、溝跡を発見した。
 溝跡は幅約1m、深さ約30~40cm。築地塀の内側に沿うように東西に伸び、底から多数の石が出土した。また、溝の近くから、鞴(ふいご)に使われる素焼きの羽口の一部や鉄の滓、焼けた土なども見つかった。金属を加工するための、小さな工房跡らしい。
 南端の溝跡と、07年の調査で判明した北端の溝跡との距離は約240mで、町教委の推定通り寺域は約240m四方とみられる。
 10年度は東西方向の寺域画定を目指し、東側を調査する。
 25、26日の午前9時半~正午に現地公開される。
[参考:京都新聞、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平壌・大成山地区 高句麗時代の瞻星台遺跡を発掘 

2009年12月23日 | Weblog
 平壌中心の大成山一帯で建設中の平壌民俗公園敷地内で、高句麗時代に作られた瞻星台遺跡(첨성대 유적)が金日成総合大学の科学者らにより発掘された。
 遺跡は大成山蘇文峰南側麓の安鶴宮跡西門の西方約250mに位置している。
 石と石灰を固めて積んだ四角形の中心施設とその外部を囲んだ七角形の補助施設で構成されている。
 遺跡の規模は総敷地面積約380㎡、四角形中心施設の上段南北長さ7.5m,東西幅6.7m、下部基礎部分の南北長さ7.2m、東西幅6.7m。七角形の石施設は一辺長さが約9.1~9.2mで直径は約20.6m。
 高句麗の首都が平壌の大成山一帯であった427~586年に築造して利用した瞻星台遺跡とみられる。
 新羅の慶州瞻星台、高麗の開城満月台の瞻星台、李朝時代の瞻星台らと同じように王宮の西側に位置している。
[参考:2009.12.11朝鮮新報、2009.12.23朝鮮新聞、聨合ニュース]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿嶋市・塚原館跡 12/23一般公開および現地説明会

2009年12月23日 | Weblog
 戦国時代の剣術家、塚原卜伝(1489-1571)の居城とみられる塚原館跡が23日、初めて一般公開され、現地説明会が鹿嶋市沼尾の発掘調査現場で開かれる。
同館跡の発掘調査は、先月2日から続けていたもので、これまでに土塁跡や堀跡、三つの平たん地を確認。市教委は「卜伝の居城と断定はできないが、可能性は高い」と話している。
 遺構や遺物の推定年代は、15世紀半ばから16世紀後半で、卜伝が城主を務めた1533年から1557年までの時代と重なる。
 説明会は、午後1時半から3時半。
[参考:毎日新聞]

過去のニュースおよび情報
2009.11,28 鹿嶋市・塚原城 最有力地を発掘し戦国時代の遺構・遺物を発見 
 鹿嶋市教委は27日までに、戦国時代の剣術家・塚原卜伝(1489~1571)の養子先である塚原家が当主を務めたとされる塚原城(塚原館)の最有力地とされる鹿嶋市沼尾の発掘現場で、柱の遺構や陶器、銅製品などの遺物が見つかったことを明らかにした。今回出土した陶器や銅製品などの遺物は、15世紀半ばから16世紀末のものとみられている。
 これまで城跡の推定地だったが、戦国時代の城の存在が確認されたことになるという。周囲には同様の城はないことから塚原城の可能性は高まっているが、塚原家があったことを証明できる遺物は出ていなく、塚原城と断定はできないとしている。城跡は北浦を望む標高35mの台地部にあり、天然の要塞となっている。
 卜伝は鹿島神宮の神職の家に生まれ、幼少期に塚原家の養子となった。全国修業を終えて帰国し、44才(1533)の頃から68才(1557)の頃まで城主だったという。
 発掘調査は今冬で終了する。
[参考:茨城新聞]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵国分寺~武蔵府中熊野神社古墳散策

2009年12月23日 | Weblog
 武蔵国分寺跡から武蔵府中熊野神社古墳へは直線距離で約3kmです。
 残念ながら石室は見ることができません。府中市のホームページには、
 「市では、平成20年から古墳の保存整備工事を行ってきましたが、平成21年8月30日に竣工しました。上円下方墳の築造時の姿を、ぜひ、ご見学ください。古墳の外観はいつでも見学することができますが、横穴式石室は、保存のため埋め戻しをおこなっておりますので、内部の公開はしていません。境内にある現場事務所に仮設展示室を設け武蔵府中熊野神社古墳の解説パネル等を展示しています。」
としています。
 古墳の前にも説明板が設置されています。 

