先日、谷中霊園のさくら通り沿いを北に歩いていくと、五重塔跡を越えて直ぐ、通りの左手に堀切善次郎氏の墓があった。
昨年11月に飯坂温泉(福島市飯坂町)に行った時に、生家の旧堀切邸を見ている。
【旧堀切邸概要】 説明板より
堀切家は、1578(天正6)年に梅山太郎左衛門が、若狭(現在の福井県)からこの地に移り住んだのが始まりと言われています。
「堀切」の名は、屋敷の西を流れていた赤川に由来しており、赤川が大雨で氾濫した時、堀を切って被害を食い止めたことから、地名を堀切とし、堀切氏と称したと伝えられています。
江戸時代、堀切家は大庄屋として財力を蓄え、飢饉時の農民救済など地域の経済に大きく貢献しました。
現在の屋敷面積は、4,084㎡ですが、1880(明治13)年以前には約2倍以上あったと伝えられています。主屋は、火災にあった明治13年の翌年に再建された近代和風住宅です。屋敷内には、1775(安永4)年に建築された県内で現存する建立年代が明確な最古の十間蔵や当寺の生活を伝える建物が見られます。
堀切家では、14代良平の長男で我が国の近代政治史にその名を残す堀切善兵衛(衆議院議長、駐イタリア大使)、そして関東大震災後の東京復興に尽力した次弟、善次郎(東京市長、内務大臣、東京福島県人会長)、福島の経済界に大きな役割を果たした末弟、久五郎(衆議院議員)を排出しました。
【近代国家に尽くした堀切家 堀切善次郎】説明板より
●堀切善次郎は明治17年9月2日生まれ、1909(明治42)年東京帝国大学法科を首席で卒業し、同年8月内務省に入りました。関東大震災直後の1923(大正12)年都市計画局長となり、翌年土木局長を兼務し、大正14年神奈川県知事に就任しましたが、翌年若槻内閣の復興局長官として、関東大震災後の帝都復興に尽力し、1929(昭和4)年東京市長(官選)に就任しました。
●昭和5年退任後、拓務次官、法制局長官、資源局長官、貴族院議員、内閣書記官長(今の官房長官)で腕をふるい昭和8年貴族議員となりました。昭和9年9月東郷元帥の国葬にあたっては、葬儀委員長に命じられました。
●戦後の1945(昭和20)年幣原内閣の内務大臣に就任、戦後処理に手腕を発揮しました。
●昭和29年東京都公安委員長に選ばれ、5期15年つとめ、この間母校早稲田中学、同高校校長にも就任しました。
●三代目東京福島県人会長、昭和44年勲一等旭日大綬章、同47年第1回県外在住者知事表彰がおくられ、昭和54年11月1日95歳で死去。
「早稲田中学校創立60周年記念録」(発行兼編集 堀切善次郎 昭和30年11月発行)および
「早中七十周年記念録‐早中明治物語」(鈴木秀枝 昭和40年) を参考に、
堀切善次郎は福島県飯坂町の豪家に生まれ、郷里の小学校高等科を卒業して明治31年15才の時に上京した。父良平はかねてより福沢諭吉に私淑し、又人格の高潔なところから、大隈重信に深く尊敬の念を抱いていた。そこで、長男の善兵衛を慶応義塾に学ばせたが、次男の善次郎は是非大隈の学校で教育を受けさせたいと思っていた。そのような時に、大隈が中学校をつくったとのことを知り、急いで善次郎を伴って上京した。最初大久保余丁町の坪内雄蔵(逍遥)宅に紹介状を持たずに飛び込み、福島県から上京した由を述べると、暫らくして坪内は「それでは学校へ行ってみょう」と学校へ同行し、増子喜一郎を紹介した。増子は事務室の隣の教室の一隅で、善次郎にナショナルーリーダーを読ませて試験をした。増子は、そこで待つ父親に善次郎の入学許可を告げたという。
増子喜一郎は、開校当時より、事務幹事兼寄宿舎々監の任にあり、かなりの権限を与えられ、上からも下からも信頼を受けていたようである。
父・良平は善次郎を増子が舎監を務める寄宿舎に入れたいと願ったが、既に満員の状態であったので、体操教師岡田英定か喜久井町一番地の自宅に主宰する精華塾に入れることになった。夏目漱石が誕生した家であったらしい。
善次郎は、早稲田中学校を明治35年に卒業した(第4回卒)。
その後、母校の校長を務めた。
昭和30年(1955) 10月12日 早稲田中・高等学校十二代校長就任挨拶
昭和34年(1959) 6月15日 校長を辞任
キーワード: 飯坂温泉(鯖湖湯)、医王寺、松尾芭蕉、波木井九十郎