歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市・新沢千塚古墳群 宣化天皇陵の南西に未知の前方後円墳を発見

2011年06月28日 | Weblog

(左)新沢千塚古墳群の一角 (右)現地の説明板。新沢千塚古墳群map、今回発見された前方後円墳はmapの右下のさらに下(南方向)にある。

 県立橿原考古学研究所と測量会社「アジア航測」が28日、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群(4世紀後半~6世紀中頃)で、ヘリコプターから3D測量を実施した結果、未知の前方後円墳(全長42m)が見つかったと発表した。
 新たに発見された前方後円墳は、鳥屋(とりや)ミサンザイ古墳(宣化天皇陵、全長140m)の南西で倭彦命墓の間に挟まれた竹薮にあった。 墳丘が低いため古墳と認識されていなかった。



キーワード: 鳥屋ミサンザイ古墳
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明日香村・キトラ古墳 石室内考古学調査結果を発表、石室内に基準線に利用した20本の「朱線」

2011年06月25日 | Weblog
 文化庁が24日、今月13日から明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室内で実施していた考古学調査で、その調査結果を発表した。

 石工が石材を組み合わせる際の基準線に利用した「朱線」(幅1~3mm)が、今回計14本見つかり、これまでを含めて計20本見つかった。 内訳は、天井に6本、床面に3本、壁面に11本である。 最長のものは、床面中央に南北に引かれていた約2.4m。 多くは四神図などの壁画を剥ぎ取った漆喰の下から見つかり、ほとんどが石材を縁取るように引かれていた。 天井には石材をドーム状にくり抜く基準線のような朱線もあった。 石材を必要な大きさに削る際や、別の石材と組み合わせる際の目安にしていたと考えられる。
 同時期の壁画古墳として知られる同村の高松塚古墳(8世紀初め)でも同じような朱線が確認されている。

 また、床面に塗られた漆喰の状況を調べた結果、棺台の痕跡が残り、東西0.7m、南北約2mと推定した。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.13 明日香村・キトラ古墳 石室内の考古学調査を開始
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南国市・西野々遺跡 約1700年前の高知県内最大級の竪穴住居跡

2011年06月24日 | Weblog
 南国市教委は23日、同市大乙の西野々遺跡の一角、香長中学校の武道館建設予定地で弥生時代後期から終末頃(約1700年前)とみられる県内最大級の竪穴住居跡が出土したと発表した。
 今年の4月から発掘調査をしたところ、竪穴住居14棟が見つかった。円形の1棟は、一部だが復元推定直径11・5mで、全体の規模は約31坪(103㎡)となる。 他の13棟は、そのほとんどが1辺2~5mの「隅丸方形」。
 周辺からは弥生時代の土器が多数出土し、大阪の河内平野から持ち込まれたものも見つかった。
 現地説明会が25日(土)午前10時~11時30分に開かれる。
[参考:高知新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.8.23南国市・関遺跡 奈良時代の灌漑用水路発見
 関遺跡の約500m西に、倉庫群があった西野々遺跡がある。

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竹原市・小迫遺跡、岡野原遺跡 3世紀~6世紀頃の市内初の竪穴式住居跡を発見

2011年06月23日 | Weblog
 広島県教育事業団による発掘調査で、竹原市田万里町の2遺跡から竪穴住居跡が7基出土した。 内訳は、小迫遺跡で弥生時代後期(3世紀)とみられる1基、岡野原遺跡で古墳時代(6世紀)とみられる6基。 竪穴住居跡の出土は市内初という。
 現地見学会が25日(土)午後に1時半~3時半に開かれる。集合場所は田丸里公民館。
[参考:中国新聞、広島県教育事業団HP]

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厚木市・高松山 試掘調査で前方後円墳の可能性、 25日に現地説明会

2011年06月23日 | Weblog
 厚木市教委は22日、同市愛名の高松山(146・5m)山頂で実施していた試掘調査(5月30日~6月20日)で、北側の後円部(地表から深さ約1・7mの地中)から、木棺の素材となる炭化物が見つかり、山全体が前方後円墳である可能性もあるという。
 測量結果によると、高松山は南北60~65m、東西30~35mで、形状は前方後円形を示しており、四世紀ごろ、地域を支配していた豪族の墓とも考えられるという。
 現地説明会が、25日(土)午後2時から開かれる。
[参考:神奈川新聞、東京新聞]