 武蔵府中熊野神社古墳の最寄り駅は南部線「西府駅」です。帰りがけに、「御嶽塚」も見てきました。
 途中、府中第五小学校の北東隅で発掘調査が行われていました。現場のお知らせ看板が見当たらず、何の発掘調査かわからないので、調査現場にいた方に聞いたところ奈良から平安時代にかけての遺跡ということでした。(それ以外は不明)

2011.3.7
 府中市郷土の森博物館で開かれている特別展「発掘!府中の遺跡2010 古代国司館と家康御殿」に行ってきました。そこで購入したパンフレットに「西府の中世遺跡」[1477次調査]が載っていました。すなわち、前述の府中第五小学校の北東隅で行われていた発掘調査のことでした。まだ、遺跡名がついていないようです。
 パンフレットでは、「中世の遺跡の姿をあらわしてきている」とし、「おびただしい数の建物の柱穴が見つかった。」と記しています。
 西府駅前の「御嶽塚」(直径25mの円墳)の前に立つ説明板には、
 「(略)、その後、中世になると屋敷を壕で囲む約200m四方の区画の中心に位置することになり、さらに、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったと考えられます。(略)」
 と記されており、これらから、中世のイメージがぼんやりと浮かんでくるような気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵国分寺散策 武蔵国分寺、本村八幡神社ほか

2009年12月23日 | Weblog
2009.12.23追記分
武蔵国分寺跡僧寺地区 遺構発掘現場現地見学会12/23 
 そういえば、武蔵国分寺跡資料館で、今日23日に講堂跡の遺構発掘現場現地見学会のチラシがおいてありました。詳細は書かれていませんでしたが、昨日の東京新聞の記事にありました。
 武蔵国分寺の僧寺地区を、2028年頃を目途に歴史公園として整備する方針の国分寺市は、昨年から今年にかけて金堂の北側に位置する講堂の発掘調査を行っており、九世紀中後期ごろに建て直された結果、全国の国分寺でも最大級の規模になっていたことなどが判明したという内容です。
 一番右の写真(拡大・南→北)の右側にブルーシートが掛かっている部分が、多分その場所と思われます。
 見学会は午前十時と午後二時からそれぞれ約一時間程度。僧寺金堂跡に集合。
[参考:2009.12.22東京新聞]

 自転車で武蔵国分寺から、武蔵府中熊野神社古墳を見学してきました。
 国分寺駅南口付近の標高約(以下A=)75mほどでしょうか。付近は国分寺崖線にかかり、かなり起伏が激しいです。国分寺駅から西の西国分寺方向へ進み、武蔵国分寺公園(A=80m)から南へ向かいます。こもれび公園(A=79m)を越えると、武蔵国分寺の最北にある薬師堂(A=76m)がありました。境内の説明版によると、
 「建武二年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺(注1)の金堂跡付近に建立されたと伝えられる。その後、享保元年(1716)に修復されたが、宝暦年間(1751~1763)に現在地に再建された。」と記されています。
 堂内には、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作の国指定重要文化財・木像薬師如来坐像(高さ191.5cm)が安置されています。さらに南へ進もうとすると、参道は長く急な階段になっており、やむを得ず遠回りして自転車で向かいます。すると直ぐ南西に本村八幡神社がありました。祭神は応神天皇、創設は元和年間(1615~1624)ともいわれるそうです。
 急な坂道を下り、先ほどの階段(参道)の先に着きますと市指定重宝・仁王門(A=65m)がありました。説明板には、
 「宝暦年間(1751~1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9m、奥行きが3.6mあります。」と記されています。さらに、旧薬師堂に使用された材料を再利用したことがうかがえ、門の左右には、享保三年(1718)に造立された阿吽二体の仁王像が安置されるとしています。
 そこより、道なりに東へ50mほど進むと北側に、南を正面にした享保18年(1733年)建立の本堂(A=64m)がありました。本堂の南には市指定重宝・楼門(間口3間×奥行き2間)が立っています。説明板には、「この門は、米津出羽守田盛の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建築物です。 *米津出羽守:出身地は三河国碧海郡米津村で出羽守田盛のときに久留米村前沢を知行地とする。石高は、1万五千石 大阪定番を勤める。」と記されています。
 本堂の西には万葉植物園が、東には今年10月18日にオープンしたばかりの武蔵国分寺跡資料館があります。お堂の前の道はお鷹の道と呼ばれ、途中一里塚の交差点を経由してJR国分寺の駅へ通じています。徒歩で約20分とか。
 さて、武蔵国分寺資料館では東京都指定文化財の銅造観世音菩薩立像ほか出土品が展示されているほか、来年6月27日まで「住田古瓦コレクションの世界」として200点近くの全国の国分寺や寺院の鐙瓦、文字瓦などが展示されています。一見の価値ありです。その中で、特に気になるものを列記してみると、
  五葉単弁蓮華文鐙瓦: 上野国分寺(上野国)
  五葉複弁蓮華文鐙瓦: 岡寺(大和国)
  七葉単弁蓮華文鐙瓦: 武蔵国分寺(武蔵国)(注2)
  七葉複弁蓮華文鐙瓦: 虚空蔵寺(豊前国)、出雲国分寺(出雲国)、弥勒寺(豊前国)
 でした。五葉ないし七葉のものだけを採り上げました。
 武蔵国分寺資料館を後にして、さらに南側の国分僧寺跡そして西にある国分尼寺跡を見学して、武蔵野府中熊野神社古墳へ向かいました。

(注1)国分寺は僧寺と尼寺のセットで置かれた。
(注2)文化財資料展示室に展示。(住田コレクションとは別物)

過去の関連ニュース・情報
 相模国分寺(相模国)珠文縁五葉単弁蓮華文
 2008.11.26 武蔵国分寺跡 南大門・講堂地区見学会
 2009.2.28 武蔵国分寺跡 「講堂」の基壇に瓦積の外装
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島市・安曇川河原で石柱発見 舫石か

2009年12月22日 | Weblog
 高島市朽木村井の安曇川の河原で、同川を航行する船やいかだを係留した舫(もやい)石と考えられる石柱が見つかった。周辺には奈良時代から若狭と京を結んだ鯖街道や平安期の庭園遺跡「池の沢遺跡」がありその関連性に地元の注目を浴びている。
 石柱は石英閃緑岩製で、地表に現れている部分が高さ約80cm、直径約40cmで円筒形。かなり風化が進んでいる。
 中世に統治した朽木氏が、南方警備のために築いた砦か船だまりの一部ではないかとの見方や、対岸には貴族が曲水の宴を催したと考えられる園池を伴った「池の沢遺跡」があることから、川で船遊びをしていた後との見方などがある。
[参考:京都新聞]

過去のニュース
 池の沢遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国・京畿安城長院里遺跡 百済が作り新羅が再利用した古墳を発見

2009年12月22日 | Weblog
 韓国文化遺産研究院は22日、安城竹山面長院里(안성 죽산면 장원리)一帯を調査した結果、横穴式石室墳(횡혈식 석실분)3基をはじめとして、三国時代初期の断面がフラスコ形あるいは円筒形のくぼみ遺構や、三国時代の石槨墓、高麗・朝鮮時代土壙墓を確認したと発表した。
 このうち、石室墳3基は全て漢城百済時代(BC 18~AD 475)末期に築造されたが、100~150年ほど過ぎた後に新羅人らが再利用した墓である可能性が大きいとみられる。
 玄室内部土層面を確認した結果、百済系遺物が安置された床面に約10㎝ほど覆土して2次整地面を設けて、その床面に新羅系遺物が置かれていることが確認された。
 石室墳3号墳では、玄室底面から百済系遺物の卵形土器3点が壊れたまま確認された一方、これより約10㎝ほど上の床面から付加口緣台付長頸壺をはじめとする新羅系土器が収集された。
 これら石室墳は、丘陵の中腹にあり、玄室は両側壁面が外側に若干飛び出した方形形状で、天井はなくなっているが穹形だったとみられる。外部から墓内側に通じる羨道は半地下式であり、玄室長軸中央に連結された構造のようである。
[参考:聨合ニュース]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東近江市・相谷熊原遺跡 愛知川上流で初の縄文時代の遺跡を発見 土器棺墓など出土

2009年12月18日 | Weblog
 県文化財保護協会が17日、相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡(同市永源寺相谷町)で、縄文時代晩期前半(紀元前1000年頃)の「土器棺墓」14基などの遺構が出土したと発表した。10基以上の土器棺墓が一度に見つかったのは県内では北仰西海道遺跡(高島市今津町)と「滋賀里遺跡」(大津市)の2例しかなく、近畿圏内でも数例しかないという。また、愛知川上流域での縄文時代の遺跡の発見は今回が初めてという。
 一帯は鈴鹿山脈と湖東平野を結ぶ愛知川上流域で、東海地方で作られたとみられる石鏃や磨製石斧などの遺物も見つかったことから、他地域との交流の拠点的な集落だった可能性があるとする。
 土器棺は高さ40~50cm、口径30~40cmの深鉢形で、土器の破片や小石などで蓋がされていた。中に人骨はなかったが、埋葬されていた土から細粒化した骨片を確認。また、周辺で祭祀に使ったと推定される土器棺のミニチュア(高さ3・8cm、口径5・5cm)なども見つかり、墓と判定した。
 このほか、石蒸し調理用に小石を敷きつめたとみられる縄文時代前期(紀元前4000年頃)の集石遺構や、炉跡と想定される同時代後期(同2000年頃)の配石遺構も検出した。
 20日(日)午後1時30分から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、びわ湖放送]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡京市・伊賀寺遺跡 新たに竪穴式住居跡 7基を発掘

2009年12月18日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが17日、伊賀寺遺跡(同市下海印寺下内田)の発掘調査で、縄文時代中期から後期(約4500~3500年前)の竪穴式住居跡7基などが見つかったと発表した。
 うち5基は中期のもので、大きい住居跡は約7m四方あり、煮炊きに使う炉の跡も見つかった。また別の場所から、約3500年前の幼児や胎児を埋葬したとみられる「埋め甕」や骨の細片なども出土した。
 同遺跡から出土した縄文時代の竪穴式住居跡数は7基を加えると計21基に達し、府内最多で、2番目の森山遺跡(城陽市)の8基を大きく上回る。
 住居跡21基の内訳は、約4500年前が9基、約3500年前が10基、どちらか判別できないのが2基となる。
 19日午前10時半から、現地説明会が開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

過去のニュース
  2009.8.6 伊賀寺遺跡 縄文後期の玉の製作拠点を確認
  2008.9.19 長岡京跡 伊賀寺遺跡 現地説明会開催予定
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五反田散策・美術館めぐり 畠山記念館ほか

2009年12月17日 | Weblog
 先週木曜日(12月10日)に、五反田~白金周辺の美術館巡りをしてきました。五反田付近を散策するのは昨年6月9日以来です。前回は、折りたたみ自転車を携行してのものでしたが、今回は友人と一緒のため、歩きでした。畠山記念館、東京都庭園美術館、国立科学博物館附属自然教育園そして松岡美術館の4ヶ所を回りました。都内でも海に近い場所なため、また天気にも恵まれて、紅葉もまだ見頃でした。紅葉の綺麗さでは畠山美術館、美術品の関心度では「古伊万里」多数展示の東京都庭園美術館でした。
 その中で、畠山記念館について創立などの歴史についてまとめてみました。

 畠山記念館(写真、港区白金台2-20-12)は五反田駅から約1km、池田山公園から300m東、地形からみるとひとつ谷を越えて急坂を上ったところにあります。入口は観音扉の木の門になっていて、扉には畠山氏の家紋「二つ引両」が大きく描かれています。(写真)
 創立者畠山一清(いっせい、1881-1971)氏は、㈱荏原製作所創業者。そして、能登国主畠山氏の後裔だそうです。能登畠山氏は応永5年(1408)初代畠山満慶(みつのり、?-1432)から始まり、天正5年(1576)11代畠山義隆(1556-1576)が上杉謙信に七尾城を攻められ、その間に急死し、翌年、城が陥落し能登畠山氏が滅亡します。義隆の後、12代目として春王丸あるいは義春がいたとの説がありますが定かではありません。館内に置いてあったパンフレット「史跡七尾城跡」では、11代目を最後の当主としています。
8代目当主義続の子(次男?)に義春(1563-1643)がいます。上の義春との同一説もあるそうです。こちらの義春は上杉謙信の養子となり、一時直江兼続(1560-1620)とは養子同士の兄弟になるわけです。江戸時代に入り、徳川家康の命で畠山姓に復し、その後、次男・長員が旗本・高家上杉家となり、三男・義真は旗本・高家畠山家となりました。
 畠山一清氏が何代目の当主の後裔かはわかりません。
 昭和の初めに、旧寺島宗則(1832-93)伯爵邸のあった白金猿町の土地約三千坪を購入、私邸「般若苑」を造営し、昭和18年に開苑したとあります。その後、昭和39年10月に(財)畠山記念館が開館します。
 入口の門から入って直ぐ左側に「亀岡十勝の詩碑」と刻まれた石碑(案内板)が立っています。「亀岡」(注1)の意がわかりません。この碑には、
 「この林園は、寛文九年(1669)薩摩の島津藩が幕府から一万坪の地を下付されたもので、二十六代藩主島津重豪(しげひで、1745-1833)のとき隠居して別荘を営み、苑内の景勝を選んで亀岡十勝と称しました。
 ここに、紀州大納言以下九名の文人諸侯および林大学頭による七言律詩の詩碑が建てられたのは、文化元年(1804)でした。
 明治維新の後、参議寺島宗則(1832-1893)の所有となり、明治十三年六月九日、明治天皇が、行幸して観能されたので、聖蹟に指定されました。」
 と刻まれています。隣に、詩碑が建っていますが、判読できる文字が数少なくなってしまっています。
 ここで、うっかりとしそうなのが、寺島宗則が薩摩藩士であったために、その縁で薩摩藩の土地を買い上げたと直ぐに解釈しそうなところ。19世紀半ばの江戸地図には、この場所が宇土藩細川家の屋敷になっています。
たとえば、
 天保改正御江戸大繪圖(天保14年1843版)、永大御江戸繪圖(嘉永元年1848版)と目黒白金邊圖(嘉永7年1854版)には細川豊前守、そして芝高輪邊繪圖(嘉永3年1850版)と同(安政4年1858版)には細川山城守と記されています。作成時期からみて、細川豊前守とは宇土藩9代藩主(1826-51) 細川行芬(1811-76)であり、細川山城守とは同10代藩主(1851-62)細川立則(1832-88)と考えられますが、細川立則が山城守になったのは1851年とされるので、若干ずれが生じるのが懸念材料です。
 参考:
  宇土藩8代藩主(1818-26)細川立政(1804-60) 越中守
  宇土藩11代藩主(1862-70)細川行真(1862-1902) 1863大和守、1864豊前守
 当時の宇土藩は非常に財政不安があり、家屋敷を薩摩藩から借りていたとも考えられます。
 それにしても、庭は広くはないですが、丁寧に手入され、紅葉がきれいでした。

