歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

「邪馬台国」解明へ 桜井市・纒向遺跡を本格調査へ

2009年01月31日 | Weblog
 市教委は30日、邪馬台国の最有力候補地、纒向遺跡(2世紀末~4世紀初め)について、来月から中枢部を本格的に発掘調査すると発表した。期間は約5年の予定。
 集落部分の学術調査は初めて。71年以来160回の調査をしたが、開発に伴う小規模なものが多かった。
 遺跡の範囲は、東西約2km、南北約1.5km。古事記や日本書紀で、歴代天皇の宮があったと伝えられる三輪山麓に広がる。
 卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(全長約280m)をはじめ、前方後円墳が誕生した場所で、九州から関東まで各地の土器が持ち込まれていたことなどから、邪馬台国やヤマト王権との関係が取りざたされてきた。
 78年度の調査で神殿風の特殊な約5m四方の掘っ立て柱建物跡(3世紀初め-中ごろ、注1)、南側には祠のような約2m四方の建物跡(注2)1棟、周囲に柵が見つかっており、神殿の一部と考えられている。今回の調査では、その建物跡が出土したJR巻向駅近くの空き地約450㎡と周辺の約100m四方を2カ月かけて調査。市教委は「建物跡の東側に、巨大な中枢の建物の遺構が眠っている可能性がある」として、まだ見つかっていない中心建物の発見を目指し、規模や構造、性格を明らかにする。女王卑弥呼が国家的祭祀を行った神殿の可能性もあり、成果に注目が集まりそうだ。
 九州から関東地方の土器も数多く出土していることから、一般的な集落とは異なり、広範囲から人が移動してきた「都市」との見方もある。遺跡内には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀後半)など最も初期の前方後円墳が点在している。
(注1) 朝日新聞では、正殿(縦4.4m、横5.3m)とみられるとする。
(注2) 朝日新聞では、脇殿(縦1.8m、横1.6m)とみられるとする。
[参考:共同通信、毎日新聞、産経新聞、朝日新聞]
[前出・纒向遺跡関連]
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磐田市 御殿・二之宮遺跡 鎌倉時代の工具一式が出土 全国2例目

2009年01月29日 | Weblog
 市教育委員会は28日、同市中泉の「御殿・二之宮遺跡」から、鎌倉時代の鉄製の建築工具5点が出土したことを発表した。中世以前の建築工具が一度にまとまって出土したのは大分県宇佐市の一木ノ上遺跡の11―12世紀の墓から出土したのこぎりなどに次いで全国で2例目という。
 建築工具は、袋式ノミ、突きノミ、カンナ、刀子(小刀)、キリの各1点。04年に、徳川家康が建てた中泉御殿跡の土塁の下の竪穴で、12世紀末から13世紀初頭の土坑墓の遺構から、砥石や釘、小皿などとともに見つかった。建材の接合部などの荒加工用に使われた袋式ノミがあることから、建築集団の棟梁のような人物の愛用の道具を副葬品とした可能性が高いことが、今年1月の鑑定で確認された。
 平安時代の荘園制の発達に伴い、地方にも荘園領主などの保護のもとで職業集団が生まれたとされ、市教委文化財課は「市内にも寺社や地方貴族に保護された建築工人(職人)の集団がいた可能性を示す貴重な資料」としている。
 市教委は、31日から2月15日まで同市上新屋の市立豊田図書館で開催する企画展「いわたのものづくり~木のあるくらし~」で公開する。問合せは文化財課。

 御殿・二之宮遺跡 弥生時代から近世(江戸時代)までの大遺跡で、奈良時代には遠江国府があったと推定され、木簡や墨書土器、祭祀遺物などが出土している。近世には徳川家康の別荘・中泉御殿や中泉陣屋も設けられた。
[参考:中日新聞、静岡新聞]



