歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

豊岡市・南構遺跡 古墳時代の竪穴住居跡12棟を発見、但馬国府と関連か

2013年10月24日 | Weblog
 兵庫県教委は、豊岡市日高町久斗(くと)の南構(みなみがまえ)遺跡から、古墳時代前後半の竪穴住居跡12棟(前期2、中期1、後期9)と横穴式石室を持つ古墳3基が出土したと発表した。 古墳時代の竪穴住居跡が多数見つかったのは但馬北部では初めて。
 奈良・平安時代の大規模な集落跡も発見されたことから、平安時代初め、近隣・日高地方に移転してきた但馬国府と密接に関連していた可能性があるとしている。
 古墳後期の子持勾玉や、貨幣「和同開珎」、平安期の緑釉陶器の皿なども出土した。
 現地説明会が26日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞]

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 但馬国府


キーワード:南構遺跡
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奈良市・興福寺旧境内 国内最古の平安時代の将棋の駒「酔象」が見つかる

2013年10月24日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が24日、奈良市の興福寺旧境内で、平安時代の井戸から11世紀末(平安時代)の将棋の駒「酔象(すいぞう)」など4点が見つかったと発表した。 京都市・上久世城之内(かみくぜしろのうち)遺跡(14世紀中頃)で見つかった酔象の駒よりも古く、酔象の駒としては最古で、過去の出土例を約250年遡るという。
 将棋の駒としては、過去に興福寺旧境内で見つかっている11世紀中ごろのものが最古。(注1) 今回は寺の子院があった場所で、井戸の遺構から「承徳二年」(1098)と書かれた木簡とともに見つかった。
 酔象の駒(木製)は長さ2・5cm、幅1・5cm・厚さ2mm(注1)。表に「酔象」と墨書きされていた。ほか2点は裏面に「金」(注2)と書かれた「桂馬」「歩兵」と、残り1点は文字が確認できず種類は不明という。
[参考:共同通信、時事通信、産経新聞、毎日新聞]

(注1) 形は現在の将棋の駒に似た五角形だが、左右の縦の線がまっすぐに平行である。
(注2) 残念ながら、写真あるいは細かい情報がないので、どのように書かれた「金」か不明である。 非常に興味のあるところ。

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将棋関連
(注1) 平成5年(1993)に、興福寺旧境内から将棋の駒が出土した。「王将」3枚、「金将」3枚、「銀将」1枚、「桂馬」1枚、「歩兵」5枚、そして、習書木簡に「歩兵」、「金将」とともに「酔像」の文字が墨書されているという。一緒に出土したものに「天喜六年」(1056)の年号があり、このころのものと考えられるという。[参考:「古式象棋と将棋の伝来」清水康二(考古学ジャーナル428.1998)]

2013.10.29追記
 酔象の駒は「醉象」と墨書されていたと思っていたら、「酔象」と墨書されていたようである。 奈良文化財研究所の「木簡データベース」で「醉」の字を検索すると皆無であるが、「酔」の字を検索すると3件ヒットした。9世紀代に既に「酔」の字が使われている。
 また、「酔象」の駒の裏は何も墨書されていなかったらしい。 「酔象」の裏に「太子」が書かれるのは、その後らしい。

国内最古の「酔象」出土=平安の将棋駒、興福寺旧境内―奈良(時事通信) - goo ニュース

平安期の井戸跡から「酔象」の駒 奈良・興福寺の旧境内(朝日新聞) - goo ニュース
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出雲市・上塩冶横穴墓群 新たに横穴墓35基が見つかる、県内横穴墓では初となる「くりぬき式家形石棺」も

2013年10月23日 | Weblog
 出雲市文化財課は22日、同市上塩冶(かみえんや)町の上塩冶横穴墓群で、まとまった35基の横穴墓を確認したと発表した。6世紀後半〜7世紀初めに集中して造られたとみられる。
 上塩冶横穴墓群は東西約800m、南北約1.5kmの丘陵地に分布し、40箇所に約220基の横穴墓が見つかっている。
 今回、横穴墓の一つから「くり抜きの家形石棺」(長さ1m、幅65cm、高さ70cm)が見つかった。 上塩冶築山古墳で出土した大小2つの石棺(注1)と同じ形式だが、小さい石棺よりもさらに小型である。 ほかに、鉄刀、鉄製馬具、鉄鏃、銀環、須恵器など副葬品約100点が出土した。
 同墓群の西側約400mには出雲平野の首長を埋葬したとされる国指定史跡「上塩冶築山古墳」(直径46mの円墳?、6世紀末)や、「築山古墳群」があり、こうした人たちに関係していたとみられる。
 現地説明会は26日(土)午前10時〜正午に開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

(注1)上塩冶築山古墳の大石棺は長さ2.8m・幅1.4m・高さ1.7m、小石棺は長さ2.1m・幅1.4m・高さ1.4m。
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渋川市・金井東裏遺跡 青銅鏡と赤玉が出土

2013年10月22日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が21日、渋川市の金井東裏遺跡で、6世紀初め(古墳時代)の鉄製のよろいを着けた男性の骨が見つかった場所から約30m先で、新たに直径5・7cmの青銅製の鏡「乳文鏡」1点と、赤色顔料素材を団子状に丸めた「赤玉」100点以上(直径5・5~8cm)が出土した発表した。
 同遺跡で鏡が見つかるのは初めてで、祭祀で使用されていたとみられるという。 赤玉は、これほど大量に見つかるのは珍しいという。
[参考:産経新聞]

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 金井東裏遺跡
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モンゴール・オラーン・ヘレム墳墓 7世紀の突厥壁画墓に「モンゴル初の四神」

2013年10月21日 | Weblog
 朝日新聞に、昨年1月に紹介されたモンゴル・バヤンノール市・突厥壁画墓に関する報道が載っていた。
 ウランバートルの西約180kmの草原にある突厥時代の「オラーン・ヘレム墳墓」(直径30mの円墳、高さ4m)で、彩色壁画には四神のうち、清龍と白虎が描かれていたが、朱雀と玄武はなかった。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2012.1.23 モンゴル・バヤンノール市・突厥壁画墓発掘 高句麗壁画と近似 青龍や白虎




キーワード
 突厥=Türk=テュルク=투르크=돌궐
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安芸高田市・甲立古墳 家形埴輪は高床式とみられることが分かった

2013年10月19日 | Weblog
 安芸高田市甲田町の甲立古墳(全長77mの前方後円墳、4世紀後半)で出土した家形埴輪は、復元途中の柱や床の形状から高床式とみられることが、同市教委や同市地域振興事業団の調査で分かった。 県内で初めての確認例という。
[参考:中国新聞]

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 甲立古墳
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京田辺市・三山木遺跡 8〜10世紀の掘立柱建物跡13棟見つかる

2013年10月19日 | Weblog
 京田辺市教委は18日、同市三山木(みやまぎ)柳ケ町の三山木遺跡で、奈良初期〜平安期(8〜10世紀)の掘立柱建物跡13棟が見つかったと発表した。 奈良期には平城京から北上する古代山陽道がこの遺跡近くを通っていた。
 建物跡の大きさは、ほとんどが縦4m、横5・5m。 10世紀の4棟は南北に向いていたが、8、9世紀の建物跡は北西に傾いていた。
 地鎮祭に関連すると考えられる黒色土器の碗を重ねた10世紀の須恵器鉢も見つかった。
 現地説明会は19日午後1時半から開かれる。
[参考:朝日新聞、毎日新聞]

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 山陽道

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堺市・長山古墳 後円部の直径64mを確認

2013年10月18日 | Weblog
 堺市文化財課が17日、百舌鳥古墳群(堺市)の西端にある長山古墳(前方後円墳、堺市堺区協和町)で、新たに後円部の基底石が4カ所で確認され、後円部直径が64mであることが分かったと発表した。 また、前方部と後円部の接続部分のくびれ部も確認した。 墳丘全長は推定約100mだが、全長がさらに伸びる可能性があるとしている。
 海側に近い北西側の後円部部分(後円部は北側にあり墳丘主軸は約40度東に傾く)で見つかった基底石は、一辺が約40cmの泉南地方産の白い和泉砂岩が使われている。 他の場所の葺石よりも丁寧な積み方のため、海からの見栄えを意識した可能性も考えられるという。 築造当時、大阪湾の海岸線は同古墳のすぐ西側付近にあったとみられる。
 埴輪の破片なども出土した。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞]

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2013.7.31長山古墳 大阪湾側に4世紀後半築造の前方後円墳 葺石の石列が出土
 全長100m前後の前方後円墳と推定。百舌鳥古墳群の中では、最も海側にある長山古墳がいち早く築造された可能性が高い。

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蔚州・霊鷲寺址 2次学術発掘調査 寺域範囲確認

2013年10月17日 | 韓国の遺跡・古墳など
 蔚州・霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산 울주군 청량면 율리 822-1)に位置し、1998.10.19に蔚山広域市記念物第24号に指定されている。
 13世紀末に高麗の高僧一然(1206-1289)によって書かれた三国遺事によれば、新羅第31代神文王3年(683)に宰相・忠元公が建議して建てることになったという。
 昨年10月15日からの学術調査では、東西に配置した双塔(三層石塔)を中心として、その中心北側辺に金堂を配置したいわゆる双塔一金堂の典型的な統一新羅時代伽藍構造をした寺院と確認されている。
 蔚山博物館は、今月14日から3ヶ月間、霊鷲寺址2次学術発掘調査(寺域範囲調査)を実施すると発表した。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2012.12.31 蔚州・霊鷲寺址 典型的な統一新羅時代の伽藍配置である双塔一金堂式構造を確認