追記
2012.2.26 古墳の可能性探る、高松山の試掘結果報告/厚木
 前方後円墳が厚木市愛名の高松山山頂に存在した可能性を探るため、市教育委員会などが実施した試掘調査の結果検討会が25日、同市温水のぼうさいの丘公園研修室で行われ、市民ら約100人が参加した。
 調査は、予備調査を経て昨年5~6月に行われた。
 古墳である可能性はあるが、決定的な証拠がみつかっていない状況。
[参考:神奈川新聞]



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江原華川郡・居礼里遺跡 74坪の規模の青銅器時代の住居跡発見

2011年06月22日 | Weblog
 韓白文化財研究院と芸脈文化財研究院は22日、華川居礼里遺跡を調査し、青銅器住居跡とその関連竪穴遺構合わせて約380基、同時代の周溝石棺墓1基、新石器住居跡1基、三国時代横穴式石室墳1基など約400基の遺構を確認したと発表した。
 特に21号住居跡は長さ26.3m、幅9.3m、内部面積244㎡(74坪)の大型で、忠南燕岐郡幸福都市予定地で発掘された長さ32.6m、幅9.4m(93坪)に続いて2番目の大きさであった。
 時期は、内部から石床囲石式炉跡や突帶文土器をはじめとする多様な遺物が出土し、青銅器時代早期に属するとみられる。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.12.7 華川・居礼里遺跡 青銅器時代の多数の住居跡と百済墓とみられる三国時代横穴式石室墳1基が見つかる
 2010.11.4 華川・原川里遺跡 住居跡から馬具類・武器類が多量に出土、大規模百済の村遺跡は辺境前哨基地?
 2010.9.15 華川・原川里遺跡 200年代の大規模百済の村遺跡を発掘

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 原川里遺跡は、3-4世紀頃漢城百済期には華川一帯は、北あるいは西北側の楽浪、高句麗、靺鞨との境界地域であり、百済の西北方地域進出のための橋頭堡(きょうとうほ)であり、軍事前哨基地であった可能性があるとしていた。
 居礼里遺跡は、原川里遺跡に対して北漢江の東の対岸にあり、東南方向に約2.5kmの距離にある。主に青銅器時代前期~中期の遺構が多いが、三国時代横穴式石室墳1基が見つかっている。これは百済墓である可能性が高いとしている。


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1721年製ヴァイオリン「レディ・ブラント」が英国のオークションで12.75億円で落札、震災支援基金に

2011年06月22日 | Weblog
 英ロンドンで20日、東日本大震災の被災者支援を目的に行われた競売で「レディ・ブラント(Lady Blunt)」と名付けられたヴァイオリンの名器「ストラディバリウス」が980万ポンド(約12億7500万円)で落札された。 オークション主催者によると、これまでに競売で落札されたストラディバリウスの最高額の4倍以上に当たる価格で史上最高額という。
 ヴァイオリンは1721年に製作され、ほぼ未使用。英国の詩人バイロンの孫娘レディ・アン・ブラントが30年間所有していたもので、「レディ・ブラント」と名付けられた。 日本音楽財団が2008年に購入した。
 オークションの売却収入は震災復興支援に充てられる。
 ピアニスト・江口玲さんのホームページ”Dear America, Akira Eguchi“にも、「レディ・ブラント」を手にしたことが紹介されていた。
[参考:共同通信、時事通信、毎日新聞、AFP、"Dear America, Akira Eguchi"HP、日本音楽財団HP]
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益田市・金山古墳 造出し付き円墳(18m)で前方部模様の突出部は後世の付け足し

2011年06月22日 | Weblog
 島根県より20日、標題についての報道発表資料が公開された。
 5月10日から26日に現地調査を行った結果、前方後円墳の可能性が高まった金山古墳は、直径18m程度の円墳で、前方部の様な突出部は、後世の付け足しである可能性が高いことがわかった。さらに南西側裾に造り出しがつく可能性があり、裾には周溝が巡ると考えられるという。
 時期は、スクモ塚古墳(全長100mの前方後円墳の可能性、5世紀)と同時期または後続する5世紀頃の小地域首長の墓とみられる。
 調査成果の報告会が、6月26日(日)午後3時より、久城会館(益田市久城町)で行われる。
[参考:島根県HP→報道発表資料]

過去の関連ニュース・情報
 2010.4.28 益田市・金山古墳 前方後円墳の可能性 5月に発掘調査
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奈良市・興福寺 南大門跡から一昨年出土した壺の鎮壇具が「筬目」のある薄い絹織物で幾重にも覆われていた

2011年06月21日 | Weblog
 奈良文化財研究所の調査で、興福寺南大門跡で2009年11月に出土した奈良時代(8世紀前半)の地鎮に使う須恵器の壺(口径18.7cm、高さ15.5cm)に入れられた「鎮壇具」が、非常に薄い絹織物で、古墳時代に副葬品の鏡などを包んだ「筬目(おさめ)」がある織り方で幾重にも覆われていたことが分かった。
 同研究所が慎重に中を調べたところ、絹織物の破片7点(いずれも数mm程度の大きさ)を確認。1枚ずつ和同開珎やガラス玉を覆っていた。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.6.15興福寺 南大門跡から出土した鎮壇具の壺から魚の骨が見つかる
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ソウル松坡区・風納土城 東側城壁の切開調査を進行中(年末まで)

2011年06月21日 | Weblog
 国立文化財研究所は21日、漢城首都期百済王城(BC 18~AD 475年)であることが確実視される風納土城(풍납토성)で、
南側城壁に隣接した東側城壁の切開調査を4月20日から開始しており、今年末まで行う予定であることを発表した。
 城壁を切断して、その築造方法と規模を調査するのは1999年6~9月の東壁調査に続き二回目。 当時の調査結果、城壁の最下部幅が40m、高さが9mに達し、西暦3世紀以前にはすでに築造が終わっていたことが明らかになった。 今回の調査では、城壁以外にその外側にあったとみられると防御施設の垓子(해자、濠)確認にも注力する。
 21日現在の城壁は最上部を基準として2m程度切開した状態だが、1999年の調査時と城壁築造様相ととても似ており、少なくとも東側城壁だけは同じ時期に同じ集団が積んだとみている。
 露出した城壁断面では、版築技法により土砂が明確な層を成していることが確認された。
[参考:聨合ニュース]
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ソウル松坡区・風納土城 長さ25mの大型呂字形建物跡などを確認

2011年06月20日 | Weblog
 国立文化財研究所は17日、漢城首都期百済王城の場所であることが確実視される風納土城(풍납토성)の旧未来の村敷地を発掘調査した結果、長さ25mに達する大型呂字形積心建物跡と基壇外装建物跡を確認したことを発表した。
 
 呂字形建物跡は、隣の経堂地区で確認された推定祭儀施設の44号建物跡(注1)と平面形状が非常に類似し、広間規模が14.4×16mであり、出入口施設を含めると南北の長さが25mに達する。 この建物跡は約2m程度大地を掘り起こした後、土を満たして下を固めていた。 また、既にこの建物跡では川石を積んだ積心(注2)が確認されている。

 呂字形建物跡の内部では、後に作った基壇外装建物跡も見つかった。 四隅を掘った後、底に礎石を置いてその上に木柱を建てた跡が発見された。 基壇は4~5段程度で石を積み上げ、土を重ね重ねて固めた版築技法が使われていた。 基壇すぐ外側に沿って一定の区間ごとに土にそのまま建てた掘立柱跡も確認された。
 風納土城で柱基礎の礎石が確認されることは今回が初めてという。 このような柱を建てる方式は、北魏時代永寧寺(516年創建)の木塔跡(河南省洛陽所在)のものと似ており、位階が高い建物であったのを推定させるとしている。

 この建物跡周辺では数千点に及ぶ瓦遺物が確認され、また周辺一部区間で、建物と関連した歩道施設も確認された。 瓦遺物中には経堂地区で出土したことがある蓮華文軒丸瓦をはじめとして獣面文と銭文等多様な模様を入れた軒丸瓦が出土した。
 出土遺物から、この建物は4~5世紀頃造られたとみられる。