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伊勢崎市 大道西遺跡 奈良時代建設の道路遺構が出土

2009年01月29日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘を進めている「大道(おおみち)西遺跡」(伊勢崎市豊城町)で、八世紀後半ごろの奈良時代に建設されたとみられる、遺跡西側に存在した「郡衙」と周辺地域を結んでいたと考えられる道路の遺構が出土したことが分かった。
 遺構は遺跡内で東西約80mにわたって発見され、路面の基礎部分となる盛り土の部分がはっきりと確認できる形で残っていた。盛り土は、黄色土と黒色土を「版築」と呼ばれる高度な土木技術で何層も固めて造られており、下幅が6-8mあるため、道路自体の幅は5-6m程度あったと推測される。湿地などを避け、谷を渡るために築かれたとみられ、高い所で約1.4mの土が盛られた跡もあるという。
 平安時代後期の浅間山火山灰の一次堆積層があり、また、盛り土の崩落土から奈良時代の須恵器が出土していることなどから、奈良時代に築かれたものと推定される。
31日現地説明会を開催する。
 日時: 平成21年1月31日(土) 午前10時~午後3時
 主催: 財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団、大道西遺跡調査事務所
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韓国・慶州市 芬皇寺 中門、複廊跡が出土(昨年12月)

2009年01月29日 | Weblog
 韓国では今年1月に、百済時代の益山市・弥勒寺(미륵사)址の西石塔心柱から金製舎利具が出土して、その築造経緯が刻まれた金製舎利奉安記も一緒に現れて、創建年代が武王(在位600-641)の時代の639年と判明した。そして、創建者が武王と新羅真平王の娘の善花公主ではなく、武王の王后である佐平沙乇積徳女であることも分かった。「薯童謠」の説話は崩れたが、歴史の新たな発見の意義は大きい。
 昨年12月には、新羅時代の慶州市・芬皇寺(분황사)址から南門跡が出土し、寺の規模が一部わかったようである。
 芬皇寺は三国史記によると634年新羅善徳女王(在位:632-647)の時代に創建されている。弥勒寺が新羅真平王(在位579-632)の援助により作られたとの説話は、前述の新たな発見で違うようだし、共通遺物として残る九重石塔跡、幢竿支柱、鴟尾を見ても明確な共通点は見当たらない。5年後に造られた百済の弥勒寺は、先行して造られた新羅の芬皇寺に負けずと造ったのかもしれない。その後、新羅に滅ばされた百済の民衆を落ち着かせるために薯童謠(ソドンヨ서동요)の説話が作られた、あるいは作って流布したのかもしれない。
 さて、芬皇寺の出土状況に話を戻すと、国立慶州文化財研究所は模塼石塔(レンガ塔をまねた石塔)から南に30.65m離れた地点で中門の場所を確認したと昨年12月11日明らかにした。
中門は桁行12.63m(3間)梁間 2間の規模であり、これまでの調査成果を通して、石塔と金堂そして中門が揃って南北一直線に位置する典型的な平地伽藍形式を取っていたようである。
また、中門の両側では東西方向につながる南回廊の跡が確認され、梁間2間で2重の回廊をそろえた複廊構造であることも合わせて分かった。
南側回廊の中に中門を置いてみた時、左側の西南側回廊は東西長さ62.89m(桁行は19間)であったとし、その反対側東南側回廊跡は現在まで5間の桁行きが確認されている。南側回廊全体の東西全長は138.4mとなり、これは皇龍寺の176mに次ぐ規模である。
さらに、新羅時代古代伽藍の中で複廊構造は今まで皇龍寺が唯一だったが、芬皇寺でも同じ事例が確認されたということは注目に値するという。
[参考:2008.12.12聯合ニュース、前出・弥勒寺]

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白百合遺跡/牧之原市 区画された竪穴住居跡 所有地を区分か?

2009年01月28日 | Weblog
 市教育委員会は27日、同市静波の白百合遺跡から、区分された弥生時代後期の竪穴住居跡群が見つかったと発表した。
 住居跡周囲に区画溝が巡り、所有地を区分するためではないか推測している。
 溝で仕切られているのは5区画。そのうち3区画に4つの竪穴住居跡があり、幅1-0・3m、深さ50-20cmの溝が住居周囲に方形上に掘られていた。
 昨年8月に発掘された高床式倉庫とみられる掘立柱の建物とは大きな溝で仕切られ、倉庫群と居住区の住居群が2区分されていることも分かった。
 そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓や土器棺、かまどが備え付けられた奈良時代の竪穴住居跡なども見つかった。
 このような遺構が海岸部にあること自体、珍しいという。
 現地説明会が、31日午前10時30分と午後1時30分に開かれる(雨天中止
[参考:中日新聞、前出]
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田ノ浦遺跡/山口県上関町 上関原発建設予定地内の発掘調査(半年間)を開始

2009年01月27日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは26日、中国電力の委託を受け上関原発建設予定地内にある田ノ浦遺跡で約半年の期間で本格的な調査としては2回目の発掘調査を始めた。
 田ノ浦遺跡は、原発建設計画が浮上する以前に見つかっている。発掘調査1回目は中電が現地の詳細調査に着手した05年に開始。06年春までに約2000㎡を完了し、縄文時代から近世までの遺物を各層で発掘。
 縄文期に大分県姫島から運ばれた黒曜石や香川県からのサヌカイトも見つかり、石器を舟で交易する拠点だったと見られる。奈良・平安期(750~900年)の層からは製塩土器が数多く出土し、当時の役人のベルトの留め金も出土したことなどから、官営で塩を作っていた可能性が高い。しかし、遺構の保存状態が悪く、現場保存はせずに埋め戻した。
 今回は、昨年10月に県の埋め立て許可が出たことを受け、中電が今春以降に原発敷地造成工事を始めるのに伴い委託。調査が完了した区域に隣接し、敷地造成工事にかかる範囲の約1000平方㎡を発掘する。中電は「よほど貴重な遺構などが出土しない限り、原発計画に影響はないだろう」と話している。
[参考中国新聞、毎日新聞、山口新聞]
田ノ浦遺跡、再調査へ 上関(中国新聞) - goo ニュース


上関原子力発電所(かみのせきげんしりょくはつでんしょ)
 中国電力が、瀬戸内海に面する山口県熊毛郡上関町大字長島に建設計画中の原子力発電所。
 改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)137.3万KW×2基の建設が計画されている。
 運転開始予定は平成25年度および平成28年度。
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三ツ城古墳/東広島市 年輪年代測定により築造年代が判明

2009年01月27日 | Weblog
 広島県内最大の前方後円墳「三ツ城(みつじょう)古墳」(国史跡、東広島市西条中央)1号墳(前方後円墳)の築造年代が、広島大や市教委などの調査で26日分かった。
 西側造り出しから出土した須恵器が大阪府南部の堺市を中心とした陶邑(すえむら)窯跡群で5世紀前半に焼いた「TK73型」と分かっていた。
 1996年、奈良市・平城宮朝集殿下層の溝の調査で、樹皮直下の年輪が残るヒノキ材が出土。廃棄されたTK73型須恵器が68年に見つかったのと同じ地層の溝だったことから、奈良文化財研究所が年輪年代測定法で調べ、412年伐採と判断した。
 広島大大学院の古瀬清秀教授(考古学)が、両遺跡とも須恵器の型式編年観と実年代に整合性があり、一型式が20年前後であることを総合的に検討。実年代がほぼ確定するのは全国で初めて。

 5世紀初頭に三ツ城古墳が築かれた東広島市・西条盆地は、奈良時代には安芸国分寺が置かれた。
 同古墳の出現は、西条の首長が広島市・太田川下流域の首長層も統括し、国分寺に先立つ350年前に「安芸」の地域的まとまりができたことを物語る。
 同古墳の須恵器は、大和政権と関係が深い陶邑で焼かれ、葬祭具として与えられた。多くの埴輪も近畿から運ばれた可能性がある。しかも全長92mの同古墳は、5世紀前半の履中天皇陵(365m)、吉備(岡山県西部)勢力の首長墓である造山古墳(360m)と相似形である。
 大和政権は4世紀末―5世紀前半、朝鮮半島との間で緊迫した状況にあり、国内的には強大な吉備勢力は脅威だった。瀬戸内ルートの安芸勢力との連携の背景には、そうした情勢がうかがえるとする。
[参考:中国新聞、産経新聞]
三ツ城古墳の築造年代判明(中国新聞) - goo ニュース
築造で「安芸」のまとまり(中国新聞) - goo ニュース

 三ッ城古墳は、丘陵を利用して造られた3基の古墳からなる古墳群です。
 1号古墳は全長92mの前方後円墳(後円部径62m、高さ13m、前方部幅66m、高さ11m)で、左右に造出がある。広島県内では最大の古墳です。墳丘は3段に築かれ斜面は葺石で覆われている。各々の段には、円筒、家形・短甲・鶏などの埴輪が約1800本立て並べられている。
 第2号古墳は円墳。第3号古墳は楕円形の古墳。3つの古墳とも埋葬施設には箱形石棺を採用している。


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口明塚南古墳/豊橋市 金銅装馬具が出土 現地説明会を開催2/1

2009年01月27日 | Weblog
口明塚南古墳 馬越長火塚古墳と同時に発掘調査現地説明会を2月1日に開催
 市教育委員会は26日、同市石巻本町の口明塚(くちあけづか)南古墳で、金銅装馬具の破片を発掘したと発表した。
県内では豊橋市内の別の古墳に次いで2例目。近くに東三河を治めた「穂国造(ほのくにのみやつこ)」が葬られたとされる馬越長火塚(まごしながひづか)古墳があり、口明塚南古墳が穂国造の子孫の墓である可能性が高いとみている。
 同古墳は直径22m、高さ1.5mの円墳。今月初めに発掘調査が始まり、これまでに横穴式石室の一部や、石室内に積まれている高さ1m超の石が確認された。
 見つかった金銅装馬具の破片は縦横とも1cmに満たないが、大和政権との関係が深いことを示していると言われる細い線が刻まれた「毛彫文」を確認。出土した須恵器の年代から、古墳は馬越長火塚古墳よりも遅い七世紀前半から中期までの築造とみられる。

馬越長火塚古墳および口明塚南古墳発掘調査現地説明会
日時: 2月1日(日)午前10時30分、午後2時(雨天中止) 
場所: 馬越長火塚古墳(石巻本町字紺屋谷) 
内容: 長火塚古墳と、隣接する口明塚南古墳の調査で明らかになった遺構を学芸員が説明。長火塚古墳の確認調査は今回が最後。
問合先: 美術博物館
[参考:中日新聞、「広報とよはし」平成21年1月15日(No.1280)]

 昨年5月2日の報道では、大塚南古墳(同市石巻本町)で、金銅装馬具が出土したことを明らかにした。中でも、轡の花形鏡板は愛知県下2例目で、大和王権から権威の象徴として地方の有力者に与えられたもので、近くにある馬越長火塚古墳に葬られた穂国造の後継者、あるいは国造を補佐した家臣など関係者の墓ではないかと見ている。[参考:2008.5.2東日新聞]
 また、2006年3月1日の報道では、馬越長火塚古墳(同市石巻本町字紺屋谷地内)で、金銅装馬具・辻金具が見つかった。これまでに副葬品の馬具関係では辻金具と雲珠など合わせて13点が見つかっているとする。[参考:2006.3.1]

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長塚古墳/名古屋市守山区 発掘調査現地説明会1/31

2009年01月27日 | Weblog
 名古屋市教育委員会より現地説明会のお知らせが発表されています。
 長塚古墳は6 世紀前半に築造され、推定墳長が81m。周辺には二重の濠が巡り、その間には周堤と呼ばれる土手が築かれている。
 今回の調査では外側の濠と周堤の一部が見つかり、周堤の周りの濠からは人物をかたどった形象埴輪や須恵器などが出土している。 
長塚古墳第3次発掘調査現地説明会
 日時:平成21 年1月31 日土曜日 午後2時から(雨天中止)
 場所:名古屋市守山区小幡四丁目地内
 内容:発掘調査で見つかった遺構と遺物の紹介
 問合先:名古屋市教育委員会見晴台考古資料館
[参考:名古屋市HP]         
長塚古墳(小幡長塚古墳)
 小幡丘陵の平坦な標高30m程の小幡台地辺りの小幡原にある前方後円墳では最大の、全長81m後円部径38m、前方部復元幅42mで前方部の大きな古墳。東側くびれ部に造り出しが認められる。 現在周濠部は埋め立てられているが昭和11年の記録によれば大規模な二重の濠がある。
 付近にはたくさん円墳があったようでこのあたりを「七つ塚」と呼んでいた。
 小幡は古書に尾幡・小畑の表記が散見され、「小治田」の転とする説もある。また、尾張も小治で土地を開墾するとの意味がある。滋賀県神崎郡五個荘町小幡の「小幡」も古い地名であり、小治田の略された称で、即ち開墾田から起こった名という。[参考:角川地名大辞典ほか]
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韓国・益山市 弥勒寺址 解体中の石塔心柱から金製舎利具などを発見 「国宝中の国宝」と評価

2009年01月25日 | Weblog
 弥勒寺は、百済武王(在位600-641)とその王妃が龍華山麓の池から弥勒三尊が現れたため、池を埋めて伽藍を作ったと伝わる。
 1980~1996年の発掘で寺の伽藍配置が明らかになった。
 中央の木塔を中心として、その東西に九層石塔があり、各々塔の後方(北)には金堂がある三院一寺式の寺院である。東西3金堂の後方にはひとつの講堂とさらにその後方には僧房がある。また、中央木塔の前方(南)には南門を配置する。
 17世紀頃にはすでに廃寺になり、半分程破損している西塔と幢竿支柱など一部だけ残っている。
 2001年から、西塔の解体・補修作業に入り、原形は9層であるが、それを復元するには無理があるものと見られ、2014年までを目標に6層までを復元する方針という。
 今回の新たな大発見は、その解体作業中にあったものである。

 2009.1.18 弥勒寺址西塔の解体作業の中で、1層心柱上面中央で舎利孔を発見、その中から舎利具が見つかる。
 2009.1.19 一般公開される。それまでは、内容の発表については緘口令が轢かれる。以降詳細が続いて発表される。

1.主な出土品
 舎利具(金製舎利壺)および金製舎利奉安記
 円形盒、銀製冠装飾、毛抜き、金製小平板など遺物500点余り
2.金製舎利奉安記には、創建者、創建日、造成経緯などが記されている。
 横15.5㎝、縦10.5㎝の大きさの金板を利用して、字を陰刻と朱漆で書いた。
 文字は前面と裏面に全て確認され、前面には1行9字ずつ全11行にかけて99字、裏面にも11行にかけて94字が書かれている。
 文章は4字と6字で、対句を使うのを特徴とする「四六駢儷文(べんれいぶん)」で書かれている。
 書体は「北朝時代」跡が濃く現れ、一部では高句麗の影響がある。
 この舎利奉安記には王妃を「王后」、王を「大王陛下」と呼んでいる点は、百済がこの頃中国皇帝から冊封を受ける形式を取りながらも、百済国内では彼らなりの独自の天下観を持っていることがうかがえるとする。
 また、年代についても武王年を使用しているわけではないし、中国の年号も使用せず単に己亥年と記している。
2.弥勒寺の創建者は、武王の王后(佐平沙乇積徳女)
   注)武王の王后と佐平沙乇積徳女の両者の創建とも読む見解もあるとする。
3.創建時期は己亥年正月廿九日
 武王の在位中であるとすれば、AD639年となる。
4.薯童謠(ソドンヨ)説話崩れるか
 TVドラマでも人気のあった「薯童謠」の説話は、百済武王(幼少時に薯童と呼ばれた)とその王妃の新羅真平王の娘・善花が恋に落ちて結婚したというもの。そして、後に弥勒寺を建て、その建設にあたっては真平王も新羅の多くの工人を送り援助したとする。
 その王妃が佐平沙乇積徳の娘となると、実際には対立関係のある新羅からの援助はなかったのかもしれない。
5.沙乇氏
 沙乇氏は「国中大姓八族」のひとつで「沙氏」である。ほかに沙宅、沙咤、砂宅とも表記されたりもする。
 文献での初見は、三国史記百済王の伝記東城王6年(484)の記録で、内法佐平沙若思。日本書紀では欽明天皇4年(543)に上佐平(そくさへい)沙宅己婁(さたくこる)が現れる。
 百済滅亡事実を伝える日本書紀斉明天皇6年(660) 7月の記録には唐の将帥・蘇定方に捕虜になった百済人らを羅列する中に当時官僚として大佐平沙乇千福の名が一番先に登場する。この沙乇千福は扶余・定林寺5階石塔に蘇定方の百済征伐を記念して刻んだ金石文にも登場する。
[参考:聯合ニュース2009.1.18~23]

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平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝) 極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?

2009年01月24日 | Weblog
 平等院と東京文化財研究所が23日、藤原頼通(992~1074)が建立した平等院鳳凰堂(京都府宇治市)内にある国宝「仏後壁前面画」の初の全面調査が実現しその結果を発表した。壁画で目視困難だった姿などが浮かび上がり、風景画的な要素を盛り込み、濃淡を表現するために顔料にもこだわる細かな技法などが判明した。
 今回の調査結果は、長年権力者として君臨した藤原頼通が老いて、成仏などへの願いを込めて絵師たちに描かせた姿を思い起こさせた。
 仏後壁は幅3.7m、高さ3.4mで、計11枚のヒノキの長板に描かれている。中央部には、左右に数人の菩薩らを従えて仏殿に座る釈迦が高貴な人物と対面し、前庭では舞楽を演じている様子を表現。このほか、上部には飛天が舞う虚空や海波、仏楼閣、下部には象車や馬車などが描かれている。
 同寺は構図や彩色手法などから、絵画が描かれたのは天喜元(1053)年の鳳凰堂創建後間もない時期から頼通の没後(1074)近くまでの間と推定。さらに、釈迦と対面する高貴な人物などについては「頼通自身の可能性もある」と推察している。(専門家の中には否定的な意見もある。)
 普段は前に本尊の阿弥陀如来座像があるため、科学的調査が困難だったが、「平成の大修理」で本尊を移動した平成16~17年に東京文化財研究所が撮影し、近赤外線や蛍光X線による分析も含めて詳しく調査していた。その結果、
 壁画に使われる緑の顔料には、緑青だけでなく亜鉛を含む特殊な顔料を併用して濃淡を表していた。
 舞楽を舞う天人の模様の部分の赤には、辰砂(硫化水銀)を主成分とする顔料が使われていた。
 飛天の手のひらには「平等院蓮」を、銀箔を重ね詳しく表現していた。
目視困難であった3頭の象の姿が浮かび上がった。
 人物の上から霞を描いたり、下地の模様を浮かび上がらせる「描き消し」技法が用いられている。
など、色や技法へのこだわりをうかがわせた。
 一方、図柄は、東海学園大学の渡辺里志准教授(仏教美術史)(注1)が平成19年に発表していた「インドの太子が釈迦のもとに供養に訪れ、阿弥陀仏のように成仏できるとの予言を与えられた」との「阿闍世太子授記(あじゃせたいしじゅき)説話をもとにしたことが改めて裏付けられた。
 24日から鳳凰堂に拝観者用の説明パネルが展示される。
 また、調査結果は、26日発行の平凡社の別冊太陽「平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁」で公表される。
[参考:産経新聞、共同通信、時事通信社、毎日新聞、朝日新聞]
(注1)インターネットでは、『平等院鳳凰堂仏後壁前面画の主題 ̶「釈迦八相」としての解釈の可能性(東海学園大学 渡辺 里志)』が公開されている。
描かれているのは藤原頼通?…平等院鳳凰堂の壁画(読売新聞) - goo ニュース
平等院壁画に頼通の絵か 浄土行きと一族繁栄願う (共同通信) - goo ニュース
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高松塚古墳/明日香村 石詰め排水用溝が左右対称で見つかる

2009年01月24日 | Weblog
 文化庁が23日、高松塚古墳の石室の南西側から砂利をびっしり詰めた排水溝が見つったことを発表した。墳丘の南斜面から土中を通り中心へ向かって延びているようで、石室周辺に入る雨水を抜くための排水溝とみられる。
 同じ構造の溝は石室南東側でもすでに確認されており、左右対称にのびる排水溝2本を完備した精巧な構造だったことが分かった。
 排水溝は石室から約8m南西で見つかり、幅0・6m、長さ2m以上。溝の中には3~5cm大の砂利が詰められていた。墳丘築造のため谷を埋め立てて整地した後に掘られていた。
 また、墳丘の南西側で幅約10m、奥行き約2mにわたる大規模な地滑り跡を確認した。高松塚の石室や墳丘内部は、過去の巨大地震で多数の亀裂が見つかっており、この地滑り跡もこうした大規模な地震の影響とみられる。
[参考:共同通信、産経新聞]

2008.10.17
 高松塚古墳(7世紀末-8世紀初め)で、昨年(2008)10月に墳丘内の排水のために造ったとみられる溝の一部が見つかった。墳丘の中心部から土中を南北に延び、石室付近に雨水がたまらないようにする工夫とみられるとのことだった。
 排水溝は、墳丘南側に先端部分が見える状態で、幅約60cm、深さ約30cmで小石を詰めてあり、長さは10m以上という。墳丘を取り巻く周溝も見つかり、排水溝を通った水が流れ込む構造になっていた。
同様の溝はキトラ古墳でも見つかっており、共通の工法で、同じ技術者集団が造ったのかもしれないとみている。
[参考:共同通信]
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遠江国分寺跡/磐田市 七重の塔の間取り判明 僧坊跡?の柱跡が出土

2009年01月23日 | Weblog
 磐田市教委は21日、遠江(とおとうみ)国分寺跡発掘調査の報道向け成果説明会を同市見付の現地で開いた。
 本年度は七重の塔跡と講堂跡を中心に発掘が行われた。
 塔中心の「心柱」の周りに4本あった「四天柱」のうち1本の位置が確認され、柱が17本あった塔の基礎部分の間取りが判明した。心柱の礎石と建物外周南東の「側柱」の礎石が現存するが、今回はその中間を30cmほど掘って調べたところ、四天柱の礎石の下に敷かれた根石が確認された。四天柱の礎石は持ち去られたとみられるという。
 塔跡ではこのほか、地面を一部2m以上掘ったところ、「版築」を厚さ2m近くにわたり行っていることが分かった。遠江国分寺は819年に火災に遭ったという記録があるが、塔跡の土中からは焼土や炭化物は確認されなかったため、市教委は「国分寺全体が焼失したとは考えにくい」としている。
 講堂跡では、現在の基壇復元位置より南に約2・5mずれた位置にあり、基壇外装は金堂と同様に木材で施工されていたことが分かった。
 そのほかに、僧房跡とみられる場所から南北に柱の跡が3カ所見つかった。各地で出土した僧房跡は東西に長い例が多いため、遠江国分寺も東西に長い建物だった可能性が高い。聖武天皇が741年に出した「国分寺建立の詔(みことのり)」で、国分寺には僧20人を置くことが定められており、遠江国分寺でも修行僧が暮らしていたとみられる。
 市教委は24日、発掘現場を一般公開し、現地説明会を開く。説明は午前10時半からと午後1時半から。問合せは文化財課へ。
[参考:1/22静岡新聞、1/23毎日新聞]

2008.1.16磐田市・遠江国分寺跡 国分寺跡としては全国2例目の燈籠跡の遺構を発見
 磐田市教育委員会は、市役所北側にある国特別史跡「遠江国分寺跡の2007年度発掘調査の成果を発表した。国分寺跡としては兵庫県播磨国分寺跡に次ぐ2例目で、燈籠の下部で竿と呼ばれる部分の一部(木片)が発見された。その他、回廊跡で暗渠(あんきょ)排水路の木樋遺構、中門跡では門を建てるための足場の柱穴3基を確認。
[参考:静岡新聞・中日新聞]

2007.1.24 遠江国分寺跡 金堂の木製基壇外装と火災焼失跡が判明
 金堂が建てられていた周辺から焼土とともに焼けて赤くなった瓦が多量に出土して、火災で焼失していたことが判明した。火災があった時期は定かではないが、平安時代の歴史書「類聚国史」には819年に遠江国分寺が火災で焼失した、との記述があるという。出土した瓦は、模様から創建時期に近い奈良時代の物が主体とみられる。
 また、金堂の基壇を覆っていた外装は、西、北、南の縁から炭化した板材が見つかったことから「木製基壇外装」であることも明らかになった。現在、国分寺・国分尼寺で木製基壇外装と分かっているのは、遠江国分尼寺(同市)と三河国分寺(豊川市)だけという。
[参考:静岡新聞]


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千石遺跡/豊田市 灌漑用堤防と木樋を発見

2009年01月22日 | Weblog
 豊田市教委は21日、同市上野町と千石町にまたがる千石遺跡から、平安時代前期(9世紀)の灌漑技術としては高度な堤防と木樋の遺構を発掘したと発表した。
 堤防と木樋は遺跡の北東で、台地から沖積地へ地形が変化する場所にあった。堤防内に溜まった水を木樋を使って放水することで、水量を調整していたと見られる。堤防と木樋が見つかったのは県内では西尾市の室遺跡に次いで2例目。国内では奈良県や大阪府など西日本で10例程度。平安時代の荘園開発に伴い、農業や土木技術が広がる過程をうかがえる貴重な資料という。
 堤防は長さ約30m、幅約6m、高さ約2mで、平らな場所を選んでかまぼこ状に盛り土してあった。木樋はヒノキかサワラ製で全長約4・4m、直径約25cm。木を縦に割って内部をくりぬき、割った材で蓋をして管にしてある。フタに孔が開けられ、これを取水口として取水量を調整していたと推定される。
 木片の放射性炭素年代測定で、9世紀という結果が得られた。木樋が使われた時代には、台地に住民が住み、ため池から南西方面に水路や水田などが広がっていた可能性がある。
 木樋などが発見された場所から北側では、昨年夏の調査で、「福」「大」「千」などの文字が墨で書かれ、祭祀に使われたとみられる須恵器など約60点も見つかった。同時代のものとみられ、豊作を祈る祭事などに使われたとみられる。
 現地説明会は24日午後1時半から(小雨決行)。問合せは市郷土資料館へ。
 【千石遺跡】 豊田市千石町や上野町などにまたがる約6万㎡の遺跡。縄文-江戸時代にかけて生活遺跡。
[参考:読売新聞、中日新聞、朝日新聞]
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柳本古墳/天理市 国内最古級の古墳木棺

2009年01月22日 | Weblog
 産経新聞の報道で、前方後円墳「柳本大塚古墳」(3世紀末築造、奈良県天理市)の被葬者が埋葬され、明治期に取り出された後、所在不明となっていた木棺が、同県桜井市三輪の宗教法人「大神(おおみわ)教」(西野新也管長)の本院拝殿に掲げられた額として残存していたことが県立橿原考古学研究所の現地調査で21日分かったことが報じられた。
 大神教本院拝殿の額は長さ2・8m、幅82cmで、白い文字で「大神教」と記されている。大木をくり抜いて内側を湾曲させた形に加工されていた。明治時代末期から大正時代の間に現在の場所に掲げられたらしい。
 現地で行われた蛍光エックス線分析などを使った学術調査で、学問的に証明された。
 柳本古墳は、全長約94m、後円径54mの前方後円墳。天理市のホームページでは、築造時期は4世紀前半とする。
[参考:産経新聞、天理市HP]
国内最古級の古墳木棺 残存(産経新聞) - goo ニュース
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