先週木曜日(12月10日)に、五反田~白金周辺の美術館巡りをしてきました。五反田付近を散策するのは
昨年6月9日以来です。前回は、折りたたみ自転車を携行してのものでしたが、今回は友人と一緒のため、歩きでした。畠山記念館、東京都庭園美術館、国立科学博物館附属自然教育園そして松岡美術館の4ヶ所を回りました。都内でも海に近い場所なため、また天気にも恵まれて、紅葉もまだ見頃でした。紅葉の綺麗さでは畠山美術館、美術品の関心度では「古伊万里」多数展示の東京都庭園美術館でした。
その中で、畠山記念館について創立などの歴史についてまとめてみました。
畠山記念館(写真、港区白金台2-20-12)は五反田駅から約1km、池田山公園から300m東、地形からみるとひとつ谷を越えて急坂を上ったところにあります。入口は観音扉の木の門になっていて、扉には畠山氏の家紋「二つ引両」が大きく描かれています。(写真)
創立者畠山一清(いっせい、1881-1971)氏は、㈱荏原製作所創業者。そして、能登国主畠山氏の後裔だそうです。能登畠山氏は応永5年(1408)初代畠山満慶(みつのり、?-1432)から始まり、天正5年(1576)11代畠山義隆(1556-1576)が上杉謙信に七尾城を攻められ、その間に急死し、翌年、城が陥落し能登畠山氏が滅亡します。義隆の後、12代目として春王丸あるいは義春がいたとの説がありますが定かではありません。館内に置いてあったパンフレット「史跡七尾城跡」では、11代目を最後の当主としています。
8代目当主義続の子(次男?)に義春(1563-1643)がいます。上の義春との同一説もあるそうです。こちらの義春は上杉謙信の養子となり、一時
直江兼続(1560-1620)とは養子同士の兄弟になるわけです。江戸時代に入り、徳川家康の命で畠山姓に復し、その後、次男・長員が旗本・高家上杉家となり、三男・義真は旗本・高家畠山家となりました。
畠山一清氏が何代目の当主の後裔かはわかりません。
昭和の初めに、旧寺島宗則(1832-93)伯爵邸のあった白金猿町の土地約三千坪を購入、私邸「般若苑」を造営し、昭和18年に開苑したとあります。その後、昭和39年10月に(財)畠山記念館が開館します。
入口の門から入って直ぐ左側に「亀岡十勝の詩碑」と刻まれた
石碑(案内板)が立っています。「亀岡」(注1)の意がわかりません。この碑には、
「この林園は、寛文九年(1669)薩摩の島津藩が幕府から一万坪の地を下付されたもので、二十六代藩主島津重豪(しげひで、1745-1833)のとき隠居して別荘を営み、苑内の景勝を選んで亀岡十勝と称しました。
ここに、紀州大納言以下九名の文人諸侯および林大学頭による七言律詩の
詩碑が建てられたのは、文化元年(1804)でした。
明治維新の後、参議寺島宗則(1832-1893)の所有となり、明治十三年六月九日、明治天皇が、行幸して観能されたので、聖蹟に指定されました。」
と刻まれています。隣に、
詩碑が建っていますが、判読できる文字が数少なくなってしまっています。
ここで、うっかりとしそうなのが、寺島宗則が薩摩藩士であったために、その縁で薩摩藩の土地を買い上げたと直ぐに解釈しそうなところ。19世紀半ばの江戸地図には、この場所が宇土藩細川家の屋敷になっています。
たとえば、
天保改正御江戸大繪圖(天保14年1843版)、永大御江戸繪圖(嘉永元年1848版)と目黒白金邊圖(嘉永7年1854版)には細川豊前守、そして芝高輪邊繪圖(嘉永3年1850版)と同(安政4年1858版)には細川山城守と記されています。作成時期からみて、細川豊前守とは宇土藩9代藩主(1826-51) 細川行芬(1811-76)であり、細川山城守とは同10代藩主(1851-62)細川立則(1832-88)と考えられますが、細川立則が山城守になったのは1851年とされるので、若干ずれが生じるのが懸念材料です。
参考:
宇土藩8代藩主(1818-26)細川立政(1804-60) 越中守
宇土藩11代藩主(1862-70)細川行真(1862-1902) 1863大和守、1864豊前守
当時の宇土藩は非常に財政不安があり、家屋敷を薩摩藩から借りていたとも考えられます。
それにしても、庭は広くはないですが、丁寧に手入され、
紅葉がきれいでした。
(注1) 亀岡:京都の亀岡との関係も考えたのだが、そうではないらしい。曲線状の急坂を上るなどの地形が亀のような形からとったそうな。
過去の関連記事
2008.6.9五反田散策 もうひとつの薬師寺展と三猿庚申塔
追記 2011.11.30
読売新聞11月30日付朝刊で、「寺島宗則 武士姿の写真発見」として、寺島宗則(1832-93)が武士姿で撮った写真や、駐米大使だった1832~83年に家族へ送った手紙などがみつかったとの記事があった。古書店で発見されたらしい。刀を手にして正座する名刺サイズの写真の裏には、元治2年(1865)に薩摩藩の留学生を率いて渡英する直前に長崎で撮影したらしい。
写真の裏書には書いていなかったのかもしれないが、文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した上野彦馬が撮影した可能性があると思われる。