(注1) 44号建物址: 経堂地区だけでなく風納土城一帯で確認された百済時代遺跡全体を代表するマスコット格。 東西、南北長さが、最小18mを超える大型建物跡だったことを確認された。 宗廟のような祭儀建物跡と推定されている。
(注2) 積心: 柱基礎の下を掘って土や砂利などを満たした設備をいう。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.9 ソウル松坡区・風納土城 漢城百済期最初の積心施設建物跡を確認、「王宮の決定的証拠」?
 2009.11.25 ソウル松坡区・風納土城 最古の住居跡発掘
 2008.7.1 風納土城・木塔址 井戸のようだ (44号建物址について記載)
 2008.12.11 風納土城・倉庫跡?から南朝宋時代5世紀中頃の中国製「青磁陰陽刻蓮弁文碗」(越州窯製)が出土
 2008.6.19 ソウル・風納土城 中国製青銅鋪首出土
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岡山市・千足古墳 竪穴式系横口式石室系と判明 中国、四国地方初確認

2011年06月19日 | Weblog
 岡山市教委の発掘調査で17日、岡山県内最古(5世紀)と言われる国史跡「千足古墳」(せんぞくこふん、同市北区新庄下)の横穴式石室(長さ3・5m、幅2・5m、高さ2・7m)は、北九州周辺でしか見つかっていない竪穴系横口式石室だったことが判明した。 中国、四国地方初の確認となる。
 同古墳は造山古墳(全長350mの前方後円墳、5世紀前半)の陪塚(ばいちょう)で、全長74mの前方後円墳。
[参考:山陽新聞、岡山日日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.1.3 千足古墳 石室から碧玉製管玉が出土
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韓国・益山市 弥勒寺址 弥勒山頂上から百済時代の古い瓦を発見

2011年06月18日 | Weblog
 今年4月27日、弥勒山に登った登山客が山の頂上付近の地中で数十枚余りの古い瓦を発見したと報道されていた。 土中20-30㎝に埋まっていたものが、自然に土の上に露出したと見られる。
 学界関係者に分析を依頼した結果、百済時代のものと推定されるという1次考証を受けたという。
 これにより、瓦が百済時代、山の頂上に建てられた山城または、狼煙台から落ちたという主張が提起されている。 また、山の真下にある弥勒寺址との関連性も考えられると付け加えている。
[参考:2011.4.27 聨合ニュース]
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徳島県小松島市・新居見遺跡 縄文晩期の土偶発見、県内初

2011年06月17日 | Weblog
 徳島県埋蔵文化財センターは、四国横断自動車道建設工事に伴い昨年9月から小松島市新居見町山路の新居見遺跡を調査し、古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の古墳と小型埋葬施設の墳墓群を発見した後、さらに下層を調べたところ3月に縄文時代晩期(2500~3000年前)のものとみられる土偶1体が出土したと発表した。 県内で縄文時代の土偶が確認されたのは初めて。 縄文時代の土偶はこれまで、全国で徳島県だけが未出土だった。
 出土した土偶は、腹から脚にかけての下半身のみで、高さが7・6cm、厚みは最大2・5cm。 へその部分はベンガラで赤彩されていた。 一般に土偶は女性を模したものが多いが、出土した土偶の一部から女性の土偶とは言い切れない。
 脚の壊れた部分やX線写真の分析から、予め頭や脚などを部位ごとに作り、各部位のつなぎ目に凹凸を作り、胴体を中心に差し込んでつなぎ合わせる方法で作ったとみられる。
 6月21日(火)から7月24日(日)まで、県立埋蔵文化財総合センター(板野町犬伏)の速報展「発掘とくしま2011」で公開される。 同展では、西州津遺跡(三好市池田町)、深瀬遺跡(阿南市深瀬町)、大松遺跡(徳島市川内町)、矢野遺跡(徳島市国府町)、奥角遺跡(小松島市田野町)についての資料等も展示される。
[参考:徳島新聞、毎日新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]
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奈良市・平城宮跡東院地区 正倉院宝物「火舎」の脚に似た銅製品2点が出土

2011年06月16日 | Weblog
 奈良文化財研究所が16日、平城宮跡(奈良市)の東院地区の北西部で火鉢や香炉として使われたとされる「火舎(かしゃ)」の脚部分3点(銅製の脚2点と獣の表情を描いた須恵器製の脚1点)が見つかったと発表した。 正倉院(同市)には同じ特徴の脚を持つ「金銅火舎」が伝わっている。
 現地説明会は19日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

正倉院宝物と同じ?平城宮跡で香炉の脚出土(読売新聞) - goo ニュース
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