(注1) 亀岡:京都の亀岡との関係も考えたのだが、そうではないらしい。曲線状の急坂を上るなどの地形が亀のような形からとったそうな。

過去の関連記事
  2008.6.9五反田散策 もうひとつの薬師寺展と三猿庚申塔

追記 2011.11.30
 読売新聞11月30日付朝刊で、「寺島宗則 武士姿の写真発見」として、寺島宗則(1832-93)が武士姿で撮った写真や、駐米大使だった1832~83年に家族へ送った手紙などがみつかったとの記事があった。古書店で発見されたらしい。刀を手にして正座する名刺サイズの写真の裏には、元治2年(1865)に薩摩藩の留学生を率いて渡英する直前に長崎で撮影したらしい。
写真の裏書には書いていなかったのかもしれないが、文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した上野彦馬が撮影した可能性があると思われる。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・西大寺 8世紀後半の「くじ引き」の木簡を発見

2009年12月15日 | Weblog
 西大寺旧境内で、寺の職員が賭け事に使ったとみられるくじ引きの木簡(長さ約7~10cm、8世紀後半) 3点が市埋蔵文化財調査センターの調査で見つかった。
 「法王尓成(ほうおうになる)」「沙弥(注1)尓成(しゃみになる)」などと書かれており、「法師尓成」と読める一点には、裏に「此取人」と添えられていた。「これを取る人は法師に成る」の意味という。
 一番くじとみられる「法王」は僧道鏡を指すとみられる。
(注1) 沙弥は正式な僧になっていない出家者
[参考:奈良新聞、産経新聞]

過去のニュース
  2009.12.3 西大寺 旧境内から石上宅嗣の名や肩書きが書かれた木簡を発見
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊達市・宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 建物跡を囲む溝と石組みが出土

2009年12月12日 | Weblog
 宮脇遺跡(伊達市霊山町大石字宮脇)からは、2007年度に、新たな礎石建物跡1棟と掘立建物跡1棟が発見され、霊山寺跡とほぼ断定された。礎石建物跡には火災で倒壊した可能性があり、大量の瓦が出土していることから、当時では珍しい総瓦葺きの建物だったと推定された。
 2008年度は、新たに寺院の生活関連施設とみられる室町時代の建物跡が見つかり、礎石が確認され茶碗や茶壺の一部が出土した。
 今年度は、礎石建物跡を取り囲むような施設が見つかり、同市教委は今回の建物跡が本堂などの主要施設である可能性が強まったとしている。調査では建物跡の南側と東側を囲む掘割のような溝と石組みが見つかった。また、池のような跡も見つかっており、さらに規模などの調査を進める。
 12日午後一時半から一般公開が行われた。
[参考:福島民報]

過去のニュース
  2008.10.29宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 発掘調査現地説明会開催案内
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする