歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

咸安郡・末伊山古墳群45号墳 木槨墓からAD400年ごろの象形土器などが多数出土

2019年05月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
咸安郡と(財)頭流文化研究院は28日、安羅伽耶支配層集団墓地とみられる咸安末伊山古墳群の「末伊山45号墳(말이산 45호분)」(慶南咸安郡伽倻邑道項里)の発掘調査の結果、1千600年前(AD440年)頃作ったとみられる各種象形土器や馬具などが出土したと発表した。
 45号墳は大型封土墳で、残存直径が20m、高さは1.8m。墓壙があり埋葬主体部は木槨墓である。
 象形土器が被葬者の頭上側で出土した。家形土器、船形土器、灯皿形土器、動物形角杯である。
 家型土器は高床式の建物を9本の柱の上に建てた酒煎子型。舟形土器は丸木舟で流線型の準構造船。
ほかに馬甲、闘具、大刀、金銅製馬具(鞍裝、鐙子)などが出土。
[参考:聯合ニュース、韓国文化財庁HP]

過去の関連ニュース・情報

2019.7.16追記
聯合ニュース、ハンギョレ新聞などによると、上記土器などが公開された後、木槨墓の墓室の底を再び発掘していたところ、鹿またはノロジカと見られる頭部の彫刻を発掘した。
この彫刻が動物形角杯(胴体)とぴったり合わさったため、鹿の形をした造形物であることがわかった。復元長さ17cm、高さ19cm。 胴体の割に細長い首に小さな頭が振り返った形をしている。尾は短くて太い。
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栗東市・下鈎遺跡 弥生時代の青銅製環状分銅(環権)か

2019年05月24日 | Weblog
 滋賀県栗東市教育委員会が23日、弥生時代の環濠集落として知られる下鈎(しもまがり)遺跡(栗東市)で、20年前に出土した弥生時代後期後半(2世紀後半)の青銅品1点が、天秤ばかりに用いるリング状の分銅「環権」である可能性が高いことが分かったと発表した。青銅製環権は中国や韓国では墓に副葬された例があるが国内で見つかるのは初めて。
 下鈎遺跡では青銅器や赤色顔料「水銀朱」を生産しており、青銅の配合、朱の計量など精密な計量に用いたのだろうとしている。弥生時代に度量衡制度が伝わっていたことを示す史料となる。
 これまで亀井遺跡(大阪府八尾市など)などで天秤用の円柱状の石製分銅が、原の辻遺跡(長崎県壱岐市)では、竿秤(さおばかり)に吊り下げる青銅製分銅(弥生後期)が出土している。
 1999年に実施した発掘調査で、この青銅品(外径12.7cm、内径11.25cm、厚さ0.7cm)は弥生時代後期の川底跡から土器片や銅鏃と一緒に出土した。腕輪の「銅釧」(直径5cm)としては大きすぎるため、用途は不明で「銅環(どうかん)」と仮称されてきた。
 2017年ごろから調査し、韓国昌原市の茶戸里遺跡1号墓(紀元前1世紀)で出土した青銅製環権と重さを比較した。青銅品は重さが89.3g。茶戸里で出土した大小3点の環権と2の累乗倍という質量の法則と類似性が見られ、また、平たん面もあり積み重ねに適した形状から、分銅の可能性が高いと判断した。最大の環権(22.73g)の約4倍に当たるという。形状から中国か朝鮮半島で生産されたと考えられるという。
 5月25日~7月15日に栗東歴史民俗博物館(同市小野)で展示される。
[参考:共同通信、朝日新聞、毎日新聞、京都新聞、産経新聞、BBC びわ湖放送]

過去の関連ニュース・情報
 下鈎遺跡
 分銅
2008.11.28 慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!


弥生の青銅製環状分銅か、滋賀 下鈎遺跡、国内初

国内初、弥生時代のてんびん環状分銅か 滋賀の遺跡20年前出土

国内初、弥生時代の分銅?20年前に発見の青銅製リング
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京都市東山区・平家一門の「六波羅邸」堀跡が出土

2019年05月18日 | Weblog
 京都市の民間調査会社「文化財サービス」が16日、京都市東山区で平安時代後期から末期にかけて平家一門が設けたとみられる「六波羅邸」の堀跡が出土したと発表した。六波羅から平家に関連する遺構が見つかったのは初めてという。
 調査地は清水寺から西に約1km、若宮八幡宮からは南西、五条通のすぐ北の東山区五条通東大路西入ルの浅見五郎助窯跡。遺跡周辺は、平安時代に「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれる葬送の地だったといわれる。
 堀跡は幅3m(底面1.8m)、深さ約1・3mの逆台形で東西約15mにわたる。水も張られていたとみられ、堀の南側を沿ったかたちで堤防状の幅1.5mの土塁跡も出土した。堀の西側の約5mが土で埋められており、土留めの石垣が組まれていた。石の積み方は、石を積み土を固めて補強する工法「版築」で築くなど、鳥羽離宮跡(伏見区)にあるほぼ同時期の白河天皇陵の石垣に類似しているという。
 堀跡からは平安末期の12世紀中ごろの中国から輸入した高級な白磁などが見つかり、平清盛の祖父、正盛が邸宅を構えるなど六波羅に拠点を置いた12世紀前半に整備されたと推定される。堀は13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に「六波羅探題」を設けたころにはすべて埋め戻された。
 現地説明会が19日(午前10時から正午まで)開かれる。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2011.8.18六波羅政庁跡・六波羅蜜寺境内発掘調査 六波羅蜜寺の堀や門跡が見つかる


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横須賀市・三浦按針塚

2019年05月16日 | Weblog

按針塚(2019年4月6日撮影)

塚山公園(2019年4月6日撮影)
今日、5月16日はウィリアム・アダムス(三浦按針)の命日である。
1620年5月16日(元和六年四月二四日)に平戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死した。
横須賀市西逸見町の塚山公園(標高133m)には按針塚がある。
ここには、三浦按針夫妻の供養塔(宝篋印塔)が建てられている。いつ建てられたかは不明であるが、夫人の没年1634年(寛永11年)以降と考えられている。

埋葬墓ではないと考えられているが、今年になって、三浦按針の菩提寺である浄土寺(西逸見町)から、1905年(明治38年)に安針塚を発掘したところ鬢髪(びんぱつ、耳際の髪)などの遺物が埋蔵されていたと書かれた資料が見つかったという。 【神奈川新聞2019年05月09日を参照方】
来年は、三浦按針の没後400年である。
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