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鈴鹿市・森ヶ坪遺跡 東海三県内最古(弥生中期)の井堰跡を発見

2013年10月17日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターは15日、鈴鹿市御薗町の森ヶ坪遺跡から、県内最古となる弥生時代中期(約二千年前)に造られたとみられる井堰(いぜき)の遺構を発見したと発表した。
 同遺跡は、中ノ川右岸に広がる遺跡。 流路から北部に長さ12m、幅6mにわたって高さ1m前後の約千本の木製の杭が打ち込まれた跡を発見した。 西からの流路と北西からの流路が、ここで合流し南へ向かう流れを堰き止めて、東へ向かうよう誘導するためのものと思われ、灌漑用の可能性が高いという。
 同じ層の土器群を調査した結果から、井堰の築造年代を確認した。
 これまで津市の蔵田遺跡にある弥生時代後期(約千八百年前)の井堰が県内最古とされていた。 人工的に水の流れを変える堰の遺構としては愛知、岐阜、三重の東海三県内でも最古という。
 鉄器が普及していない時代に土木工事が大規模に発展していく様子をうかがうことができるという。
 20日午前10時半から約一時間、現地説明会がある。
[参考:伊勢新聞、中日新聞、毎日新聞、三重県HP]

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亀岡市・出雲遺跡 中国製の青白磁片が丹波で初出土

2013年10月13日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは11日、弥生時代後期から鎌倉時代の複合遺跡である出雲遺跡(亀岡市千歳町千歳)で平安時代末期(12世紀後半)に掘られた溝跡から、口丹波地方では出土例の少ない中国宋時代の陶磁器片が多数見つかったと発表した。
 現場は、709年創建と伝わる丹波国一之宮の出雲大神宮の西約200mの棚田跡で、南北約23m、幅3・5m、深さ40cmの溝跡から、平安時代末期の儀礼や祭事に使われて廃棄されたとみられる土師器や須恵器などに交じって中国製の白磁碗や青磁皿、青白磁の合子などの破片が出土した。 これまで整理した約1千点の土器片のうち中国製陶磁器の占める割合は数%であった。
 同センターは、溝の東の高台にあったとみられる有力者の館から捨てたのではないかとみており、完全な形の土師皿なども多く、儀礼や祭事に使われた食器が廃棄された可能性もあるという。 当時のこの地にあった後白河天皇の荘園や出雲大神宮の社家との関連を調べたいとしている。
 現地説明会は13日午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2013.9.30 亀岡市・若宮神社 台風禍により境内の崩落地に12~13世紀の大量の土器が出現

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鳥取市・会下・郡家遺跡 県内最大級の独立棟持柱建物跡を発見

2013年10月11日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターはこのほど、鳥取市気高町郡家(こうげ)の会下(えげ)・郡家遺跡で弥生時代中後期に祭りなどの行事に使われた独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)建物の跡を発見した。 これまで県内で確認された同建築跡では最大級。同建物は一般の集落には見られないため、当時の拠点的な集落がこの場所に存在していたと考えられるという。
 柱で囲まれた面積は約46・2㎡(縦11m、横4・2m)。 屋根の高さは穴の深さなどから約4・5〜6mと予想されるという。
 現地説明会は10月5日に行われた。
[参考:2013.10.11毎日新聞、2013.10.5鳥取県教育委員会埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 独立棟持柱


キーワード:会下・郡家遺跡、独立棟持柱建物


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韓国・全南羅州佳興里新興古墳 5世紀半ばの前方後円墳を確認

2013年10月08日 | 韓国の遺跡・古墳など
 大漢文化財研究院は8日、全南羅州佳興里新興古墳(나주 가흥리 신흥고분)を発掘調査した結果、これまでで最も古い5世紀半ばの前方後円墳(注1)であることを確認したと発表した。
 日本列島の墓様式である前方後円墳は栄山江流域を中心に国内で13基(注2)が確認されているが、その大部分は築造時期が6世紀始めとみられている。
 (注1) 最近、「前方後円形古墳」と書いていたが、今回は「前方後円墳」と書いている。
 (注2) 今年の初めに、康津永波里古墳が前方後円墳と発表されて、14基目のはずであったが。

