歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

南あわじ市松帆地区 松帆銅鐸 朝鮮半島産の鉛を使用

2018年06月28日 | Weblog
 南あわじ市教委が27日、2015年にみつかった「松帆銅鐸」の科学分析(奈良文化財研究所に依頼)を実施した結果、朝鮮半島産の鉛を含むなど弥生時代中期前半(紀元前4~前3世紀)の最古級の銅鐸と同じ特徴を持つことが分かったと発表した。紀元前にさかのぼって最古の事例となる可能性が強まった。
[参考:共同通信、神戸新聞、奈良新聞、毎日新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 松帆銅鐸


淡路島で発見「松帆銅鐸」 原料に朝鮮半島産の鉛 成分分析で判明
松帆銅鐸、最古の埋納か 淡路島から出土
淡路島銅鐸、朝鮮半島の鉛使用か 成分分析で判明
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中霊園 堀切善次郎の墓

2018年06月24日 | Weblog
先日、谷中霊園のさくら通り沿いを北に歩いていくと、五重塔跡を越えて直ぐ、通りの左手に堀切善次郎氏の墓があった。


昨年11月に飯坂温泉(福島市飯坂町)に行った時に、生家の旧堀切邸を見ている。


【旧堀切邸概要】 説明板より
堀切家は、1578(天正6)年に梅山太郎左衛門が、若狭(現在の福井県)からこの地に移り住んだのが始まりと言われています。
「堀切」の名は、屋敷の西を流れていた赤川に由来しており、赤川が大雨で氾濫した時、堀を切って被害を食い止めたことから、地名を堀切とし、堀切氏と称したと伝えられています。
江戸時代、堀切家は大庄屋として財力を蓄え、飢饉時の農民救済など地域の経済に大きく貢献しました。
現在の屋敷面積は、4,084㎡ですが、1880(明治13)年以前には約2倍以上あったと伝えられています。主屋は、火災にあった明治13年の翌年に再建された近代和風住宅です。屋敷内には、1775(安永4)年に建築された県内で現存する建立年代が明確な最古の十間蔵や当寺の生活を伝える建物が見られます。
堀切家では、14代良平の長男で我が国の近代政治史にその名を残す堀切善兵衛(衆議院議長、駐イタリア大使)、そして関東大震災後の東京復興に尽力した次弟、善次郎(東京市長、内務大臣、東京福島県人会長)、福島の経済界に大きな役割を果たした末弟、久五郎(衆議院議員)を排出しました。

【近代国家に尽くした堀切家 堀切善次郎】説明板より
●堀切善次郎は明治17年9月2日生まれ、1909(明治42)年東京帝国大学法科を首席で卒業し、同年8月内務省に入りました。関東大震災直後の1923(大正12)年都市計画局長となり、翌年土木局長を兼務し、大正14年神奈川県知事に就任しましたが、翌年若槻内閣の復興局長官として、関東大震災後の帝都復興に尽力し、1929(昭和4)年東京市長(官選)に就任しました。
●昭和5年退任後、拓務次官、法制局長官、資源局長官、貴族院議員、内閣書記官長(今の官房長官)で腕をふるい昭和8年貴族議員となりました。昭和9年9月東郷元帥の国葬にあたっては、葬儀委員長に命じられました。
●戦後の1945(昭和20)年幣原内閣の内務大臣に就任、戦後処理に手腕を発揮しました。
●昭和29年東京都公安委員長に選ばれ、5期15年つとめ、この間母校早稲田中学、同高校校長にも就任しました。
●三代目東京福島県人会長、昭和44年勲一等旭日大綬章、同47年第1回県外在住者知事表彰がおくられ、昭和54年11月1日95歳で死去。

「早稲田中学校創立60周年記念録」(発行兼編集 堀切善次郎 昭和30年11月発行)および
「早中七十周年記念録‐早中明治物語」(鈴木秀枝 昭和40年) を参考に、
堀切善次郎は福島県飯坂町の豪家に生まれ、郷里の小学校高等科を卒業して明治31年15才の時に上京した。父良平はかねてより福沢諭吉に私淑し、又人格の高潔なところから、大隈重信に深く尊敬の念を抱いていた。そこで、長男の善兵衛を慶応義塾に学ばせたが、次男の善次郎は是非大隈の学校で教育を受けさせたいと思っていた。そのような時に、大隈が中学校をつくったとのことを知り、急いで善次郎を伴って上京した。最初大久保余丁町の坪内雄蔵(逍遥)宅に紹介状を持たずに飛び込み、福島県から上京した由を述べると、暫らくして坪内は「それでは学校へ行ってみょう」と学校へ同行し、増子喜一郎を紹介した。増子は事務室の隣の教室の一隅で、善次郎にナショナルーリーダーを読ませて試験をした。増子は、そこで待つ父親に善次郎の入学許可を告げたという。
増子喜一郎は、開校当時より、事務幹事兼寄宿舎々監の任にあり、かなりの権限を与えられ、上からも下からも信頼を受けていたようである。
父・良平は善次郎を増子が舎監を務める寄宿舎に入れたいと願ったが、既に満員の状態であったので、体操教師岡田英定か喜久井町一番地の自宅に主宰する精華塾に入れることになった。夏目漱石が誕生した家であったらしい。
善次郎は、早稲田中学校を明治35年に卒業した(第4回卒)。