 この古墳は墳丘長が30mに達するもので、丘陵を削り扁平にさせた後積み上げていた。 埋葬施設は横口式石槨構造で、被葬者は木柱で骨組を立てた後、石室に安置された。
 石槨から、鉄製大刀と鐵矛(鉄槍)、鉄斧、 サルポ(鏟、살포)などの鉄器類をはじめとして、多量の玉と短頚壷、碗(鉢), 棺釘(꺾쇠)と鎹(かすがい、꺾쇠)数十点などが収集された。
また周溝では、日本では埴輪と称する円筒形土器をはじめとして伽耶系器台, 短頸壺、碗、長卵形土器などが出土した。
 調査団は、5世紀に築造した横口式石槨墓(횡구식 석곽묘)は、栄山江流域では霊岩沃野里方台形古墳(全羅南道記念物84号)が唯一だったとして、今回の発見を重要視している。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2013.2.20 康津・永波里古墳 韓国で14番目の前方後円墳が見つかる
 2008.11.22 韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造
 2010.10.25 全南霊岩・沃野里方台形古墳 4本の木柱を立てて石室壁を築造した横口式石室墓(앞트기식 돌방무덤)を発見、埴輪も出土

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小田原市・小田原城跡 「御用米曲輪」から戦国時代の「池の跡」を確認

2013年10月08日 | Weblog

 平成25年3月26日時点の小田原城跡 「御用米曲輪」 発掘調査状況

 小田原市文化財課は7日、戦国時代の庭状遺構が出土している小田原城跡「御用米曲輪(ごようまいぐるわ)」から15~16世紀に造られたとみられる大規模な「池」の跡が見つかったと発表した。 池の底から16世紀後半の「かわらけ」(素焼きの土器)が出土しており、江戸時代になって埋められたものとみている。 小田原城は15世紀中頃に大森氏により築城され、15世紀末に後北条氏が居城し、天正18年(1590)に北条氏が滅亡した後は徳川家康の領地となり、家康の腹心大久保忠世が城主となり改修した。
 残存する護岸は高さ約1・3mで、斜辺が約2・4m。外周は調査範囲だけでも45m以上もあることが分かった。
 池の周囲の護岸には、2000個以上の石が湾曲させながら、きれいに並べられている。 護岸に使われている石は20〜40cm四方で、火輪、地輪といった五輪塔の部材などが使われている。 石材は箱根火山による箱根溶岩の安山岩で、古文書から同市内には小田原北条氏の配下で、石材の加工技術を持つ「石切」が存在していることが分かっているが、護岸に使われた石材は、当時の加工技術の高さを示すものだという。
庭石と見られる大きな石や玉砂利を配置した遺構があった。
 2010年から開始した同曲輪の発掘調査は、江戸時代の米蔵など遺構修景整備に伴うものだが、これまでに主殿級の建物の一部も見つかっている。戦国時代の小田原は北条氏の本拠地として関東随一の繁栄を誇ったが、今回の大規模な池が確認されたことで、朝廷や幕府など京都とのつながりが深かった北条氏の文化水準の高さを知る手がかりにもなりそうだ。
 10月19日(土)と11月23日(土・祝)、12月21日(土)の午前10時から市民向けの現地説明会が開かれる。
[参加:神奈川新聞、毎日新聞、産経新聞]

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 小田原城跡
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安城市・別郷廃寺跡 白鳳時代〜奈良時代の鴟尾片が出土 唐招提寺に匹敵の大きさ

2013年10月08日 | Weblog
 安城市教委は、西別所町の別郷(べつごう)廃寺跡から、古代の鴟尾の破片が出土したと発表した。 同寺は奈良時代の一地方寺院と考えられてきたが、相当規模の格式や勢力を持っていたものとみて調べる。
 鴟尾の破片は、6〜7月の市教委の発掘調査で、土器や瓦などが大量に捨てられた穴から見つかった。 高さ20cm、横52cm、厚さ9cm。 県内で鴟尾の破片が発見されたのは7例目だが、最大という。
 金堂の鴟尾の右側面の破片で、瓦と文様から白鳳時代〜奈良時代(675-720頃)(注1)のもの。破片の大きさから鴟尾全体の高さは120cmほどと推定され、奈良時代に建立された唐招提寺(奈良市)の金堂の鴟尾(高さ119cm)に匹敵するという。
 鴟尾の破片は3日から13日まで、同市安城町の市民ギャラリーで展示されている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

 (注1) これまでにも別郷廃寺では、7世紀後半に建立された西三河最古の寺院・北野廃寺(岡崎市)から出土する素弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、北野廃寺の建立とさほどかわらない時期に建立が開始されたとみられていた。

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