その後、母校の校長を務めた。
昭和30年(1955) 10月12日 早稲田中・高等学校十二代校長就任挨拶
昭和34年(1959) 6月15日 校長を辞任


キーワード: 飯坂温泉(鯖湖湯)、医王寺、松尾芭蕉、波木井九十郎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜井市・赤坂天王山古墳 80年ぶり測量し、測量調査報告書を発行

2018年06月24日 | Weblog
 桜井市の「赤坂天王山古墳」は、赤坂天王山古墳群の一つで1号墳である。 6世紀末の築造で、崇峻天皇(553?-592、在位587~92年)が葬られたとの説がある。 これまで、5基の古墳が確認されていたが、今回の調査で、新たに6号~15号墳が見つかった。
 1号墳は、従来、1辺45mの方墳とされてきたが、北辺約50・5m、東辺約46・5m、南辺は約43・2m、西辺は約47mとわかった。 石室は全長15・3m以上で、玄室の高さは4・2m以上、幅は3~3・2m。玄室内の二上山産白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺の一部にはベンガラ朱の付着も見つかった。

参考
『日本書紀』巻二一 崇峻天皇五年(592)十一月癸卯朔乙巳(3日)。馬子宿禰詐於羣臣曰。今日進東國之調。乃使東漢直駒弑于天皇。〈或本云。東漢直駒東漢直磐井子也。〉▼是日。葬天皇于倉梯岡陵。〈或本云。大伴嬪小手子恨寵之衰。使人於蘇我馬子宿禰曰。頃者有獻山猪。天皇指猪而詔曰。如斷猪頚何時斷朕思人。且於内裏。大作兵仗。於是馬子宿禰聽而驚之。〉
[参考:毎日新聞、桜井市HP]


<赤坂天王山古墳>80年ぶり測量、成果報告 小規模で10基/石棺にベンガラ朱… 桜井市教委 /奈良
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市南区・左京九条三坊八町 仏堂跡、ガラス玉が出土

2018年06月08日 | Weblog
 京都市埋蔵文化研究所が南区東九条室町で行ったホテル建設予定地の発掘調査で、鎌倉時代初期に頑丈な礎石を伴った仏堂とみられる建物跡が出土した。平安京左京九条三坊八町に当たる。
 規模は南北5間、東西5間(11.0×12.4m)の総柱形式。
 当時の記録が書かれた「中右記(ちゅうゆうき)」に、平安時代後期から宅地に堂が建てられたという記録が残ることから、仏堂の可能性があるという。
 建物跡の近くからは、平安時代後期とみられる長さ2・4cm、幅3・1cmで、中央に穴があいたガラス玉も出土した。成分分析から中に含まれていた鉛は対馬産と分かった。当時は青色をしていた。
 この周辺は、平安遷都当初から自然の川が流れていたため開発が遅れ、耕作地としても使われていた。しかし院政期にあたる12世紀ごろに開発ラッシュが始まり、それ以降、貴族や平氏、源氏などによる宅地化が進んでいる。
[参考:京都新聞、産経新聞、「京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2017-8 平安京左京九条三坊八町跡・烏丸町遺跡」 2018年 京都市埋蔵文化財研究所]

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県高取町・薩摩遺跡 新たな大壁建物跡を確認

2018年06月04日 | Weblog
 高取町教委は、2014~15年に薩摩遺跡(同町田井庄)で実施した第12次発掘調査の結果、新たな大壁建物跡が確認されたと明らかにした。同遺跡ではこれまでにも5世紀後半~6世紀のものが出土しているが、今回はより新しい時期とみられるという。
 大壁建物の溝と考えられる壁溝や直径約10~15cmの柱穴が多数検出された。復元規模、1辺約8mとしている。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
薩摩遺跡
2009-02-26 
 2009-02-22日、薩摩遺跡の現地説明会が実施された、考古学ファンら約700人が訪れた。
 大壁建物跡5棟」が出土した。1棟は約15m四方あり、全国最大規模とのこと。
[参考:奈良新聞、読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする